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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝を折りて
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五章(二つの会談・覚醒)

     *


「ひどい顔だぞ。本当に行くのか」

 気遣うリッダーシュも、冴えない具合はあるじと大差ない。シェイダールはげっそりやつれた顔で、皮肉な笑みを作った。

「主役はおまえだ。俺は余計なおまけだからな、顔がどうでも構わないさ」

 第一候補の住まう『白の宮』には居室以外にも数部屋があり、うち一室で午餐の準備が調えられていた。名目上は近衛隊長の長子ヤドゥカが、旧友リッダーシュを訪ねるということになっている。第二候補が第一候補を訪ねるわけではない。

 シェイダールはぼんやりと、手の中で数本の棒を転がした。材質、太さ、長さに差をつけた膨大な数の試作品から、アルハーシュと二人で組み合わせを探し出し、一応は六音が揃った。しかしまだ「正にこれだ」という音を出せるには至らない。

「少なくとも、鉦の音を色と一致させる仕事は手伝わせないと。俺とアルハーシュ様の間では同じでも、他の奴には違って見えるんだとしたら、最初からやり直しだ」

「役に立てなくてすまないな」

 寂しそうにリッダーシュが詫びる。シェイダールは首を振った。

「このわざを確かなものにできたら、きっとおまえにもわかるさ。アルハーシュ様も色を捉えやすくなったとおっしゃっているし、いずれ誰もが、彩られた音を見るようになるだろう。その時が来れば驚くぞ。世界はこんなにも美しかったのか、ってな」

 ちらりと微笑んだものの、彼はすぐに目を落とし、ふっと息をついた。

「ヴィルメも、きっと……」

 その先は続けられない。リッダーシュの沈黙がありがたかった。

 シャニカが声を『見て』いるらしきことからして、『王の資質』は男だけのものではない。これまで女を調べたことがなかっただけで、きっと同じように多かれ少なかれ有しているのだろう。ならば、いつかヴィルメにも、己が見ているのと同じ世界を見せられるかもしれない。シャニカの笑い声と共に広がる朝焼けの柔らかな杏色に微笑み、リッダーシュの金色に驚く、そんな感覚を共に分かち合えるかもしれない。

 色と音に溢れた美しい世界が、彼女の悲嘆を和らげてくれるのではないだろうか。

 淡い望みを抱いて、シェイダールは鉦を握って額に当てた。己の仕草が祈りのようだと自覚する前に、ふと別な思いが浮かび上がってきた。

(……待てよ?)

 シェイダールはどきりとして息を飲んだ。女にも恐らく資質はある、という仮定。自らの内にある深い穴と、そこを通じて溢れ出す理の力。

(王になって、あるいは資質に目覚めて、どんどん水が溢れ出すようになった途端に子を生せなくなるのは、女の側にそれを受ける器がないってことじゃないのか。だとしたら、ひょっとして)

 女にも、王の選定と同様に白石を用いたら、王の子を産めるようになるのではないか。

(神罰なんかじゃない。神々の機嫌を取って、赦しを乞う必要なんかない)

 彼の子が流れたのも、代々の王妃たちが苦しめられてきたのも。

(原因があって理屈が通ってるんだ。だからこそ知恵とわざで解決することができる!)

 神を打ち負かせる。熱い戦意と勝利の確信が湧きあがり、シェイダールは拳を固める。と同時に、召使が呼びに来た。別室の用意が調ったらしい。

 妙に意気込んで会食の場に向かうあるじに、リッダーシュは訝しげな顔をしたが、問う時間はなかった。部屋に入って座る間もなく、客人を出迎えねばならなかったのだ。

「ヤドゥカ殿、ようこそ。こうして食事を共にするのも随分と久方ぶりだが、くつろぎ、楽しんで頂きたい」

「歓待、痛み入る。……日延べするものと思ったが」

 ヤドゥカは礼を返してから、ちらりと奥に目をやった。視線の先ではシェイダールが立ったまま、絨毯に並べられた食器を数えていた。

「……三、四。よし、杯も全部揃ってる」

 うん、とうなずくと、彼は決然と振り向き、まっすぐにヤドゥカの前へ進み出た。もはや建前も名目も一切気にせず、正面から話しかける。

「食事の前に話がある。ヤドゥカ、俺に協力しろ」

 ヤドゥカはむろん答えず、リッダーシュに向かって問うた。

「いつもこうなのか」

 リッダーシュはおどけて小首を傾げ、返事をごまかす。シェイダールは構わず、ヤドゥカの胸に鉦をぐいと押し付けた。

「おまえにとっても他人事じゃない、重要な話だ。王の力を継承しなくても、資質に目覚めてしまえば子を生せなくなる。俺の子が流れたのを聞いたのなら、察しがつくだろう。おまえも普段から色が見えているのなら、いずれ俺と同じ道を辿るぞ。それが嫌なら協力しろ。いにしえのわざを取り戻し、力の秘密を解き明かせば、問題は解決する。子供のことだけじゃない、この国にはびこる理不尽な死や不幸をなくせるんだ!」

 力強く言い切って、挑むように相手の黒い瞳を見据える。ヤドゥカが何か応じるより早く、リッダーシュが横からシェイダールの肩を掴んだ。

「どういう意味だ。何かわかったのか?」

「まだ推測だが多分間違いない。王の子が生まれないのは、女が力を受け止められないからだ。男だけじゃなく女も資質を調べて力を導き出せば、釣り合いが取れる」

「つまり、奥方に資質があれば、もうこんなことにならないと言うんだな」

「断定はできない。でもシャニカが無事に生まれたんだから、可能性は……っと」

 興奮気味に話す二人を、ヤドゥカがいきなりぐいと押しのけた。軽くよろけたシェイダールは、相手のしかめっ面を見て、ああと思い当たるやにんまりした。

「やっぱりおまえも、リッダーシュの声は眩しくてかなわないんだな」

 自分の手柄でもないのに、どうだ参ったかとばかり言う。するとヤドゥカが唸った。

「……もだ」

「え?」

「おぬしもだ! 二人揃って間近でしゃべるのはやめろ、話の内容が頭に入らん!」

 どん、と突き飛ばされてシェイダールは数歩下がる。ヤドゥカがとびきり苦い顔で睨んだが、シェイダールは怯むどころか呆気に取られた。次いで堪えきれずに笑いだす。

「……っく、は、あはははは! 本当か? おい、信じられないな! 本当にか!」

「笑うな!」

 ヤドゥカが怒って顔を背ける。まるきり、いつぞやの自分と同じだ。シェイダールはますますおかしくなって、腹を抱えて久しぶりに心ゆくまで笑った。ヤドゥカの忍耐が切れる前にシェイダールはなんとか笑いやみ、すっかりほぐれた様子で話しかけた。

「いや、悪い、あんまり予想外で笑いすぎた。自分の声が見えないと、こんなこともあるんだな。俺もリッダーシュと同じなのか?」

 否、とヤドゥカは心底嫌そうにため息をついたが、それでも律儀に答えた。

「リッダーシュは金だが、おぬしは銀……白銀だ。大理石のように白く堅い、かと思えば魚の腹のように光る。忌々しい」

「俺のせいじゃないぞ。だが少し安心した、おまえの目にもリッダーシュの声は金色に見えているんだな。同じ音を聞いても人によって見える色が違うのなら、ウルヴェーユの理論をもう一度考え直さなければならないところだった」

「何の理論だと?」

「ウルヴェーユ。いにしえのわざ、『詞を彩る法』だ。アルハーシュ様が名付けられた。おまえも『最初の人々』の遺跡や遺物を見たことがあるなら、あれが色と音を用いて何かの力を利用していることには気付いていたんじゃないか?」

 熱心に語る彼に対し、ヤドゥカはあくまで平静さを崩さず、距離を置いて耳を傾けている。その態度にシェイダールは苛立つよりも手応えを感じ、さらに力を込めた。

「……つまり、いにしえの人々は言葉で色と音を結びつけ、内なる路を通じて理の力を引き出していたんだ。彼らの言葉を解き明かすか、俺たちの言葉に置き換えられたら、同じことができるはずだ。俺やおまえが持っている『資質』を、王になるまでもなく使いこなせる。わずかな資質しか持たない者だって、路を開けば少しは力に手が届く。リッダーシュだって、俺たちと同じものが見えるようになる!」

 シェイダールは一気に畳みかけた。ヤドゥカは顔をしかめていたが、どうやら声が眩しいばかりではなかったらしい。論説が終わると、彼は呻きながら頭を振った。

「そうか。あの模擬試合は、私をおびき寄せておぬしの陣営に引き込むための茶番だったのだな。まんまと乗せられたか」

「まるっきりの茶番でもないのが悔しいけどな」シェイダールは苦笑いで応じる。「負けたのは本当だ。勝てると思って負けて見せるつもりが、簡単にやられたよ。おまえが鍛錬に加わってくれるなら心強い。――さあ、ここまで聞いてまだ帰るつもりにならないのなら、続きは腹を満たしてからにしよう」


 同じ頃、柘榴の宮のヴィルメの部屋にも来訪者があった。

「ラファーリィ様……」

 取るべき態度を決めかね、ヴィルメは泣き腫らした顔でつぶやく。一昨日、夫の不実をなじって追い出したことは知られているだろう。王妃を「あの女」呼ばわりしたことも。だのに、ラファーリィは微笑んでいた。宮のあるじらしく美しく装い、先日の悲嘆などなかったかのように華やかさを纏っている。その腕に赤子を抱いて。

「少しは落ち着きましたか、ヴィルメ。そなたが泣き暮れる間も、この子は乳を求めていたのですよ」

「あ……あ、シャニカ、あぁ」

 おろおろとヴィルメは立ち上がり、両手を差し伸べて我が子を取り返しに行く。

「ごめんね、ごめんねシャニカ……!」

 すっかり涸れたかに思われた涙が、またぽろぽろと頬を伝う。ヴィルメは娘を抱いて寝椅子に座り、優しくあやした。腹は空いていないようだ。目顔で王妃に問いかけると、ラファーリィは慈母のごとき微笑でうなずいた。

「乳母を呼びました。ですがもう、むなしく流れたものを嘆くのはおやめなさい」

 優しく突き放されたヴィルメはわななき、かっと目を見開いて王妃を睨みつけた。むろん小娘の恫喝にたじろぐ王妃ではない。あくまでもやんわりと諭す口調で続ける。

「そなたには愛しい娘が既にいるではありませんか。そなたの殿御はそなたを貧しい村に置き去りにせず、都にまで伴ってくれたではありませんか。でなければ今頃、乳飲み子を抱えて日の出から日暮れまで、休む間もなく働かねばならなかったのですよ? ……そのほうが良かったと思うなら、夫が他の女のもとへ通うことが許せないのなら、娘を置いてこの宮を去りなさい。帰りの旅に必要な路銀は都合しましょう」

 あんまりな言い草に、ヴィルメは思わず我を忘れて叫んだ。

「よくもぬけぬけと!」

 腕の中でシャニカがびくりと震え、激しく泣きだした。ただでさえ心身がどん底にあるヴィルメは持て余し、あやすのは諦めて娘を揺り籠に横たえる。

 ラファーリィは立ったまま、若い母親に憐れむまなざしを落とした。

「そなたにとって、この宮での決まりごとは受け入れがたいものでしょう。ですが次なる王たらん殿御に添うならば、飲み込まねばなりません。まだ気付いていないようだから教えましょう、シェイダール殿を部屋に招いているのはわたくしばかりではありませんよ」

 ぎょっ、とヴィルメは顔を上げた。

 現在『柘榴の宮』にいる妃は、数少ない。もとより王の世継を産むことが見込めないので、次の王を我が氏族から、という野望ゆえの婚姻がないからだ。どうしても姻戚関係を結びたい者だけが妃を差し出す。加えて、身体を損なって去る者も多い。

 それでも、ラファーリィの他に三人から四人は常におり、ヴィルメもその全員と顔を合わせたことはあった。あの内の誰が、と考えただけで嫉妬に頭の芯が痺れる。

「皆、早々と新王の寵を得ようと競っています。今の内ならば子を生すこともできるだろうと……そなたのシャニカを見て、欲をかいた者もおりましょうね。ですがシェイダール殿は、そなたとわたくしの他には通われていない。なぜだかわかりますか」

 ヴィルメはしばし沈黙し、ゆるゆると首を振った。もはや何を考える気力もない。うなだれた彼女に、王妃はゆっくりと噛んで含めるように言った。

「わたくしがドゥスガルの王族であり、最初に彼の君を招いたからです。現在ワシュアールにとって最も重要な相手は、わたくしの母国。なればこそ、他の誘いを断り、一介の村娘にすぎぬ妻のもとへ通うことができるのですよ」

「何よ……、感謝しろとでも言うんですか」

「必要ありません。ただ、学びなさい。王の妃であるとはどういうことかを。いずれシェイダール殿が王となられた暁には、新たに幾人もの妃を迎えられるでしょう。そなたへの愛が変わらずとも、王は妃らの意、引いては各国の意を汲まねばなりませぬ。それが耐えられぬのであれば、王宮から去ることです。取り返しのつかぬ深手を負う前に」

 ヴィルメは唇を噛みしめ、膝の上で両手を固く拳に握って答えない。

 王妃に言われたようなことは、とっくに納得したつもりだった。しかしそれでも自分は妻なのだから、最初の妻で子も産んだのだから、別格の存在であるはずだ――どこかでそう思い込んでいた。それが甘かったと、今さら現実を突きつけられる。

 田舎に帰れ。そんな侮辱的な言葉を、夫を奪った女から投げつけられるとは。その言葉が、これほどの痛撃を与えるものだとは。

 激情に震えるヴィルメを、ラファーリィは悲しげに見下ろして吐息を漏らす。

「このようなことを言うからとて、情のない女と思わないで欲しいのだけれど。一人の女としての幸せを、そなたならば追い求めてゆけるでしょう。未来を決めるのはそなたの心ひとつ。ですが……愛しき殿御が王となり、己を顧みてくれなくなろうとも、共におきなおうなとなるまで添い遂げられずとも、幾度身に宿した命を失うことになろうとも」

 王妃は抑えた声で数え上げてゆく。すべて彼女自身が味わい、煩悶し、諦めて、苦い涙と共に飲み下してきたことだ。

「それでも敢えて留まることを選ぶのならば。笑いなさい、ヴィルメ。笑って彼の君を迎え、尽くし、安らがせて差し上げなさい。それが『柘榴の宮』に住まう女のつとめです」

 言い終えると、王妃はしばし返事を待ってから、静かに踵を返して部屋を去った。清雅な残り香だけが、ふわりと風に舞った。


     *


 陽が沈むまで第二候補と語り合った翌日、シェイダールは王の私宮殿をおとなった。首尾良くいった報告に意気揚々と帳をくぐった彼は、思わぬものを目にしてぎくりと竦んだ。

「アルハーシュ様、どうされたんですか」

 いつもは玉座で客人を迎えるか、さもなくば自ら歩み寄って来る王が、今日は絨毯に寝そべっている。寝台で本格的に休んでいるわけではないが、今までになかったことだ。血相を変えて駆け寄ったシェイダールとリッダーシュに、王は苦笑して軽く手を振った。

「大事ない、少々だるいだけだ。久方ぶりの手合せで疲れたのだろう。やはり歳だな」

「やめてください。そんなことを言われたら、簡単に負かされた俺の立場がありません」

 シェイダールは大袈裟に憤慨して言い、絨毯に上がって王の傍らに膝をつく。アルハーシュは大儀そうに身を起こし、胡坐をかいた。

「まったくだな。そなたはもっと鍛錬が必要であるぞ。……だが今は別の話であろうな。第二候補を引き込めたか」

「はい。ヤドゥカもやっぱり、普段から音や声に色が見えていました。だからいずれ子を生せなくなるぞ、と脅したのが効きました」

 言葉尻で自虐的な笑みを閃かせたシェイダールに、アルハーシュが懸念顔をする。シェイダールは表情を取り繕い、私事など気にかけないふりで続けた。

「あいつも資質はかなり強いんでしょう。このまま儀式に備えて鍛錬して、力に目覚めたら、俺と同じになるかもしれない。ただ、そうなっても解決する見込みはあるんです。ウルヴェーユをよみがえらせ自在に操れるようになったら、資質を持つ誰もが、程度に差はあれ王と同じく理の力に触れられるようになる。男だけじゃなく、女もです」

 女、とシェイダールが口にした途端、アルハーシュは息を飲み、愕然と目を見開いた。王の内なる路が大きく揺れ、壁に打ち込まれた楔が応じて色を奏でる。それが、すぐそばで相対するシェイダールにも感じられた。王は額に手を当て、震える息を吐き出した。

「……そうであったか。なぜ今まで思い至らなんだか……己の不明が情けない。これほどの力を女の胎が受け止められぬのはやむなしと諦めていたが、そうではなかったのだな。今ならばわかる。必要なのは、女の内なる路を開くことだ。そなたの推論は正しい」

 新たな発見があったというのに喜びもなく、王は悲嘆に顔を覆う。シェイダールは痛ましげに沈黙し、王の動揺がおさまるのを待って、静かに言った。 

「だからヤドゥカも、ウルヴェーユに関しては協力すると確約しました。鉦のことだけでなく、領地にある祠を訪ねてみてはどうか、と提案されたんです。『最初の人々』の遺跡だという話ですが」

「なるほど。あそこならば都からも近いな。余もかつて視察した折には不可思議な感覚をおぼえたものだ。今のそなたが訪えば、得るものがあるやもしれぬ」

 うむ、とアルハーシュが気を取り直してうなずく。シェイダールは身を乗り出した。

「さすがに第一と第二が連れ立って行くわけにはいかないので、ひとまず俺とリッダーシュだけが向かいます。ヤドゥカが家の者を案内につけてくれるそうなので、道に迷う心配はないでしょう。三日ほど王宮を離れる許しを頂けますか」

「むろんだ。成果を心待ちにするとしよう」

 アルハーシュは快く許可してから、真顔になって声を低めた。

「ヤドゥカには、いずれ儀式を廃すると告げたのか」

「いいえ、そこまではまだ。でも察しているでしょうね」

 ヤドゥカは最後まで立場を明らかにしなかった。旗幟きしを窺わせる発言はひとつだけだ。

 ――そもそも私は、おぬしに継承の儀式は荷が重かろう、つとめを譲って引き下がるべきだ、と促しに来たのだが。まさか『王の力』のありようそのものを変えようとしているとは、思いもよらなんだ――

 肯定でも否定でもない慎重な言葉。状況次第では強いて王を殺さずとも良い、だが必要ならば従来のやり方を踏襲すべきだ、と考えているような。

 それを聞いてアルハーシュはしばし黙考し、ためらいながら口を開いた。

「シェイダールよ。思うに、やはりそなたは王位を継ぐべきだ」

「悪い冗談はよしてください」

 即座にシェイダールはそれを退けた。聞きたくないとばかり早口に続ける。

「まだウルヴェーユの謎は解き明かせていない。そうでなくとも、俺は二十歳にもならない小童で何の後ろ盾もないんだから、今すぐ王になったところで誰が従うんですか。そうなったら、何もかも中途半端で終わってしまう。ちょっと具合が悪いぐらいで、弱気にならないでください。さっさと引っ込んで楽しようなんて、考えが甘いですよ」

 王に向かってずけずけと遠慮のない言葉を並べ、怒ったように腕組みする。それこそ己自身の弱気を隠すためである、との自覚はなかった。アルハーシュは彼の内心を見抜きながらも、指摘はしなかった。ただ温かい苦笑をこぼしておどけた口調になる。

「なんと容赦のないことよ。だがヤドゥカを引き込めたなら、いずれショナグ家の後ろ盾を得られよう。余の王位も永遠ではない。今のうちに確かな味方を集めておくのだぞ」

 諭す声音は、巣立つ子に精一杯の忠告を贈ろうとする親のようだ。

「ご助言、胸に刻んでおきます。でも結局そんな心配が無用に終わるようにして見せますよ。楽しみにしていてください、すぐ支度して出発します」

 シェイダールは強いて楽観的に言い、不安を掻き立てられないうちに急いで退散した。


 ヤドゥカの家は代々すぐれた武人を輩出していることで知られ、都に隣接する土地を所領としている。過去には二人の王をも出しており、軍事方面における権勢は非常に強い。

 都を貫く川に沿って下流へ歩くこと半日ほど。街道沿いの旅籠で、屋敷から遣わされた男が待っていた。クドゥルと名乗ったその男はショナグ家に仕えて長く、かつてヤドゥカに招かれて屋敷を訪れた幼いリッダーシュの姿を覚えていた。

「いや、何年ぶりでありましょうな。一目で貴殿だとわかりましたが……凛々しい若者にご成長あそばされましたな」

 うむうむと懐かしそうに目を細められ、リッダーシュは照れたように苦笑する。

「昔の話はご容赦ください。クドゥル殿、ではここから直接祠へ向かうのですか」

「はい。ここからだと、屋敷にお越し頂いてから改めて祠へ向かうのは遠回りですので。なに、すぐ近くですよ。ご覧になってからでも、日暮れには屋敷に着くでしょう」

 クドゥルの先導で出発すると、じきに街道を外れて横道に入っていった。川から離れるにつれて樹木の数と種類が減り、棘の多い灌木の茂みが中心の乾いた景色になる。一部に水路で灌漑された畑も広がっているが、一行が向かうのはそちらではなかった。

 シェイダールは辺りを見回し、遠くに山羊の群を見付けて目蔭を差した。故郷ほどの田舎ではないが、馴染んだ土地へ戻ってきたような気分がする。

 道は少し先で何かを避けるように曲がり、農地へと向かっていた。かまわず視線をまっすぐに送ると、奇妙な木立がある。

「……あそこか?」

 問うでもなくシェイダールはつぶやいた。チリチリと肌が灼けるようなのは、傾いてもなお強い陽射しのせいか、それとも別のものか。耳を澄ませると微かに音色が届く。

「そうです。昔から『神の指先が触れた場所』と言われており、不思議な空気が満ちておりますので、土地の者も皆、畏れてあまり近付きません」

 クドゥルが説明し、天を仰いで災い避けの祈りをつぶやいた。シェイダールは顔をしかめたが、批判は腹にとどめておいた。

(神の指先、か。『最初の人々』が造ったものに過ぎないのにな)

 だが畏れはわからなくもない。わずかでも『王の資質』を持つなら、己の内に働きかけてくるこの気配には、落ち着かない心地がするだろう。

 微かな音の元へと足を進める。本道から外れ、消えかけの細い道を辿ってゆく。蜂蜜色の光が一帯を染め、この世ならざるどこかへ連れ去られそうな雰囲気を醸していた。辺りに人気はないが、リッダーシュが緊張して剣の柄頭に手を置いた。

 やがて遂に、こんもりした木立の前に着く。低くなった太陽は遮られ、暗がりが枝の下に凝っている。シェイダールは深く息を飲み、目を見開いた。

 周囲の景色にそぐわぬ不可思議な木立を、六本の巨大な石柱が囲んでいる。大人が二人がかりで手を回しても指先が触れそうにない太さだ。梁を渡せる造りではないので、屋根は最初からなかったのだろう。かつては彩色されていたようだが、今残っているのは、しっかりと象嵌された宝石だけ。六色が順番を変えて埋められ、溝でつながれている。対応する六の音が調べを奏で、内なる路に反響した。

「これは……」

 シェイダールは絶句し、呆然と立ち尽くした。

 深い穴から、水が湧き出す。その源へ、暗がりの底へと降りてゆく。

 白、赤、緑、青、黄、紫……一音一音、階段を下るように、扉を開くように。

《……――……》

 声が響き、幾度も幾度もこだまする。聞いたことのない、知らない言葉。だがそれが揺れ、こだまが重なり合って少しずつ形を変えてことばとなり、こちらへ迫って来る。

《……ラヌ》

 シェイダールは大きく喘ぎ、のけぞって胸を押さえた。見えない楔が打ち込まれたと、はっきり知覚する。

《ナラヌ》

 きわめて強い、絶対の禁。六色の糸が縒り合わされて太い綱となり、木立の内と外を完全に遮断している。にもかかわらず、シェイダールの中ではかつてない激流が暴れ、外へ溢れ出さんと縁までせり上がりつつあった。引き合っているのだ。

(駄目だ、ここは駄目だ)

 逃げなければ、離れなければ。ここには……

 ――不意に、目の前の光景が変わった。泥土に覆われた暗い世界が見渡す限り広がり、所々に小さな光が灯っている。ちらちらとせわしなくうごめくその光は、蟻の巣のようだ。身体の感覚はない。宙に漂うただの視点となって世界を見渡している。だが己の足元――感覚的に下にある部分が、非常に薄くなっているのが感じられた。黒い泥土に穴が開きかけている。そのすぐ下で、ふつふつとたぎる光輝。強く、重く、密な力。

(世界の根だ)

 ここは『理』が、あまりにも地表に近いところへ上がっている。恐ろしい。圧倒的な力を感じ、おののきながらも、彼は魅せられていた。なんと素晴らしく凄まじい力か。これが、原初の世界を創り上げたものなのか。

(触れたい)

 わずかでいい、指先、いや爪の先だけでいい、その力に――

「やめろ!」

 黄金の槍が幻視を打ち砕く。びくっと震えて我に返ったシェイダールは、右も左もわからないままリッダーシュにぶつかられ、たたらを踏む。

「っと……、えっ!?」

 振り返ってぎょっとする。リッダーシュが己の剣でクドゥルの刃を受けていたのだ。

「逃げろシェイダール!」

 叫びざま、刃を跳ね返す。クドゥルは素早く横に逃れ、そのままシェイダールに向かってきた。リッダーシュが阻み、再び刃の噛み合う音が響く。目の前で激しく渡り合う二人を、シェイダールは凍ったように見つめていた。

「刃を引かれよ、リッダーシュ殿! 若様が王になられた暁には、貴殿の栄達も約束される! 何の後ろ盾も持たぬ卑しい者が、王の力を継ぐべきではない!」

「そちらこそ引け! 神聖なる継承をつまらぬ欲で穢すな!」

「真に王国のためを思えばこそ!」

 怒鳴りながらもクドゥルは、隙あらば第一候補を刺し貫かんと狙う。何度も殺意の視線を向けられたシェイダールの内で、対抗するように鮮やかな色が弾けた。

 駄目だ。唇が声なき一言を紡いだが、より強い《詞》がそれを押し流して溢れた。

「《ならぬ》」

 瞬間的に手をもたげ、クドゥルを見据えるまなざしを追ってぴたりと指差す。背後で六柱が共鳴し、色の渦が伸ばした腕を取り巻いてはしった。直後、

「ごっ、グブュッ!」

 奇怪な泡立つ声を発し、クドゥルは膝からくずおれた。一瞬でその頭はひしゃげ、腹にも背にも拳大の穴が開き、手足はねじれて干からびる。一方でシェイダールは我が身をきつく抱いて、これ以上の変化を引き起こすまいと歯を食いしばっていた。

(この力は……駄目だ、外に出しては駄目だ)

 封じなければ。己の内に打たれた楔を意識し、今もなお絶えず働きかけてくる六色を響かせる。鎮まれ、と念じながら。

(鎮まれ、止まれ、静かに)

 言葉を変え、遠くから響くこだまに重ね合わせて《詞》に変えてゆく。やがて複数の楽器を調律して合わせるように、こだまの波がぴたりと自身の言葉に重なった。

「《鎮まれ》」

 六音の中でも一番低く透徹な白を意識に載せて声を発すると、ざわめきがすうっと引いて凪いでいった。深く息を吐いて、思わずその場にぺたんと座り込む。

 すぐには立ち上がる力も出ず、シェイダールはやるせなく天を仰いだ。黒々とした木立の影に切り取られた空は、眩しい緋色に燃えている。夕風がそよいだが、気分が良くなるどころか強烈な悪臭をまともに吸い込んでしまった。手で口と鼻を覆い、慌てて死体から離れる。己がこうしたのだという悔悟よりも、とにかく不快がまさった。

 リッダーシュも嫌悪感を丸出しにして、あるじの傍らに立った。

「これは……なんと言えば良いのか。凄まじいな」

「正直、俺も何がなんだかわからん。いや、自分が何をやったのかはわかってるんだが」

 シェイダールは唸り、眉間を揉んだ。あまりにも強い禁止の《詞》が、クドゥルの生命を、あるいは存在さえをも、禁じてしまったのだろう。吐き気を堪えている彼に、リッダーシュが水筒を渡し、困惑しつつ言った。

「どうするかな。こんなざまの亡骸を人に見られるわけにはいかないが、埋めようにも穴掘りの道具はないし」

「放っておくしかないだろう。野犬や烏に食われなければ、誰かを呼んでくるまでの間、ここでおとなしく待っていてくれるさ。どう言ってごまかすかが難しいけどな」

「そもそも、誰を呼べば良いのか、それも問題だ。ヤドゥカ殿に命じられていたとは思いたくないが、いずれにしてもショナグ家の者は皆、敵かもしれない」

「……やっぱり、そうだよな」

 同意してシェイダールはよろよろと立ち、辺りを見渡した。まったく人影がない。ここで誰が命を落とそうと、何があったかを目にする第三者はいないだろう。そんな所へのこのこ出向いてきた第一候補を、善意と親切で遇してくれる者ばかりであるはずがない。

 正当な自己防衛であることに疑いはないが、罪悪感の欠片が胸を刺した。

(もっと用心すべきだった)

 襲われた場所がここでなければ、生かしておけたか、せめて少しはましな死を与えることができたろう。ショナグ家に根回しする時間を惜しまなければ、そもそも命を狙われなかったろうに。

(ヤドゥカが命じたんじゃないのは確かだ。俺に刃を向けたら、リッダーシュが盾になるのはわかりきってるんだから。あいつを王にしたくてたまらない誰かの差し金か、それともあいつに心酔してる馬鹿の独断と暴走か)

 幸か不幸か、それ以上あれこれ考える必要はなくなった。木立の向こう側に、ぽつんと明かりが見えたのだ。松明らしいそれが、ゆらゆら揺れながら近付いてくる。

「人が来る。多分、こいつの仲間だ」

 シェイダールがささやくと、リッダーシュも同じものを見付けて警戒した。

 空は柔らかな釣鐘草の色に染まり、辺りは薄暗くなりつつある。そんな中に佇む二人の影を見付けたらしく、遠慮がちな声が呼ばわった。

「クドゥル様? 到着が遅いので、お迎えに上がりました。明かりがご入り用でしょう」

 言葉遣いからして、屋敷の下男らしい。リッダーシュが平静に応じた。

「ありがたい。クドゥル殿はこちらだ、来てくれ」

 男は素直に二人のもとへやって来た。そして、目当ての人物がおらず異臭がすることに不審顔をしつつ、辺りを見回す。リッダーシュはさりげなくそばへ移動し、それから地面を指し示してやった。

「そこだ」

「え……、わぁぁっ!?」

 一拍置いて悲鳴を上げ、男は両手を振り回して後ずさった。放り出された松明を、リッダーシュが素早く掴む。

「クドゥル殿は禁忌を冒した。神々の怒りに触れたのだ。そなたは屋敷に戻り、埋葬の人手を連れて来い」

「あ、ああ、うぁ……、ひゃあぁー!」

 聞いているのか、いないのか。男はがくがく震えながら絶叫し、来た道を一散に駆け戻ってしまった。リッダーシュは頭を振り、シェイダールに向き直った。

「やれやれ。とりあえず、我々も街道まで戻ろう。ここで待っていても、ろくなことになるまい。幸い明かりも手に入ったことだし」

「そうだな。俺たちを埋葬するために戻って来るかもしれないから、さっさと逃げよう。この祠は気になるが、またの機会にすればいいさ。こんな恐ろしい『神罰』が下るとなったら、誰も不用意に近付かないだろう」

 シェイダールは皮肉で応じ、踵を返して歩きだした。

 六色六音の残響がまだ消えない。改めて魂に通ずる路を意識すると、小さな光が澄んだ音を震わせながら泉のように溢れてきた。心地良い。白、赤、緑、青、黄、紫。順に音を口ずさむ。呼応して、壁に小さなしるしが刻まれていく。遙か深みへと螺旋を描いて。

(ゆっくり、少しずつだ)

 しるしのひとつひとつを愛でるように心で捉え、音を繰り返す。

 暮れなずむ野に、詞のない歌が静かにひそやかに広がっていく。藍色の空に瞬く星だけがそれを聞いていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] シェイダールとリッダーシュがすっかりコンビになってるのが今更ながら実感してきました。 理の描写が好きです。空気感がいいです。 なんでこんな面白いんですか???
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