第十ニ章 パンドラの箱(4)
マンションをひとつ買い上げて住んでいる樹と遠夜は、なにもひとつの家で暮らさなくても自由になる家はたくさんある。
ワンフロアに4軒の家があり、それが5階建てになっているのだ。
同じ家に住まなくても、十分すぎる広さがあった。
その気になれば顔を合わさずに済むだけの部屋に住むふたりは、別々の階に移らなくてもすれ違いの生活を送ることができる。
ひとつの階に4軒しかないのだ。
どれほど広い間取りは考えるまでもない。
樹が部屋に閉じこもってしまうと、外の様子はわかりにくい。
防音や防衛が十分なマンションである。
その気になれば、お互いに干渉しない日常も可能だった。
2部屋続いている個室に引き上げた樹は、盛大なため息をつき、乱暴にソファに身体を投げ出した。
廊下で放り出してきた遠夜の、頼りない姿が脳裏に浮かび、きつく眼を閉じる。
「紫苑」
すがるような遠夜の眼を見たとき、いきなり紫苑を思い出した。
時々、喧嘩をして突き放すとき、紫苑もよくあんな眼をして惺夜を見ていた。
きらわれることに脅える瞳は、本当なら実兄の問題でしか見せないはずの彼の脆さを覗かせる。
残酷な気持ちだと知りつつ、彼が惺夜を必要だと態度で示してくれる、弱さを見せるときが好きだった。
優しくするときより、突き放したときに、紫苑は必要だと態度で訴えてくる。
それが残酷な優越感となり、惺夜はすこしホッとするのだ。
彼に必要とされているのだと肌で実感できて。
このときだけは彼が求めているのは、傍にいない実兄ではなく、惺夜なのだと思えて。
自分でも残酷な気持ちだと知っていても、そう感じてしまう心を止めることだけは、どうしてもできなかった。
紫苑と全く同じ顔で見上げる遠夜を見たときに胸が痛んだ。
何故なんて自分でもわからなかった。
ただ突き刺すような甘い痛みだけは、はっきりと掴めて動揺してしまったのだ。
遠夜から逃げるように背を向けても彼の視線は感じていた。
背中に突き刺さる頼りない視線に、振り返りたい衝動を抑え込むのに、更なる胸の痛みを噛みしめて。
「この気持ち……似てる。紫苑を見つめるたびに感じていた胸の痛みに。何故なんだ? どうしてぼくは彼に付きまとう紫を見て、あの頃と同じ苛立ちを感じてる? 紫苑に向けた感情だけが曖昧になってる。どんなふうに紫苑と接していたんだろう、ぼくは?」
止められない苛立ちが衝動を煽り、思わず遠夜を傷つけていた。
身勝手な動機だ。
ただ彼を困らせたかった。
平然とあしらう彼を、泣かせてみたかった。
どんなに苛立っているのか、それを知りもしないで、あっさりと片づける彼に腹立たしさを感じて。
なんだか思い出したくないことを思い出してしまいそうで、樹は息をひそめる。
彼はまだ惺夜の記憶のすべてを取り戻しているわけではない。
なにかが歯止めとなって記憶を取り戻せずにいるのだ。
思い出すことを自分で制止しているようだと、なんとなく感じていた。
特に紫苑に向けていた気持ちだけが曖昧になっている。
彼との語らいも何故か、極端な記憶しかない。
普通に接して笑い合っているときか、黙って傍にいるだけの、在り来たりの記憶か。
思い出しても大した重要さを感じない日常しか記憶にない。
もっと抱いていたはずの複雑な気持ちを、わざと封じているようだった。
遠夜と過ごす歳月が長くなるほど、鮮明になっていく記憶。
過ぎ去った遠い日の想い出。
あの頃、同じ時を過ごし、紫苑とも深い関わりを持った紫の登場は、樹の心に微妙な色を付けはじめていた。
忘れていたい記憶を刺激される苛立ち。
遠夜に近づく彼に対する抑えきれない怒り。
それは抑えきれないほど強烈な怒りだが、理由が不鮮明な感もあり、自分でも強すぎて納得できないでいた。
遠夜に感じる衝動の意味を、知りたくて知りたくなくて、もどかしいくらいだ。
だが、引っ掻き回される遠い記憶を、できるなら思い出したくなかった。
尽きることのない後悔を感じるような気がして。
紫苑と遠夜。
正反対の外見なのに、内面だけはよく似ている彼ら。
何度も思い出す紫苑の想影。
それが樹を苛立たせる。
彼の心を樹と惺夜の狭間で惑わせて。
けれど、その矛盾を苛立ちを遠夜にぶつけることはできなかった。
それが新しい苦しみを生み出すような気がして。
体育館の近くを移動していた紫は、床にボールを叩きつける音で、ふっと足を止めた。
聞こえてくるのは体育館からだが、すでに下校時刻は過ぎ、そろそろ20時に差しかかろうとしている。
生徒会の仕事で最後まで居残った紫はともかく、一般生徒が居残りをするような時間ではなかった。
それがバスケ部員だとしても。
しかし振り向いて視線を投げた体育館には、煌々と明かりがついている。
だれかがいるのは間違いなかった。
「やれやれ。こんな時間に居残り練習かい? 帰宅時間を遅らせないでほしいな」
生徒会長として放置できない紫は、仕方なさげに体育館に足を向ける。
本当はすこしでも早くマンションに帰って、夜の散歩と洒落込みたかったのだが。
吸血鬼の性として夜行性の生き物である紫は、夜と昼とでは別人のように活動的になる。
その妖艶な魅力も増す夜は、彼の時間だ。
獲物を求めて夜の街に出るのは、彼の日課でもある。
吸血鬼のサバト。夜の狂宴は彼の一番の楽しみだ。
特にこんな満月の夜には、吸血鬼としての血が騒ぐ。
昨夜、血を飲まなかったため、すこし吸血願望が強くなっている紫は不機嫌だった。
半開きの扉から中を覗き込み、声をかけようとした紫は、瞬間、驚きで眼を瞠った。
ライトで照らされた体育館のバスケコートの中で、汗を散らし駆け回っているのは、意外なことに宮城遠夜こと、和宮遠夜だったのである。
過保護な樹に付き添われている彼を、こんな時刻に見かけるのは初めてで、すぐには現実だと思えなかった。
敵チームを想定して動いているのか。
まるで対戦相手でもいるように、見事な動きを見せる彼に思わず感心する。
私服だったが動きにくかったのか、上半身は脱いでしまっていた。
華奢な肢体がライトに照らされて、小さく息を噛む。
思いがけないほど彼の身体は細かった。
華奢では済まないほど頼りない上半身を見て、少し痛ましい気持ちになる。
年齢より幼く見えるのは、その体格のせいだと気づいて。
厳しい横顔でひとりバスケをする彼は、とても大人びた表情を浮かべている。
それでも年齢よりずっと幼く見えるのは、その華奢すぎる体格のせいだ。
あんなに細くて小柄では、とても高校生には見えない。
だが、あの瞬発力はどうだろう。
ボールを自由自在に操って、駆け回り跳ねる彼の運動神経は、見ていて寒けがするほどだ。
ゴールまで届かないはずなのに、見事なダンクシュートを決める姿を見て、思わず吐息する。
その跳躍はすでに常人の比ではない。
一分の隙もない完璧なフォーム。
それは完成されたものだけに感じる美しさがある。
床に着地を決めて、落ちてきたボールを下で受け止めた遠夜が、小さく息を吐いた。
振り向きざまにボールを投げられ、紫がとっさに受け止めた。
「遠夜……」
呆然とした声を出す紫に、遠夜は苦々しい顔だ。
紫が眺めていることにとっくに気づいていたのか。
今日の彼はかなり不機嫌そうだった。
「なにか用かよ、紫会長。じっと見てるなよな。黙って覗いてるなんて趣味悪いぜ」
「体育館に明かりがついていて、音が聞こえたから、帰宅するように注意しようと思ってね。そうしたら意外なことに居残りをしていたのがきみだったから、すこし驚いて。こんな時間にどうしたんだい、遠夜? 樹は?」
「知らないよ、まだ部屋に閉じこもってんじゃないのか。ムシャクシャするから、黙って家を抜けてきたから」
冷たい受け答えをしながら、遠夜は片手で汗を散らす。
床に放ってあったタオルを手に取り軽く身体を拭くと、シャツを身につけた。
「なにかあったのかい、樹と?」
すぐ近くで声がして顔を上げると、紫が心配そうな顔をしていた。
「別に」
腹立たしげに吐き出して、そっぽを向く遠夜の、その顔色が青ざめていて、紫は眉を寄せる。
「顔色が悪いね。大丈夫かい、遠夜? いったいどのくらいここで?」
「さあ。家を飛び出してきたのは、17時頃だったけど。今、何時?」
「17時って、きみもう20時だよ? 3時間も動き詰めだって?」
愕然とした声を聞き、遠夜がハッと顔色を変える。
「3時間? まずい。やりすぎた」
「遠夜?」
青ざめた呟きの意味が掴めず、問いかける声を出すと、遠夜がすこし上体を崩した。
我慢できずに膝をつく彼に、ハッとして自分も膝を折る。
「遠夜。大丈夫かい?」
「平気だよ。気にせずに先に帰宅してくれよ、先輩。ただの貧血だから」
「貧血って……」
「調子に乗ってやりすぎたんだ。すこし休めば治るから帰ってくれよ。おれはここで休んでいくから」
言い返しながら、すでに立つ気力もないのか、遠夜は床に座り込んで顔も上げない。
不安を覚えた紫は不本意ながら彼に言ってみた。
「樹に連絡を取ろうか? 彼に迎えにきてもらった方が」
言いかけたときに青ざめた顔色の彼に睨まれて言葉を切った。
どうしてそんな顔をするのかがわからない。
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