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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝を折りて
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十一章(真実ほんものの神を・水乞い)

  十一章


 厳しい夏が長く続いた。

 幸い、早い予測と周到な準備のおかげで、作物が全滅する前に被害を食い止められている。しかし不安と悲観は日増しに勢力を強めつつあった。旱鎮めの儀式も、わかりきった結果しかもたらさなかった。少し風が涼しくなった、と錯覚させるのがせいぜいだ。

 そしてまた、ウルヴェーユによる対策もはかばかしくなかった。


「枯れるのは防げているが、これじゃあな……」

 王宮の果樹園でシェイダールはため息をついた。数本は早々と葉を落とし、持ちこたえているものも本来つけているはずの花や実がない。種籾だけでなく、大量の水を必要とする果樹もなんとかできないかと試みたのだが、水路を閉めたらこの始末。

 リッダーシュが、葉のない枝に軽く手を触れて思案する。

「果樹園全体に術をかけるのは諦めて、一区画をこうした……休眠、と言えば良いのか、この状態にさせて、残りに水を回すしかあるまいな。収穫が皆無になるよりはましだ」

「やっぱり水そのものが足りなければ、実を生らせるのは無理か。くそ、何か水を得る方法があればなぁ」

「今年と来年の夏を乗り切る頃には、新しい水路を引くなり揚水機を建てるなりして、水源を確保できるだろう。水利長官が様々な工事をおこなう間、耐えられさえすれば良しとせねば」

 リッダーシュはそう言ってあるじをなだめ、相変わらず雲のない空を仰ぎ見た。

「天から雨を盗むようなわざがあったとしても、そんな無茶をしたらどんな報いがあるか知れたものではないぞ」

「神罰が、とか言いたいんじゃないよな。ああ確かに、あまりに大きなわざを試みたら予想外の事態が起きて、何もしないほうがましだったという結果になりかねない。それはわかるが……やっぱり悔しいな」

 シェイダールは唇を噛む。リッダーシュが小さく笑った。

「おぬしも随分変わったな。私は本当に神々の報いを恐れたのだが」

 温かく冗談めかした揶揄。シェイダールは大袈裟にしかめっ面をして鼻を鳴らした。

「おまえの信仰は、祭司どもが押しつけてくるものとは違う。これだけ付き合いが長くなれば、そのぐらい学ぶさ。おまえは天にあって世界を司る神々を信じてはいるが、そいつらが人間と同じような存在だとは考えてない。違うか? だから、おまえが言う『報い』は怒りとか罰とかじゃなく、世界のありようが歪んで地上に悪い影響が出る、ってことだろう。それなら別にウルヴェーユの考え方と矛盾しないさ」

 鋭い洞察を突きつけられ、リッダーシュは目を丸くした。すぐには何とも答えられず、無言で瞬きする。ややあって彼は、ふむとつぶやいてうつむき、考え込んだ。

 シェイダールは邪魔せず、一本だけ寒々しい姿になった柘榴の幹に手を当てる。口の中で小さく緑の音をつくると、微かな応えが感じ取れるので、枯れていないというのはわかった。木々のつぶやき、水路を流れる水のささやき。世界に満ちる微かな音に耳を澄ませる。そこに柔らかい杏色の音がまじり、彼は思わず笑顔になって振り向いた。

 視線のずっと先に、建物の中から出て来た小さな影があった。

「シャニカ!」

 呼びかけるとすぐ、娘も父親を見付けてぱっと笑みを広げる。後から続いてお供する人影が現れたが、その判別がつくとシェイダールは不審げに眉を寄せた。一人は侍女のタナだが、もう一人が問題だ。

「……なぜあいつが?」

 訝しみながら、ひとまず娘を迎えに行く。もう随分歩けるようになっているのだ。日々元気に遊びまわって、弾けんばかりの生命力を発散させている。

「とーしゃ!」

 きゃあ、と歓声を上げて、シャニカは父が差し出した両手の中に飛び込んだ。

「遠くまで来たなぁ、シャニカ! すごいじゃないか!」

 娘を抱き上げて頬に口づけし、つるつると柔らかい黒髪を撫でる。暑さに挫けずここまで頑張って歩き通したらしく、汗びっしょりだ。

「畏れ入ります、シェイダール様。途中、何度か抱いてお連れしようとしたのですが」

 タナが小走りに追いついて恭しく礼をした。シェイダールは笑って娘の顔を覗き込む。

「自分で歩くって聞かなかったんだろう。なぁ、おまえだんだん俺に似てきたんじゃないか? あんまり頑固になるなよ、せっかく可愛いんだから」

 背後でリッダーシュがふきだし、シェイダールがそれを睨んだところで、最後にやってきたもう一人のお供、ナムトゥルが、にこにこと場に加わった。

「シャニカ姫は愛されておいでですね、羨ましいことです」

 初対面よりはいくらか落ち着いているが、それでも、礼儀として保つべき距離を越えて近付きすぎている。リッダーシュが笑いを消し、素早くあるじを守れる位置へ動いた。シェイダールもいささか疑わしい顔になる。

「どうしておまえがシャニカの供をしている?」

「ああ、『鍵の祭司』様の使いで参ったのですよ」

 ナムトゥル自身は、警戒されたとまるで察していないようだ。懐に手を入れながら進み出たもので、リッダーシュに阻まれてしまった。

「我が君にお渡しするものがあるなら、私が預かろう」

 厳しく言われてナムトゥルは困惑し、次いで憎しみに近い表情を見せた。従者風情が出しゃばるな、と言わんばかりの目つきだ。シェイダールがさりげなく先制した。

「俺の両手はこの通り、娘でふさがっているからな」

「あっ……失礼しました」

 途端にナムトゥルは赤面し、従順に頭を下げて、取り出した布包みをリッダーシュに手渡した。神殿で老祭司から聞いた話の一端を窺わせる豹変ぶりだ。

六彩りくさい様がジョルハイ様にこれを預けられたのです。術の詳細についてご説明できる者が必要であろうかと、不肖わたくしめがお供を願い出ました。先に柘榴の宮を訪ったのですが、預かりものの話が出た際、姫様が行くとおっしゃったのです」

「そうか、シャニカ、父様に届けてくれたのか。えらいぞ」

 よしよし、と丸い頭を撫でて褒めてやる。実際は単に、シェイダールの名が出たのを聞いて、とーしゃ、と繰り返しただけだろう。丁度良いから外へ連れ出させ、後はヴィルメとジョルハイだけで……

 ぞろり、と腹の底で何かが蠢いた。シェイダールはすぐさまそれを突き沈め、娘を抱き直してリッダーシュの手元に注意を移した。

「麦の籾じゃないか。そっちでもう試してみたのか」

「手分けして術をかけたのですが、結果を確かめようにも神殿では蒔ける場所がないもので。恐縮ながらシェイダール様にお願いできないだろうかと、六彩様からの言伝です」

「場所がない?」

 思わずシェイダールは聞き返していた。大神殿には、神官の食事や祭儀の供物を賄う畑があるはずだ。案の定、ナムトゥルは憤懣をあらわにして大きくうなずいた。

「はい。神殿の畑には余分の場所がないと、突っぱねられたのです! 我々学究派とて同じ神官、まして重要なつとめに励んでいるというのに! 多くの民を救う種籾のために、ほんの一畝を空けることもできぬというのですよ! なんたる傲慢、なんたる偏狭!」

 激しい声に乗って無数の火の粉が舞い踊り、弾ける。煩わしさにシェイダールは顔をしかめたが、幼いシャニカはそれだけでは済まなかった。小さな手でぎゅっと父の服を握り締めたと思うや、いやいやと頭を振って大泣きをはじめてしまったのだ。

「やー! うわあぁぁん!」

 ナムトゥルがぎょっとなって下がり、身を竦める。タナが慌てて手を差し伸べたが、シャニカは父親にがっちりしがみついて離れない。

「シャニカ、大丈夫だ。痛くない、怖くないぞ。ほら、よしよし」

 シェイダールはできるだけ穏やかになだめ、優しく背をさすってやる。だが、まさしく火がついたような泣き方はおさまる気配がない。彼は助けを求めて従者を振り向いた。

「特別に許す。なんとかしろ」

 横柄に縋られ、リッダーシュはおどけて目を丸くしたものの、責任重大と表情を改めてそばに寄った。丸い頭にそっと手を触れて、静かにささやく。

「姫……シャニカ姫、ご安心を。お父上も私もおそばにおります、お守りします」

「ふっ……ぅ、ひっく、ぅぇ」

 途端に号泣が止まり、シャニカは真っ赤に泣き腫らした顔を上げて、しゃくり上げながらリッダーシュを見つめる。

「ほら、もう怖くありませんよ」

 リッダーシュが笑い、黄金の蜜が波紋を広げる。シェイダールは足を踏ん張って堪え、シャニカはそんな父にお構いなく、涙も忘れて魅惑の金色に手を伸ばした。

「ああまったく! わかってはいたが、こうも覿面てきめんだとげっそりだ。ほらリッダーシュ、しばらくおまえが抱いてろ」

 シェイダールは言って、種籾の包みと娘とを交換する。リッダーシュに抱かれたシャニカは早くもご機嫌になり、頬や三つ編みにぺたぺた触りまくった。

「だーぅ! だーぅ!」

「リッダーシュ、ですよ、姫。……まだ無理かな」

「ぃ……り、だぅゆ?」

「そうそう、覚えてくださいね。あいた!」

 すっかり姫に夢中になっていたリッダーシュは、あるじに頭をはたかれて我に返った。

「俺の名前もまだちゃんと呼べないのに、おまえの名前を覚えさせるな馬鹿!」

「一回で覚えられるわけもなかろうに、そう警戒せずとも」

「俺の娘だぞ、記憶力は良いに決まってるだろう。シャニカ、お父様はこっちだぞ」

 いじましく娘の気を惹こうと、ぷっくりした頬を指でつつく。シャニカは振り向いて、

「とーしゃ」

 にっこり一回呼びかけると、義理は果たしたとばかりまたリッダーシュを見つめた。シェイダールはがっくりうなだれ、肩を落として引き下がるしかなかった。

 笑いを堪えているタナとナムトゥルを恨めしげに睨み、ため息をついて気持ちを切り替える。包みを開くと、薄く色づいた籾が小分けにされていた。路を開かれていなければ、何の変哲もない普通の麦にしか見えないはずだが、それでも不気味だということか。

「どうせ燈明の奴が畑の神官どもを味方につけたんだろう。怪しげな術を施した麦など蒔かれては神への供物が穢れる、とかなんとか言ってな。仕方ない、王宮で試すさ」

 いずれにしても、そろそろ施術した種籾を試しに蒔く時期だった。先にちゃんと発芽するかどうか確認した上で、何種類かを近郊で栽培し、まともに収穫できたなら、来年は同じ術を大量の種籾に施して広く配布する。

(うまく芽が出たら、今年の種蒔きに間に合うように、村へ届けよう)

 収穫できる保証はないが、水利の悪い土地でも育つかどうかの実験になる。まともな実りが得られたなら、普通の麦の不作を補える。

(そうすれば、きっと)

 赤い叫びがよみがえりそうになり、彼はぐっと包みを握り締めて堪えた。

「早く王になってくだされば、障害もなくなりましょうに」

 不穏な言葉が物思いを破る。シェイダールは凍てつく目でナムトゥルを睨んだが、当人は問題発言の自覚がないのか、熱に浮かされたような顔でにじり寄ってきた。

「シェイダール様ほどの御力があれば、今の愚かしい神殿のありようを打ち壊し、あるべき姿に正すことも叶いましょう! 何をためらっておいでなのですか!」

「ジョルハイに吹き込まれたのか」

 冷ややかに応じ、シェイダールは相手によく見えるように手を挙げてリッダーシュを制した。この手の次の動き次第では、おまえは力ずくで排除されるのだぞ、と示すために。だがそれさえもナムトゥルは見ていなかった。

「何をおっしゃいます! 誰かの受け売りのように思われるのは心外です。わたくしは心の底から、シェイダール様の即位を熱望しているのですよ! 御自身の目に映らぬのが口惜しゅうございます、御身を取り巻く色とりどりの輝き、鮮やかなうねりの神々しさ……そう、まさに神! 新たな神ともなられる御方で」

「黙れ!」

 ぎりぎりで《詞》にするのを堪え、シェイダールは長広舌を断ち切った。

「都合のいい妄想の拠り所を神などとほざくな!」

 激怒のあまり、それ以上は続けられなかった。常ならば反論の隙も与えず、理屈でとことん追い詰め粉砕するまで攻撃するものを、感情が昂りすぎて思考がまとまらない。

 浅ましい欲。現状と未来に対する不満と不安。己の望む世界になれかしと、薄汚い願いをね合わせて神を創り、従わぬ者を断罪する傲慢。他人の掲げる神を善しとし、目を閉ざし歩みを止めて憚らぬ怠惰。

「貴様のような奴が……っ」

 路が震え、標の螺旋が深淵へ駆け降りてゆく。わぁん、と水底の鐘が鳴った。

「やめろ、シェイダール!」

 リッダーシュが叫ぶと同時に、何事か、と緊迫した声が届いた。近くを巡回していた近衛兵が、騒ぎを聞きつけたのだ。二人一組の兵士が緊張した面持ちで駆けてきた。

 噴き上がりかけていた激流が、すうっと静まり引いてゆく。シェイダールは深く息を吐いて気を落ち着かせた。直後、はっと娘を振り返る。幸いシャニカは怯えもせず、菫の瞳を丸くしてじっと父を見つめていた。安堵のあまり膝が抜けてしゃがみ込む。

「シェイダール様、如何なされました。狼藉者ですか」

 言って兵士はじろりと部外者たる神官を睨んだが、こちらもまったく脅威には見えなかった。魂を抜かれたかのように、完全に腑抜けていたからだ。

 シェイダールは疲れた気分で立ち上がり、「大事ない」とひとまず応じた。警戒と当惑のあいまった顔をしている近衛兵二人に、手振りで指示を出す。

「どちらか一人、その神官を『柘榴の宮』にいる祭司ジョルハイのもとへ送ってくれ。もう一人は後で、タナとシャニカを」

 娘に近付けるなという含みを察し、近衛兵の目が険しくなる。まだ惚けていたナムトゥルは、胸元を槍の石突きで押されて我に返るや、悲憤と絶望を顔いっぱいにみなぎらせた。

「乱暴にするな。彼は『六彩の司』からの使者だ、相応の礼を守れ」

 シェイダールは素早く兵士を牽制した。ここでまた感情的な演説を始められてはかなわない。槍が立てられるのを確認し、彼はナムトゥルに歩み寄ってささやいた。

「己に酔わなくなるまで口を慎め。おまえは今、アルハーシュ様に対する謀反を唆すも同然の言葉を大声で叫んだんだぞ。自分の足で歩いて帰れることに感謝しろ」

「わ、わたくしは決して……っ!」

「そんなつもりはなかった、などと言い訳が通じると思うな。おまえは己の夢想に酔いしれて、王を廃せよとせっついた。俺が、この国が、どれほどあの方に恩を受けているか、まるで考えもせずに。……もしまた同じことを言えば、次は許さないからな」

「世嗣様! シェイダール様、お待ちを」

 悲痛な声が縋るのを無視し、シェイダールは娘のそばへ戻る。近衛兵がナムトゥルを強引に追い立てて行った。

「シャニカ、びっくりさせて悪かったな。大丈夫か? 今日は大冒険だったなぁ」

「とーしゃ?」

 姫は首を傾げ、何か訊きたいのか伝えたいのか、あーあー、うーうー、と一生懸命声を出す。シェイダールは思わず笑いをこぼした。

「早く話せるようになるといいな。さあ、もうタナと一緒にお帰り。いい子だ」

 頬と頬をくっつけて別れを惜しんでから、彼は娘を侍女に託す。タナが歩きだしても後ろを見たままの姫に、リッダーシュが恭しく一礼を送った。

「またお会いしましょう、シャニカ姫」

「あーゅ! りっだーゆ!」

 黄金の蝶を捕らえようとしてか、それとも別れの挨拶か、姫は小さな手をいっぱいに伸ばす。幸せ満面で見送るリッダーシュの横で、シェイダールは苦笑いするしかなかった。

「ほら見ろ、しっかり覚えてしまったじゃないか」

 悔しそうなぼやきを、幸か不幸かリッダーシュは聞いていなかった。彼はしばし考え深げに目を伏せたのち、改めてつくづくと友を見つめた。

「もしかしたらおぬしは、誰よりも神を信じているのかもしれないな」

 そよ風が、ふわりと心を撫でてゆく。シェイダールは驚きに声を失い、立ち尽くした。その無防備な表情にリッダーシュは失笑し、小首を傾げて言い直す。

「いや、信じているというのは違うな。……求めている。うん、そうだ。おぬしは真実ほんものの神を求めているのだろう」

「おい待て、何だそれは! 俺は神なんかいないと、何度も」

 うろたえ気味の反論にも、リッダーシュは答えず微笑むばかり。

「何をどう誤解してるんだ、おまえは」

 シェイダールはぶつぶつ否定したが、彼の深い洞察に何度も驚かされ救われてきた身としては、下らないと一蹴もできない。曖昧な沈黙の内に引き下がる。そんな様子を、リッダーシュは面白そうなまなざしで眺めていた。

 かつて資料庫で土地管理長官ハディシュが見抜いたことを、リッダーシュもまた悟ったのだ。一部の人間にだけ都合が良く、弱き者を救わない――そんな神を否定するこの不信心者は、その実、誰よりも強く、真の救いを求めているのだと。己ひとりの身の上に端を発したその願いは、いまやあまねく人々を包括している。

 だからこそ彼はあれほど激しく、独善的な『神』を憎むのだ。

 己の望みがどれほど身の程知らずに傲慢で気高いか、本人がまったく自覚していないのだから、言ったところで無駄だろう。

「……おい、やめろその顔。自分だけ高い所にいて、迷路の出口が見えてます、みたいな目つきをしやがって」

「いつものおぬしではないか。たまに立場が逆転したら悔しいか」

 思わずリッダーシュは笑って言い返し、怒ったあるじに襟首を締め上げられるはめになったのだった。


     *


 暦の上では秋になっているのに、いつまで待っても雨の気配がやって来ない。

 なお悪いことに、長引く暑熱でアルハーシュ王は明らかに消耗していた。昨年はやり遂げた水乞いの儀式も、長時間ただ立っていることさえ危ういのでは、とても無理だ。

 儀式は延期され続けたが、それも限度がある。王の体力が回復するまで待ってはいられない。と言って無理をさせて途中で倒れられでもしたら大変だ。神殿内部でも揉めに揉めたが、最終的には世嗣シェイダールが代理王としてつとめを果たすと決まった。


 大神殿の一階、普段は大勢の一般人が訪れて供物と祈りを捧げる祭壇。

 今、広間は掃き清められ、しわぶきひとつ聞かれない厳粛な静寂に支配されていた。限られた神官と貴族官僚、街の名士らが整列し、祭壇前で行われる儀式に注目している。

 祭司イシュイが屈辱と怒りに顔を歪め、燈明を捧げ持って先導する。後に続くのは神官らに囲まれた、簡素な麻服一枚の世嗣。祭壇前に進み出ると、シェイダールは教わった通り壇上の炉に香をくべ、煙の立ちのぼる先へ向けて声を張り上げた。

「我、王の位を継ぐ者なり。天なる神々よ、これよりつかのま、我に御力を授けたまえ」

 続けて祭司長が煙を扇ぎ、代理王の身体と、祭壇に置いた冠に浴びせながら唱える。

「王国の守護者、輝く翼と万の目を持つ偉大なるアシャよ、この者に王権を授けたまえ」

 さらに神と王を讃える言葉を長々と連ね、しっかり香を移してから冠を恭しく両手で捧げ持つ。麦藁や月桂樹の枝で編んだ、偽物の王冠だ。

 跪いたシェイダールの頭に祭司長が冠を載せる。『鍵の祭司』ジョルハイが、新たな王を祝福しながら進み出て、絢爛な刺繍を施した王の上衣を着せかけた。

(重いな)

 ずしりと背にかかるのは、厚い布地と金糸銀糸の重みだけではない。人々の祈り、雨を呼び実りをもたらしてくれる王への願い。連綿と続く歴史と共に、この衣装に染み込んできた王国の『命』の重みだ。儀式をこなす間だけにすぎなくとも、紛れもなく今この瞬間から己は真に『王』なのだ。でなければ儀式は意味を持たない。

(……重い。くそっ)

 神に祈るなど、馬鹿げた無意味な行為だ。神などいない、いるとしても人の声など聞いていない。

 幼い頃から拠り所としてきた、己にとっての事実。だが今ほどそれが無力に感じられたことはなかった。ゆっくりと、圧し潰されないように慎重に立ち上がる。顔がこわばっているのが自覚できた。

 所詮は作りごと、上辺の演技。儀式の結果が出ようと出まいと責任はない、自然の運行は誰にも変えられないのだから――醒めた理性でそう割り切っているつもりだった。

 だがそれは結局、彼もまたアルハーシュ一人に任せていたにすぎなかったのだ。大勢の祈りを、願いを、何よりも「民を守らねばならない」という王のつとめを、すべて。

 彼の表情の変化を祭司長はじっと観察し、おもむろに朗々たる声で宣った。

「これなるは王シェイダール。天空神アシャよりワシュアールの地を預けられし、民の守護者なり。神々の祝福あれ!」

「祝福あれ!」

 祭司神官、官僚ら、参列した人々が一斉に唱和する。シェイダールはぞくりと寒気に震えたのを隠し、右手を掲げて声に応えた。

 仮の王の即位が済むと、そのまま儀式は水乞いへと移る。豪華な上衣が取り除けられ、悪魔のもとから水を盗み出した英雄を表す古めかしい衣装が与えられた。顔にも化粧が施され、神話の英雄へと変身させられてゆく。

 神官らも新たな役目に合わせて衣装小道具を替え、参列者はぞろぞろ外へ出ていった。例によって儀式は、大通りと広場に面した、正門上の壇で執り行われるのだ。

(大丈夫だ、手順は忘れてない。しっかりしろ、決まりきった形をこなすだけだ)

 シェイダールは自分に言い聞かせ、頭の中で儀式の動きをおさらいした。

 祭司長に導かれ、神官らの唱える無言歌に囲まれて神殿の正面扉に向かう。一歩外に出た途端、全身にすさまじい圧力が襲いかかるのを感じた。

 目、目、目。何百何千の目が彼を見ている。シェイダールは怯むまいと、己の役割だけを強く意識した。今の己は田舎村の少年でも、不信心の世嗣でも、仮の王ですらもない。地上に水をもたらす英雄アイヴァだ。

 一足、もう一足。この歩みは己のものではない。今現在のものでもない。時を超えて現れた英雄の歩み。ゆっくりと深く呼吸する。静かに路が満たされてゆく。顔を上げると、聳え立つ光の柱が見えた。彼は動じない。揺らめく色が進む先を示し、どこからともなく響く声が時をはかる。

 オォォ……アァ――……

 砂を踏みしめ、岩山を登る。旱の悪魔の住処を目指して雲の階を駆け上がり、ぎらつく光の槍を避け、陽炎の罠を跳び越えて。

 鉦が響く。彼に力を与える六色の音。ダン、と音に合わせて足を踏み鳴らす。

 泉の精霊がなけなしの雫で織った霧の紗幕を身に纏い、密やかに忍び込む。抜き足、差し足、悪魔が隠した水を奪って逃げる。ひた走り、霧の紗幕を脱ぎ捨てて投げ、悪魔の目をくらまして降りてゆく。天から地へ、降り積もる世界の理。羽毛のようなひとひらに乗って、彼は悪魔の手を逃れゆく。

(水だ! 皆、水だぞ!)

 英雄は高く両手を掲げ、帰りを待ちわびていた人々に――

「っ!」

 不意に顔を打たれ、彼は目を覚ました。己は誰だ。今はいつ、ここはどこで、何をしていたのか。無意識に顔を拭い、愕然とする。

「……まさか」

 空を仰ぎ、彼は絶句した。彼だけでなく、この時、屋外にいた誰もが畏怖に打たれ声を失っていた。静寂の中、微かな音だけがつぶやく。ポツ、ポツン、パラパラ……

 群衆がみじろぎし、ざわめき、そして怒濤となった。

「うわああぁぁ!」

「雨だ! 雨が降ったぞ!!」

「王の力だ、彼こそ真の王だ!」

 口々におめき叫び、拳を振り上げ歓呼し、その場にくずおれて伏し拝む。渦巻く興奮が神殿前の広場を呑んで暴れ、もはや誰にも止められない。

 シェイダールは立ち尽くしたまま、放心して空を見上げていた。雨雲などない。乾ききった地面にほんのわずかついた丸い染みも、薄れて消えようとしている。だがそれでも、確かに雨が降ったという事実が人々を熱狂させていた。

(いったいどうして)

 目元を濡らした雨滴がまぼろしだったような気がして、シェイダールは手の甲で頬を拭う。わずかにまだ湿り気が残っていた。

(祈って踊って、それで雨が降るなら旱魃なんて起きやしない。この雨はほんの……その場しのぎ、見せかけだけだ)

 考え込んでいると袖を引かれた。ジョルハイだ。

「惚けてないで、中へ引っ込むぞ」

 ささやかれて我に返ると、シェイダールは周囲を見回した。祭司長が祭壇の向こう、広場に面した側に出て、儀式の成功を祝い終了を告げている。

「早く!」

 苛立った声で急かされて、シェイダールはもう一度だけ神殿の頂上を仰ぎ見てから、ジョルハイの後に続いた。光の柱はもう、薄れてほとんど見えなくなっていた。


 控えの間に入ると、リッダーシュが化粧を落とす水を用意した。ジョルハイは大事な衣装を傷めないよう慎重に脱がせ、広げて吊るす。ようやくシェイダールは椅子に座って一息つき、顔を洗った。

「雨を降らせるとは大したものだね、ウルヴェーユにここまでできるとは驚いたよ」

 ジョルハイは衣装を点検しながら、抑えた声で感想を述べた。洗顔の水音が止んでも一向に返事がないので、眉を上げて振り返り、疑わしげに訊く。

「まさか、偶然だ、と言うのかい? 神々が君の祈りに応えてくれたと?」

「そんなわけないだろう。術を使った覚えはないが、あれは……確かに何かのわざだ。神殿に通っている光が強まったし、音も聞こえた」

 眉間を揉みながら説明しようとして、シェイダールはぎくりと竦んだ。

(おい待て、この状況はまずい)

 儀式の余韻が醒めて理性が働きだすと同時に、顔から血の気が引いた。彼が青ざめたのを見て、リッダーシュが不審げに眉を寄せる。しかし気遣いの言葉をかけるよりわずかに早く、祭司長と『燈明の祭司』イシュイがやって来た。

 反射的にシェイダールは立ち上がって臨戦態勢になる。だが祭司らは共に神妙な面持ちで、両手を袖に入れる臣従の礼をとっていた。そして――そのまま頭を下げ、祭司長ディルエンが沈痛に謝罪した。

「シェイダール様、我らの不明をお赦しくだされ。神々は真に貴殿を祝福したもうた」

「はっ」

 皆まで言わせず、シェイダールは嘲笑をこぼした。彼が尊大なのはいつものことだが、それでも今までは、下手に出た相手を辱めたことなどない。真意を探ろうとした祭司長の目に、歪んだ笑みが映った。

「簡単に騙されてくれたものだな。本気で神のしるしだと思ったのか? ウルヴェーユで小細工したんだよ。降らなきゃそちらも困るだろう。儀式が全部嘘っぱちで何の効果もないと、ばれてしまうんだからな。だから助けてやったんだ、感謝しろ」

「なっ……! 神聖なる儀式を穢したのか、邪悪な不信心者めが!」

 イシュイが喚く。祭司長も髭を震わせ、痛苦に満ちた目でシェイダールを見据えた。

「貴殿は、己が何をしたか理解しておるのか。つかのまといえども真の王となり、神々に誠心誠意、心から慈悲をこいねがわねばならぬ儀式において、浅はかな小細工を弄し神々を欺いた。……己の行いの意味を、理解しておるのかッ!」

 激昂を抑えられず、ついに祭司長が怒鳴る。シェイダールは逆に冷徹な表情になった。

「あなた方こそ、自分たちの危機を理解しているのか。若くて健康な代理王を立てて儀式をしても、一切まったく何の変化もなかったら、あと考えられるのは儀式が間違っているか祭司が無能か、ということだ。事実、無能としか言いようがないがな」

 容赦ない侮辱に、場が凍り付く。リッダーシュもジョルハイもとりなすどころでなく、イシュイでさえ言葉を失った。息詰まる沈黙の後、祭司長が絞り出すように慨嘆した。

「貴殿を買いかぶっていたようだ。己は神を信じずとも、民人にその咎を及ぼすような真似はすまい、歴史ある信仰を土足で踏みにじりはすまいと……見込んでおったものを」

「俺もあなたを見損なった。神だのなんだの、不確実で曖昧な事柄は横に置いて、現実にある利益・不利益の計算ぐらいはできる人だと思っていたが、違ったようだな」

 怒りと失望の黒い炎が、永劫に溶けぬ氷壁に阻まれて散る。誰かが歯を食いしばる音が聞こえたが、他には一切の声もなく、無言の内に祭司長とイシュイは部屋を出ていった。

 足音がすっかり聞こえなくなるまで、シェイダールは微動だにしなかった。そして不意に、がくりと力を失ってくずおれる。リッダーシュがとっさに支えて椅子に座らせると、彼は両手で顔を覆って深い息をついた。

 ややあってジョルハイが用心深く尋ねた。

「なぜああまで露骨に侮辱した? 小細工だなんて嘘だろう、君自身が呆然としていたじゃないか」

「……かない」

「えっ?」

「こうするしかないんだ! 畜生っ!」

 いきなり叫び、シェイダールは両手を膝に叩きつけた。冷酷さの仮面が外れ、泣きだしそうな顔があらわになる。激しく頭を振ってから、彼は小さな声で呻いた。

「あの雨は確かにウルヴェーユによってもたらされた。だが、本当に季節を変えて雨を呼ぶものじゃないんだ。……まさに小細工だよ、祭りに必要な演出と同じだ。旱は弱まらないし、この秋も冬も、予想通り水不足になるだろう。そうなったら、世間はどう思う。代理王が行った儀式で雨が降ったのに、結局やっぱり水不足のままだったら!」

 シェイダールは顔を上げ、リッダーシュを食い入るように見つめた。事態を理解した彼もまた、息を飲んで青ざめる。

「……アルハーシュ様が」

「そうだ。旧い王がしつこく居座っているせいだ、とみなすだろう。俺が王になりさえすればいいはずだ、早く代われ、と騒ぎだすだろう。何も解決しやしないのに!」

 血を吐くような声。リッダーシュが天を仰いで「なんてことだ」とつぶやく。ジョルハイはこめかみを押さえて瞑目し、ため息をついた。

「ディルエン様に正直にそう言わなかったのは、燈明殿がいたからかい。私から内密にとりなしておこうか」

「やめろ。あいつらは俺が悪だと思っていればいい」

「意固地になるんじゃない、シェイダール!」

「言ってどうなる!? あの雨は俺が降らせようとして降らせたんじゃない、ウルヴェーユによるのは確かだが儀式に付随するものだ、と言ってあいつらが納得するか? 今までさんざん同じ儀式をやってきて、本当に雨が降ったためしがなかったのに、今回のことは何の不思議でも奇蹟でもない、だとか! ……あいつらは神を信じているんだ。そこに神の意志を見出さないわけがない。事実よりも神のほうが大事なんだ。そしてその神は、力を失った王を生かしてはおかない!」

 言い切ったシェイダールに、もはや反論はなかった。彼は手で顔をこすると、堪えた涙で熱くなった息を吐き、ぐっと顎を引いた。

「俺が儀式を駄目にしたと大っぴらに非難できるのは、本当にこのまま水不足の厳しい季節が続くとわかってからだ。いざ攻撃が始まっても、こっちだってやられっぱなしではいないさ。とにかくアルハーシュ様を守らないと。もし王に何かあれば、一番優先すべき旱魃対策が大混乱する」

 そこまで言い、彼はジョルハイをじっと見据えた。

「俺の個人的な感情もあるのは認める。あの方に頼っているのは確かだ。でも今は本当にそれどころじゃない。こんな情勢で王が交代すればむちゃくちゃになる。だから他の神官には誰にも、本当の話を言うな。俺が小細工をした、それでいい。そうすれば奴らも心の底から、アルハーシュ様の快復を願ってくれる。わかったな」

 彼の判断の基となる知識を与えたのは、そもそもジョルハイである。命令を拒めるはずもなく、沈黙を誓うしかなかった。


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