第十ニ章 パンドラの箱(5)
「遠夜?」
「余計な真似するなよ。おれはひとりでも帰れるぜ」
「そういう意味じゃない。きみが辛そうだから」
「放っておいてくれよ。さっさと帰れよっ。おれはひとりでも平気だからっ!!」
青ざめた顔色で強がりを叩きつける遠夜に、紫は仕方なさそうな息を吐いた。
「すこし待っていてほしい。水を汲んでくるから動かないように。いいね?」
「紫会長」
冷たく拒絶しても、怒りもせずまだ心配してくれる彼に、遠夜は申し訳なさそうな顔になる。
そんな彼に微笑みかけて、紫は体育館の外に消えた。
身体が冷めてくると、ますます眼の前が暗くなる。
脳裏に浮かぶ樹の面影に「どうして……」と問いかけて、遠夜の意識が途切れた。
唐突に瞼が閉じられ、その場に崩れ落ちる。
乱れて散った前髪が、滲む涙を隠している。
徐々に体温が失われていく遠夜を見守る影があった。
「……」
出ていくべきかすこし迷い、樹がくるのを見届けようと、その影はさらに気配を殺し封じ込んでしまう。
海里は遠夜が家を出る頃に気づき、実はずっと後を追っていたのだ。
連れ戻すことも考えたが、遠夜があまりに不機嫌そうだったのでためらわれた。
それで今まで見守っていたのである。
いついかなるときも彼は遠夜の傍にいる。
さすがに17時から20時までバスケを連続でしているのを見たときは止めようかと思ったが。
惺夜の苛立ちに海里も気づいているが、なにも教えていないことが、却って彼を苦しめているようだと判断していた。
決断するときはきているのかもしれない。
噛みしめた決意はとても苦かった。
鏡に映った自分に拳を叩きつけ、紫は乱暴に携帯を手に取った。
一度は繋がった電話を、繋がったとたんに切られてしまったのだ。
思わず放り出してしまおうかと思ったが、体育館で待つ遠夜が気掛かりで、仕方なくもう一度コールした。
コール音を数えることをやめて、どのくらい経っただろうか。
居留守を決め込んでいた相手が、いやいや受話器を取って、ほっと息をついた。
『いやがっているのがわかっていて、いやがらせに掛けてくるのはやめてくれないか、紫。何百回鳴らせば気が済むんだ、きみは?』
受話器越しのこちらも不機嫌な声に、紫が軽く舌打ちを漏らし、
「それはこちらの科白だね。遠夜が家にいないことに、きみは気づいてもいないのかい、樹。らしくないね」
『なん…だって……?』
言ってやったとたんに、電話口で身動きする気配があった。
視線を巡らせて気配を探っているのだろう樹に、紫は本格的なため息を漏らす。
「なにがあったのかは知らないけれど、きみらしくないよ、惺夜。3時間も前からいなかったのに、その様子だときみは気づいてもいなかったね」
『それは』
「さっき学園の体育館で出くわしてね。彼は3時間もバスケをやっていたらしい」
『3時間も? 冗談じゃないっ』
なぜか狼狽して叫ぶ樹に紫が眉を寄せる。
別れる直前の遠夜と関係があるような気がした。
「わたしに気づいたときに中断したんだけれどね。その直後に倒れたよ」
『……やっぱり。ぼくのせいだ』
「そう思うなら迎えにきてやったらどうだい。彼は頑なにきみには知らせるなと言っていたよ。きみの名前を出したとたんに責められたからね。どうしてなのかは、きみが一番よく知っているんだろう? 自分のせいだって言うくらいだしね」
皮肉を混ぜた返答に、樹は苦い沈黙を返した。
「彼が倒れたから、水を汲んでくると言い置いて待たせているんだ。きみに知らせたことは黙っているよ。早く迎えにきてあげたらどうだい? きみがくるまでは引き止めておくから後悔しているんだろう、惺夜?」
『白々しい。だれのせいで揉めたと思ってるんだ、紫? 全部、きみのせいなんだよ』
「違うね。きみのせいだよ」
『紫』
「本当にわたしが原因だとしても、引き金となったのは、きみの独占欲と嫉妬だろう。責任転嫁はするものじゃないよ、きみが遠夜を信じることができるなら、起きなかった喧嘩じゃないのかい?」
紫に責められる筋合いはないと、無言の反応で思っているらしいことは、紫にも伝わった。
呆れる彼の頑固さに紫は嘆息の嵐である。
「きみは独占欲が強すぎるんだ。遠夜はきっときみに信じてもらえなくて、悔しかったんだろうね。始めから喧嘩越しだったよ。あれは憂さ晴らしだね。させたのは、わたしじゃない。わかるだろう?」
『……わかったよ。迎えに行くよ。すごく不本意だけど、今回はぼくの負けみたいだ。たしかにぼくが言い過ぎたからね。あのときはどうかしてたよ、本当に』
不承不承と言った返答に、紫がクスッと笑い声を漏らす。
たちまち不機嫌そうに押し黙る気配があって、もう一度声を殺して笑う。
「できるだけ早く頼むよ。……もう夜だからね。長引けば自制が効かなくなる」
『遠夜には手を出すな。そんな真似をしたら赦さないよ、紫』
低く恫喝する声に力なく笑った。
「承知しているつもりだよ。でなければきみに連絡なんて取らないで、さっさと頂いているさ。きみたちは同じ血を引いているだけあって、極上の獲物だしね。和宮の直系はさすがに美味しそうな匂いだ。きみたちの血はとても美味だろうね」
『遠夜に手を出したら赦さないよ、紫』
「わかっているよ」
『どうだか』
「本当に早く頼むよ。彼の顔色もかなり青かったし心配でね。彼はどこか悪いのかい?」
『魔将であるきみにそう見えるわけ、紫?』
皮肉まじりの問いかけは、そのまま否定の意味もあって、紫は怪訝そうに眉を寄せる。
たしかに病気を持っているようには見えなかったのだが。
「不思議だね。たしかに病持ちには見えなかったけれど、健康な者の見せる顔色じゃなかったよ。3時間だと教えたときに、彼も自覚があったみたいで―――まずい―――と口走っていたしね」
『もしかして……紫のいる場所は、遠夜からかなり離れているのか? さっきから彼の気配が感じられないけど』
「わたしは校舎から電話をしているから」
『じゃあ今遠夜はひとりなのか……?』
青くなった独り言のような呟きに、紫は怪訝そうな顔になる。
『早く彼の元へ戻ってくれっ。ぼくもすぐに駆けつけるからっ』
「惺夜?」
『手遅れになる。間に合わなくなるっ。早く行ってくれっ。紫っ!!』
懇願のような叫びに、紫は無駄な返答はしなかった。
無言で携帯を切り、そのまま駆け出す。
樹がなにを危惧していたのかは知らない。
だが、遠夜にそれだけの問題があるのだと見抜いて。
体育館では遠夜が崩れ落ちて気を失っていた。
どうやら間に合ったらしいとほっとする。
樹がなにを警戒したのか、遠夜がなにを隠していたのか、それが急に気になった。
存在しない一門の直系。
それだけでも十分、奇妙なのだ。
これが普通の財閥でも、存在しない直系というのは不自然な存在だ。
例えば財産の相続問題などに大きく絡んでくるから。
表向き存在しなくても直系なら、遺産を相続する権利はある。
いわゆる鳶に油揚げを奪われた状態、だ。
普通の財閥でそうなのだ。
和宮一門ほど特殊な財閥になると、存在しない宗家の直系というのは、常識よりも深い意味を持つことを意味する。
何故なら遺産相続だけに止まらないからだ。
一門の直系、それも宗家の直系なら、受け継ぐ力も想像を絶するものだろう。
もしも……一門の者が遠夜の存在を知ったらどうなる?
遠夜のことを知った後で、蓮と協力して一門の内情をすこし探ってみたことがある。
そのとき、彼を引き取った直後に樹が本家を捨てたことを知った。
今、一門の者たちも樹の所在を知りたくて、血眼になって彼を捜しているところらしい。
今まではその動機は彼の生い立ちのせいだろうと思っていた。
遠夜のことは、ただ行動を起こすのに都合がよかったのだろうと、その程度に考えていた。
だが、本当にそれだけだろうか?
むしろ樹が一門を捨てたのは自分の問題よりも、遠夜の問題が大きかったのではないか?
遠夜はいつもなにかを警戒していた。
それは蓮からも報告を受けている。
彼は必要以上に深く立ち入ろうとする者には、一定の距離を取る、と。
まるで深く知られるのを警戒しているみたいだと、蓮はそう言っていた。
警戒していた相手が、もしも和宮一門だとしたら?
樹は自分の問題すら無視して、一門より遠夜を選んだだけだとしたら?
「まさか」
愕然としたように気絶した遠夜を凝視する。
その面影はとても樹によく似ている。
「遠夜は一条家の……」
口に出しかけて思い止まった。
だれに聞かれるか安心できない。
もしそうなら遠夜は常に暗殺の危険に身を晒していることになる。
「たしか生き残った御曹司は最近、亡くなっていたはずだね。それにより正式に滅亡したことになっているはずだけれど」
推測が正しければ樹が警戒するのも無理はない。
一門すべてを敵に回している遠夜を護るためには、一瞬でも気を抜けないだろうから。
すこしの隙をつかれたら、遠夜は人権すら無視されて、モルモット扱いされるだろうし。
当たってほしくない推測だと、心の底からそう思う。
紫が倒れている遠夜の汗を拭いてやっていると、すぐに背後で懐かしい気配がした。
振り向けば樹がやってきたところだった。
どうやら転移したらしい。
生前から惺夜が持っていた能力で、今でいう超能力の一種、テレポートに似ている。
能力の原理は知らないが、そういうオカルト系の能力なのか確かだった。
「早かったね、惺夜」
「間に合ったようでホッとしたよ」
大きく安堵の息を漏らして、樹は黙って近づいた。
紫から遠夜を受け取って抱き上げる。
後は会話は無用とばかりに背を向けた樹に、紫が慌てて声を投げた。
「樹」
「なにか用かい? ぼくはなるべく早く帰りたいんだけど?」
「遠夜にはどんな秘密があるんだい?」
柔らかく問いかける声に邪心はない。
だが、振り向いた樹の瞳は、とても鋭い色を浮かべていた。
「出すぎた真似だよ、紫」
「……そのようだね」
これはどうやら推測が事実らしいと、紫は深入りするのを諦めた。
深入りすれば樹に排除される恐れもある。
そのくらい樹の瞳に溢れた殺気は本物だった。
黙って背を向ける樹を見送って、紫は深いため息をついた。
うかつに関われないほど重い秘密なのは確かだが、なんとか力になれないものかと。
樹が遠夜を連れ戻して手当てに当たっている頃、ふたりが住むマンション内では海里と大地が話し合っていた。
「惺夜さまもずいぶん苛立っておられるようだね」
事情を知る者として海里がそう言うと、大地も苦い顔で同意した。
「過去の痛手から抜け出せていないということだろう。たしかにあの事件は予想外だった。皇帝陛下のご心痛も 何ばかりのものか」
「そのためにぼくらが来訪したんだ。気を抜く暇はないよ、大地」
「覚醒の時は近い。気が抜けないということか」
「そういうこと」
短く答えて海里は笑ってみせた。
それは強がりの笑顔だったけれど。
この星に降り立って今回の任務に当たっているのは自分たちふたりだけ。
なにがあっても自分たちの力で切り抜けていかなくてはいけない。
そのためには遠夜に覚醒してもらう必要がある。
そうして救いになれれば、言えない想いを抱いていた。
その日。
樹は一晩中、遠夜に付き添ってくれた。
寝苦しくて何度か目を開けたときも、彼はそこにいて後悔を瞳に浮かべて、じっと遠夜を見ていた。
それだけで不思議と心が温かくなって、遠夜はまた眠りにつくことができたのだった。
遠い過去の記憶に翻弄される樹。
その記憶を憶えてもいない遠夜。
それに関わっているらしい隼人。
3人が揃うとき、運命も動きだす。
その鍵を握るは皇帝、衛。
皇帝を動かすは海里と大地。
すべてが動きだすそのときは、もう目前まできていた。
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