第十ニ章 パンドラの箱(2)
一番信じている惺夜に、自分がどんな対象として見られているか、もしも紫苑が知ったとき、彼はどんな顔をするだろう?
残酷な望みに唇を噛む蓮華に、惺夜は気づかないまま、ホッとして細い息を吐いた。
「身勝手だと思うけど、それを紫苑に言わないでほしいんだ、蓮華」
「本当に自分勝手なお望みね」
刺を含ませて皮肉を投げる彼女に、惺夜はその通りだと認め頷いた。
「身勝手なのは重々承知だよ。それでも頼みたいんだ。紫苑には黙っていてほしい。ぼくはこのままお互いの関係を変えるつもりなんて、全然ないからね」
「どうして? あんなに切ない瞳で、あなたは紫苑だけを見ているのに。わたしなんて見てくれないほど一途に」
当てこすりにもなれない素直な問いに、惺夜は困り果てて笑う。
ごまかすためではなく、笑うことしかできない質問だった。
行動を起こせない惺夜には指摘されても笑うことしかできないのだから。
「ぼくは確かに紫苑が好きだけど、このままの関係でいいと思ってるよ」
「欺瞞だわ」
辛辣な科白に惺夜は肯定も否定もせずに顔を背けた。
背けた横顔が、胸をつかれるほど切なげで、蓮華はハッと息を呑んだ。
「好きだったら、必ずそういう関係になる必要があるの? 必要のない絆もあるよ。ぼくらの絆にそんな関係はいらない。あっても邪魔なだけだよ」
「……あなたはそれでいいの?」
傷ついたのは自分なのに、あまりに惺夜が辛そうで、蓮華にはこれ以上抗議はできなかった。
彼を責めていると、自分の方が極悪に思えてきて、どうにもやりきれない。
彼女の問いに振り向いた惺夜は、口許のあるかなしかの笑みを刻んだ。
「たくさんのものを望むと、すべてを失うこともあるんだよ、蓮華」
「惺夜」
「本当に素直になれるなら、いや。自分の心をしっかり掴んでいられるなら、ぼくももっと楽だったと思う。きみを傷つけることもなかったし、自分自身にも自信を持てた。
でもね。自分に自信を持てなければ行動は自粛するしかないんだ。ぼくは今の関係を崩してまで紫苑を得ようとは思えないよ。彼はきっと責任感と義務から、ぼくに応えようとするからね」
呟いて音を立てて唇を噛む惺夜は、ゾッとするほど冷たい顔をしていた。
腹立たしさを隠さない彼の苛立ちに蓮華は小さく悲鳴を噛む。
「責任感と義務?」
脅えて小さな声を出していたが、惺夜は気づかずに舌打ちをひとつ。
ため息を吐き出して、振り切るように顔を上げた。
「紫苑はぼくに負い目を感じているからね。ぼくがそんなことを言ったら、絶対に責任感と義務感から苦しんで、応えなければならないと自分に強いるよ。それは彼の本心じゃない。そんなものならぼくはいらない。そういう意味だよ」
義務で自分を受け入れ応えるなら、いっそ手に入らない方がいいと言い切る。
それが彼の想いの強さに思えて、蓮華はそっと目を伏せる。
今更のように惺夜の想いの激しさを目の当たりにして自分の浅慮を悔いた。
「紫苑はなにもわかってないんだよ。紫のことにしたって、同情から答えに悩んで困ってるし。きみだってバカだと思うだろう? 同情から紫に対して遠慮しても彼も喜ばないよ。それは彼の欲しい答えじゃないし」
真剣にそう思っていることはわかったが、惺夜が蓮華に対して起こした行動と一体どこが違うのだろう?
思ったが問いかけることはできなかった。
あまりに彼が苛立っていたので。
「紫苑はね。どんなときも愛されたら愛されただけ返したいと思ってる優しい子なんだ。博愛でしかないけど、彼はまだそんなことに気付けるほど大人でもないしね。優しすぎて自分で自分を縛って雁字がらめにするんだ。みんな見返りがほしくて、だれかを好きになるわけじゃないのにね」
切ない声でささやく惺夜に忘れかけた胸の痛みがよみがえる。
鋭いその痛みは紫苑に対する嫉妬なのだとわかりすぎるほどだった。
惺夜にこんな表情をさせたのが、紫苑なのだと思うと嫉妬で胸が焼ける。
この人はなんて顔で彼のことを考えるのだろう。
そう思うだけで涙も出ない。
悔しいのか悲しいのか、そんなことさえもうわからなくて。
ただ胸が痛かった。
「本当に紫苑には黙っていてほしい。きみには済まないと思ってるよ。でも、これで終わりにしよう。ぼくもこれ以上きみを泣かせたくないし」
最後に付け足された一言は、惺夜の本心だったのかもしれない。
だが、蓮華には言い逃れにしか聞こえなかった。
紫苑を守るための彼の嘘。
それは蓮華の心を凍らせるには十分すぎた。
「言わないわ。絶対に。そうやって自分の惨めさを紫苑に晒せというの?」
そんなつもりじゃないと言いたげに惺夜がかぶりを振る。
だが、蓮華はそれを受け入れず顔を背けた。
「最後にこれだけは聞かせて」
「なに?」
「あなたは最初から、わたしより紫苑が好きだったのね?」
断定された問いに惺夜はどう答えるべきか迷う。
ある意味では事実であり、ある意味では偽りだからだ。
紫苑が好きかと問われれば、どういう事情にしろ、好きだと言える。
そういう意味で彼を見ていることも事実だし、ごまかそうとしてもできないほど、彼に惹かれている。
友情でも忠誠でも兄弟愛でもなく、肉体的に、だ。
しかし蓮華に対する気持ちが、始めから紫苑を諦めるための偽りのものだったのかと問われると、肯定はできない。
自分でも矛盾していると思うが、蓮華を好きになった心も、また偽りではなかったから。
少なくとも何人もの令嬢たちと付き合ってきた惺夜が、自分から申し込みたいと思ったのは蓮華ひとりだった。
それを彼女にわかってくれと望むのは、やはり惺夜の傲慢なのかもしれない。
大体、別れようと思うなら、期待を持たせるべきではない。
そんなことを打ち明ければ、蓮華を尚更傷つける。
一度は愛した女性だから、これ以上傷つけたくなかった。
「……そうかもしれないね」
ため息と共に吐き出された科白は曖昧に。
顔を背けた惺夜の一言に、蓮華は冷めた眼で彼を見た。
「少なくともきみが生まれる前から、ぼくらは同じ態度だったよ。なにが言いたいか、わかるよね? 蓮華。きみなら」
遠回しに蓮華が生まれる前から、紫苑にそういう感情を向けていたと仄めかされ、彼女は深くうつむいて拳を握りしめた。
それは確かに事実だ。
蓮華が生まれた日。
初めて惺夜は紫苑を意識した。
思いがけない動揺を彼の裸体で覚えた日。
そして彼の寝顔に誘われた夜。
今思えばあれが紫苑への気持ちが変わってきた兆候だったのだ。
気づくのに時間がかかってしまったが、あのころから惺夜は紫苑を意識していた。
自分でも認めるのが難しい気持ちで、気づくことを制御していたことも確かだが。
ただそれが事実だからといって、蓮華への気持ちまで否定されるわけじゃない。
語られることのなかった惺夜の気持ちに、蓮華は遂に気づかなかった。
「出て行って」
両手で顔を覆い、泣き出した彼女に、惺夜はなにか言おうと思ったが、掛ける言葉が見つからず、無言で彼女の部屋を出ていった。
ひとり取り残された彼女が、寝台に泣き崩れたとき、一体なにを誓ったのか、惺夜は知らない。
「だからぁ。なんで紫会長はおれに付きまとうわけ? いい加減やめてくんない? 妙な噂になってるんだけど」
廊下を移動中の1年男子が、後をついてくる生徒会長に苛立った声を投げた。
隣であからさまに「またか」といった顔をしたのは、彼の悪友である。
彼の反対側には転校してきたばかりで親しくなった結城隼人もいる。
問題の中心にいるのは遠夜だった。
悪友とは蓮のことである。
ニコニコ笑いながら、腰巾着よろしく3人の後を(正確には遠夜の後を、と注釈がつくが)付きまとっているのはこの学園一の人気者、紫会長こと2学年の栗原紫生徒会長だった。
遠夜の渋面の抗議にも、全く堪えた様子もなく、極上の笑みなどを見せる紫に、内心で蓮は呆れていた。
顔にはっきり―――こいつもよくやるよ……―――と書いている。
「別に気にしないでくれないかな? わたしはできるかぎり邪魔にならないようにするから。オブジェだとでも思って無視してくれていいよ」
「こんな目立つオブジェなんてあるもんかっ。あんたが後を付け回すから、おれは妙な誤解を受けて怒ってるんだよっ!! なんなんだ、これはっ!? 行く先々で声を投げられて、どこが邪魔にならないようにしてるって!?」
「そうだね。わたしも困っているんだけれど、こればかりはね。迷惑だからやめてくれとも言えないだろう? 尤も。きみがどうしても我慢ならないというなら、わたしが本気で抗議するけれどね」
にこやかに周囲の取り巻きより、遠夜を優先すると告げられて、思わず背筋に冷たいものが走った。
そんなことをされた日には、生命が幾つあっても足りなくなる。
嫉妬ってどのくらい集まれば、視線で人を殺せるようになるだろうと、このごろ、そんな埒もないことまで考えはじめていた。
そのくらい紫が原因で受ける嫉妬の視線の集中攻撃はものすごいものがある。
気が狂わないのが不思議なくらいだ。
気の弱い生徒なら、とっくに登校拒否を起こしているだろう。
はっきりいえば全校規模の村八分状態に近い。
意味合いは多少異なっているが。
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