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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝を折りて
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三章(逢瀬・明日への希望)


 庭園を渡り、白い石の廊下を歩くうち、別種の緊張が高まってきた。

 いつの間にか仄かに甘い花のような香りが空気を支配している。整然と並ぶ赤紫の柱。入口を守る衛兵は、短槍と短剣を帯びた女である。ここでリッダーシュは剣を外して預けた。無用心ではないかとシェイダールは眉をひそめたが、彼は当然の顔で説明した。

「この宮には一切の武器を持ち込んではならない決まりだ。王であってもな。何人たりとも女たちを脅かしてはならない。妃であってもなくても、この宮の女は決して男によって虐げられぬよう守られる。さればこそ、『柘榴の宮』へ入ることはすぐれた特権なのだ」

「それじゃあ、女に刺されたらどうするんだ」

「刺されるような恨みを買うな、と言いたいところだが……安心しろ、ここでは召使らが目を光らせている。昔から、王が通ってくれぬとあてつけに自傷する妃がいるとかで、面倒事を防ぐために刃物や針などの扱いには慎重なのだそうだ」

「勘弁してくれ」

 シェイダールはげんなりして呻き、そんな所でヴィルメは大丈夫なのだろうかと一抹の不安をおぼえて周囲を見回した。

 帳をくぐった内には一行を除いて男の姿はなく、きらびやかな内装に繊細な優美さが際立っていた。帳や掛け布、飾り紐の色合い、刺繍の柄、柱に象嵌された宝石の模様。何もかもが色香を漂わせ、先導する召使の背中までがなまめかしい。

 シェイダールは久方ぶりに異性の存在を強く意識し、鼓動が速まるのを感じた。思い返せば王宮に来て以来、いつの間にやら男同士の気安さにすっかり馴染んでいた。村にいる頃は話し相手といったら母とヴィルメだけだったのに、このひと月はまともに女と会話していない。

(何を大袈裟に身構えているんだ、ヴィルメの様子を見に行くだけじゃないか)

 妙に湿ってきた掌をさりげなく服にこすりつけ、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

 三人が通された一室は、黄色い帳がかかっていた。あまり広くはなかったが、毛足の長い絨毯には肘置きや酒器や木の実の器などが用意され、甘すぎない素朴な香が焚かれて、もてなしの準備が調えられている。

 そして、奥にある寝椅子に腰かけて待っていたのは――

「……ヴィルメ?」

 間の抜けた声がシェイダールの口からこぼれた。彼の知っている少女とはまるで別人のようだった。柔らかな絹と麻のゆったりした服は、基調の黄色に朱や緋色を重ねて明るい花のよう。落ち葉色の波打つ髪は両脇を編んで結い上げ、銀の簪を挿している。唇と頬には程よい色合いの紅、首には緑柱玉をあしらった金の細鎖。装いだけでなく、肌の色艶も格段に良くなっている。ふっくらした唇が震え、驚きと戸惑いの声を発した。

「シェイ、ダール……なの?」

 小さな声にちりばめられた若葉の色が、村の記憶を呼び起こした。白茶けた大地、建物もろくろくない田舎村の風景。ああ、やはりヴィルメだ。シェイダールはほっとして、根付きかけていた足を床から引き抜いて進み出る。自然と笑みが浮かんだ。

「見違えた。しばらくぶりだな、身体の具合はどうだ?」

 話しかけられてやっと、ヴィルメも我に返って立ち上がった。無理もない、彼女がすっかり美しく羽化したのと同様に、シェイダールもまた変貌していたのだから。体つきはまだ細いが以前よりも逞しくなり、険しいばかりだった顔つきも幾分やわらいで、おまけに今は召使らが腕によりをかけて磨いた装いである。

 王宮に来てからほとんど『柘榴の宮』を出ていない彼女にとって、その姿は衝撃的だった。せっかく優雅な振る舞いを特訓したというのに、ぎこちなく奇妙なお辞儀をしたきり、挨拶どころか声も出せずに竦んでしまう。そんな妻に歩み寄り、シェイダールはそっと肩を抱いた。途端、灰色の双眸が潤み、ほろりと涙がこぼれ落ちた。

「ヴィルメ? おい、大丈夫か」

 焦ってシェイダールが顔を覗き込む。村にいた頃と変わらない口調につられ、ヴィルメはよそ行きの仮面をくしゃりと崩して笑った。

「ご、ごめ……びっくり、して。だって、こんな……こんなの、まるで、夢みたい。シェイダール、本当にあんたなのね。夢じゃないよね、ちゃんとここにいるのよね」

 確かめるように指先で頬に触れ、まなざしで縋りつく。ヴィルメの心細さを、シェイダールは固い抱擁で受け止めた。

「本当に俺だよ。ちゃんとこうして、ここにいるだろ。……ずっと会いに来られなくて悪かった。これからはもっと頻繁に顔を出すよ」

「うん、……うん。ごめんね、あたし、みっともないね」

 ヴィルメは身体を離して涙を拭い、改めて、さっきよりは優雅にお辞儀をする。

「おいでをお待ちしておりました、我が君」

「いいよ、今さら」

 思わずシェイダールは失笑し、せっかく練習したのにと不満そうに睨まれて、逃げるように連れを振り返った。

「そうだ。おまえは会うの、初めてだったよな。こいつはリッダーシュ。俺の従者……という名目の小姑だ」

 ふざけた紹介にリッダーシュは苦笑いしたものの、進み出て一揖した。

「お初にお目にかかります、奥方様。第一候補シェイダール殿の従者をつとめるリッダーシュと申します。どうぞお見知り置きください」

 すらすらと述べられた定型の挨拶に対し、返事を予習していなかったヴィルメは言葉に詰まってうろたえる。そこへジョルハイが助け舟を出した。

「私は自己紹介しなくてもいいかな? やあヴィルメ、久しぶり。元気そうで良かった」

「あ、お使者様」

 見知った顔に出会って、ヴィルメはあからさまに安堵した。シェイダールの機嫌がやや斜めに傾いたのをよそに、ジョルハイはにこやかに続ける。

「もう使者の役目は終わったから、名前で呼んでくれたらいい。今は第一候補の御付祭司として、この頑固なくせに頭が良くて始末の悪い君の旦那様を、ちょっとでも素直にするべく、日々不毛な努力を続けているよ」

 苦虫を噛み潰したシェイダールの横で、ヴィルメはくすくす笑いをこぼした。ジョルハイはおどけて大仰な礼をする。

「奥方様のお役に立てることがありましたら、いつでもお呼び付けください。このジョルハイ、何を置いても馳せ参じましょう。……まぁ実際は、あまり頻繁にここへ立ち入るのは外聞が良くないがね。しかし御夫君には頼みにくいことがあれば、遠慮なく私に言付けてくれたまえ。たとえば、お腹の子が無事に生まれるよう祝福して欲しい、だとか」

 自然な流れで持ち出された話題に、ヴィルメはびくりとして夫の顔色を窺った。そこにあったのは昔ながらの渋面である。

「そういう目的でついて来たのか」

 唸ったシェイダールに対し、ジョルハイは真顔になって応酬した。

「君の信条は君のものだ。しかし、お腹に赤子を抱えて不安と闘っている彼女に、神などいないから祝福も祈りも無駄だ、などと言って何の役に立つ? 君は妻女を独り置き去りにして、心の支えすら与えないつもりか」

 厳しく糾弾され、シェイダールは唇を噛んで顔を背ける。そこへ、えへんと咳払いが割り込んだ。一同が振り向くと、奥に控えていた女が進み出るところだった。実用一辺倒の服、肩の上で短く切った髪、化粧気のない顔。すべてこの宮に似つかわしくない。

「祭司の言う通りじゃ。命懸けで子を産む女には、ありとあらゆる支えが必要になる。むろんわしとて力を尽くすが、それでも神々の加護は欲しい」

「あなたは?」

 シェイダールが不審げに問うと、女は負けず劣らず鋭いまなざしを返した。

「医師のダハエじゃ。この宮に住まう者の身体については、わしに一任されておる」

 途端、シェイダールの表情から険が取れた。ダハエが眉を上げる間もなく、彼は両手を袖に入れて胸の前で組み、深々と頭を下げる臣従の礼をとった。

「ヴィルメをお願いします」

 思いがけず誠実で真摯な態度を取られ、ダハエは拍子抜けしてしまった。しげしげと少年を眺め、それから頬を染めているその妻を見やり、ふむとうなずく。

「……まあ良い。わしが立ち会うておるのは、むろん言われるまでもなく、この娘の身体に責任があるからじゃ。祭司よ、祝福を授けてやるがええ。女神マヌハの御加護を」

「あっ、い、いいんです!」

 ヴィルメが頓狂な声を上げ、女医師の言葉を遮った。事情を知るリッダーシュが天を仰ぎ、ジョルハイも己の失策に気付いてばつが悪そうにシェイダールを盗み見る。少年は血が滲むほど強く唇を噛み、両手を拳に握って我が身に押し付けていた。

「何が良いのじゃ、祝福があればそなたも安心じゃろう」

「いいえ! ダハエ先生が診てくださるから、大丈夫です。何も心配していません」

 ヴィルメはおたおたと言い訳する。それを聞きながら、シェイダールは荒れ狂う胸の内を静めようと、うつむいて爪先を睨みつけていた。

 豊穣多産の女神マヌハ。父の命を奪い、因果も何もなく気まぐれに豊作をもたらしたあの女神に加護など願えば、今度はヴィルメと赤子の命まで奪われるのでは――

(馬鹿馬鹿しい。そうじゃない、そんなはずはないんだ)

 己の内に潜んでいた恐れと怒りの正体を見出し、彼はぶるっと頭を振った。神などいない。だから、加護を願おうと呪詛を吐こうと、未来は何も変わらないのだ。

 ジョルハイが、仕方ない、と譲歩するのが聞こえた。

「別の神に頼もう。特別な受け持ちではなくとも、天空神アシャならば……」

「構わないさ。それで気が休まるなら、マヌハだろうと何だろうと、好きに祈ればいい」

 シェイダールはぶっきらぼうに割り込み、拳を解いて息を吐いた。いつもの癖で眉間を揉み、なんとか平静を取り繕ってヴィルメに向き合う。

「俺は医者先生を信じる。だから、おまえは一番効き目がありそうだと思う神に祈ればいい。それがおまえの力になるなら」

 そこまで言って彼は妻の腹に目を落とし、深くうなずいた。ヴィルメがほっと表情を緩めて感謝する。ちょっと考えて、彼女は幼い子供を熱から守る神を選んだ。

 ジョルハイが祈りの文言を唱えて祝福を授けるのを、シェイダールは離れて見守る。そこへダハエがやってきて、呆れたように声をかけた。

「何をこだわっておるのか知らぬが、面倒臭いおのこよな」

 ずばりと遠慮なく言われ、シェイダールは返す言葉もなく瞑目する。女医師はふっと笑みをこぼして続けた。

「なれど妻女への情の深さ、しかと見た。それに、神より医師を信じると言われたのも初めてじゃ。気分が良いのう。そなたの妻女のため、最善を尽くそうぞ」

 シェイダールがもう一度、お願いします、と低頭すると同時に、衛兵が告げた。

「ラファーリィ様の御成りでございます」

 室内の面々は一様に緊張し、さっと端に退いて王妃を迎えるべく頭を下げる。召使が帳を上げると、ふわり、と新たに清雅な香りが加わった。

「ああ、皆そのように畏まらずとも良い。面を上げよ」

 笑いを含んだ声と共に、高貴な菫色が広がる。シェイダールは命じられるがままに顔を上げ、度肝を抜かれてそのまま石になってしまった。

 美しい。本当にこれは人間なのか。

 予想していたのは、もっと違う姿だった。アルハーシュの妃で、十年以上『柘榴の宮』のあるじなのだから、若くはあるまい、威厳と貫禄のある母のような女かと。

 確かに威厳も貫禄もある、しかしそれ以上に若々しく女として輝いて見えた。長く艶やかな黒髪は数本の三つ編みにして結い上げ、大きな紫水晶のついた銀細工の簪でまとめられている。肌のほとんどは隠されているが、頬は白磁のごとく染みひとつなく、切れ長の目は静謐な夜空色。微笑にほころんだ唇はさながら薔薇の花弁。

 声もなく見惚れるばかりのシェイダールに、王妃は優しく微笑んだ。

「ようやくお目にかかれましたね、第一候補シェイダール殿。わたくしがアルハーシュ様の妃、ラファーリィです」

 ごく自然に優雅な会釈をする。ようやくシェイダールも我に返り、頭を下げた。

「お目にかかれて光栄に存じます」

 教わった通りの挨拶を返しながら、内心で己を叱咤する。しっかりしろ、馬鹿め。おまえはこの人の夫を殺すんだぞ。間抜け面をさらして見惚れていられる立場か。

 彼が表情を引き締めて顔を上げると、王妃はつくづくとその様子を眺めて言った。

「我が君の跡を継ぐにふさわしい、凛々しい殿御で安心いたしました。わたくしで力になれることがあれば何なりとおっしゃって」

「勿体ないお言葉。いずれお国の話などお聞かせいただければ、ありがたく存じます」

「まあ……ほほ、第一殿は早くも仕事熱心でいらっしゃる。頼もしいこと。故国を離れて久しいわたくしの古い思い出でよろしければ、いずれ機会を設けてお話ししましょう。されど今は貴重な逢瀬、心をくつろげてゆるりとお過ごしなさい」

 ラファーリィは穏やかに応じ、そわそわしているヴィルメを見やって、茶目っ気のある魅力的な微笑を浮かべた。

「長居の野暮はしますまい。ヴィルメ、そなたの背の君はたいそう麗しい殿御ですね。すぐれた方に愛される幸福を大切にするのですよ。さ、二人にしてあげましょう」

 ほらほら退散退散、とばかり、王妃はリッダーシュやジョルハイを手で追い出し、自身も召使を連れてそれに続いた。最後にダハエも戸口へ向かう。

「ではわしも失礼するが……ヴィルメ、くれぐれも言いつけを守るのじゃぞ」

 厳しく念を押され、ヴィルメが「は、はい」と縮こまる。シェイダールが不審顔をすると、医師はじろりとそれを睨み、疑り深げに言った。

「会うて話すだけは許す。だが肌に触れるはならぬぞ。この様子では、ヴィルメはそなたを拒めぬじゃろう。ゆえに直接禁じておくぞ。妻子を大切に思うなら、無事に身ふたつになるまでは堪えよ。わかったな」

 あからさまな言葉で釘を刺され、シェイダールは頬を染めて苦々しく「わかってます」と言い返す。ダハエが去るとヴィルメがそばに寄り、恐縮そうに謝った。

「ごめんね。あの、でも」

「いい。最初からそのつもりだったし」

 シェイダールはつっけんどんに言い、すぐに己の態度を恥じて顔をこすった。

「とにかく、会えて良かった。毎日あれもこれもやることが山積みで、余裕がなくて……ほったらかしにして悪かったよ」

「ううん。王妃様もダハエ先生も良くしてくださるし……忙しいんだもの、仕方ないわ。会いに来てくれて、本当に嬉しい」

 ヴィルメは健気に言って頬を染める。そのいじらしさに胸を打たれ、シェイダールは堪えきれずに唇を重ねた。肌に触れられぬ分もとばかり、長く深く口付ける。心ゆくまで堪能してから、シェイダールは身を離し、服の上から妻の腹にそっと手を当てた。

「大事にしないとな」

 つぶやいた声も、まだ見ぬ赤子に向ける笑みも、かつてなく穏やかで優しい。村では決して見られなかった彼の柔らかな一面に、ヴィルメはまた目を潤ませた。

 シェイダールが気遣う表情になったので、彼女は急いで笑みを広げた。

「見て、色々用意したのよ。棗とかお菓子もあるの! ねえ、王宮ってすごいわね。お使者様が言った通り、美味しいものも綺麗な服も、数え切れなくって、毎日本当にびっくりしてばっかり!」

 無邪気に喜ぶ妻に、シェイダールは苦笑をこぼした。楽しそうに急かされて絨毯に上がり、勧められるがまま杯を取る。薄めた葡萄酒、木の実や干し果物、口の中でほどけて溶ける菓子。あれこれつまみながら、ヴィルメはほとんど休む間もなく話し続けた。とりどりの花、美しい布、珍しい食べ物や玩具のこと。宮の中の噂話。最近は五弦琴の練習も始めたという。生まれてくる子にはどんな名をつけようか。村での思い出も幾度か口にのぼった。

 しばらくして話の種も尽きてきた頃、シェイダールはほろ酔い心地で言った。

「ヴィルメ。俺はこの国を変えるよ。俺やおまえが、もっと安心して暮らせるように。俺たちの子が、のびのびと幸せに暮らせるように」

 ヴィルメはぎくりとし、次いで喜びと不安の相半ばする表情でおずおずと答えた。

「シェイダール……無理はしないでね」

 彼女の複雑な反応に、シェイダールは不審を抱かなかった。大丈夫さ、と笑う。

「王一人に頼るのじゃなく、皆が力を手にしたら、祭司がでっち上げた勝手な決まりに振り回されることもなくなる。皆で幸せになるんだ」

 夢見るように彼は言った。王を殺す必要がなくなれば、シェイダール自身も長生きして我が子の成長を見届けられるだろう。素晴らしい未来。輝かしい希望。きっと手にすることが叶うはずだ。あの色と音の秘密を解き明かせたならば。

「本当にそうなったら、いいけど」

「なるさ。いや、して見せる。だから待っててくれよ」

 酒のもたらす高揚と己の夢に酔い、シェイダールは妻の肩を抱き寄せた。新たな命を育む身体を少しだけ愛撫し、未練を振り切って立ち上がる。

「そろそろ帰るよ。またな、ヴィルメ」

「うん。あ……じゃなくて、……あんまり待たせないでくださいね、我が君」

 ヴィルメは恥ずかしそうに口ごもりながら、いかにも似合わぬ媚びた台詞を言う。シェイダールはふきだしてしまい、もう、と拗ねた妻に腕をつねられた。

 廊下に出て背後で帳が閉じると、シェイダールは思わず息をついた。酒肴は美味かったし、話も楽しかった。元気そうだと確かめられたのも良かった。それでも、一人になるとほっとする。身体にまとわりつく残り香や若葉色の声を、最後に手でぎゅっと押さえてから、そっと払い落とした。

 もうすっかり日は傾いており、窓や出入口から深く射し込む光が、廊下や柱を蜂蜜色に染めていた。待たせている従者を思い出し、早く戻らねばと歩きだす。だがいくらも行かぬうちに、柱の陰で待っていた召使が呼び止めた。

「シェイダール様。ラファーリィ様が、部屋にお立ち寄りいただきたいと仰せです」

「王妃様が? 用向きは」

「仔細は存じません。ただ、お話ししたいことがあると」

 シェイダールは眉を寄せたものの、どのみち王妃のお召しとあらば断れる立場にない。おとなしく案内されるまま奥へと足を向けた。

 厚い緋の帳をくぐると、中はヴィルメの部屋の倍ほどは広かった。調度も豪奢で気品があり、格の違いを実感させられる。夜に咲く白い花を思わせる香が焚かれていた。慎ましく密やかでいて、無視できない誘引力のある香り。昼に現れた王妃が纏っていた清雅な香りに比べると、いかにも艶めいている。単に時刻が過ぎたからか、それとも……。

 警戒と緊張に身をこわばらせて立ち尽くす彼の前で、召使が滑るように室内を動き、あちこちに置かれた燭台に火を灯してゆく。揺れる火明かりに浮かび上がったのは、奥の寝椅子からゆっくりと立ち上がる王妃の姿だった。ごくりと生唾を飲む。目をそらさなければと思いながらも、シェイダールは魅入られて瞬きすらできなかった。

「ようこそいらっしゃいました」

 嫣然たる微笑を作る蠱惑的な唇から、甘やかなささやきが漏れる。昼とは異なり、長い黒髪は結い上げず流れ落ちるに任せ、薄絹を重ねた服は腕や肩が露出していた。豊潤な身体に沿う柔らかな布を留めるのは、たやすく解け落ちそうな紐や帯。ひらひらと揺れる端が、猫を誘うように心を惹きつける。

 まずい、とシェイダールは己の鼓動を意識した。身体が熱い。息苦しい。なんとか視線を引き剥がしてうつむいたものの、足が動かず逃げ出せない。衣擦れの音が近付く。彼は拳を握り締め、床を睨んだまま無理やり声を上げた。

「お話が、あると……っ」

 つと指先が肩に触れ、抵抗を封じる。鎖骨をなぞられて、シェイダールは身震いした。王妃が耳元に唇を寄せ、花の香りが強まる。

「久方ぶりの逢瀬というのに、触れもせぬまま帰るのはつらいでしょう」

 誘惑と言うには、あまりに優しい慰めの声音だった。すべてを許し包み込む、暖かな深み。朝露に濡れた菫の色。身じろぎもできずにいる彼の頭を、王妃はそっと抱き寄せた。

 シェイダールは堪えきれず王妃の背に腕を回す。抱きしめると、衣服越しに蕩けるような柔らかさが感じられた。良いのですよ、とささやかれて、理性は完全に崩れ落ちた。

 王妃はどこまでも優しかった。それでいて巧みで、彼の自尊心を傷つけないようにしながら、かつてない喜びを与えてくれた。ヴィルメとの素朴な経験しかない彼にとって、涙が出るほどの歓喜を。

 彼が『柘榴の宮』を辞したのは、紫紺の空に小さな光が幾つも灯った後だった。


     *


 翌日、シェイダールは予定通り王の私宮殿へ赴いたが、ひどい裏切りをはたらいた自覚から、まともに顔を見られなかった。王はあからさまに様子のおかしい跡継ぎを観察し、ややあって思い当たった顔をした。

「そうか。我が妃のねやで過ごしたか」

 看破されたシェイダールは身を竦ませる。背後でリッダーシュが息を飲むのが聞こえ、絶望的な気持ちになった。昨日は暗くなるまで待たされたのに、忠義な従者は何も言わなかった。その彼に今、軽蔑の目を向けられていると思うと、消え入りたくなる。

 羞恥と悔恨で耳まで赤く染めてうつむくシェイダールに、王は複雑な苦笑をこぼした。

「良い。妃に招かれたのであれば、そなたに断れる道理もあるまい。いずれそなたのものになるのだし……あれにも、思うところがあるのだろう」

 寂しげにつぶやき、いつものように絨毯に腰を下ろして二人を誘う。少年二人がぎこちなく座ると、アルハーシュはひとつため息をついてから告げた。

「王の力は、子を生すことを阻むのだ。ラファーリィは四度身籠ったが、三度は流れ、最後にやっと生まれた子は人の姿をしておらず、産声を上げることもなく死んだ」

 衝撃を受けたシェイダールは目をみはる。王は膝の上で拳を握って続けた。

「若さを証するため、そしてまた妃の望みもあり、二度三度と流産しても通い続けていたが……さすがにこれ以上はならぬ、もしまた身籠れば次は妃が命を落とすやもしれぬ。そう判断して、以来あれには触れておらぬのだ。命あればこそ、王妃としてドゥスガルとワシュアールの友好を取り持つ役目も果たせるというもの。だが……求められぬと承知で美しく装い、『柘榴の宮』のあるじたらんと努めることは、酷であったのだろう」

 そこまで語り、王は哀しげなまなざしを、若い跡継ぎに注いだ。

「あれを憐れんでやってくれ。余の子を産みたい、なぜ王となる前に出逢えなんだかと、身も世もなく嘆き暮らした頃もある。したたかな王妃ではあるが、か弱い女なのだ」

 切ない頼みに、シェイダールはなんとも答えられなかった。しんみりとした沈黙がしばし続く。アルハーシュは己に対して小さく失笑し、首を振った。

「いかんな、妻女のあるそなたを都合よく妃にあてがおうとは。だがそなたにとっても多少の益はあるぞ。第一の妃を立てることで、他の妃から招かれても無難に断れるだろう。ともあれ、そなたが己を責める必要はない。さて……本題に入ろう」

 気を取り直し、表情を改めて昨日の宝石箱を取り出す。蓋を開けると、王はシェイダールの前にそれを置いた。とりどりの色が溢れ、シェイダールは目を奪われる。

「これは、『最初の人々』の遺物や遺跡から集めたものだ。そなたにはどう見える」

 問われて手を伸ばし、ひとつひとつ石を手に取った。どれも、そのもの自身と同じ色をうっすらと放ち、微かな音を帯びている。無意識のうちに、彼はそれらの石を六種類に分けていた。濃淡や色合いにばらつきはあるが、あの短刀に見えたのと同じ六色。

 白、赤、緑、青、黄、紫。同じ色にまとめられた石が互いに響き合う。

「……音が、聞こえます」

 シェイダールはささやくように答えた。

「色は石そのものと同じ。それぞれの色に対応した音が聞こえるんです」

「揚水機も、儀式の短刀もか?」

 はい、と彼は応じて、揺らめく色彩から強いて意識をそらせた。

「俺は昔から、声や音に色が見えていました。人の声や鳥の鳴き声、扉を開け閉めする音なんかにも、全部。無視できるほど薄いことも多いですが」

「今、こうして余が話す声にも色がついておるのか」

 不可解げに問うた王に、彼はうなずき、青い石のまとまりを探ってひとつ取り上げた。

「これです。同じ人の声ならばいつも同じ色というわけではなくて、叫んだり泣いたりすればもちろん変わりますが……アルハーシュ様の普段のお声は、いつもこの色です」

「ふむ。天藍石か」

 王は興味深げに夜空色の石を掌で転がした。明晰な王も自らが持たぬ感覚についてはいまひとつ理解しづらいようで、思案げに首を傾げている。

「アルハーシュ様にお会いしてからは逆に、色に音が聞こえるようにもなったんです。あの揚水機の建物に入った時……低い鐘のような音が響いていました。高い音も幾つか。それが欠けているのがわかったんです。必要な石がこれだと」

 シェイダールは目を落とし、黄色の山からひとつ選ぶ。チリチリと指の間で震える微かな音。アルハーシュはしばし瞑目し耳を澄ませてから、残念そうに言った。

「余が他人に聞こえぬ音を捉えたのは、『最初の人々』の遺跡と思しき祠を訪れた時だけだ。それも色とかかわりがあるとは気付かなんだ」

「王の力を受け継いでいても、駄目なんですか」

「恐らくこの力は、感覚にまでは及ばぬのだろう。揚水機の欠けたる石を見出したのも、そなたの選択が正しいとわかったのも、そなたのように色や音から直接読み取ったわけではない。深みに通ずる手がかりによって確信したのだ」

 淡々と答えられ、シェイダールは失望をあらわにした。思わず正直に肩を落とす。

「あなたにさえ、俺が見ているものをわかって頂けないんですね」

 途端に王が、失笑を堪え損なってぐふっと妙な声を漏らす。シェイダールがむっとなって睨むと、彼は鷹揚な――向けられる側にとってはいささか癪に障る笑みを返した。

「いや、すまぬ。そなたの口から『わかってくれない』などと、並の若者らしい言葉が出るとは思わなんだ」

 揶揄されたシェイダールは頬を紅潮させたが、王はそれすらも面白がるばかりだった。

「そなたは色や音のついた世界を余が理解せぬと難じるが、ならばそなたのほうは、どうなのだ。声にも音にも色のつかぬ世界を見聞きしたことのないそなたが、我らを理解していると申すか? そなたと余がこうして共にいても、そなたの見ている世界を余が見ることはできぬように、余と妃が同じ花を見つめても、色や香りや美しさを同じように認めているとは限らない。それを確かめる術はない」

「あ……」

 世界の真実の姿は、誰一人正しく捉えていないのかもしれない。その可能性に気付かされ、シェイダールは急に恐ろしくなった。己の目に映る色鮮やかな世界こそが本当で、皆にはそれが見えていないだけだと思っていたが、そうではないのだと。

 身震いした彼に、王は優しく諭した。

「実際のところ、この世は誰もが『こうであろう』と暗黙に定めた約束事の上に成り立っているのだ。一人として、世界を同じように見ている者がいないとしても、そのような諒解の上に暮らしている。まつりごとも同じだ、心せよ」

 シェイダールはしばし無言だった。衝撃で波立った感情が落ち着くと、深く息をつく。

「やはり、あなたは死ぬべきじゃない。そんな考えのできる人が、朝起きるのが億劫だとか白髪が生えたとか、下らない理由で命を絶たれるなんて馬鹿げている」

「余という一人間の価値よりも、身に宿す神の力が重いのだ。やむを得まい」

 ほろ苦く微笑んだ王を否定するように、シェイダールは身を乗り出して言った。

「聞いてください。俺は確かに資質に恵まれているかもしれない。でも、他の者だって資質がないわけじゃないんでしょう。だったら、王にならなくてもこの『穴』の壁に手がかり足がかりを刻むことができれば、誰だって深みへ水を汲みに降りていける。きっと方法があるはずです――色と音の間に」

 希望に逸る少年の言葉に、アルハーシュ王は驚き、声を失った。ゆっくりと理解が浸透すると、彼は唇を震わせてつぶやく。

「そのようなことが……可能なものだろうか」

「できるはずです。『最初の人々』がこれだけ多くのものを遺しているのなら、彼らはたった一人に頼っていたはずがない。皆が同じように色と音を感じ取れて、それであんな装置や道具を作れたんです。儀式を行う前に方法を見付けましょう、それで皆に教えるんです。いもしない神に祈らなくていい、王一人の若さと力に国全部を任せるような、危ういことをしなくていいって! そうしたら俺は、……俺は、あなたを殺さなくて済む」

 熱をこめて語るシェイダールに、王も次第に引き込まれ、ついには笑みを広げた。

「面白い。余の役目はすべてそなたに譲って終わりかと思っていたが、この世を去る前にひとつ大業をなせるやもしれぬか。ふふ、なんと胸躍ることよ」

 瞳に光が宿り、王の全身を活力が取り巻く。

「死を恐れはせぬ。だがこのまま朽ちるよりは名を残したい。良かろう、我が跡継ぎよ。共にいにしえの力を求めようではないか」


 どこからどのように手をつけるか、王とシェイダールは昼食を挟んで長く話し合った。まずは『最初の人々』の遺物や遺跡に触れて、色と音のかかわりにどのような仕組みが隠されているのかを探ろう、との結論に落ち着いた頃には、太陽が中天を去っていた。

 王のもとを辞した後、リッダーシュは一言も口をきかなかった。高揚していたシェイダールの意気もじきにしぼみ、びくつきながら従者の後についていく。

 いつもの日課で鍛錬所に着き、練習用の木刀を取って向かい合う。かつてなく鋭い目つきで睨み据えられ、シェイダールは恥じ入って顔を伏せた。

「リッダーシュ、その……」

 弁解を試みた途端、声もなくリッダーシュが斬りかかった。反射的に受けたが、痛烈な衝撃が腕に伝わる。怒りに満ちた攻撃を次々に繰り出され、シェイダールは惨めな気持ちでひたすら防御した。軽蔑され叩きのめされて当然だ。それだけのことをした。これは彼の正当な非難であり罵倒であるのだ。甘んじて受けるしかない。

 だが一方的にやられ続けるうち、次第に腹が立ってきた。確かに己は王やヴィルメの信頼を裏切った。王妃との同衾は決して褒められた行為でないと承知している。しかし。

(おまえなら拒めたとでも言うのか? 王が『良い』と赦されたことを、おまえが責められるって言うのか!)

「くそ、この……っ!」

 悔しさに歯軋りし、反撃に出る。未熟で乱雑な突きはあっさり防がれ、より激しい攻撃を招いた。噛み合う太刀ごしにリッダーシュのまなざしに射抜かれ、シェイダールの背筋が冷える。その隙に、手痛い一撃を打ち込まれた。

「うあっ!」

 木刀を弾き飛ばされ、突きを避けようとのけぞった拍子に足がもつれて倒れる。背中を打って息が詰まった。立ち直る隙もなく、腹の上にリッダーシュが馬乗りになり、襟首を掴み上げて拳をふりかぶった。咄嗟にシェイダールは歯を食いしばる。だが、予期した衝撃はなかった。リッダーシュは拳を震わせ、がくりと力を抜いてうなだれる。

 ややあってリッダーシュは立ち上がり、弾き飛ばした木刀を取りに行った。シェイダールは身を起こしたものの地べたに座り込んだまま、従者の背中を眺める。相変わらず一言も口をきいてくれない。舌打ちさえ聞かれない。

「リッダーシュ」

 呼びかけると泣きたくなった。頼むから返事をしてくれ。

「……リッダーシュ!」

 二度目でようやく、反応があった。振り返らないまま、彼は砂を蹴ってため息をつく。しばらくして、

「王宮に来たのは七歳の時だった」

 ぽつり、と言葉が落ちた。一瞬の光を引く大粒の天気雨のように。シェイダールはあちこちずきずき痛むのを堪えながら、ぱら、ぱら、と落ちる雨粒を眺めていた。

「アルハーシュ様もラファーリィ様も、まるで我が子にするように接してくださった。大恩を受け、お二方を父とも母ともお慕いしておきながら、私は」

 声が揺れ、途切れる。怒りと口惜しさにこわばるその背を見ていられず、シェイダールは目を伏せて唇を噛んだ。声に出されずとも無念がありありと伝わってくる。

 敬愛する王と王妃の苦しみに気付けず、助けになれず。挙句こんな田舎の小僧が。

 ああ、とシェイダールはがっくり頭を垂れた。ひどく惨めだ。リッダーシュの純真無垢で誠実な苦しみに比べ、己はなんとみっともないことか。熱情に身を焦がした末の逢瀬だったならばまだしも、いわばちょうど良い存在として利用され、その快楽にたやすく酔い、挙句に従者の信頼を失って軽蔑された。

「もう駄目だ……」

 今、水辺に行ったら、発作的に石を抱いて飛び込むかもしれない。弱音を吐いた途端、リッダーシュがきっと振り返り、つかつか歩み寄って乱暴に肩を揺さぶった。

「何が駄目だ、勝手を言うな! おぬしが始めたことに責任を持て!」

「俺が始めたこと?」

 驚いて咄嗟に意味がわからず、シェイダールは当惑顔をする。リッダーシュは傍らに片膝をつき、そうだ、と声を低めてささやいた。

「王の力を解き明かし広く大勢のものとし、神殿の権威を失わせ、民を自由にするのだろう。アルハーシュ様を、旧いくびきから解き放って差し上げるのだろう!」

 熱い黄金が刃のように光沢を帯びる。シェイダールが気迫に呑まれて答えられずにいると、リッダーシュは肩を離して苦々しく言い添えた。

「ラファーリィ様のことは正直に言って赦し難いし、おぬしを城壁から逆さに吊るしてやりたいと思わなくもないが」

「おいやめろ」

 慌ててシェイダールが抗議すると、リッダーシュは初めて見る凶悪な笑みを浮かべた。

「妻女にどう言い訳するか、せいぜい悩め。『柘榴の宮』で秘密が保たれると思うなよ」

 痛い所を突かれてシェイダールは瞑目し、長々と息を吐き出して顔を覆った。

「少しは俺の身も思いやってくれよ」

 捨て鉢なぼやきに対し、リッダーシュは自業自得とばかり鼻を鳴らしたが、次いでふと神妙な顔つきになった。

「……思えば私も覚悟が足りなかった。おぬしが次の王になるということは、すなわちアルハーシュ様を手にかけ、ラファーリィ様をその腕に抱くということだ。頭だけでわかったつもりでいて、はらを括っておらなんだ。……すまぬ」

「謝るな。おまえに頭を下げられたんじゃ、ますます俺の立場がない。不心得者でも間男でも、気が済むまで好きに罵れ」

 げんなり唸ったシェイダールに、リッダーシュは苦笑しただけで何とも言わず立ち上がる。シェイダールもようやく腰を上げ、打たれた腕や足の痛みに顔をしかめながら、尻についた砂を払った。そこではたと気付き、木刀を片付けている従者に声をかける。

「七歳で王宮に来たって? ここで育ったんじゃないのか」

 ああ、とリッダーシュは答え、道具をきちんと整頓してから戻ってきた。

「私の家はウルビの王家だった。とうの昔にワシュアールの属国になったが、かつて人質を出した名残で三男の私が出仕したのだ。実際は単に遺産の分け前がないから、栄達したければ自力で励め、という事情なんだが」

「それがどこぞの馬の骨の従者をやらされるとは、ご愁傷様なことだ」

 シェイダールはわざと辛辣に言い、反論が来る前に続けた。

「普通なら俺はすんなり次の王になって、おまえもただの従者じゃなく近衛隊長とか、もっといい地位に上がれて、望み通り出世栄達思いのままだったのにな。当分俺は『候補』のままだぞ。しかもきっとこの先、敵ばかり増える。貧乏くじを引いたな」

 彼が浮かべた皮肉な笑みをリッダーシュは真顔で見つめ、姿勢を正して一礼した。

「それでも喜んで従おう、我が君」

「やめろ」

 すかさずシェイダールは拒否し、手を差し出した。

「俺は第一候補でおまえは従者で、その立場は変わらない。だがこれからやろうとしていること、実現しようとしている未来は、今までの身分だとかしきたりだとか、そういうものに縛られていたら辿り着けない。だから頼む。……力を貸してくれ。友人として」

 最後の一言はほとんど聞き取れないほどの小声で早口だったが、それでもリッダーシュはしっかり受け止めた。森緑の目をぱちくりさせてから、堪えきれずに笑いだす。

 シェイダールは苦虫を噛み潰し、赤い顔で唸った。笑われたこともだが、途端に溢れた幸福な輝きに巻き込まれ、いたたまれなくなる。彼の忍耐がわかっているのかいないのか、リッダーシュは朗らかに笑いながら力強く握手した。

「ああ、もちろんだ。我が友シェイダール」

 親しみを込めて名を呼び、誓いの証とばかり、がっしと抱擁する。さんざん打ち据えられた身体にとどめを刺され、シェイダールは悲鳴を上げた。




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