九章(立ち向かう力・毒蛇の囁き)
王に呼ばれて出向いたのは、これまでにも何度か使った会議の間だった。
謁見殿の一画に造られた部屋は、二十人ほどが着席できるよう、段差をつけた半円状の長椅子が設えられ、向かい合う奥の壁際には玉座が据えられている。三層の壇上にある玉座の足元には、議長の椅子が置かれていた。
今はアルハーシュ王が玉座につき、長椅子の前列中央付近に三人の長官がそれぞれ秘書官を連れて、適当な間隔を空けて座っていた。誰の顔も一様に険しい。シェイダールは予感が当たったかと気を引き締める。同時に王が振り向き、いつもの温かい微笑を見せた。
「来たか、シェイダール」
「遅参、まことに申し訳ございません」
「さしたる遅れではない、鍛錬に励んでいたのであろう? 後ほど成果を聞かせてもらおう。楽しみが控えていると思えば、難しい議題にも辛抱がなるというものだ」
王はおどけて言いつつ、手振りで着席を促す。シェイダールが腰を下ろすと、王は真顔になって切り出した。
「では始めよう。先般、水利長官が北部視察を終えてもたらした報告については、各長官に伝えた通りだ。調べを進めるよう命じておいたが、各々の結論を聞かせてもらいたい。しかる後に対策を立てよう。まずはラウタシュ、改めて今一度、視察の結果を」
指名を受けてラウタシュが起立、一礼する。彼は常から険しい顔つきに陰鬱さを加え、重々しく口を開いた。
「誉れある王、ならびに諸長官、世嗣殿にご報告申し上げる。北部一帯の水路や河川について視察の結果、今年は水不足になる可能性が高いと判断された。この時期にしては水位水量ともに前年を下回り、充分な雪解け水が届いておらぬ様子。過去の記録に鑑み、これより数年は旱が続くでありましょう」
告げられた内容に、シェイダールはぎょっとなって息を飲む。父が殺された年、その前後数年の気候がすぐさま脳裏に浮かんだ。
ワシュアールは大河の流域を除いて乾燥した土地が多い。そして、数年おきに降雨量が変わる。適切な水源管理を行えば余裕をもって作物も家畜も人も生き延びられる年から、限界まで切り詰めてなお多くが失われる旱魃年へと。それは周期的な自然の変動であり、気候を数字で記録しておらずとも、畑を耕し野に羊を放って暮らす者なら経験的に知っている。
父が殺された年の不作は、旱魃よりも低温が原因だった。だがその前の数年間は水不足が続いており、蓄えに余裕がなかったため、決定的な打撃になったのだ。
またあの飢饉が来るのか。
絶望に竦むシェイダールの前で、ラウタシュが各地の現状と近い未来の予測を述べ、続いて土地管理長官ハディシュおよび財務長官リヒトが、それぞれの管轄における数字を比較検討した結果を述べる。指標となる農作物の収量、漁獲高、それらに連動する商品の流通量と税収の変化。様々な情報を総合して、やはり旱魃の傾向は明らかであるとの結論に達した。
不穏な予測を確認し、アルハーシュ王はため息をつく。だが何もせずただ嘆いてはいられない。すぐに彼は声に力を込めて言った。
「既にドゥスガル大使のもとへ使いをやった。近日中に穀類の緊急輸入について条件の見直しと確認を行うゆえ、リヒト、準備をぬかりなく整えよ」
「御意、承りました」
「ラウタシュ。揚水機の建造計画を前倒しにできぬか。候補地は今回の視察で選定したのであろう。ハディシュと共に土地の整備を急ぎ進めよ」
「畏れながら、そちらはむしろ後回しにすべきではないかと存じます。揚水機の建造は充分に時間をかけて綿密に調査せねば、他の水源を涸らす恐れがございます。むろん既存の水路を見直し、より効率的に配水し損失を少なくする改修工事は進めて参りますが」
揚水機が戦力にならず、シェイダールは悔しさから反感を抱いたが、堪えて理性で水利長官の論を認めた。各地で使われている灌漑水路は古代の遺産だ。山岳地帯から地下水を導く大規模なもので、どうやって開鑿されたのか今ではもうわからない。性急かつ場当たり的に揚水機を建造して水路を駄目にしてしまったら、取り返しはつかないのだ。
(だからって今ある水路だけでは、賄いきれない)
シェイダールは眉間を押さえて唸る。そこへ王が呼びかけた。
「何か他に打つべき手を考えられるか、シェイダールよ」
「……少し待ってください」
さすがに即答できず、シェイダールはうつむいた。ゆっくり深く呼吸し、己の内を意識する。白、赤、緑……ひとつひとつ標を辿って降りてゆく。青、黄、紫……一段ごとに両手で触れて確かめ、遠いささやきに耳を澄ませて。
(旱……水、雨……いや、そっちじゃない)
チリリ、リ……ン
知識を探す手掛かりを心に浮かべるが、音色は遠く小さく、反応が芳しくない。探す方向が間違っているのだ。こだわりを捨てて意識を自由に遊ばせる。途端に星がきらめき、標のひとつを打ち鳴らした。
「種子を」
ぱっと顔を上げると同時に声が飛び出す。危うく《詞》を使いそうになり、シェイダールは咳払いすると、路の残響を静めてから言い直した。
「籾や種に術を込めて、少ない水でも枯れにくくできそうです。今すぐ始めたら、この秋に蒔く麦には間に合うでしょう。全部は無理にしても、一部は。それで余裕ができたら、春に植える他の作物にも広げていけます。大掛かりな工事も必要ない」
素晴らしい解決策が見えたとばかり、意気込んでまくし立てる。だがそこまで言って、彼は自分に向けられた複雑なまなざしに気付き、当惑して口をつぐんだ。
三人の長官はいずれも落ち着かない様子で、あるいは胸を押さえ、あるいは顔を背けている。王が微苦笑をこぼし、玉座の肘掛を軽く叩いた。
「さても頼もしきことよな。そなたは既に『王の力』を使いこなしておるわけだ。代々の王が直観を頼りに苦心して掬い上げた知恵を、そなたは自ら探し求め的確に引き出した。余の内なる標もひとつ、震えておる。そなたの申した手法、確かに可能であろう」
言われてやっとシェイダールは、己が何をしたのか自覚した。長官らの態度がおかしいのも、内なる路が共鳴したためだろう。今までならばその感覚は、唯一、王によってのみ与えられるものであった。だがこれからは違うのだ。彼は声を弾ませた。
「他にも同じ標を読み解ける者がいれば、作業を手伝ってもらえるでしょう。間に合わせて見せます、やらせてください」
既に『王の力』は王だけのものではない。皆で取り組めば、良い方法も見付かるし作業も進む。どうだ、これぞウルヴェーユを広く知らしめる意義だ、と一同を見回した。が、やはり反応は鈍い。彼が眉を寄せると同時に、リヒトが吐息を漏らした。
「ふむ。なんとも……落ち着かぬものですな、アルハーシュ様。王ならぬ者が王のごとき力を振るい、我らの魂を揺さぶる。理屈としては、路と標の何たるかを承知しておりますが。ともあれ、王のご決断やいかに?」
「むろん、すぐにも取り組ませよう。リヒト、必要な種籾を用意してやるが良い。ハディシュ、都の近郊で試験的に栽培する圃場を選定せよ」
話が進むにれ、シェイダールは戸惑いを深めた。どうも王は、小規模な実験を想定しているようだ。誤解を正すべきかと口を開きかけたところで、ラウタシュが水を差した。
「それよりもまず、供物と祈祷の準備でしょうな」
「何を言って……」
思わずシェイダールは呆れ声を上げたが、王に手振りで制され、ぐっ、と抗議を飲み込む。不満もあらわな世嗣の前で、王はラウタシュに向かってうなずいた。
「うむ。旱を弱め水を呼ぶ祭儀を執り行うよう、祭司長に使いを遣る。そなたはとりわけ早くに水が涸れそうな土地から改修を急がせよ」
「御下命、承りましてございます」
置き去りを食ったシェイダールは呆然とした。なぜ王までが儀式などに頼るのだ。ウルヴェーユによる耐乾性の付与に賛成していながら、それをまともに活用しようとせずに。混乱する彼に、アルハーシュが不意にひたと厳しいまなざしを据えた。
「シェイダール。屈辱を堪え、祭司長に頭を下げよ。余と共に儀式を執り行い、神々の情けを乞うのだ」
「な……っ!?」
「さもなくば、民は旱をそなたの罪とするぞ。父と同じ目に遭いたいか」
痛烈な一言が胸を刺した。シェイダールは喘ぎ、喉元を押さえて叫びを飲み込む。
――神様がいるとかいないとか、どうでもいいのよ!
ヴィルメの叫びがこだまし、彼はぎゅっと目を瞑った。そうだ、どうでもいいのだ、大勢の民にとっては。災害を誰かのせいにして、憎しみと不安と苦しみを全部その者に押し付けたい、ただそれだけ。
(そんな愚かさを終わりにしたくて、俺はここまで来たのに。結局、膝を屈するのか)
砕けそうなほどに歯を食いしばる。
「冗談じゃない」
抑制した怒りがこぼれる。彼は決然と顔を上げ、挑むように声を張り上げた。
「それで良いのですか。アルハーシュ様、それに御三方も! 神々など関係なく、今までにも繰り返されてきた自然の変動だと、その目で確かめ記録を調べて結論を出されているのに、それを『神の機嫌を損ねたから』なんていう愚にもつかない理由で片付けられて! あなた方の理知と努力をすべて無視されるのを、黙って見過ごされるのか!」
激しい言葉を叩きつけられ、王と長官らが驚きをあらわにする。反発は予想しても、こんな風に論を持っていかれるとは思わなかったのだろう。その隙にシェイダールは、大きく槌を振り上げて楔を打ち込んだ。
「俺はごめんだ! 神を信じようが信じまいが、人は本来、理性で現実を理解できるはずだ。不安や無知で目に覆いをされていなければ、取るべき行動が見えるはずなんだ!」
しばし、沈黙が場を支配した。シェイダールは拳を握り締め、一人一人を順にじっと凝視する。最後に王を見つめ、目をそらさぬまま力強く語りかけた。
「戦いましょう、アルハーシュ様。人間を苦しめる試練に正面から立ち向かい、勝ちましょう。身を屈めて心をごまかし、人が死ぬのも諦めたふりをして、悪魔になぞらえた災害が通り過ぎるのを待つのはやめるんです。今の我々には武器がある。相手は強大ですが、無慈悲な一撃を受け止めて逸らすだけの盾がある。あなた方が、歴代の王や長官が、これまでずっと蓄えてきた知識、倦むことなく維持し改良してきた技がある!」
敢えてウルヴェーユを持ち出さず、長官らが手がけてきた仕事を、自分たちの武器だと言う。その主張は確実に彼らの心を動かした。シェイダールはしばし口を閉ざし、一同の表情が変わってゆくのを確かめてから、今度はややうつむいて、低い声で告げた。
「必要とあらば、頭を下げて神に祈りましょう。でもそれは、他に打つ手がないからじゃない。神殿に気象を変える力があるからでもない。戦うための時間稼ぎになるからです」
――あなたにとっては祭儀なんてどうでもいいんでしょう……
(ああ、どうでもいいさ。そうとも、上辺だけ祈る真似をするぐらい、何でもない)
――神は在る。神は在らぬ。どちらも等しく成り立つのではないかと……
(人間の都合で救いや罰を与える神など在りはしない。だが一人一人が心に神を持つのなら、それを認め力を与えるのは、人を励まし支えることと変わらない。ならば)
「人が皆、戦う力を奮い起こせるように。自らの持てる力と知識を、頼もしい武具だと信じて前へ進めるように」
そしていつか来し方を振り返った時、もはや迷信の杖などとうに打ち捨て、己が力で歩みを進めてきたのだと気付く、その日を目指して。
シェイダールの強い願いが通じたのか、アルハーシュが瞑目し、そっと息を吐いた。三人の長官もそれぞれ思わしげに目を伏せ、沈黙する。書記官や従者らは完全に心を奪われたように、若い世嗣を見つめていた。
長い沈黙の末に、王が決定を下した。
「良かろう。水乞いの祭儀は執り行う。だが同時に、水路の改修工事や、ウルヴェーユによる試みをも大々的に知らしめよう。我々には祈る以外の手立てがあること、そしてその成果を、祭儀よりも強く印象付けるのだ」
シェイダールが破顔し、土地管理長官と財務長官も姿勢を正して拝命の礼をする。ラウタシュ一人が最後まで渋った。
「祭司長は神殿に対する挑戦であるとみなすでしょうな」
「事実そうではないか」
くっ、とアルハーシュ王は笑い、楽しげに続けた。
「だが表向き和解を演出するために、傲岸不遜の悪名高い世嗣が折れて頭を下げると申しておるのだ。おかげで水利長官の功労が知れ渡るのだから、悪い話ではあるまい」
揶揄されて、シェイダールとラウタシュ双方共に苦い顔をする。王は朗らかな笑声を上げ、活力の宿る目を世嗣に向けた。
「そなたはすぐにウルヴェーユに取り組め。上手くいけば近郊のみならず、広い範囲に種籾を配布させよう。そなたの故郷に届けて、母親や知己の命を救うことも叶うであろう」
さりげなく添えられた一言に、シェイダールははっとなった。神殿がどうの民がどうのと大きな話に目を奪われていたが、水不足で飢饉になれば、故郷の村でまた何人もが死ぬのだ。それは顔見知りの誰かか、あるいは母ナラヤかもしれない。
(そうだった。俺は……もう誰も死なせないと決めたじゃないか。馬鹿げた生贄の儀式をやめさせるってだけじゃない。そんな儀式をしなきゃならない状況そのものを、打開しなきゃならないんだ)
ぐっと顎を引き、決意を新たにする。彼の表情が改まったのを見て取り、王もまた強い意志を込めてうなずいたのだった。
同じ頃、『柘榴の宮』ではジョルハイがシャニカの健康を願う祈祷を済ませ、ささやかなもてなしを受けていた。定期的な訪問のおかげで、ヴィルメは以前よりも心穏やかに毎日を過ごしていた。彼は王宮の外との唯一のつながりだし、村から旅を共にした間柄ゆえ、気の置けない接し方をしてくれる。何より親切で同情的だ。
「シャニカ姫も大きくなったねぇ。ついこの間まで、ひっくり返ったまま泣くばかりだったかと思えば、もう匙で自分の粥を食べているんだから驚くよ。君がしっかり育てているからだろうな、いや母親というのはたいしたものだよ」
「祭司様の祝福のおかげです」
「いやいや、君のお手柄だとも。だからこそ君も、少しは楽しむ権利があるさ。今日はこんなものを持ってきた」
言って彼は杯を置き、ごそごそと袖から土産を取り出した。折り畳み式の小さな盤と駒だ。いつぞやシェイダールが「何が出てきても不思議じゃない」と言ったが、ジョルハイはそんな調子でいろいろな物をヴィルメの部屋に持ち込んでいた。
「これは何ですか? 双六のようですけど」
「簡単な遊びだよ。いいかい、互いの陣にこうして駒を並べて……」
ジョルハイは盤を広げて用意を整え、遊び方を説明する。難しすぎない単純な遊戯だ。三回ほど対戦して、最後の一回でジョルハイは上手に負けて見せた。
「そうそう、いい手だ! どうだい、面白くなってきただろう」
勝てるとなると遊戯は楽しいものである。ヴィルメは久しぶりの興奮に顔を輝かせ、手を叩いて喜んだ。彼女のはしゃぎように、ジョルハイもにこにこする。
「そんなに喜んでもらえて何よりだ。ではこれは置いていくから、召使にでも教えて退屈を紛らすといい。次に来た時にまたお相手するよ」
「まあ、でも、こんな……」
「私の手元にあっても、なかなか遊べないから勿体ない。何しろ相手をしてくれる仲良しの同僚があまりいないものでね。そんなわけだから、君が預かってくれるほうが、毎回持って来なくて済むし助かるよ」
「わかりました。そういうことでしたら、お預かりします」
実際には返却を想定していないわけだが、ヴィルメはそれで納得してうなずいた。双六の盤を見つめ、そっと指で升目の線をなぞる。伏せた睫毛が震え、唇が微かに動いた。
ジョルハイは痛ましげな表情になり、用心深くささやいた。
「御夫君を相手に誘うのは、あまりお勧めしないな。彼は聡いし負けず嫌いだ。君を徹底的にやっつけて、遊戯をつまらなくしてしまうぞ」
「ふふっ……きっとそうでしょうね」
ヴィルメは小さく苦笑したが、そのまま顔を上げず物思いに沈む。ジョルハイは葡萄酒の杯を呷り、顔をしかめて首を振った。
「まったく、シェイダールには困ったものだね! 何でも一人で勝手に思い決めて、絶対に譲ろうとしない。善かれと信じて、黙ってどんどん先に行ってしまう」
「ええ。でも、そういうあの人を好きになったんですもの。お心遣いには感謝しますけれど、この状況はわたし自ら招いたこと。今はただ、母としてしっかり努めるだけです」
寂しげに微笑んだヴィルメに、ジョルハイは「健気だねぇ」と降参の仕草をする。敬服を装った笑みに小さな黒い棘が覗いたのを、咳払いでごまかして続けた。
「まぁ少なくとも、世嗣殿の子の母、という地位は安泰のようだから、そこは安心して良いのじゃないかね」
思わせぶりな言葉に、ヴィルメは怪訝な顔をする。ジョルハイは蜜菓子をつまんで口に入れ、何気ない態度で告げた。
「シェイダールは他の女のもとへは行っていないそうだよ。宮の中のことは君も知っているだろうが、外でも誰も相手にしていないとか。ひたすら仕事漬けらしい」
ヴィルメは思いがけないことに相槌さえ打てず、呆然とした。王妃たちにウルヴェーユの手ほどきをしているとは聞いていたから、てっきりそのまま誰かの部屋に招かれて過ごしているのだろうと思っていたのに。
「……誰も?」
無意識に繰り返し、その意味をどう理解すべきか困惑する。
(わたしはまだあの人の妻でいられるの? 単なる『娘の世話をする女』じゃなく)
そう考えた途端、じんわりと胸が熱くなる。己の反応に彼女は笑いだしたくなった。
(馬鹿みたい。あの人はいつでも自分の信念に夢中で、わたしが何をどう思っているかなんて気にもしなかったじゃない。村を出る時からして、こっちから言い出さなければ当然のように置き去りにしたに決まってる。わたしがみすぼらしい資質しか持たないとわかったら、もう見向きもしない。……必要とされていやしないわ。それなのに)
まだ彼のことが好きなのだ。他の女と通じていないと聞いただけで、希望を持ってしまうほどには。
(馬鹿みたい。本当に、……あたし、馬鹿だ)
独りきり、何ひとつ持たず荒野に裸足で踏み出して、誰も登ろうとしない険しい山の頂を目指すがごとき生き方に憧れた。人を寄せ付けない背中に刻まれた深い傷を見て、血を拭ってやりたいと思った。
自分にそんな力はないのだと知らず、歩みを共にすれば己の足も血塗れになるとの覚悟もなく、備えもせず。身の程を思い知らされた今でさえ、諦めきれない。
どうして彼を好きになってしまったのだろう。村の皆と同じように、罪人の家族を遠巻きにして近付かなければ、今頃は退屈で平凡な暮らしを送っていただろうに。
(でも、もう遅い。この気持ちを、今さら否定なんてできない)
瞑目し、細く深く息を吸う。溢れ出しそうな想いを胸の奥へ引き戻して押し込める。痛いほど悲しく切ないのに、恋慕の情はたとえようもなく甘く心身を痺れさせる。
そうしてヴィルメが葛藤しているさまを、ジョルハイはただ黙って見守っていた。ややあって彼女が落ち着くと、彼は平静に話を続けた。
「しかしそうなると、いささか心配もある。世嗣殿の子が一人だけなら、彼の行いの結果がすべて姫に降りかかるわけだ。良いことも、悪いことも」
さらりと滑らかな口調での、不穏な警告。ヴィルメはどきりとして、目が覚めたようにジョルハイを見つめた。青年祭司は苦笑を返し、軽い世間話のように装う。
「いや、脅かすつもりはなかった、失敬失敬。ただ彼にはもうちょっと、君たち母子への影響を考えてもらいたいものだと思ってね。相変わらず頑固に祭司長とやりあって譲らないのは、まあ良いんだ。神殿の横暴を止めるのは彼の悲願だし、私としても、今の腐った上層部にはいい薬だと思うよ。だが、いつまでも王位を継ごうという気を見せないのは……」
曖昧に言葉を切って、ジョルハイは杯を手に取る。中身が空なことに気付き、慌ててヴィルメは酌をした。酒を注いだ後、そのまま彼のそばに座り、声を低めてささやく。
「よくわからないんですけど……シェイダールは世継ぎに決まったのでしょう?」
「建前はそうだがね。どうも私には、ただの時間稼ぎに思えるんだ。そうこうする内にアルハーシュ様の御子が生まれたら、彼は玉座を譲ってしまうのじゃないかね。王位なんかよりウルヴェーユを究めたいのだろうが、少しは我々学究派のことも信頼して、任せてくれないものか……何もかも自分でやろうとして、まったく」
あのままじゃいつか倒れるぞ。ぼやいてこぼした嘆息に偽りの気配はなく、ただ心から世嗣の健康を案じているようだった。彼はうっかり真情を漏らしたのを恥じるように、首を振ってごまかした。
「違った、話がそれたな。ええと……そうそう、うん、それで結局シェイダールが王位に即かなかったら、シャニカ姫の立場が難しいことになる。その辺りも、彼には考えて欲しいものだよ」
「つまり、わたしとシャニカが追い出されるかもしれない、という意味ですか」
ヴィルメは小声で問いかけた。手が震え、酒壺を落とさないように急いで盆に置く。ジョルハイは優しく思いやりのこもった仕草で、ヴィルメの肩をさすってやった。
「追い出されるか、毒を盛られるか、あるいは婢女に落とされるかもしれないな。……そんなに怯えなくてもいい。いざとなったら姫君を連れて、神殿へ逃げて来たまえ。私がいる限り必ず保護しよう。村を出るよう勧めたのだからね、最後まで責任は持つとも」
「でも、そうなったら」
「決まったわけじゃないさ。ただ、心構えはしておいたほうがいい。大丈夫だろうとぼんやりしていたら、百戦錬磨の王妃たちにいいように餌食にされてしまうぞ。ことそういう方面に関しては、シェイダールは当てにならないだろうし」
やんわりと夫を侮辱されたが、ヴィルメは反論できなかった。唇を噛んだ彼女に、ジョルハイはなだめる口調になって言い添えた。
「御夫君を無能呼ばわりするつもりではないよ。彼はただ、高潔すぎるんだ。強い心で、常に理想の高みを見上げている。だから想像がつかないのさ――心が弱くて浅ましい、欲深な人間がどういう振る舞いをするのか」
静かに這い寄る毒蛇のようなささやき。ヴィルメは直感的にぞっとなり、身を退いた。
弱く浅ましく欲深な、そう、我々のような人間がね……。
口には出されなかったが、彼の声は確かにそう聞こえた。心の奥に巣くう醜悪さを愛撫されたようで、背筋が冷える。ヴィルメは青ざめて顔をこわばらせた。
つかのま人でないかに見えた青年は、ふっと身に纏う気配を変え、いつもの飄々とした風情に戻った。杯を置いて立ち上がり、軽くふらついて、おっと、と姿勢を正す。
「失敬、ちょっと飲みすぎたようだね。長居してしまった、そろそろ失礼するよ。何かあったら相談に乗るから、いつでも呼んでくれたまえ。御身お大事に、奥方様」
おどけて大仰に一礼し、ふわふわした足取りで部屋を出る。ヴィルメはかろうじて笑みを作り、礼儀にかなうよう見送ったが、すぐに帳を下ろして娘のもとへ駆け寄った。
「かーしゃ?」
不器用に食事を終えて、汚した前掛けを侍女に取り替えられていたシャニカは、母を見上げてきょとんと瞬きする。ヴィルメは笑いかけてやりながら、ぎゅっと小さな体を抱きしめた。陽だまりのような柔らかい温もりと、幼子の不思議な匂い。両腕の中にそれらを大切に包み込んで、ヴィルメは何度も繰り返しささやいた。
「大丈夫よ、シャニカ。お母様が守るからね。大丈夫……」