早すぎた花嫁修業
悪魔ちゃんが目覚めた場所は、彼女自身よく覚えのある場所だ。
『悪魔の揺り籠』。この大洞窟は、人々にそう呼ばれている。地表に盛り上がった直径五キロの巨大な円墳の、更に地下。下に延びるごとに広さを増す階層が、幾重にも連なったその構造。深度は実に三千メートル。悪魔ちゃんが現在いる地点は、その最深部にあたる居住区域だ。今となっては面影も残ってはいないが、かつてはここに自分を含め数多くの臣下たちが暮らしていた。
遥か昔の光景を思い出して、悪魔ちゃんに一抹の寂寥がよぎるがそれをすぐに振り払う。自分は既に王ではないが、湿っぽいのは似合わない。せっかく自由の身になったのだ。ただの村娘として、今の世界を見て歩こう。そして道中で、己の伴侶を探すのだ。
その気になれば一瞬で外に出られるが、戯れに自分の住処を攻略するのも面白い。悪魔ちゃんは居住区域を後にし、上の階層を目指し歩を進める。すると、幾許もしない内に翼を携えた獅子のような怪物と遭遇した。
「お? 何じゃこっちは生きておったのか。どれどれ、久方ぶりの再会じゃ。この儂が存分に可愛がってやるぞ。ほーれ、こっちじゃ」
悪魔ちゃんが獅子に向かって手招きをすると。全長八メートル程のその巨体が勢いよく走り寄ってきて、顎をあらん限りに開き、悪魔ちゃんの小さな体を噛み砕こうと――。
「待て」
が、牙が届く寸前に悪魔ちゃんが拳を振り上げ、下あごをかち上げた。飛び掛かっていた獅子は勢いを殺すことも出来ずに打ちあがり、天井に頭をめり込ませそのまま絶命した。
「うむ?」
天井からぶら下がる獅子の遺骸を見上げ、違和感が去来する。
「奴ら、こんなに弱かったかのう」
今ぶら下がっている獅子のような、揺り籠内に巣食う知性のない獣は、主に仇為す侵入者を排除するための防衛機構だ。知恵もなく、暴力を形にしただけの獣は、揺り籠内にいくらでも量産出来る。それでも、弱ければ侵入者の排除など出来るわけがない。こんな最深部までやって来る者であれば、悪魔ちゃんに危機を及ぼす可能性を持った存在だ。そんな相手が、守るべき主の拳一つで沈むような畜生に務まるのだろうか。
「……何か、嫌な予感がするのう」
そうは言いつつも、守るものがいなくなっていたのだから劣化するのも仕方がないと結論付け、思考を中断する。ついでに、供養のために獅子を引っ張り出してやった。知恵無き獣とはいえ、愉快なオブジェみたいに突き刺さっている醜態を不憫に思ったのだ。
そうして慈悲深くも引っこ抜いてやった獅子を前に、悪魔ちゃんは思案する。こいつの処遇はどうしたものかと。この巨体ゆえに、埋葬は面倒だ。そもそも、問答無用に襲い掛かって来たのは向こうだし。
(そういえばこいつ、儂のようなか弱い女子に襲い掛かろうとしたんじゃよな。うーむ、やっぱり放っておいた方が良かったかもしれん)
いよいよ考えるのも面倒になって来たので、全部放り出して先に進むか、と考えていた悪魔ちゃんだったが、ふと、臣下たちの言葉を思い出した。
曰く、獣の肉は意外とイケる……!
防衛機構とはいえ、多ければいいというものではない。そのため居住区画では月に一度、戦闘訓練と称し手違い等が原因で増え過ぎた獣を狩りに出ることがあった。そこで獲った
懐かしき思い出を想起しつつ、獅子の遺骸にもう一度目を向ける。そういえば、死んでいた期間も合わせれば、自分はもう何千年も食事を摂っていないではないか。
(確か、皮を剥ぎ、血を抜くんじゃったか。それ以外の工程は……よし、イケる‼)
細かいことはどうでもいい。今はただ、久方ぶりの食事で頭が一杯の悪魔ちゃんであった。
そうして三十分後。なんということでしょう。あれほど彼女を悩ませていた獅子の遺骸は、跡形も残さず消失したではありませんか。使い道のないかと思われた骨もおつまみ感覚でイケる悪魔ちゃんマジ悪魔ちゃん。
(あれじゃのう。料理人って、偉大だったんじゃな)
初めて料理らしきものを体験した彼女は、在りし日の料理人たちに改めて感謝を捧げた。獣の肉は、決して悪いという訳ではないが、確かに食材としては意外とイケるという程度。それを素人の調理とかもうお察しな訳で。
(はっ! 花嫁修業をしておかねば伴侶どころじゃないのでは⁉)
悪魔ちゃん(乙女)は己の調理能力の低さ及び女子力の残念さに愕然とする。今のところ料理の経験値は八メートル級の獅子の怪物を解体したくらい。これでは、夫に愛妻料理を振舞うことが出来ない‼ まずはその伴侶を見つけなければならないというのに、順序が狂っていることに彼女はきっと気付けない。
しかし、花嫁修業の機会は存外早くに訪れた。
「ハハハハハ‼ 食材が向こうからやってくるとはのう‼」
揺り籠を上に進むほどに、獅子や蛇、狼や甲虫らしき魑魅魍魎が襲い掛かって来た。質が低下していることに目を瞑れば、防衛機構は確かに役割を果たしているといえる。しかし、質が落ちていようといまいと、悪魔ちゃんの前には全てが無為。百を超える獣に囲まれたところで、鎧袖一触に全てを蹴散らしてしまうのが王というものだ。
「いやー、大量大量。笑いが止まらんわ」
料理の経験値が豊富になってご満悦の悪魔ちゃん。規格外の獣を捌いたことがどう家庭料理に活かされるのかというツッコみはしてはいけない。どう料理されていても、七メートル大のカブトムシを食べてくれる男はいないということも、指摘してはいけない。