閑話1-2 ――羨望――ラムネラ
それからラムネラは甘ったるい匂いに顔をしかめつつも、瞼を開けるとそこはキッチンの皿の上だった。
聞いたことのある人物のすすり泣く声に顔だけ動かすと、キルキが幼い子供のように号泣していた。
猿轡をされており、キルキに直接訪ねることはできないが、こんな布一枚の裸同然の状態で皿の上に置かれているんだ。キルキが鳴いている理由にも、予想くらいつく。おまけにこの全身に塗りたくられているのは、調味料ってやつか。
(どうやら僕らを食うつもりらしい)
ただのアンデッドにタレをつけて人を食らうという発想はない。
いや、そもそも聖遺物である四光の結界を易々とくぐり抜けるなど一般のアンデッドどころか、六騎将だって不可能。もし可能だとすれば、フォーさんくらいだろう。
つまり、あの首のないアンデッドはフォーさんと同等クラスの力を有している。あれが特別偉そうにも見えなかった。つまり、それはフォーさんクラスの強さのアンデッドがゴロゴロいることを意味する。
「くははっ! そんなの無理に決まってるじゃないかっ!」
戦姫とも称されたキルキが泣くわけだ。今ならはっきりわかる。こいつらは、アンデッドか否かとかいう次元の問題じゃない。きっと、もっと高次元な何かだ。それは多分、ラムネラ達人間が神と呼ぶような存在。
魔王? 竜王? そんなもの、こいつらからすればゴミのようなもの。フォーさんクラスの強者がうじゃじゃいるような化け物どもだ。もし抗えるものがいるとしたら、それは正真正銘、この世界の理から外れた存在だけだろう。
その最悪ともいえる思考は、コックのような姿のアンデッドが厨房に入ってくる事により遮られる。そして、コックはラムネラとキルキの乗る皿に、クロシュを被せるといずこに運び出す。
それから暫く移動したのち、クロシュが取り除かれて、ラムネラは正真正銘の怪物と対面する。それは小人のような小さくも風船のような真ん丸な体躯の男。
「ッ!!?」
悲鳴を上げようとするが猿轡により、でるのはぐもった声のみ。
(なんだよ、こいつ……)
笑ってしまう。違う! こいつは違いすぎる! この嘔吐しそうなほどの圧迫感。こんな奴ら、フォーさんだって勝てるものか。この肌が焼け付くような圧倒的な魔力はあの底が見えないと思ったカイ・ハイネマン以上に悪質で禍々しかった。
(なんでこの短時間でこんな化け物ばかりに遭遇するのさ!)
ただ、涙がでた。もちろん、大半は恐ろしいからだが、もう半分は悔しかったから。今までラムネラは自分が強者だと信じて疑わなかった。だが、実のところどうだ? カイ・ハイネマンという人を超えた怪物に遭遇し、日も跨がぬわずかな間で、それすら超えるこんな怪物に遭遇してしまう。つまり、強者だと思っていた自分は実はただの道端の石程度の存在でしかなかったわけだ。それがどうょうもなく悔しく辛かったのだと思う。
『この家畜たちWA?』
『偵察に出ていた者が捕らえました。踊り食いもできるよう洗浄した後、秘蔵のタレにつけていますれば、腐王様もお喜び頂けるのではないかと』
『それは良いDEATHッ! 泣き叫ぶ家畜人間を嚙みちぎRUuu! その絶望にまみれた舌ざわりが最高に固くてぇ、とーーーても、腐った美味さなのDEATHッ!』
その発言のあまりの悍ましさと、その風船のような男の醜悪で欲望にまみれた顔に、背筋に虫が蠢くようなとびっきりの不快感が駆け抜ける。
血も凍るほどの凄まじい恐怖からか、無意識にもあらんかぎり声で叫ぶ。
だが、無常にも――。
『それではさっそく、一番味の良い頭から――』
風船のような男の口が、キルキを食らわんと大きく広がる。
キルキとラムネラはフォーさんに拾われるまでは、スラム街の孤児だった。意識があったときから、彼女とは姉弟のように育った。それが今、何ら抵抗もできず、怪物に食われるのを黙って食われるのを見ているしかない。それが――。
(ふざけるなぁぁっ!!)
それは――それだけは絶対に許せない! たとえ、それが超常の神であったとしても――。
内臓が震えるほどの激しい怒りに、猿轡をされている状態で獣のような声を上げたとき――
『ベルゼバブデブー♪ ベルゼバブデブー♪』
頭の中へ直接響く歌うような声。
『誰DEATHッ!?』
風船のような男は大きく裂けていた口を元に戻すと、天を見上げて疑問の声を張り上げる。
その言葉に答えるかのように、
『至高の御方ちゃま。見つけたでちゅ』
突如出現する二足歩行蠅。あれは、確かカイ・ハイネマンが召喚した蠅。だが、ダメだ。あの蠅からあの風船のような男のような危険極まりない魔力は感じない。そして、きっとそれはカイ・ハイネマンでも同じはず。
そのラムネラの予想は、二足歩行の蠅を目にした風船のような男の恐怖たっぷりの表情に裏切られる。それは、今までラムネラ達が浮かべているのと同じとびっきりの恐怖の表情。
『貴方様は――』
風船のような男が何かを言いかけたとき、赤色の肉の館は粉々に崩れていきたちまち更地が広がる。
『あり得NAI……こんなのあり得るはずがないDEATHッ!』
錯乱する風船のような男を囲む数多の異形たち。そして、その異形たちは一斉に首を垂れる。
そこの先には怪物、カイ・ハイネマンが右手に異国の剣をもって佇んでいたのだ。
(どういうこと?)
わけがわからない。今のカイ・ハイネマンからはあの蠅の魔物同様、何も感じない。それなのに、風船のような男は、カイ・ハイネマンに命乞いを始める。
そんな風船のような男をとるに足らない存在と断言。まるでその言葉を証明するかのように、カイ・ハイネマンは一切の慈悲をかけることもなく、風船のような怪物をその圧倒的な力で滅ぼしてしまった。
現在、カイ・ハイネマンに連れられ避難所であるバベルの広場までの岐路についている最中だ。
この人は本当に何者なのだろうか? いや、もちろん、フォーさんとも違う正真正銘の超越者だということくらいはわかる。でなければ、あの絶望の化身のような存在をまるで蟻でも踏みつぶすかのように滅ぼせるはずもない。このラムネラの疑問の本質は、そういう表面上のことではなく、もっと本質に根差したもの。
「あの……」
消え入りそうな声を上げると、カイ・ハイネマンは立ち止まり振り返り、
「ん? どうした?」
まるで人間のような感情豊かで柔らかな表情で、ラムネラとキルキに尋ねてかけてきた。
「なぜ、僕らを助けたんです?」
「死にたかったのか?」
眉を顰めて聞き返してくるカイ・ハイネマンに、
「いえ、とんでもありません! 助けていただいたことには本当に感謝しています」
両手を振って否定する。
「うん? お前の質問の意味がわからんのだが?」
「私がお聞きしたいのは、あの状況で私たちを保護してくれた理由です?」
「まー、見殺しにするには目覚めが悪いからだろうな」
「たった、それだけですか?」
「私に助けられたのが、そんなに意外かね?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
そうは言ったものの、カイ・ハイネマンは数多の強力無比な超越者たちを率いる存在。あの風船のような怪物とは次元が違う、いわば史上最強の超越者だ。
その超越者が、目覚めが悪いという理由でラムネラを助けたということだろうか? それがラムネラの超越者というイメージ全く嚙み合わない。
「そうだな。助けた理由を、あえて言葉にするとすれば、人間だからだろうな」
「だ、誰がでしょうか?」
まったく意味不明な発言に、思わず聞き返していた。
「だから私だよ」
「へ?」
「だから私が人間だからだ」
「それって笑うところなのでしょうか?」
至極当然の疑問に、隣のキルキもうんうんと大げさに頷く。
「お前たちもそれか」
カイ・ハイネマンはうんざりしたように、右手で顔を覆うと、
「私は足のつま先から頭のてっぺんまで人間だ。昔から、そして今もな」
そんな到底ありえない事実を口にする。
だが、カイ・ハイネマンの表情と言葉からはどうしても嘘偽りを述べているようには思えない。いや、そもそもカイ・ハイネマンが嘘を述べる意義がない。だとするとこれはどういうことだ?
「まさか、本当に人間なんですか?」
震える声でそう尋ねていた。
「ああ、だからそう言っているだろうが。どこの誰がどう言おうと、私は人間だ」
この方が人間? あの絶望の化身のような風船のような怪物を一方的に蹂躙した超常の力を有する存在がか?
「あなたは人間なのですね?」
それがもし真実ならば――。
「だからさっきから、繰り返しそう言っておろうが」
きっと同様の疑問を幾度となく尋ねられたのだろう。鬱陶しそうに同趣旨の返答を繰り返す。この御方が人間。ならば、この御方は――。
「あなたは超えたのですね?」
声に熱がこもっているのを自覚する。身震いもしていたし、涙さえ出てきていた。
当たり前だ。武に生きるものとして、この事実に感動するなという方が無理というもの。
フォーさんと同格? 馬鹿を言うな? 文字通り、ありとあらゆる面で、この御方は格が違う。今ならあの超越者たちがこの方に崇敬の念を抱いていた理由がはっきりとわかる。
ただ強いだけじゃない。この御方は矮小の人の身でありながら、人という限界の枷をあっさり破ってこの世で最強の存在に至ったのだから。
「超えた? 何をだね?」
「いえ、もう結構です。すべて知りたいことは知りました」
「そ、そうかね」
カイ様はラムネラとキルキを見てしばし、頬を引きつらせていたが、大きく息を吐くと、
「お前たちもか……」
そんな諦めにも似たセリフを吐いたのだった。
カイ様はラムネラとキルキを広場まで送り届けると、いずこへと姿を消してしまう。
「ラムネラ、これから、どうするつもり?」
「決まってるだろ?」
今のラムネラにとって六騎将の地位など張り子の虎にすぎない。未練など微塵もないのだ。そんなものよりもカイ様の傍で仕えたい、その強烈な渇望のみがある。
「だよねぇ。あんただったら、そうすると思ってた」
「そういうお前も似たようなものじゃないのか?」
「ええ、私、カイ様につていく」
もちろん、今この状況でカイ様が直にラムネラ達を認めてくれるとはつゆほど思わないし、今離脱すれば、ラムネラ達はフォーさんに粛正される。だから、監視の名目でこの学園に留まり、その機をうかがうことにしよう。
それに、いい思い出はないが、帝国はラムネラたちの祖国。あの御方の成し遂げたあり得ぬ偉業の説得はしようと思う。
「なら、手続きをしなきゃな」
「そうね」
お互い顔を見合わせてクスリと笑うと、歩きだす。
そのとき、ラムネラには頬にあたる風がやけに新鮮に感じていたのだ。