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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝番外
57/126

功罪

 新王即位から二年。かつて世嗣の警護隊長だったヤドゥカは、王宮近衛隊の隊長付副官となり、職務経験を積むのに忙しい毎日を送っていた。そんな中でも折々は屋敷に帰らねばならない。都に近いから助かるが、近いがゆえの二重生活でもあるわけで、なかなか悩ましいところだ。

 とはいえ当人は頻繁な往復を苦にしておらず、留守を預かる叔父や母への挨拶を済ませると、平常の態度で妻の元を訪った。

 庭に突き出た建物の角、窓が多くて明るい部屋に入ると、微かな蜜色を帯びた声が出迎える。

「お帰りなさいませ、殿」

 いそいそと笑顔で歩み寄る幼妻のトゥリシャは、前回の帰宅時と同じく、小柄で細くて、触れるのがためらわれる小鳥のようだ。ヤドゥカは武骨な手を伸ばし、そっと優しく金色の髪を撫でると、喜びにほころんだ唇に軽く接吻する。夫婦らしい触れ合いはそれだけだった。

 トゥリシャは夫が身を離した後、いつものように一呼吸だけ何かを待つような風情を見せたが、相変わらずと察すると、こだわりなく素直に雰囲気を変えた。

「飲み物を運ばせましょうか、それともわたしの自慢を聞いてくださいます?」

「自慢?」

「ええ、ほら、ご覧になって」

 こっちこっち、とトゥリシャが細い指で夫の手を引いて、窓際のテーブルへ誘う。いくつもの小皿が並び、絵の具が調合されていた。それぞれが内に秘める音を感じ取り、ヤドゥカは感嘆の声を漏らす。トゥリシャはにっこりして、華奢な鉦をそっと鳴らした。呼応する色が共鳴し、澄んだ色彩の波紋が広がる。

 鉦と絵の具で音色を操り、路の標を辿ってゆく。妻の手法にヤドゥカは内心舌を巻きつつ、己も意識を重ねて共に深淵へ降りていった。

 しばし共に色の海に遊ぶうち、いくつかの標が熱と光を帯びて脈動し、詞を求めはじめる。路にこだまするいにしえの声を拾い、想いを重ねて読み解く――

 ややあって、具体的な成果はないものの路を探索した手応えを得て、二人は共鳴を静めた。トゥリシャが胸に手を当てて、ほっと深く息をつく。

「殿。どうかシェイダール様に、わたしからの感謝を重ねてお伝えくださいましね」

「ああ」

 ヤドゥカは短く応じてうなずいた。

 何度も、何度も。ウルヴェーユに触れるたび、トゥリシャはこの神秘のわざをもたらした王に感謝する。

 それだけ彼女にとって、このわざが救いだったのだ。


 トゥリシャは生まれつき、目があまり良くなかった。

 そのことをヤドゥカが知ったのは、早々に婚礼が済んで、妻をショナグ家に迎え入れた後のことだった。

 最初はただぼんやりしているのか、慣れない環境で緊張しているのか、と思っていた。だがしばらく共に過ごし、そうではないと気付いたのだ。

 見ていない、注意が足りない、のではなく……そもそも見えていないのだ、と。

 悟られたと知ってトゥリシャは怯えた。この結婚は、どうしてもショナグ家と縁戚関係を結びたい彼女の家の側から、是非にと平身低頭してお願いしたものだ。子宝に恵まれぬ家で、娘はトゥリシャ一人。であるから、彼女は両親から懇々と説き聞かされて嫁いだ。

 良いか、必ず若様の気に入られるようにつとめるのだぞ。そなたはまだ子を生すこともできぬ身ゆえ、代わりに閨のお相手をつとめる侍女をつける。だがそなた自身も若様の心を掴み、我が家との誼を取り持つのだ……

 それが叶わず追い出されたとなれば、トゥリシャにはもう、まっとうに生きてゆくすべがない。一家に益をもたらす娘としての人生は潰え、屍となって息を潜め身を隠して露命をつなぐばかりだ。

 だから必死で、少しずつ視界がぼやけていくのを、記憶と勘と嘘でごまかした。どこも悪くない、離婚の理由となる瑕疵はないと装って。

 その偽りを、ヤドゥカは厳しく難じた。

「なぜ早く告げなかった。知っていたら、こんな薄暗い部屋には置かなかったものを」

 トゥリシャが驚いたことに、ショナグ家の若様は離婚を考えるそぶりさえ見せなかった。肌に触れたこともない妻を屋敷で一番明るい部屋に移し、つまずいたり踏んだりして怪我をするような物を片付けさせ、余分の召使をつけ、医者を探した。

 びっくりして、良いのですかと尋ねた彼女に、ヤドゥカは太い眉を上げると、妻を大切にして何が悪いのだ、と問い返したのだった。


 だが彼の心遣いもむなしく、じわじわとトゥリシャの視力は失われていった。物の輪郭はぼやけ、世界が日々それとわからぬほどゆっくりと暗くなってゆく。

 闇が待つばかりの未来から彼女を救ったのは、ウルヴェーユだった。

 初めて路を開いた日、トゥリシャはすっかり忘れていた鮮やかな色彩を再び目にして、感激のあまり落涙した。通常の視力で見ているわけではない。だが、確かにそこに「色」がある。しかもかつてなく鮮明に、美しく。

 ――ああ、赤だ。これが赤、そして黄、あれは緑。わかる、色が視える!

 それから彼女の生活は一変した。曖昧で頼りなかった事物が色と音の助けを得て確かなものとなり、見えなくなる恐怖から解放された心はすっかりのびやかに明るくなった。

 それだけではない。路を探り標を辿っているうちに、視力の衰えに歯止めがかかったのだ。さらに、わずかながら回復の兆しまであらわれた。おそらく標のどれかが治癒のわざを秘めているのだろう。正しく読み解けば、すっかり正常にまでなるかもしれない。

 希望を取り戻したトゥリシャは、輝く笑顔と積極的な言動をするようになり、意図せずして夫の心をしっかり射止めることにも成功したのだった。

 もう実家に追い返される心配はないのだ。安心した彼女は、夫が触れてくれる日を待ち焦がれるようになった。去年には血の通いも始まったし、夫と共にウルヴェーユを扱う力も身に着けたのだから、一人前の女になったと自負しても良いのではないか、と。


 残念ながら、ヤドゥカは今回も妻と同衾しなかった。

 代わりに相手をつとめた侍女は、呆れてたしなめた。

「いつまでもこのままでは、将来に障ります。どうぞ次こそは、本来あるべき方とお過ごしください」

「そう願うなら、そなたがなんとかしてやってくれ」

 ヤドゥカは渋面になって唸る。これには侍女も困り顔で口をつぐんだ。何度も交わされてきたやりとりだ。気詰まりな沈黙の末、ヤドゥカがため息をついた。

「せめてもう少し……あと一年、いや二年もあれば変わるだろうか」

「近頃は以前よりも、たくさん召し上がっておいでですから。きっと」

 侍女は肯定したが、声音は曖昧だった。トゥリシャが十五歳になった時、早く名実ともに妻にしてやってくれと侍女にせっつかれたヤドゥカは、こう答えたのだ。

 ――あんな細い身体を抱いたら、圧し潰してしまう。ましてや子を産ませようものなら、ふたつに裂けて死んでしまうではないか――

 何を大袈裟な、と一蹴するには、実際あまりにトゥリシャは華奢だった。ヤドゥカが自虐的に、牡牛が小鳥にのしかかるようなものだ、と喩えたのも笑えない。

 彼のそうした懸念や真心を、侍女がトゥリシャに言葉を尽くして伝えているおかげで、夫婦仲は今のところ円満なのがせめてもの幸いだ。


 三日ほど滞在して庶務を片付け、ヤドゥカは妻に見送られて屋敷を後にした。

 感謝と愛情の溢れる笑みで手を振るトゥリシャに、彼はひとつうなずきを返して、馬の腹を蹴る。街の様子を眺めながら、ゆっくりと歩を進めた。

 別れ際にも、どうぞ王によろしくと言付けられて、ヤドゥカはいささか複雑な気分だった。もしやトゥリシャは、シェイダールが偉大な力を備えているばかりでなく、寛大で慈悲深い聖人かのように誤解しているのではあるまいか。

(感謝の念は私も劣らぬが)

 そう、彼には本当に感謝している。この国にもたらされた激変の是非については横に置き、一個人として。

 トゥリシャの声が淡い蜜色にきらめくのを捉えられるようになったのも、路の存在を自覚した後だ。そしてまた彼がいなければ、『王の力』のなんたるかもわからぬまま、あの細い身体に無理を強いて、妻子を共に失っていたかもしれない。

 何よりも、トゥリシャの笑顔――自分には未来があるという、確かな希望によって輝く笑みのまぶしさ!

 思い返しただけで、嘆息が漏れる。あんな幸福を得られたことは、いくら感謝しても足りない。が、それはそれ。

(あまり幻滅させるような話は聞かせられんな)

 やれやれと不敬なことを考えたところへ、耳障りな声が届いた。物思いから覚めたヤドゥカが振り向くと、見覚えのある少年と山羊飼いの男が目に入った。

(あれは……屋敷の)

 下働きの少年ではなかったか。手綱を引いて止まり、眉を寄せる。若殿様が見ているのに気付かず、少年は山羊飼いに向かって尊大に言い放った。

「へっ、なんにも知らねえんだな! これからは俺たちの時代なの!」

 どうやら屋敷でウルヴェーユについて聞きかじり、かつ、トゥリシャはじめ路を開かれた貴人に仕えるうち、少しばかり色が見えるようになったらしい。得意満面に自慢し、魯鈍な山羊飼いを嘲笑している。小童に見下された男がどんどん険しい顔になり、山羊追いの笞を握り締めるのも目に入っていない。

(危ういな。白石を用いなければ安全とも限らなんだか。それにしても)

 ああいうさまを主君が目にしたら、きっと――

「《伏せよ》」

「ぎゃん!?」

 見透かしたように紫紺の矢が飛来し、少年がべしゃっと倒れ伏した。ヤドゥカはぎょっとなって、声のした方を振り返る。何かの間違いであってくれたら良かったが、確かにシェイダール本人が、家並みの間からいつもの大股でずかずかと現れた。ちょっと裕福なそこらの若様のような格好で、お供もつけずに一人で。

(リッダーシュは何をしているのだ)

 王の後方を見やると、金茶の髪の青年が馬二頭の手綱を持ち、困り果てていた。あるじを追いかけたいのに、片方の馬がその場に踏ん張って動かないのだ。

 その間にシェイダールは、少年の前に仁王立ちして説教をくらわせていた。

「調子に乗るな!」

 路を開かれてもいないのにウルヴェーユを知った気になるな、そもそも優劣を競うものではない、等々。

「悔しいか。俺を殴りたいだろう。おまえがこの男にしたのも同じことだ。ウルヴェーユを知らずとも、この男は手にした笞で、山羊のかわりにおまえを打てるんだぞ。わずかな優位を威張り散らす前に、立場と力量を見極めろ。要するにおまえは今のところ、口だけの無力な小僧だってことだ」

 容赦なくやり込めてから、「《解けよ》」と自由にしてやる。少年が顔を真っ赤にして起き上がると、シェイダールはくるりとヤドゥカを振り向いた。

「ヤドゥカ! おまえの屋敷の奴だろう、違うか?」

 気付かれているとは思わなかったので、ヤドゥカは驚きながら下馬し、あるじのもとへ向かう。少年はぎょっとなって「若様」とつぶやき、大急ぎで一歩下がって低頭した。

「確かに我が家の者だが……というか、なぜここに。いやそれよりも、子供相手に大人気ないとは思わぬか」

「子供だからこそだ。成長が早いぶん、見過ごして放置したらどうなるかわからん。屋敷に住み込みの者は皆、おまえや奥方の影響を受けるだろう。下働きの一人までしっかり教育してやらないと、中途半端な認識のままウルヴェーユを使いだしたら、余計な事故や揉め事を引き起こすぞ」

 二人のやりとりを、少年は目を白黒させながら聞いている。シェイダールはもはやそちらを見ておらず、ヤドゥカを睨んでいた。適当な言い逃れを許さない厳しい表情は、友人に対するものではなく、王からショナグ家全体に向けられたものだ。ヤドゥカは姿勢を正して一礼した。

「御賢察、畏れ入ります。幼子の一人まで目配りするよう命じましょう。それはそれとして、我が妻トゥリシャより、シェイダール様に心からの感謝を」

 ヤドゥカが改めて臣従の礼を取ると、途端にシェイダールは目元をやわらげた。

「ああ、奥方か。具合はどうだった」

「また少し快方に向かったようでございます」

「そうか。それは良かった……本当に」

 ほっ、と心から安堵した吐息。喜びを噛みしめるように小さく何度もうなずく。

 あるじのそんな様子に、ヤドゥカもやや目を細めた。ウルヴェーユによって人が救われることが、彼にとってもまた救いなのだ。王を支える者は皆、それを知っている。

 不意にシェイダールは、「おい」と下働きの少年を振り返った。びくっと竦んで縮み上がった少年に、シェイダールは挑発するような笑みを見せる。

「おまえの言う通り、未来はおまえたちのものだ。だったら、誰もが病に苦しむことなく笑って過ごせる時代にして見せろ。その上で初めて『俺たちの時代』を誇るがいい。何もしてないくせに一部の連中が威張りくさってその他大勢を踏みつけるようじゃ、神殿の爺どもが幅を利かせていた昔と変わらないぞ」

 無茶な要求をされた少年は、返答に窮して冷や汗をかくばかり。なんだ気概のない、とシェイダールが鼻白んだところで、ようやく馬を連れてリッダーシュがやって来た。

「そうあけすけに仰せられては答えに困りましょう、我が君。まったく……馬に足止めさせておいて、一人で飛び出さないでくれ。ヤドゥカ殿がいらしたから良かったものの」

「ご苦労だな、リッダーシュ。ようやく王を乗せられる馬が見付かって、良かったのか悪かったのか」

「まことに」

 リッダーシュがげんなり頭を振る。シェイダールは悪びれず、笑って従者から手綱を受け取ると、愛馬の首をぽんぽんと叩いた。

「よくやったぞ、おまえはちゃんと言う事を聞いてくれるんだよな。俺の気持ちをわかってくれるのはおまえだけだよ、相棒」

 苦手だった乗馬を克服してご機嫌のまま、調子づいて馬をべた褒めする。

 えへん、とリッダーシュが咳払いして控えめに抗議したが、シェイダールはむしろ悪戯小僧のようににんまりした。

「馬にしてやられて悔しいか?」

「……なるほど。常に王の御心にかなうよう気を配り目を配り誠心誠意お仕えして参りましたが、このリッダーシュでは不充分、否、むしろ邪魔だと仰せられる」

 不吉な黒雲がわきあがり、遠雷がどこからか響くような錯覚。しまった、とシェイダールが笑みを消した時には既に遅し。リッダーシュはふいっと背を向け、無言で自分の馬にまたがった。

「おい、冗談だ、待てよリッダーシュ! おいっ!」

 あるじが焦って呼び止めるのも聞かず、さっさと先に行ってしまう。ああもう、とシェイダールも急いで鞍に跳び乗った。ヤドゥカは呆れるしかなかった。

「仕方ない、私もお供しよう。そもそもおぬしら、どこへ行くつもりなのだ」

「ああ、例の祠だ。六音の詞の原型を読み解けたから、もう一度しっかり封印をしておくべきだろうと……リッダーシュ! 悪かった、待てったら!」

 話している間にも友人がどんどん遠ざかるので、シェイダールは慌てて後を追った。まるで子供のような王を見送り、ヤドゥカはなんとも言えない気分で騎乗する。混乱した様子の少年を見下ろして、早く屋敷に帰れ、とだけ命じると馬首を巡らせた。

 まったく、とんだ寄り道だ。

「あれで王なのだからな……」

 口の中でつぶやき、少し行って思い直す。

(いや、あれだからこそ、か)

 並外れて一途に頑なに、濁りも揺らぎもせず意志を貫いた結果、すべてを変えたのだ。溜め込んだ怒りと恨み、理不尽に対する憎悪は、それこそ子供じみた純粋さとも言える。

 救いを求め、他者の幸福を願い、今なおたゆまず突き進む彼のおかげで、トゥリシャには希望がもたらされ、同時にあの浅慮な少年が象徴する不穏の種も芽吹いた。

(功罪は、後の世が裁くだろう)

 今はただ、己が受けた恩に感謝し報い、この手の届く限り彼を守り助けるまで。

「――はッ!」

 一声かけ、馬を走らせる。これは寄り道ではない。気付いて口の端がわずかに上がった。

 王の傍らこそが、己の居るべき場所なのだ。



2016.1.11


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