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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

武石雄由の短編の集い

Keep my dreaming

作者: 武石勝義

 夢の中で、私は微睡み続けている。


 その夢を見始めてから、どれだけの時が流れたのだろう。夢の中で刻まれる時間は、きっと現実のそれと大きく乖離している。だって私が夢の中に見るその世界は開闢から既に何百年を経て、その間に生まれては死にゆく人々の数多の営みが、目の前を通り過ぎていくのだ。


 雄大だが過酷な自然に囲まれる中で、そこに生きる人々の命は私の想像をはるかに超えて軽い。だからこそ人は懸命に生を燃やす。それは老若男女貴賤を問わない、その世界の住人たちに共通した生き様だ。どれほどの時を経ようとも、だからこそ私は彼らの一挙一動から目が離せない。


 雄渾な歴史を積み重ねてきたこの世界も、ふと目覚めればあっという間に脳裏から掻き消えて、記憶にも残らない一夜のささやかな夢に過ぎないのかもしれない。そんな可能性がふと過ぎるから、私は半ば使命感に駆られながら夢の中に潜り続ける。


 だって私の瞼のわずかな動きひとつで、この世界は消し飛んでしまうかもしれないのだ。


 これまで積み重ねられてきた人々の生も死も、誰にも忘れ去られてしまうかもしれないのだ。


 夢の中にこの世界を創り上げた私の務めとは、彼らが一刻でも永らえるよう眠りに浸り続けることなのではないだろうか。


 この世界の住人たちが、だから私を神の如く畏れるのも、至極当然のことだと思う。いったい、私が目を覚ませば己の存在が霧散してしまうと知れば、私を深い眠りに沈め落とそうするのは当たり前のことだろう。彼らが私を遠巻きに囲み、ひたすら安眠に堕するべく祭殿を築き上げる様は、神を崇め奉る振る舞いとなんら変わりはない。その様子を私は目を瞑りながら感応し得るのだから、まったく夢とは便利なものだ。


 だから私に呼び掛ける声を耳にすることがあろうとは、ついぞ思いもよらなかった。


「いつまで眠り続けているのですか」


 この世界の住人は、私の本当の名――真名を知らない。仮に知っていたとしても、口にすることは禁忌とされている。真名を口にすれば、途端に私が目を覚ましてしまうと、古くからそう伝えられているから。


 その声の主も、私の真名を直接言葉にすることはない。


「私たちのために目を覚まさないというのですか」


 そう呼び掛けるのは妙齢の、女の声であった。


「この世はあなたの夢の中であると、私はずっとそう聞かされてきました」


 地上からはるかに深い穴の底――陽の光も射さない地底湖の、暗く冷たい水の中で私は眠っているのだと、この世界の住人たちは信じている。こうしていついかなる場所でも思うままに見聞き能う身でいると、それが果たして真実なのかどうか、今となっては私自身にも記憶が定かではない。


 確かなのは今、地底湖の畔に立って、わずかな松明の明かりの下で語りかける女の顔を目にしているということだ。


「決してあなたが目覚めぬよう、人々は世の安寧に務めなければならない。この世を騒がすことはあってはならないと、神官様たちは皆そう仰ってました」


 訥々とした口調の彼女が羽織るのは、薄暗がりの中でもそれとわかる上等な絹の衣だから、この世界でも相当な身分にあることが窺える。あるいは神と見做される私を祀る、祭殿に仕える立場なのかもしれない。


 その落ち着き払った声に相応しく、揺らめく炎は彼女の凜とした面持ちを照らし出す。だがさざ波ひとつ立たない水面を見下ろす眼差しは、驚くほどに冷ややかだった。


「嘘ばっかり」


 その声は眼差し以上の冷たい響きを持って、地底湖を取り囲む岩壁に反響する。


「あなたが眠りを貪れるほどの安寧が、今のこの世にどれほどあるというのですか」


 そう言ってゆっくりと首を振った彼女の面に束の間、嘆きを通り越した深い絶望が見え隠れした。


「あなたの眠りを妨げてはいけない。そんなことをすればこの世は泡と消えてしまうなどと、本気で信じる人はもうどれほど残っているものか」


 そういう彼女自身こそが、そんな伝説を微塵も信じていないのだというように、吐き出された言葉には恨みがましい響きがつきまとう。


 だが形の良い細い眉はひそめられて、眉間には細い皺が刻まれている。その表情が物語るのは、そんな言葉を口にせざるを得ない時勢に対する無念であった。


「そんな穏やかな世の中が続いているのであれば、この国がこんな酷い目に遭うはずがないじゃないですか。今はもう、右を向いても左を向いても敵しかいない。この国に取って代わって、天下を掠め取ろうという輩ばかり」


 それまで非難めいていたはずの女の口調は、徐々に面を俯かせるにつれて弱々しくなっていく。


「私が子供の頃は、そんなことありえなかったのに……」


 その台詞と共に彼女の目尻から滴り落ちた一粒の涙は、足下の土肌に吸い込まれて痕跡も残らない。


「私の生まれ育った村が攻め込まれたと、昨日報せがありました」


 顔だけでなく瞼も伏せた彼女が口にする言葉は、もはや私に向けたものではないのだろう。やがて両手に顔を埋めて、時折りすすり泣きを交えながら、女はしゃくり上げつつ語り続ける。


「お父様は……村の人たちの命乞いを願い出て、そのまま斬り捨てられたって……」


 村の祭司を務めていた彼女の父は、押し寄せてきた敵軍に対して無駄に抗おうとはしなかった。長く続く戦乱で既に男手をほとんど奪われていた村には、そもそも抵抗する力も残っていなかったのだ。


 無抵抗の村人に対して、だが敵軍は無慈悲だった。なけなしの糧食を徴発し、それだけでは飽き足らずに老人や女子供に向かって剣を振るおうとする兵士たち。敵地での略奪という報酬を求めて荒ぶる彼らの前に、女の父は立ちはだかった。


 せめて村人たちの命を奪うことだけはやめてくれと、懸命に訴える。跪き、額を地に擦りつく彼への返答は、無言のまま振り下ろされた刃であった。


 必死の表情を張りつかせたまま地を転がる首を私が目にしたのは、十日ほど前のことだろうか。敵軍はそのままこの地底湖のある祭殿にも押し寄せて、今日にも取り囲んでしまおうという勢いである。


「……お父様が殺されて、弟も行方知らず。私にはもう、帰るべき故郷はなくなってしまった」


 胸の奥から絞り出すようにそう告げた彼女は、やがておもむろに顔を上げた。頬に涙の跡を残しながら、泣き腫らして真っ赤に充血した両眼で、女はさざ波ひとつ立たない静かな水面を睨みつける。


「いい加減、目を覚ましなさいよ!」


 突然の彼女の叫びにも似た声に、周囲の岩肌を照らす松明の炎が激しく揺れた。


「これほど乱れきった、誰も彼もが犬畜生にも劣る世の中だというのに、あなたはまだ眠り続けるというのですか?」


 彼女の瞳が、声が、その華奢な身体全体が発する怒りとも絶望ともつかない感情が、地底深い穴底に幾重にも反響する。


「こんな世の中が続くこと、いったい誰が望んでいるというの? いいえ、誰が望もうとも、私が望まない。いっそあなたが目覚めて、何もかも無くなってしまえばいい!」


 両の拳を握り締めて、激情に身を委ねながら、女の瞳はなおも湖面に注がれ続けている。松明のわずかな明かりが見せるのは、凍りついたかと錯覚するような一面の漆黒だ。その奥底に眠り続ける私に向かって女が叩きつけようとしているのは、猛り狂う感情の奔流ばかりではなかった。


 彼女の瞳の奥底には、思い詰めた先にたどり着いたのであろう、暗い決意の光が宿って見える。


「……あなたが眠りから覚めれば、この世は雲散霧消する。今となってはそれこそが、私にとってただひとつの願いです」


 いつの間にか冷ややかな口調を取り戻した女は、そう言うとたおやかな所作で膝をついた。


「私は今日ここで、あなたの真名を唱えに参りました」


 いっそ透き通ったと言い表しても良いほどの涼やかな表情の中で、不自然に浮き上がって見えるのは決然とした瞳。


 それをひと言で伝えるならば、凜とした狂気であった。


「長い眠りに、あなたももう飽いたでしょう? どうしようもない蛮行ばかりを見せつけられて、うんざりしているでしょう? あなたはもうこんな血生臭い夢を見続ける必要はない。うつつに目を覚ますべきなのです」


 まるで私のためだとでも言いたげに、女の台詞は陶然として聞こえた。その一言一句を噛み締めて、私は私に問いかける。


 私は長きに渡る眠りに飽いたのか。


 理性を上回る欲望が跳梁するこの有様にうんざりしているのか。


 大地を覆い尽くす死屍累々ばかりが目に入るこの夢から目を逸らして、現実に引き戻されることを望んでいるのか。


 ――否――


 これは、私の夢なのだ。


 私が私自身に見せるべく、自ら創り上げた世界なのだ。


 それがどれほど理不尽であろうとも。おぞましく、醜悪であったとしても。私は夢を見続ける。


 だから彼女が湖面に向けて細い両腕を差し出し、唇が「目覚めよ――」という言葉を唱えた瞬間、その白い喉笛が血飛沫と共に鏃によって突き破られたのは、自明の理というものであった。


 うなじから喉元に一直線に突き立てられた矢の存在に、彼女は気づく暇もあったかどうか。続く言葉を口にする代わりに、唇の間から一塊の鮮血が吐き出される。くわと見開かれた目は暗闇にも似た穴底の虚空をしばし見つめていたが、やがて瞳から光が失われると同時に、女はぐらりと崩れ落ちた。


 頭部はそのまま湖面に倒れ込んで、静かな穴底に飛沫が跳ねる音が響き渡る。湖水に頭を突き立てる形で伏した彼女を見て、その背後から「神獣の巫女を討ち取ったぞ!」とはしゃぐ兵士の声が聞こえた。


 既に祭殿は敵軍に囲まれて、それどころかとうに最奥までの侵入を許していたのだ。長らくこの世の人々の崇拝の対象であったはずの祭殿では、今や人倫にもとる乱暴狼藉が至る所で繰り広げられている。やがてこの巨大で厳かな祭殿という建物そのものが、紅蓮の炎に焼き尽くされるのも時間の問題だろう。


 矢を放った兵士は一時の遊興を堪能し終えると、またどこぞへと姿をくらましていった。後に残されたのは、なおも静まりかえったままの暗い地底湖の水面ばかり。


 湖の中を覗き込んだまま息絶えた女の亡骸は、そこに私の姿を見出すことが出来ただろうか。見出したとして、せめて恨み辛みを投げつけることが出来ただろうか。だとしても彼女の声は暗い水の中に溶け込んで、私の耳には届かない。


 私は未だ、この世で真名を呼ばれたことがない。それは真名という存在がよほど秘中の秘として隠蔽されてきたからなのかもしれない。それとももはや、この世には真に私の真名を知る者などいないからなのだろう。


 なぜなら私自身がもう、私の真名などとうに忘れ去ってしまっているのだから。


 夢を見続けるのならば、真名の存在など、私を目覚めに誘う厄介でしかないのだから。


 私自身が私の真名を思い出す、そのときまで私が目覚めることは有り得ない。


 いずれ女の亡骸が朽ち果て、この湖の畔に溶け込み、その存在すら忘れ去られる日が来ようとも、私は夢の中で微睡み続けるのだ。


(了)

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