隠されたもの
明くる日の早朝。俺は揺り籠の下層へと繋がる縦穴を降りて、とある場所へと向かっていた。
人類が引き籠った一層より下は人の手が入っておらず、剥き出しの岩塊や土塊が入り組み合った洞窟のようになっている。
奥に行くほど道が複雑になり、天然の迷路のような様相を見せる。おまけに、いつどこから獣が現れてもおかしくないという、ほんの少しの油断が命取りになる極悪な仕様になっているのだ。
俺はその獣を一人でも狩ることが出来るが、それはあくまで相手が一体であった場合の話。獣は基本的に群れることはないが、もし一体を狩るのに手間取って二体目と遭遇でもすれば、俺はあっさりと殺されてしまうだろう。
そのため、下層への立ち入りは厳重に規制されている。のだが、それはあくまで正規の入り口の話。揺り籠の上層には、下層へと続く縦穴がいくつか点在している。その存在は公には明かされていないため、俺のように大手を振って歩けない人間がよく利用していた。一般人が立ち入る場所には空いていないため、放置していても問題ないという判断なのだろう。
例え落ちたとしても、獣に食われてくれれば口減らしになって都合が良いから、なのかもしれないけどな。
話を戻そう。そんな危険な場所であるなら、どうして俺がわざわざやって来ているのか。それは、下層で暮らす人物に用があるからだ。
迷路区画を抜けると、揺り籠の外周へと辿り着く。ただ岩壁が弧を描いて延びているだけで、一見すれば何の変哲もないように思える。
しかし、この岩壁を伝い東へ五分ほど歩くと、奇妙な扉が姿を見せた。岩塊の壁面に無理やり取り付けたような、木製の扉。人工物の何もない下層の中で、一際異彩を放つこの扉。
周囲には何もいないことを確認し、扉に手をかける。鍵などは掛かっておらず、何の抵抗もないまま簡単に開いた。
「やあ、いらっしゃい少年。二日ぶりかな?」
扉の先には、居酒屋のような雰囲気のある空間が広がっていた。揺り籠内に出来た横穴を改装したらしいそこで、薄い笑みを浮かべた女が俺を迎える。前髪を伸ばし片目を隠した彼女は、個人で仕事の斡旋を行っている業者だ。
俺も度々世話になっていて、つい先日薬代となる獣を買い取ってくれたのもこの人だ。報酬のピンハネこそ酷いが、俺に仕事を回してくれるのは彼女だけなので頭が上がらない。
「おはようございます。先日はお世話になりました」
「いいとも。君はウチのお得意さんだからね、お互い様さ。それに、君が狩ってきた獣は良い値段になった。ふふふ……、これで今季の黒字は確定したも同然」
美人が台無しになるくらいの黒い笑みを称える業者。こうなるとしばらく自分の世界から戻って来ないのだが、今日は仕事の有無を尋ねに来ただけなので、軽く肩を叩いて帰ってきてもらう。
「うーん。残念ながら、今君に紹介できる仕事は入ってないかな」
「……そうですか。なら、今日のところはこれで失礼します。ありがとうございました」
習慣として足を運んだが、仕事がないのなら長居をする必要もない。俺は一言断って、業者の元を去ろうとすると。
「あー、ちょっと待ってくれるかな」
「何です?」
「んー。そうだね。本当なら、わたしにそれを言う資格はないんだろうけど」
業者は、俺に何かを伝えようとしているものの、中々踏ん切りがつかないようだ。歯切れの悪いその様子に、少しだけイラっとしてしまう。用件があるなら、早く済ませて欲しい。俺はこの後、
「その眼は良くないよ、少年。今君は、自分が死んでも構わないと思っているだろう。大方、獣でも狩りに行こうとしているのかな。武器の一つも持たないで」
……その通りだ。確かに俺は、普段使っている得物も持たずに、獣を狩りに行く心積もりだった。例え、その結果殺されるのだとしても。だが、それがどうした。業者には、関係のないことのはずだ。
「……だったら、何です」
「特に何も? ただ、そんな目をしていた奴を一人知っていてね」
おもむろに、目元を隠していた長い前髪を掻き上げる業者。そこに現れたのは、
「それ、は」
「中々だろう? 昔、ちょっとポカをやらかしてね」
業者の隠れていた左目には、酷い火傷の跡があった。眼球自体が失われているのだろう、爛れた眼窩は、不自然なくらいに窪んでいる。彼女とはもう長い付き合いになるのに、こんな秘密があるなんて知らなかった。
「わたしは、大切なものを全て失った。守ってやるなんて、耳障りの良い言葉を並べていたのに。自分の実力を見誤って、このザマさ。正直その時は、かなり自暴自棄になっていてね。何度も死んでしまいたいと思ったものだよ」
手が離され、留まっていた前髪がはらりと落ちる。業者は、自嘲するように息を吐いた。
「でも、結局私は生きている。無様でもなんでも、生きているんだよ」
「……それは、なぜ」
「自分の命の責任を、あいつらに背負わせたくなかったから、かな。きっとあいつらは、わたしが後を追うことを許しはしないだろうからね」
それは、初めてみる業者の表情だった。慚愧にも近い彼女の言葉は、決して俺に対して向けられたものではない。それなのに、ずぶずぶと俺の胸に突き刺ささってくる。
「君は、違うのかい?」