第十一章 封印された神話(4)
「どうかしたのかい、葉月? ため息なんてついて」
突然、声をかけられて振り向けば、茂みをかき分けるようにして、水樹が立っていた。
もちろん確かめるまでもなく、声の主が水樹以外であるわけがないと、紫苑にもわかっていたが。
紫苑のことを「葉月」の名で呼ぶのは水樹ひとりだから。
あの宿命の日に知った本名。
衝撃が強すぎてすぐに忘れてしまった自分の本当の名前。
それを知っているのは水樹ひとりだ。
だから、紫苑ではなく、本名で呼ばれたときに、相手は水樹だとわかっていた。
いつもなら振り向いて憎まれ口のひとつでも叩くところだが、今は彼に訊きたいことがあって、すこしだけ唇を尖らせて前を向いた。
「葉月?」
「……水樹は綾乃と結婚してるんだよな? 故郷では無効だとしても」
「……君にはされたくない指摘だね。それがどうかしたのかな?」
言いにくそうだったが、そう言ってくれて紫苑はその場に腰を下ろした。
背後に水樹の気配がある。
「どうして結婚しようと思った?」
「え?」
「特別な相手だと認識しなかったら、そういう気にはならないよな? そう思ったのはどんなときで、そういうときはどういう気分になるんだ?」
「葉月」
なにかあったと悟ったのか、水樹が隣に腰掛けて顔を覗き込んできた。
「そういうとき、優しいだけの態度を取るのが普通なのか?」
「それはだれを基準に訊いてるのかな? なにかあったんだろう?」
心配そうな声に唇を噛む。
「平均的な常識でもいいから答えてくれよ。おれにはまだ理解することもできない次元のことなんだ。そういうとき、どういう態度を取るのか、よくわからないんだよ」
「だから、優しいだけの態度を取ることがあるのかって?」
ため息混じりの声に頷いた。
「そうだね。あくまでも一般的な例えで答えさせてもらうなら、想いが通じるまで、つまり自分の独りよがりの状態のときは、相手に好かれたくて、振り向いてもらいたくて、きらわれる可能性のある言動は避けるだろうね」
「それって……きらわれたくなくて優しくしかできないって言いたいわけ?」
見上げてきた紫苑がいつになく不安そうだったので、水樹はなるべく安心させようと、努めて穏やかに微笑んでみせた。
心が落ちつくようにと。
「そうだね。まああくまでも相手が好きで、好きすぎてきらわれる可能性のあることはなにもできないという意味だけどね」
「それって……相手に先に好かれていてもそうなる?」
あまりに頼りない彼に水樹は、どうやらだれかのこういう問題で、紫苑は真剣に悩んでいるらしいと悟った。
もしくはとても気掛かりで頭から離れないのかもしれない。
「きみがなにを知りたいのか、もうひとつよくわからないけれど、なんらかの理由から自分の気持ちに素直になれずにいたとする。そんなとき、一途に思いを寄せてくれている人がいて、苦しい想いに耐えきれず、現実逃避に走って偽りの関係を築き上げてしまったという可能性もあるだろうね」
水樹の言いたいことは、継承者で自我の成長が遅く、恋愛感情を理解できない紫苑には、よく理解できなかった。
でも、なんとなく想像することはできる。
「本物の感情で付き合っていたなら、そういうことはありえない?」
「そうだね。言い切ることはできないけれど、常識的にはそうだろうね。ただその人の気性にもよると思うよ」
「気性?」
「例えば許すだけ、優しくするだけの愛情表現しか知らない、とか」
「……」
水樹の言いたいことはわかったが、紫苑は納得することができなかった。
惺夜はとても許容範囲の広いタイプには見えないから。
彼なら特別な相手を独占するために、激情に支配されることもあるような気がするから。
惺夜の気性はそれほど激しい。
「なにを思い悩んでいるのか、打ち明けてくれないかい? らしくない姿を見ると落ちつけないよ、葉月」
「別に悩んでなんかないよ。ただ……そういうのを間近で見ていて、ちょっと疑問を感じたっていうか。どちらもが真剣に向かい合っているなら、別におれが気にする必要もないんだろうけど」
「そういうふうには見えない?」
「上手く言えないけど……優しくて、すごく、優しくて……」
「なるほどね。ただ優しいだけの態度しか見せないから、しかも相手の方から好意を寄せて付き合うようになったから、きみは疑問を打ち消せないというわけだね?」
コクッと頷くと水樹が頭を撫でてくれた。
落ち込んでいるときに慰めようとする水樹の癖だ。
懐かしい大きな手。
「だれのことを言っているのか、わたしにはわからないけれど、ただね、葉月? そういう関係というのは第3者にはどうしようもないことであり、また介入してはいけない次元の問題なんだよ。もし葉月の疑問が当たっていたとしても、それがどんな結果を招いても、自分が起こした行動の責任は、当人にしか取れないからね」
「うん」
「それでも納得するのは難しいかもしれないけど、第3者が絡んだら問題を厄介にする場合もあるし、黙って見守ってあげるのも、大事なことだと思うよ」
優しい声の説得に紫苑は黙って頷いた。
それからは無難な日々が続いていた。
蓮華は優しすぎる惺夜の態度に不安を隠せなかったが、それでも惺夜が他の女性に目移りする気配もなく、蓮華だけを見てくれるので、すこしだけ安堵していた。
それでも不安を感じることもある。
惺夜の態度で感じる漠然とした不安ではなく、もっと明確な不安だ。
惺夜は紫苑に対してだけ態度が違う。
かつて幼い頃に紫苑が言っていたように、最初はただの身内に寄せる気遣いだと思い込もうとしていた。
でも、紫苑のことになると冷静さを失う姿や、彼の危機には己が身の危険も省みず、危険に身を投じてまで護ろうとする、徹底した彼の態度に感じる不安が、すこしずつ増していった。
それが決定的になったのは紫苑が、惺夜と蓮華に気をきかせて傍から離れていったときだった。
惺夜はそれを知ると蓮華のことも放り出して、彼の後を追いかけたのである。
引き止める蓮華を放り出して。
紫苑からは応援していると言われていたし、彼は純粋に恋人同士の時間を邪魔しないように気を遣ってくれただけだろう。
なのに惺夜は紫苑にそんな気を遣わせたことに過剰な反応を見せた。
まるで想い人には誤解されたくないとばかりに、蓮華の懇願も無視して紫苑を追ったのである。
これで疑いが決定的になったのは、まあ時代の背景を考えても仕方のない話だろう。
褒められたことではないのだろうが、この時代、そういった対象に男女の区別はあまりなかった。
それどころか、現代では禁忌とされる血筋の近い者同士でも歓迎されるほどだった。
極端すぎる話だが同母でさえなければ、実の兄妹でも婚姻を認められている時代だったのである。
過ぎた執着を見せれば同性同士でも、そういう解釈を受けるのは避けられない事態である。
ましてそれが常識とされていたら尚更。
紫苑自身には心当たりもないようだったし、彼はそういう感情とは無縁らしいが、惺夜の態度はどこからどうみてもおかしかった。
不安になった蓮華が惺夜に確認を取ったのは、彼との付き合いに慣れてきて、普通なら婚姻だって意識する頃であった。
「惺夜」
一時は途絶えていた戦が、また激しくなってきたせいか、惺夜は落ちつきなく蓮華と過ごす時間も惜しいとばかりに走り回っていた時期。
彼と一緒に惺夜が紫苑と住んでいる家で、出ていこうとした彼に、蓮華が声を投げた。
もう帰るように彼からは言われていて、その理由もおおよその察しはついていた。
ふたりきりで過ごす惺夜と蓮華に気を遣って、紫苑が戻ってこないからだ。
季節は夏。
惺夜は普段もそういう傾向があるが、特に夏と冬に紫苑を長時間、外に出すことをきらう。
すごく心配するのである。
彼の過保護ぶりは徹底したものがあった。
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