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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝を折りて
27/126

十二章(神意・麦穂の如くすべてを)

     *


 シェイダールのことで折り入って相談したい、との言伝ことづてを受け、アルハーシュはしばし悩んだものの、予定をやりくりして昼下がりの『柘榴の宮』へと足を運んだ。

 仕事は山積みなのだが、まさにあらゆる事態の中心、大渦の目にいる当人に関する相談とあらば、放っておくわけにもいかない。ついでに叶うなら愛くるしい姫と少しばかり戯れて、心癒されたいものだ――そんな願いもあったのだが。

「ようこそお渡りくださいました、偉大なる王アルハーシュ様」

「そなた……これは」

 出迎えたヴィルメと室内の様子に、王は驚き困惑した。美しく整えられた部屋に幼子の存在を匂わせるものは一切なく、若々しい清楚な華やぎが演出され、同時に女の色を感じさせる仄かな香が焚かれていたのだ。明らかに、男を迎える支度である。王の前に跪くヴィルメ自身も、今までにない特別に美しい装いで目を伏せている。

 アルハーシュは眉を寄せ、「立つが良い」と促した。おずおずと立つ仕草も、些細な手指の動きも、すべてが女の儚さを醸して誘惑する。しかしこの宮で何人もの妃を相手にしてきた王には、ヴィルメの用いる手管など、既に見飽きたものにすぎなかった。

「何があったのだ。このような回りくどいことをせず、率直に話すが良い。そなたは我が娘も同然だと言ったではないか」

 厳しく、しかし温情をもって諭した王に、ヴィルメは潤んだ目をみはり、一瞬確かに安堵の表情を見せた。だがすぐに彼女は顔を伏せて感情を隠す。

「どうぞそのお言葉は、このひと時だけでもお忘れくださいませ。今のわたくしは寛大なる王の情けを乞う、一人の憐れな女にございます。……アルハーシュ様、わたくしは恐ろしいのです。あらゆることが、今ある世界の終わりを示しているようで……心細く頼りなく、冷たい風に吹かれる枯れた葦の心地でおります」

 声が震え、ほろりと一滴の涙が落ちた。アルハーシュは眉をひそめたが、その場を動かなかった。ヴィルメは唇を噛み、涙を指で拭って顔を上げた。

「シェイダールのことで、と申し上げたのは偽りではございません。王よ、彼は怯え震えるわたくしをそのままに打ち捨て、顧みてくれないのです」

「シェイダールは先日、そなたの元で過ごしたのではないのか」

「いいえ。いいえ、王よ。彼はただわたくしに、警告に訪れただけでした。励ましも慰めもなく、状況の厳しさを説き、娘を守れと」

 疑わしげに質した王に、ヴィルメは首を振った。嗚咽を堪えるように、しばし両手で口元を覆って瞑目する。ゆっくりと静かに一呼吸した後、彼女は切々と訴えかけた。

「彼の愛を失ったのはわたくしの身から出た錆であるとは、承知しております。けれどあまりにも……つらいのでございます。独り寝の夜、明日を無事に迎えられるのかと恐れ、とこの冷たさに震え……お願いでございます、王よ。どうかわたくしに、せめてつかのま、人肌の温もりをお恵みくださいませ。女の幸福を思い出させて頂きたいのです」

 涙に濡れた瞳で、ヴィルメはひたと王を見つめた。思慮深い鳶色の双眸には明らかに同情が浮かんでいる。もう一押し。最後に取っておいた言葉を、ささやき声で投げかけた。

「ラファーリィ様が、わたくしの夫によって喜びを得たように」

 アルハーシュが息を飲み、身じろぎした。確実な手応えを得て、ヴィルメはそれ以上無用の言葉を連ねず、揺れるまなざしと唇だけで王を求め、待った。

 長い沈黙の末、とうとう王が動いた。ゆっくりと歩み寄り、ヴィルメの頬に手を添えて涙を拭う。沈痛な表情に浮かぶのはただひたすらに憐れみと罪悪感のみで、愛欲など片鱗さえもなかったが、それで充分だった。

 初めて夫以外の男に触れられ、ヴィルメの身体は予期せぬ快楽に舞い上がり、溺れ、蕩けていった。押し寄せる歓喜の波に呑まれながら、しかし、心の片隅は凍ったまま溶けることがなかった。疲れ果てて眠りに落ちたその瞬間でさえも。


 一方シェイダールは密かな逢瀬を知る由もなく、リッダーシュと共に果樹や麦畑の経過を観察していた。順調に育っている麦を見て、あの畑も荒らされなければ今頃は、と悔しさが胸をよぎる。だが悔やんでも元には戻らない。彼はさらに術を改良できないか、現在の生育具合に上手く適合しているか、微かな色と音に耳を澄ませた。

 パキン、とどこか遠くで何かが砕ける音がしたのは、その時だった。


 まどろみから目覚めたヴィルメは、慎重に身体を動かした。すぐそばに寄り添う人の温もりに、我知らず涙ぐむ。静かに上下を繰り返す胸にそっと手を当てたが、アルハーシュ王は目を覚まさなかった。そのまましばし、ヴィルメは安らかな寝息に耳を傾け、瞑目する。それからするりと寝台を抜け出した。火鉢を焚いているとは言え、部屋は寒い。だがヴィルメは感覚が麻痺したように、裸のまま衣装櫃のほうへ歩いていった。

(ごめんなさい)

 謝罪が浮かび、泡沫うたかたのように消える。蓋を開けた微かな音が聞こえたのか、王が寝返りを打った。ヴィルメは自分でも意外なほど平静に振り返り、目覚めたのか否か、続く反応を待つ。……再び寝息が深くなった。

 ヴィルメは儀式の短刀を両手で持ち、天を仰いで最後の祈りを捧げた。

 すべては神意を問う賭けだった。

 呼びかけに応じて王が宮を訪れるか否か。己を『娘』ではなく『女』とみなすか。女を満足させるだけの力がまだ王にあるだろうか。目が覚めるのは己が先か、王が先か――

 ――答えは得られた。

 王は宮を訪れ、ヴィルメを抱き、今なお眠っている。もはや『父娘』でないのだから、親殺しの大罪は免れる。そして、女一人の相手をしただけで疲れ果て、その女が起き出しても目を覚まさないのは、王が若さと力を失った証拠。衰えた王を廃するのは、自然の摂理に基づくこと、神意に沿うことだ。

 むろん、さりとて己の行いはやはり罪である。間違いなく死刑に処せられるだろう。

(でもその時は、あなたがわたしの魂を引き受けてくれるわね。わたしが奪った力と一緒に。そうして誰よりも強い王となって、この国とシャニカを守ってくれるでしょう)

 夫の顔を思い浮かべ、彼女はうっすらと微笑んだ。

 さようなら、愛しい人。

 

「――っ!?」

 全身を打ち砕くかのごとき轟音が響き、シェイダールは大きくよろけて膝をついた。次いですぐに、それが現実の音ではなく路に響いているのだと気付く。

 いったい何の天変地異か。彼は青ざめ、地面に手をついたまま音の源を振り返った。

「あれは……」

 建物の屋根越しに、乱舞する色彩の渦が見えた。音が狂乱し、全身に地鳴りとなって伝わる。横でリッダーシュも同様に愕然としていた。

 シェイダールは歯を食いしばり、矢のように走りだした。脇目もふらず異変の中心へと向かう。すれ違う王宮の人々も皆、割れ鐘のような《音》を感じ取り、慄き竦んでいた。『柘榴の宮』に駆け込むと、溺れそうな渦巻く色の海を掻き分けてゆく。絶叫が《音》の厚みを貫いて耳に届いた。

「ヴィルメ!」

 部屋に飛び込んだ彼が見たのは、どんな悪夢よりも酷い光景だった。

 だらりと力を失って寝台に横たわる王。その首から溢れた血が、敷布を伝って床につくる真紅の池。部屋の中央では、妻が裸身に赤い花を散らし、獣のように叫びながら踊り狂っていた。両目と鼻、口から血を流して。

 衝撃のあまりシェイダールは気を失いそうになった。膝が抜けて倒れ込み、床に転がる短刀に気付く。鞘から抜かれ、刃を紅く染めたままの『継承の刀』。

「どうして」

 嗚咽まじりに、何の役にも立たない声をこぼす。どうしてこれがここにあるんだ。絶望と動転で涙が溢れ、視界が揺らめく。よろよろと立ち上がり、彼は吸い寄せられるように妻のもとへ向かった。

「ヴィルメ……っ、しっかりしろ! 今助ける、助けるから、頼む死ぬな!」

 差し伸べた手が、たがの外れた凶暴な力で振り払われる。抱きしめたいのに、暴れる妻は一瞬も止まらない。

「シェイダール! 殺せ!!」

 黄金の槍が無慈悲に彼を貫いた。言葉の意味を理解するより先に、駆けつけたリッダーシュが宝刀の柄を押し付ける。森緑の目をぎらつかせ、一切を圧する声で怒鳴った。

「助ける方法はない、早く殺せ! 王の力が失われるぞ!」

「……っ」

「このまま狂い死なせて良いのか!? 眠らせてやれ!」

 叱咤に押され、シェイダールは宝刀を握った。

 リィン……澄んだ一音が響き渡る。無秩序に渦巻き荒れ狂っていた色と音が、大きな流れへと収束してゆく。暴れていたヴィルメがはたと動きを止め、魅入られたように光を仰ぎ見た。無防備に晒された白い喉に、一筋の線が走る。

 最後の瞬間、血走った目に映ったのは美しい光か、それとも愛しい夫の顔だったのか。ヴィルメの唇が柔らかくほころび、小さな吐息を漏らした。妻をかき抱いたまま、共にシェイダールも床にくずおれる。光が、音が、色が、瀑布となって己の路に流れ込んだ。

 きらめく飛沫を上げて歌いながら深淵に落ちてゆく滝。新たな標が次々に刻まれ、既にあるものも共に輝きを放ち、花開いてゆく。どこまでも深く、深く降りてゆく螺旋。

 しろがねの雪、脈打つ血潮、萌ゆる草葉の緑。豊かな恵みの海原、陽光に輝く麦の穂、遙かな宇宙の星々。すべてが美しく、満ち満ちる生命を謳い上げる。かつて在りしもの、いにしえの詞、あらゆる知識が押し寄せて、彼自身をも渦の中へ崩しこまんとする。

《シズマレ》

 詞が響いた。無数の標、いにしえの叡智の中から、いくつもの小さな光が飛び出して詞を飾り、力を与える。

《継承ハ為サレタ》

 ゴゥン……

 低く厚い音が深淵から響き、あらゆる色と音を鎮める。その余韻が消えて、やっとシェイダールは我に返った。膝に妻を抱いて茫然と宙を見上げている己のざまを自覚する。重みすら感じられるほどに荒れ狂っていた色と音は、完全に静まっていた。

 顔を下ろした途端に涙がどっと溢れる。

「ヴィルメ……っ、アルハーシュ様、う……ぁ、ああ、あああ!」

 慟哭が、世界を真紅に染めていった。


 悲劇はそれだけでは終わらなかった。

 嵐が静まり、衝撃から立ち直った王妃ラファーリィは、無意識に己の路を探った。荒らされた流れを整えようとして、愕然と息を止める。

 ない。あの小さな路が、光の欠片と音のささやきが。

「ああ、そんな」

 今度こそはと思ったのに。やっと、ついに、長年の望みが叶うかと。

 ふらつく足取りで部屋を出る。何があったのか、彼女は既に察していた。

「殿……我が君」

 つぶやきながら、嵐の源であった部屋へと向かう。そこかしこで倒れ伏し嗚咽する召使や侍女も目に入らない。帳の手前に幼子の姿があった。シャニカ姫だ。リッダーシュが中に入れまいと阻んでいる。彼は王妃に気付くと、絶望に打ちひしがれた顔を歪めた。

「いけません、ラファーリィ様」

「通しなさい。わたくしはこの宮のあるじですよ」

 今の己はどんな顔をしているのだろう。彼と同じほどに酷いのか、それとも少しは威厳を保っているだろうか。他人事のような思考が頭の片隅をよぎる。リッダーシュが躊躇した隙にシャニカが押し入り、それを捕まえようとして空いた場所を王妃がすり抜けた。

「とーしゃま、かーしゃま!」

 幼子の悲鳴を背中で聞きながら、ラファーリィは夫のもとへ行く。女の寝所で無防備に裸身を晒したまま、威厳も名誉も損なわれた死に姿。せめてもと、彼女は遺体の姿勢を整えた。瞑目し、そっと息を吐く。振り向くと、王の命を奪った刃の、血を吸ってなお美しくきらめく六色の揺らぎが目に入った。

 誰もが悲しみと絶望に呑まれ、他人に注意を払っていない。王妃は静かに歩を進め、屈んで短刀を拾い上げた。こんな時でさえも魂を震わせる、甘美な響きが路を満たす。

「ラファーリィ様!」

 リッダーシュが叫び、短刀を奪おうと飛びかかる。つられて幼い姫も振り向いた。

「やめてください、あなたまで……っ」

 懇願の声を最後まで聞かず、王妃は己の喉に刃を立てた。膝からくずおれた身体をリッダーシュが抱きとめ、助けられるはずもないのに刀を抜いて血を止めようとする。彼の嘆きに引きずられたか、シャニカが両手を伸ばし、共に傷を押さえようとした。

 六色の旋律が渦を巻き、高らかに歌う。短刀に触れていたリッダーシュに向けて輝く流れが迸り、溢れた光は傍らの小さな路をも満たしてゆく。

「シャニカ!」

 我に返ったシェイダールが引き離そうとした時には、もう遅かった。まじろぎもせず虚空を仰いでいた幼い姫は、がくりと力を失って倒れ伏す。リッダーシュは継承の衝撃に震えながら、己が巻き添えにしてしまった姫をただ見ていることしかできなかった。


     *


 都は大混乱に陥った。多くの者が衝撃を受け、布告を待つまでもなく王の死をさとった。

 神殿が内部で揉めているせいで、アルハーシュの葬儀が行えず、新王即位の見通しも立たない。それでも王宮では長官や官僚たちが慌しく諸々の準備を進めていたが、肝心のシェイダールが調子を取り戻せていなかった。

 ヴィルメという女を改めて一人の人間として知り、もう一度やり直せるかと思った矢先の別れ。しかも、ごまかしようのない罪人としての死であるため、その遺体は密かに速やかに運び出され、一切の儀式なしで無縁墓地に葬られた。名前すら記録されずに。

 そしてアルハーシュ。王として父として敬い慕い、頼っていた人物が、突然失われた。いずれはと少しずつ覚悟を固めていた、その予想を完全に裏切る成り行きで。

 どうして二人が通じたのか、あの場に継承の刀があったのか。そしてなぜヴィルメは凶行を決意したのか。わからないことばかりだ。

 その一方で、受け継いだ『王の力』すなわち膨大な『知恵』は確実に存在感を増していた。意識にのぼるきらめきをうまく制御できず、平静と集中を始終乱される。加えて娘の容態も気を抜けなかった。惨劇から三日過ぎても目を覚まさず、昏々と眠り続けている。

「継承に失敗したらどうなるか、おまえは知っていたんだな」

 娘の額をそっと撫でながらシェイダールはつぶやいた。傍らに付き添っているリッダーシュが唇を噛む。シェイダールは振り向かず、娘だけを見つめたまま続けた。

「だからあんなに迷いなく、殺せと言ったのか。……おまえの役目だったから」

 重い沈黙が降りる。リッダーシュは痛ましげに嘆息し、「そうだ」と認めた。

「継承の儀式が失敗したら、候補者は狂い死ぬと聞かされた。それゆえ速やかにとどめを刺し、己の小さな器に入るだけの『王の力』を受け入れよ、と。その上で第二候補が『継承の刀』を使ったなら、もう失敗する恐れはない。安全を確保するための中継ぎ……それが第一候補の従者の役目だった」

「路が狭くても充分な強度があり、荒れた流れを一旦鎮めて再度の継承に向けて整えられる者、というわけか。アルハーシュ様はやはり優れた方だったんだな。直観に頼るしかない状態でも、おまえの資質をしっかり見抜かれていた」

 しんみりと言ったシェイダールに、リッダーシュもしばし追憶に耽る。それから彼はあるじに歩み寄り、肩越しに幼子の平和な寝顔を見て、泣きそうな微笑を浮かべた。

「一滴の水も口にしていないのに、まるで弱りもせず健やかそうだ。不思議だな。……こんなことになってしまって、本当に」

「やめろ、謝るな。おまえのせいじゃない」

 厳しく遮り、次いでシェイダールは無理に笑みを作って声音を和らげた。

「いずれ目を覚ますさ。きっと……大丈夫だ」

 己に言い聞かせるようなつぶやきに、リッダーシュもまた「ああ」とうなずく。だがそれがいつのことになるか、二人共にまったく予想がつけられなかった。

 心痛と動揺でろくに眠れぬ夜が続き、シェイダールの理性は半ば麻痺していた。ここで自分まで倒れるわけにはいかないという意地だけで、食事は押し込むようにしてとっているが、何をすべきか、どうしたいのか、行動の指針も決められない。

 そんな最中に、ジョルハイからの文が届いたのである。

 ――宝刀を預かる『鍵の祭司』として、釈明も、許しを乞いもしない。動かせるだけの兵を率いて私を捕らえに来てほしい、と。


 シェイダールがリッダーシュとヤドゥカ率いる警護兵に加え、近衛兵の半数を従えて王宮を出た時、既に大神殿の前には群衆が集っていた。何が始まるのかと、大勢の神官らも広場や神殿の外周通路に出てきている。

「あいつ、今度はいったい何をする気だ」

 シェイダールは怒りと困惑に唸った。広場に面した大神殿の正門上、人々が仰ぎ見る祭壇の手前にジョルハイの姿があった。壇の縁には石の火焔飾りが連なっているが、その隙間から転落しそうなぎりぎりの際に立っている。

 人垣を掻き分けて兵の一団が現れたのを見ると、ジョルハイは一瞬だけ薄く笑った。そして、兵士など目に入らぬような堂々たる態度で声を張り上げた。

「お集まりの市民諸君、どうか悲嘆に塞がれた耳を今こそ開きたまえ!」

 いっせいに視線が集まる。ジョルハイは大きく両腕を広げ、仰々しく一礼した。

「アルハーシュ様がお亡くなりになったことは、既に皆、お聞き及びだろう。あの日、あまねく神々が怒り嘆き、天地に嵐が吹き荒れた。かの偉大なる方が宿す力、深き叡智を用いたわざを邪法と罵っていた者どもは、己が間違っていたと悟ったであろう! かの御方こそ真の王であらせられた!」

 厳しく弾劾し、彼は胸の前でぐっと拳を握り苦渋の表情を見せた。

「他でもない、この私も過ちを犯した一人だ。王宮の女に宝刀を渡し、王を殺せと唆したのはこの私なのだ! 邪法を操る老いた王を廃せよと叫ぶ、『燈明の祭司』イシュイと祭司長に命じられて!!」

 どよめきが起きる。シェイダールは愕然と青年祭司を見つめた。嘘だ。ヴィルメに宝刀を渡し、唆したのは事実かもしれない。だが祭司長の命令だというのは絶対に違う。

 ジョルハイは偽りの気配など微塵も見せず、涙ながらに訴え続けた。

「心ある人々よ、どうか同じ過ちを犯されるな! 祭司長と祭司イシュイに従う者、彼らは驕り高ぶり、己らこそが神々の代弁者であると思い上がった! 不作に乗じて暴利を貪りたい商人から賄賂を受け取り、王と世嗣殿の努力を踏みにじったのだ!」

 思わぬ暴露に、人々がざわつき顔を見合わせる。こんな時に私腹を肥やそうとするのは誰だ、あいつも祭司長の支持者ではなかったか。危険な疑いの気配が広がってゆく。

 暴動の前兆にシェイダールが緊張し、ヤドゥカも警戒して部下に命令する時機をはかる。そこへジョルハイがさらに続けた。

「天なる神々よ、どうか我が行いをもってワシュアールを罰せられますな!」

 両手を高く空へと差し伸べ、魂も届けとばかりに叫ぶ。その声が初めて、薄青から濃紺へと変化した。

「あいつ……!」

 直感に貫かれ、シェイダールは弾かれたように飛び出した。驚く見物人を押しのけ、リッダーシュの制止も聞かず、門上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がる。ジョルハイはくるりと広場に背を向けてシェイダールを認め、ほんのつかのま、見間違えようもなく確かに満足の笑みを広げた。

 やめろ、と怒鳴る一瞬をも惜しんでシェイダールは走る。だがジョルハイは、神殿の威容とその上に輝く太陽をふり仰ぎ、壇の縁に並ぶ火焔飾りに踵を乗せた。

「我が罪はこの命でもって償いましょう、無辜の民を苦しめたもうな! 罰せらるべきは欲にまみれた祭司ども! 王とウルヴェーユを穢した愚か者どもに死を!!」

「……っ!」

 シェイダールが祭壇に身を投げ出すようにして手を伸ばす。ジョルハイがふわりと両腕を広げ、背中から倒れてゆく。声のない唇の動きが快哉を叫んだ。

 ――さあ、やれ!

 ドッ、と鈍い響き。そしてあらゆる音が絶えた。シェイダールは祭壇に伏したまま、空を掴んだ手を強く握り締めた。捕まえ損ねた未来が飛び去り、残った道はただひとつ。歯を食いしばり、勢いよく立ち直る。

 居合わせた人々は、神殿の門前に墜落した祭司を遠巻きにして、どうするんだ、どうすればいいんだ、と他人の出方を窺っていた。

 シェイダールは深く息を吸い、内なる路を意識した。神殿を貫く光の柱を背中で感じ取り、心を開く。標の螺旋が瞬き、深淵へと降りながら、ひとつふたつと花弁のように開いた。彼は帯に差した鉦を抜き、強く三音打ち鳴らすと共に《詞》を載せた。

「《聞け》」

 発せられた声は、人々の耳を打った。広場の隅々まで、街の通りを都の端まで、厚い神殿の壁を通して深奥まで、都に住むすべての人のもとへ届く。

「《罪は暴かれた。これより我は王の仇を討つ》」

 語りかけながら、鉦をしまって代わりに六色の紐を解く。ぴんと両手で張り、音と色を声に出さず意識して、紐に流し込んでゆく。

「《麦穂のごとく、すべての神官の命を刈る!》」

 宣言と同時に紐は一本の柄となり、その先端に巨大な鎌のごとく光の刃が輝いた。遠目にも明らかな、六色に揺らめく死。広場を恐怖の波が襲った。

「《罪なき者は音色を示せ。悔い改める者は祭服を捨てて地に伏せよ。その他の者は神に祈るが良い!》」

 復讐の刃を高々と掲げ、シェイダールはヤドゥカと従う兵らを見下ろした。

「行け、ヤドゥカ! 容赦は無用!」

 大音声で命じると同時に刃で空を斬り払う。応じてヤドゥカが剣を抜いた。

「アルハーシュ様の仇! 神官どもに死を!」

「おおっ!」

 兵が喊声を上げる。すぐに広場は悲鳴と絶叫、混乱の渦に呑まれた。

 逃げ惑う一般人には目もくれず、兵は丸帽や角帽の神官らに次々と襲いかかってゆく。シェイダール自身もじっとしていなかった。一番近い外周通路にいた神官めがけて走り、光の鎌を振りかぶる。逃げ惑う憐れな背を、鋭い刃がやすやすと斬り裂いた。

 そのまま彼は神殿の中へ駆け込んだ。リッダーシュが追いつき、邪魔にならない位置に並ぶ。無駄口をきかず、彼もまた行き会う端から神官と神殿兵士を血に染めていった。

 遂に二人は、神殿の三階、祭司長の部屋に乗り込んだ。

 宣言は聞こえていたであろうに、祭司長ディルエンは慌てもせず、壁に飾られた神像に向かって祈っていた。シェイダールは息を整えながら、祈りが終わるのを待ってやった。

 ややあって祭司長は振り向き、正面から己の死神と相対した。シェイダールは平静に武器を構え、一歩進み出る。

「いつかぶっ飛ばしてやりたいとは思っていたが、こんな形になるとはな」

「殺戮者よ、神々はそなたの虚偽を見抜かれよう。いずれ神罰が下るぞ」

 祭司長の声音に無念が滲む。シェイダールは辛辣な嘲笑を返した。

「そんな都合のいい神がいるなら、そもそもこんな事態になりはしなかったろう。誰も死なずに済んだはずだ」

 笑みを消し、さらに一歩。

「神の顔色を窺い、罰で脅して人を支配する時代など終わらせる。これからは人が人として、自らの足で歩むんだ。――もうおまえたちは必要ない」

 刃をかざしたシェイダールから、祭司長は最後まで目をそらさなかった。

「そなたは多くを求めすぎだ。神にも、人にも」

 その真意が質されることはなく、六色の軌跡が声を断ち切った。


 監禁されていた学究派の面々が解放され、大神殿の床を覆った血が洗い流されてから十日余り。ようやくアルハーシュとラファーリィの葬儀が執り行われた。

 都から北東に向かう街道を、葬列がゆく。内戦を鎮め隣国との和平を維持し、治水や都市整備に尽力した王の葬祭にしては、あまりに寂しい行列だった。神官が少ないだけではない。本来ならば参列したであろう貴族名士の多くが、混乱に紛れて身を隠したのだ。祭司長とイシュイの一派にかかわりが深かった者はもちろん、ドゥスガルの大使も都から姿を消していた。

 葬列の先頭を行くのは『六彩の司』だ。左右に神官がつき、無言歌を唱えながら歩む。死出の旅へと導く彼らのすぐ後に、バルマクをはじめとする近衛兵に担がれた棺が続く。その後からシェイダール、そして長官と従者や官吏。有志の市民らは少し間を空けてついてくる。

(侘びしい葬儀になって、すみません)

 シェイダールは生前アルハーシュがふざけて言った「まともに執り行ってくれぬのか」との嘆きを思い出し、ほろ苦い微笑を浮かべた。平穏な時に逝去したなら、もっと仰々しく荘厳な葬列になっていただろう。椰子の葉やオリーブの枝で編んだ巨大な儀杖を掲げ、香を焚き、多数の神官の歌に囲まれ、大勢の人々に惜しまれて。

 シェイダールは残念に思い、次いでそんな己の感傷に皮肉な気分を抱いた。

(葬儀がどうだろうと、死んでしまった当人は何も感じないし、派手だろうと侘びしかろうと、それで世界の何かが変わるわけでもないのにな。何のために段取りだの形式だのにこだわるんだか)

 決まっている。生きている者の都合で、だ。死者との別れを形にし、義理は果たしたと納得するために。死者が生前に成した偉業や施した慈悲を数え上げることで、跡継ぎたる喪主の面目を立て、人脈をつなぐため。葬儀屋に儲けさせてやるため。

 わざと辛辣な考えを巡らせたが、胸を抉る痛みも悲しみも薄れない。彼は嘆息し、雑念を払って前を見る。

(……悲しいから弔うんだ。理屈なんかどうでもいい)

 やがて、広々とした街道は巨大な岩山の足下に差しかかった。斜面や断崖のあちこちに浮き彫りが施され、穴が開いている。『諸王の岩屋』だ。

 王族の遺体はここで、土に埋められるでもなく火で焼かれるでもなく、岩に囲まれた静かな暗がりに安置される。墓には、それぞれの王の好みが表れていた。断崖の一番高い所に壮麗な神殿の浮彫を施し、その奥に独り眠る王。最も人目につく辺りに陣取り、己の戦功を称える絵図と文言をびっしり彫らせた王。低くなだらかな裾野に控えめな入口を造り、内部には愉しげな宴のさまを描いて家族全員の石棺を並べた王……。

 アルハーシュの墓は、先代の墓のすぐ下に掘られていた。穏健な人柄を表すように、奇をてらわない伝統的な装飾だ。王妃と二人で入れるように造られた石棺に遺体が納められると、風の神が魂を天に召し上げてくれるよう祈りが捧げられる中、シェイダールから順に参列者が王と王妃のための贈り物を棺に入れてゆく。最後に棺が閉じられ、一行は黙祷し、墓を後にした。

 崖の下で役目を終えた木棺を焼き、煙に祈りを乗せる。シェイダールは渦を巻いて昇ってゆく煙を見上げながら、意識は内なる路に潜り、深淵を通して世界をさまよっていた。――どこかにまだ王の存在が残っていないかと、あてどなく探しながら。


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