その花のはじまり
彼は、かつて人びとから勇者と呼ばれた存在だった。
彼は、人びとのため世界のために戦い、世界を魔王から解き放った。
そして彼は裏切られ、大切なものを奪われた。
彼は憎んだ。
騙して偽り、彼の大切なものを砕いたすべてを。
粛正の剣を振るう彼を、人びとはいつしかこう呼ぶようになっていた。
”魔王”と。
陽の射さぬ地の底の宮殿の最奥、謁見の間にそれはあった。
賓客を迎える上座の豪奢な席に座るのは、ただ腰かけるだけの肉の塊。
彼が失った幼馴染の娘を写した、飾りもの。
息をしているだけの、飾りもの。
その瞳には、何の光もない。
この世の偽りを暴き粛正の剣を振るう彼に、ある朝、聞きなれぬ声が囁きかけた。
「我の導くとおり、この地に散らばる欠片を集めれば、娘の体を取り戻すことが出来よう」と。
彼は、声の命じるままに欠片を集め、練り、繋げた。
更に多くの血が流されたが、もはや彼の瞳には何も映らなかった。
罪なき者の悲しみの声さえ届かなかった。
やがて、出来上がったものは、別れた時と寸分たがわぬ姿の幼馴染。
ただ、そこにあるのは、息をするだけで心の宿らぬ肉の塊。
問いただす彼に、声が答える。
「我が宿願は為せり。貴様はすでに人ならぬ者と成れり」
彼は流した夥しい血で真の”魔王”となり、世界を呪ってしまっていたのだ。
声は、高笑いを残して中天へと消えた。
その日から、”魔王”は肉の塊と暮らし始める。
肉の塊は、心がないことを除けば、生きている人と全く変わりがなかった。
かつての体たちの記憶が残る為なのか、食べ物を口元へ運べば口にするし、手を引けば立ち上がって歩きもする。
けれども心がないので、いつまで待っても何も求める事もなく、自ら動く事もない。
ただし、出るものは出る。
”魔王”は、それなりに上手く立ち回るコトを求められた。
誰かに命じられた訳ではなかったけれど。
生命ある屍と暮らすうちに、”魔王”は失われた幼馴染の心、魂の行方に思いを巡らせるようになる。
その魂を肉の塊に封じることが出来れば、あるいは……。
”魔王”は、この世の全てを知るという隠者を訪ね、その方法を問うた。
「はてさて、どうであったかの」
隠者は、本の間から紙を取り出して、記された呪文を”魔王”へに掛ける。
そして、
「心を宿らせたいと願う相手と、なるべく離れずに時を過ごしなされ」
と告げる。
「時間が必要ですじゃ、気長にな」
と、念を押して。
幾百の朝が過ぎ、陽が落ちても、肉の塊の様子に変わりはない。
終わりの見えない繰り返しは”魔王”の心を痛ませた。
肉の塊が、何の感情も見せずに口に含んだ食べ物を咀嚼する姿が、何の感情も見せずに”魔王”に手を引かれる姿が、”魔王”の心を苛んだ。
幾度、肉の塊を消してしまおうと思った事か。
けれど、幼馴染の姿を写した飾りを壊すことなど出来よう筈もなく……。
それでもある夜ついに、”魔王”は憤懣を押さえきれず、ふたたび隠者を訪ねる。
そして、魔法の効果がないことをなじり、隠者の脚を引きちぎった。
「やれやれ、短気なことでございますな」
隠者は笑いながら、自分の脚を繋げた。
「気長にと申しましたじゃろう、少なくとも今までと同じだけの時を重ねずば、求むる望みは叶いますまいの」
諭すような物言いに、”魔王”は吠えた。
「次に会う時は、その首だ。さすがにその時には笑ってはいられまい」
それでも隠者は笑みを浮かべたままだった。
さらに幾百の朝が明け”魔王”はいつものとおり、朝餉を肉の塊の口へ運んでいた。
心では、今日も新たに涙を流しながら。
不意に、肉の塊の唇が震える。
「オル、カ」
それは、”魔王”が失った、人であった時の彼の名前。
肉の塊の瞳には、おぼろげながら光が宿る。
そして、もう一度彼の名を呼ぶ。
懐かしい声で。
強く体を抱きしめる”魔王”へ、娘が笑む。
「どうしたの、オルカ。痛いよ」
”魔王”は、みたび隠者の庵を訪れる。
そして、深々とこうべを下げ、そして問う。
魔法のことを。
隠者は、本の間から紙を取り出して、記された呪文を自分に掛ける。
途端に、すべてが明かされる。
魔法の名は、”八千の慈雨”
愛しき者を思い、八千回の涙を流した時、失われた愛しき者の魂を呼び戻すことが出来るという、もはや呪いじみた救い。
”魔王”は、言った。
「もはや詫びるすべなどないが、望みがあるなら叶えよう」
隠者は応えて、
「ならば、過ち多き者や愚かな者へも、その心の万分の一のいたわりを与えてやりなされ」
”魔王”は不意に思い至る。
過ちは正されなければならない。
けれど、正す方法は罰することだけではないことも。
あの時の自分に何が出来ただろうか。
彼は、”魔王”となって初めて涙をこぼした。
涙に潤された大地から一本の草が芽吹き、みるみる丈を伸ばして薄水色の可憐な花を咲かせた。
隠者の姿は、いつの間にか消え失せていた。
その日から、この世界は薄水色の花で満たされた。
永遠に。
その後、”魔王”と少女がどうなったのか、歴史は伝えない。
人は誰も語らない。
けれど、人の心を癒す力があるというその花は、世界ではこう呼ばれている。
”魔王のいたわり”と。