第十章 まどろみの中で(3)
『いくらわたしが一条の直系として強い力を持ち、人々が絶賛してくれるほどの頭脳を持っているとしても、だ。この子が成人するまで無事でいられる保証がない』
『それは……そうですね』
現実だけを意識するなら認めるしかなかった。
今まで生き延びているほうが不思議なのだから。
こんな幼子を抱えて。
そういう樹もまだ13になったばかりだったが。
『この子は身体が弱くてね。すこしの無理が祟ってすぐに倒れる。原因不明の熱を出すことも多いし』
説明だけを聞いていると幼いころの紫苑を思わせた。
それもそのはず。彼は紫苑の転生者だったのだが。
このときは知らなかったから、紫苑と似た体質を持って生まれたという従兄弟に対して興味を覚えていた程度だっだ。
見過ごせなかったというのが、正確な感想かもしれない。
紫苑に似ている。
そう思うだけで突き放せないのは事実だった。
『わたしに万が一のことが起きた場合、樹、きみがこの子を守ってやってくれないか?』
『ぼくが?』
戸惑いが混じった声だった。
放っておけないという感情と、どうして自分なのかという疑問が浮かぶ。
『きみにしか頼めない。この子はね、樹。「鍵」なんだよ』
『「鍵」?』
驚愕でそれ以上言えなかった。
一条の御曹司が「鍵」として生まれる。
それでは転生し惺夜として、その力をすこしとはいえ取り戻している樹と、互角の力の持ち主ということになる。
驚愕するのも無理はなかった。
『今、この子の力は封じてある。力を行使して無事でいられるという保証がないからね。そのくらいこの子は身体が弱い。
だが、わたしの死後、術を維持する者がいなくなれば、徐々に封印が解かれていくだろう。そうすればこの子は一条の直系としての力と、「鍵」としての力を取り戻すだろう。
一門にとっては見逃せない事態だろうね。そのときに頼れるのはきみしかいないんだ、樹』
『どうしてぼくなんですか。ぼくが彼の従兄弟だからですか?』
訊ねると隆司は「いいや」とかぶりを振った。
『きみが惺夜だからだよ』
『ぼくが惺夜だから?』
『少なくともきみはここにはきてくれた。一条の名を使って呼び出したにも関わらず、一門のだれにも知らせずに。それだけでもきみを信頼する動機としては十分だ』
理路整然とした答えに、樹は否定を返せなかった。
確かに彼が一条の御曹司だとしても、まして「鍵」だったとしても、樹にとっては大した意味はない。
惺夜として元々一門とは離反した関係なのだ。
背かれていると知りながら、樹を宗主として祭り上げている一門の方が、どうかしているのである。
樹がいつ背くか、彼らは常に怯えている。
愚かなことだった。
ここまで考えたときだった。
話し声で目が覚めたのか、ベッドで寝ていた遠夜が目を開いた。
寝ぼけ眼の黒い瞳が、ぼんやりと開かれている。
『父さん?』
『なんでもないよ。起こしてしまったようだね、もうすこしおやすみ遠夜。朝までまだ時間はある』
『うん』
無防備にうなずいてから、彼は傍で立ち尽くしている樹を見た。
ふたりの正確な出逢いはこのときである。
遠夜は両親の葬儀のときだと思っているようだが。
『せいや?』
このとき彼がなぜそう呟いたのかは知らない。だが、確かに樹を見て惺夜と呼んだ。
心臓を鷲掴みにされているような気がした。
動悸が止まらない。
なにも知らないはずの遠夜が、なぜ樹を惺夜の名で呼ぶのか。
だが、彼はそれに答えることもなく、またすやすやと寝息を立てはじめた。
懐かしい響きだった。
遠夜は寝ぼけていたことから、紫苑としての意識を浮上させていたのか、今、自分の傍にいるのが守護者たる惺夜だと見抜いたのである。
そのことに気づいたのは、後に彼を引き取り義兄弟となって、更に海里と大地のふたりと出逢ってからだが。
この瞬間に樹の取る道は決まった。
この子を守りたい。
惺夜の名で呼ばれた瞬間、そんな想いが樹の中に芽生えたのである。
それはふたりを結ぶ運命の強さだったのかもしれない。
『わかりました』
『樹』
『ぼくの力の及ぶかぎり、この子を、遙を守ります』
『……ありがとう』
そう言って手を握ってきたときの隆司の表情は、この後何年も樹の記憶から消えることはなかった。
それからも何度か隆司と逢う機会があった。
樹は一門の者には内密に一条の伯父と何度となく逢っていたのである。
もちろん保身のため詳しいことはなにも知らされていなかった遠夜は、そのことを知らないし、樹も彼とはあれ以来、逢っていなかった。
何度か夜に訪れていって、寝顔を見たことはあるのだが。
あのとき、彼は樹を「惺夜」と呼んだ。
懐かしいイントネーションで。
もう一度、名を呼んでほしい。
今思えばそんな他愛のない動機だったのかもしれない。
そうして触れ合っていく中で、樹は一条隆司に対して、初めて人間らしい肉親の情を感じるようになる。
『父上の決断は正しいことだと信じているんだ。なによりもあの人の決断で、ひとつの大きな悲劇が終わりを迎えたのは事実だし。でも、わたしにはひとつだけ後悔していることがある。都のことと遠夜の……遙のことだ』
『都夫人、いえ。母上はあなたのことを恨んではいませんよ。ただいつも逢いたいと言っているだけで』
笑顔が引きつらなかったか、自信はなかった。
それでもあの優しい人は、穏やかに笑ってくれたけれど。
『樹。きみには済まないことをしているよ。都に対する拘りも、わたしのせいだろうね。自由に逢えないんだろう? 実の母にも。都は幽閉されているね?』
『表舞台にも出ていらっしゃらないのに、どうして知っているんですか、隆司伯父上?』
よほど驚いたのか、隆司は柔らかい苦笑を浮かべていた。
その微笑みは樹に似ている。
いや。
樹が彼に似ているのだ。
『見くびってもらっては困るな。表舞台から引退しても、わたしはきみの補佐だよ、樹。わたしにわからないことはない。長老方も苦労しているようだ。義信もずいぶん無茶をしているようだね。無用な対立を呼んでいる。防げないのはきみの落ち度だよ』
『申し訳ありません。伊集院のおじには手を焼いています。母を監視することで、失った遺伝子を手に入れようとして。ぼくが当事者だからと、何度諌めても受け入れないんです。正直に言えばどうしようか困っているんです。あなたなら、どうしましたか、伯父上?』
『都にどんな仕掛けを施しても、あの子では欲しい遺伝子は手に入らない。手を加えれば加えるほど、欲しい遺伝子からは遠ざかる。それを突きつけるだろうね。受け入れず納得しないなら弾圧も必要だ。きみにはその強引さがない。
放置しているだけでは眺めているだけでは、一門を統治するなど夢のまた夢だよ。樹。きみにはもっと本気になってもらいたい。それだけの素質はきみにならあるだろう?』
遠回しに微笑みで彼がなにを言いたいのか、樹にはよくわかっていた。
だれよりも。
そして彼のそれが一門と意味を違えていることも。
わかっていたからなのか、自然に笑えたような気がする。
初めて皮肉じゃない笑みを返せたように思う。
今なら。
『ぼくが本気で弾圧するなら一門は畏怖を覚えるでしょうね。彼らにとってぼくは惺夜で断罪者ですから。力での制圧とそれはなにも変わらない』
『そのくらいでちょうどいいと思うよ。樹。一言だけ言っておく。一門を纏める者はただのひとりにでも舐められたら終わりなんだとね。
従わない者はきみを認めていないのではなく、きみを恐れていないんだ。きみの逆麟に触れてもやり過ごせると思っているから逆らう。
袂を分かりつつもりならともかく、一門から離れる気もないのに逆らっているなら、きみを恐れていないということだ。そういうときには力での制圧も必要なことだよ』
穏やかな笑顔のままで、彼が言った言葉は、思いがけない鋭さがあった。
思わず目を見開いて言い返せなかったほどに。
『きみに不満ばかり抱いていると思われるのも困るけれどね。今の君には意見する者が必要だ。一歩引いた位置から見ているだけでは、なにも変わらず動かない。投げやりになる前に、きみは自分ができることをやるべきだよ。滅ぼすならその後でも遅くない。そうじゃないか?』
『あなたが……いないことが残念です、隆司伯父上。あなたがいてくれたら、ずいぶん心強かったと思います。ぼくは補佐役のいない宗主ですから。あなたの存在の大きさを今になって思い知ったような気がします』
陰りを帯びた樹の表情と、孤独を秘めたその瞳に、隆司はすこし悲痛な顔をした。
ここにも彼らが犯した過ちはあるのだと知って。
『いつかわたしの息子が、遙がきみの傍らに立つだろう。遠夜はなにも知らないけれど、遙にはたくさん課せられたものがあるからね。あの子が本名を知るとき、必ずきみの傍らに立つだろう。遙はきみの役に立てるよ。あの子を信じてやってくれないか? きみはひとりじゃない、と』
『伯父上』
『だから、わたしはきみに遙を託すんだ。わたしにもしものことがあったときは、たったひとりですべてに立ち向かわなくてはいけないあの子を、頼むよ。支えてやってほしい。きみにしか頼めないんだ』
『安心してください。惺夜としての力と権限を使ってでも、遙は守ります。たったひとりの……従兄弟ですから』
しっかりした口調で言い切る樹を、隆司は複雑な表情で見下ろしていた。
不思議な眼差しに見上げると、髪を撫でる手を感じ、ドキッとして息を詰めた。
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