九章(利便と堕落・神殿の不穏)
九章
高原地帯から雪解け水が流れ下り、ワシュアールの都を含む一帯に春を運んでくる。草木が芽吹き鳥が歌う頃、シェイダールは染物師の工房でしかめ面をしていた。
「やっぱり安定しないな」
様々な色に染め上げられた糸の束を光に掲げ、ためつすがめつしながら唸る。横でヤドゥカも難しそうに、太い眉を寄せて思案していた。
「六色すべてを出そうとすると多種類の染料を使わねばならぬが、調合ごとに変わる上に褪色しやすい染料もある。上手くゆかぬものだな」
「宝石に頼っていたら、貧乏人には手が出ない。なんとかしたいんだがなぁ」
うう、とシェイダールは首を振って糸を置いた。村の土産の色糸を見て、これは使えるのではと閃いたのだが、そう簡単にはいかないようだ。
「鉦にも苦労したが、こちらもてこずりそうだ。気長にやるしかあるまい。当面、大掛かりな装置にはいにしえの作法にならって耐久性のある石を用いることだな」
ヤドゥカは言って、帯に挟んだ鉦に触れた。シェイダールも腕組みしてうなずく。
「ああ、どうせ大きなものはそう次々造れるわけでもないし。揚水機も構造はほぼわかったが、いざ造るとなると材料から何からつまずいてばかりだ」
長官相手に大層な展望をぶち上げておいて、なかなか成果を上げられないのがもどかしい。アルハーシュも折に触れて助言をくれるが、膨大な『知恵』を読み解くのは難しく、なかなか活用できない。持ち腐れだな、と王は苦笑いし、そなたならばもっと上手く使えるだろう、などと仄めかすもので、シェイダールは彼の助言を求めにくくなっていた。
(アルハーシュ様はもうすっかり、俺に位を譲るまでの『つなぎ』の気分になっていらっしゃるようだ。俺の代で物事を変えていくために、地を均し水路を引き、蓄えを用意することしか考えていない。くそっ、気が早すぎるだろう!)
シェイダールが悔しさから頭に両手の爪を立てたところへ、工房内を見回っていたリッダーシュが戻ってきて何気なく言った。
「順番を逆にしてみてはどうだろう? 色糸を用意して《詞》や音のよすがにするのでなく、まず《詞》で色を固定してしまうのだ。その上で音を載せ《詞》を重ねがけする」
見る見るシェイダールは表情を明るくし、リッダーシュをがっしと抱きしめた。
「それだ! いいぞ、それならきっと上手くいく! ……って、ちょっと待て、じゃあ糸紡ぎからやり直しか? さすがにそこまでは手を広げられないぞ」
喜んだのもつかのま、はっと気付いて従者を離し、困り顔で糸束を見下ろす。
今でも既に、工房の染物職人、ザヴァイと奥方、加えて『柘榴の宮』の妃らにウルヴェーユの手ほどきをしている。神殿でも、前『鍵の祭司』を筆頭とする一派が『学究派』を名乗り、既に複数人、路を開いて標を辿り始めているのだ。その誰もが、何かあれば彼に相談をもちかけ、導きを求めてくる。この上さらに人数を増やしたら、彼一人ではとても手が回らない。
「弱ったな……とりあえず、白糸に《詞》を結び付けられないか試してみるか」
考えながらシェイダールは、染色前の糸が置いてある棚へ向かい、一束手に取った。職人らに向き直り、それを持ち上げて見せる。
「ひとつ貰うぞ。そっちでも、今リッダーシュが言ったやり方で染められないか試してみてくれ。複雑な《詞》は扱えなくても、一色を定めるぐらいならなんとかなるだろう」
「畏まりました。染料のほうにも《詞》をかけられないか、材料や配合も引き続き工夫してみましょう」
難題にひとつ手がかりができたので、職人らもまたやる気を出したようだ。シェイダールが今月分の支払いを渡すと、親方が中身をあらため、職人一同恭しく頭を下げた。
「世嗣様には御厚遇いただき、まことにありがとう存じます」
「厄介な仕事を頼んでいるのはこっちだ、もし不都合があれば遠慮なく言ってくれ。引き続きよろしく頼む」
シェイダールは驕るでもなく丁寧に言い、親方と握手を交わして工房を後にした。
王宮に戻る一行を、複雑な視線が追う。変革をもたらす若い世嗣とその仲間への、眩しげな期待。不安と警戒。へつらいと打算。
「煩わしいな」
シェイダールがぼやくと、横につくリッダーシュがとぼけた。
「そう気難しい顔をせず、愛想良く笑って見せては如何です、我が君。少しは心証が良くなるやもしれませぬぞ。ザヴァイ殿と奥方の苦労も軽くなりましょう」
「馬鹿面をさらすのはごめんだ。それより、ザヴァイの奥方は筋がいいから、もし本当に糸紡ぎからやり直しとなったら協力を頼もう」
「ああ、それが良いな。現状、おぬし一人があれもこれも負っているから、少しでも手分けできる者が増えたら助かるだろう。女とは言っても、柘榴の……」
そこでリッダーシュは小石につまずいたように、続きを飲み込んだ。王妃らは糸紡ぎなどしないから頼めない、と言いかけたのだ。同じ宮に一人だけ、幼い頃から糸紡ぎに明け暮れた女がいることを忘れて。シェイダールはわずかに顔を曇らせたが、それ以上の反応は見せなかった。ああ、と淡泊にうなずく。
「王宮の女には頼めないからな。たとえ誰かが糸と《詞》を縒り合わせられても、そのままずっとそれを仕事にしてもらうわけにいかない」
そのまま彼は、何か言いたげな従者を視界に入れぬよう、前だけを見て歩き続けた。
道すがら、否応なく行く手に聳える大神殿を意識させられる。祭儀がなくとも日々詣でる民が集まり、捧げものをして、我が身の安泰を祈る場所。そうやって人々が神殿を大きな存在へと成してゆく――のみならず、かほど巨大な神殿を建て、多くの神を祀るだけの力がこの国にはあるのだと誇示する役目もあるのだ。
シェイダールは苦いものを噛みしめた。神殿を潰し祭司の特権を剥ぎ取るという決心は変わらないが、想像の中で大神殿を巨大な鎚で叩き潰した時、胸をよぎるのはもはや爽快な未来図ではない。残骸に群がりむせび泣き、あるいはすぐにも再建しようとする人々、別な神殿や偶像のもとへ走ってゆく後ろ姿だ。そして、そんな彼らの前に立派な神を用意して、羊の群を集めるように囲い込んでゆく何者か。
(強引に神殿を潰したところで、すぐに「神はいない」とわからせるのは無理だ)
ヴィルメに抉られた傷は深く、彼の意志の根幹に達した。皮肉にも、結果として彼は楽観を捨て、人の考えを変えることの困難を直視するようになった。希望を胸に前へ前へとひたすら急ぐのではなく、以前よりも慎重に、しかしさらに強固な意志をもって。
(まずはとにかくウルヴェーユを広めて、皆が神頼みしなくても自分の力で様々な困難に対処できるよう、知識とわざを身に着けさせなければ。それに、祭司どもから特権を剥ぎ取った後で、新たな『神への仲介者』をつくらせないこと)
一人一人が神を崇め祈り、祠に参ったり偶像を作ったりするのは止められない。だがそれを取りまとめて己の利益や権威にする者を生み出してはならない。
(できるんだろうか、そんなこと)
――否。やらねばならない。何としても。
眉間をこすり、無意識に寄せていた険しい皺をほぐす。忍耐と理性と知識、そしてウルヴェーユ。これらによって人は神を頼らずとも自らの力で生きてゆけるのだ。
彼は顔を上げ、決意を抱いて王宮への大階段を上っていった。
警護の一団と別れて白の宮に帰り着くと、召使から来客が待っていると告げられた。入室したシェイダールは驚きに一瞬竦む。
「ツォルエン! いいのか、こっちに来て」
小声でささやきながら、足早にそばへ寄る。元第三候補の少年は、こわばった顔に厳しい微笑を一瞬閃かせた。候補の立場から外れた後、彼は父親によって王宮から遠ざけられた。水利関連の勉学と現場での実技習得のため、という理由で領地に帰されたのだ。世嗣に取り込まれないよう距離を置くのが目的であるのは明らかだった。
「構わない。今、父は北部へ視察に出ているからな」
「ああ、大昔の水路があるんだってな。揚水機を建造する候補地の選定も兼ねていると聞いたが……おまえも連れて行くんだと思っていた」
懸念を声に滲ませたシェイダールに対し、ツォルエンは反抗的な表情で鼻を鳴らした。
「親子揃って都から離れては、目と耳が届かなくなるではないか。火種に近寄るべからずとて、目を離すのは疎漏というもの。もっとも、父は私が自ら王宮に出向いたと知れば良い顔はすまいがな。稼働している揚水機と、多少なりとも構造や材に通じている技師がいるのはここだけなのだ、致し方あるまい」
「あくまでも技術的な確認と相談のため、というわけか。俺を訪ねるのは目的の内に入っていない……そう言って信用されるとは思えないがな。こっちに火の粉を飛ばすなよ」
「父の勘気を被ったとしても、貴殿に庇護を求めるつもりなどない。安心しろ」
ツォルエンは素っ気なく言い、懐から小さな布包みを取り出した。手渡されたシェイダールは包みをほどく前から、微かな音を聞き取って目をみはる。
「これは」
急いで中身を確かめ、ほう、と嘆息した。白や青、金色の美しい宝石だ。新しく削り出され磨かれたばかりの石。ひとつ手に取ると、込められた音と《詞》が感じ取れた。
「回転の動力……揚水機の歯車に使うものか。新しく作れたんだな。どうやって結びつけた? 待てよ」
もう早速シェイダールは夢中になり、石から聞こえる微かなささやきに耳を澄ませ、色と《詞》の結び目を探してゆく。
「ああ、なるほど」
石が持つ本来の色に、対応する音と《詞》を寄せて重ね合わせた上で、命令の《詞》をつなぐ。形作られた一連の鎖に、理の力が水滴のように伝っているのが視える。
「いいな。うん……いや、ここは違う」
響きに心を浸し、無意識につぶやきながら、己の路を通じて理の流れを引き出し調和を整えてゆく。わずかな修正だが、明らかに音色が良くなった。
ツォルエンが顔をこわばらせたが、シェイダールは気にせず石を包み直して返した。
「ちょうど知りたかったことがわかって助かった、糸にも応用できそうだ。宝石はこのままでも使えるだろうが、実際に建てる時に組み込みながら調整する必要があるだろうな。こっちの技師とは話が進んでいるのか?」
「まだだ。私は貴殿のように四六時中、色と音に耽溺していられる身分ではない」
罵声のごとき返事は皮肉の域を越え、露骨な八つ当たりだ。シェイダールはかちんときたが、ぐっと堪えて発言の裏を推測した。
「相変わらずか、水利長官様は。資質があるのに路も開かず、ウルヴェーユよりも測量だの計算だの、果ては祭壇に供物をひとつでも多く捧げるほうが大事らしいな」
水利長官の反発も理解はできる。世嗣が鼻持ちならない不信心者であり、その者が広めようとしているわざであるからウルヴェーユも信用ならない、よって息子にも学ばせたくない、というのだろう。それにしても極端だという気がしなくもないが。
するとツォルエンはぎりっと唇を噛み、絞り出すように呻いた。
「……堕落だ」
「えっ?」
「父は、ウルヴェーユなど人を堕落させるものだ、と言うのだ。揚水機を造るのは良い、だが節度をわきまえ、安逸に走るな。日がな一日、便利で心地良いわざに魅入られて過ごすな、努力を怠らず忍耐力を養え、と……だから私は、貴殿のように好きなだけウルヴェーユに打ち込んではいられないのだ!」
完全に予想外の言説を聞かされ、シェイダールは言葉を失った。絶句することしばし、ようやく相手が拳をあまりにも強く握り締めていると気付き、声をかける。
「何からどう言えばいいのか、混乱してるんだが……とりあえずちょっと力を抜け。前にも言ったろう、ウルヴェーユは他人と競うものじゃない。俺と比較したって無意味だぞ」
ツォルエンは答えなかったが、ふっと息をついて拳を開いた。シェイダールはまだ困惑しながら、理解しかねる、と首を振る。
「堕落だって? 何を言ってるんだ、長官は。揚水機は良くてウルヴェーユは駄目だとか、矛盾してるだろう。路を辿って標を養っている様子が、惚けているように見えるのか」
「そうではない。ウルヴェーユのもたらす利便が人を堕落させる、と言っているのだ」
「おい待て、まさか」
シェイダールは愕然とし、次いで怒りに頬を紅潮させた。
「きつい仕事が楽になったら怠けるから駄目だ、ってのか! ふざけやがって、水汲みの苦労も飢えの怖さも知らない奴が!」
「父は、享楽や怠惰を憎悪しているからな。旱魃や飢饉を乗り越えるため治水をおこなう努力は良しとするが、その結果、楽に豊かな実りが手に入るようになれば、必ず人は神々への畏敬を忘れて堕落する、だからウルヴェーユを安易に使うな、と」
ツォルエンは屈辱に顔を歪めて父親の説教を繰り返す。
本来ならば厳しく苦しい労働の末に得られる糧を、天から降らされるたやすい恵みと勘違いして粗末にするだろう。苦難に耐えて励むことを厭い、便利なわざによって生み出された恩恵をただ座して貪るようになるだろう。骨折り、労を費やし、困難に耐えてこそ真に糧たるものを得られるのだ。一声発するだけで得られるものに何の価値があろうか。
そこまで言って彼は唇を噛み、うつむいた。シェイダールは頭の芯が痺れるほどの怒りに身を震わせ、同時に納得した。資料庫での際どいやりとりを思い出す。
(ああ、だからか)
そんな信条だから、王に容赦なく一国すべての重みを載せようとするのだ。誰よりも高い地位にいるからこそ、最も困難な責務を負い、耐えるべきであるとして。
(俺に反発するのは、神々への信仰や、縁戚関係で神殿とつながりが強いってだけが理由じゃない。高慢で冷酷無慈悲な『主義』に反するからか。くそ下らない!)
シェイダールは唸ると、大股に小卓のところへ行って水を注いだ。リッダーシュが止める間もなく、一息に飲み干す。ガン、と荒っぽく杯を置いて数呼吸。どうにか気を静めると、彼はツォルエンのそばに戻った。
「そんな環境で、おまえはよくやってる。知らせに来てくれて助かった、ほかになければもう技師連中のところへ行ってくれ。俺も後で、おまえとは関係ないふりで揚水機の方へ進み具合を見に行こう」
誰がラウタシュにご注進するかわからない以上、二人一緒に技師らと打ち合わせをすることはできない。シェイダールの配慮に、ツォルエンは「承知した」と短く応じ、人目を憚りながら宮を出ていった。
その後しばらくシェイダールは苛々と室内をうろつき回り、憤懣を静められず柱に八つ当たりした。拳を打ちつけ、舌打ちする。
「くそ、水利長官め、俺が王になったら毎日煉瓦作りをさせてやろうか」
それでもまだ堕落だとか言うなら見上げたものだが、そこまで行くともはや信念を通り越して狂気の沙汰だろう。忌々しい。奥歯を砕けそうなほど噛みしめて癇癪を堪える。
そこへ、リッダーシュがそっと声をかけた。
「怒りはもっともだが、ラウタシュ様の言にも一理あるぞ。いや、賛同はせぬ」
あるじがすさまじい形相で振り向いたもので、彼は急いで言い添えてから続けた。
「世間には、他人が楽をするのは許せないという者が少なからずいるということだ。隣で同じ苦役に耐えていた者が一人だけ解放されたら、妬むだろう? 養ってやっている使用人が楽な仕事しかせず遊んでいたら、もっと働けと笞をふるう主人もいるだろう。飢えや危険が遠ざけられても、その恩恵が人を幸せにするとは限るまい」
「楽になった分、別の苦しみが増えるだけだ、ってわけか」
「だから無駄だ、とは言わぬぞ。ウルヴェーユが大勢を救うことは間違いない」
「ああ」
シェイダールは沈痛にうなずいた。堕落だなどという話が出るのも、生き延びられてこそだ。飢饉、病、過酷な作業による事故。死はあらゆるところに貪欲な口を開けている。逃れようとあがく仲間によってその中へ蹴り落とされることも含めて、ウルヴェーユが解決できるはずだ。
(今に見ていろ、黙らせてやるからな)
彼は拳をかため、水利長官の顔を想像の中で叩き潰してやった。
*
麦の収穫を前に、初穂を神々に捧げる祭礼が行われたが、例によって世嗣は神殿から拒絶された。参列どころか、観覧にさえも来るなと言われたのだ。
シェイダールも対抗声明を出し、このように祭礼を駆け引きの道具にする思い上がりこそ不信心である、神罰が下るならそちらにこそだ、と非難した。村にいる頃なら、祭から締め出されようと一切構わず神など知るかと無視できたが、公人としての立場がある現在、同じ対応はできない。だからこそ、敵も嫌がらせを仕掛けてくるのだ。
(国も民も関係ない、お互い自分の権威を守るのに必死なだけじゃないか)
下らない、虚しくて何の実もない戦いだ。げんなりする。鬱憤を晴らすように、シェイダールは一層ウルヴェーユに傾注した。
「準備はいいか」
砂を踏みしめ、シェイダールはヤドゥカと間合いを取って対峙した。鍛錬所に居合わせた兵士らが遠巻きに見物している。奇妙な試合だった。シェイダールが色鮮やかな紐を、ヤドゥカが華奢な鉦の一組を、それぞれ手にしているだけで、武器も防具も一切ない。
シェイダールが両手で紐をピンと張った。白、赤、緑、青、黄、紫。鮮やかな六色の糸を縒り合わせた、華やかな彩りの長い紐だ。片端を握り、残りはゆったりと三重四重の輪にして左腕にかけている。向かいでヤドゥカが鉦を構える。両者は共に、内なる路に色の流れを満たし、《詞》をいつでも紡げるよう備えていた。
「《疾風よ撃て》」
シェイダールが紐を握った手に唇をつけて声を込め、すぐさま大きく振って、ヤドゥカ目がけて投げる。柔らかいはずの紐は鞭のようにしなり、矢よりも鋭く飛んだ。反射的にヤドゥカは手でそれを防ごうとしてしまい、慌てて飛びすさると鉦を鳴らす。
「《出でよ赤土の壁》」
詞に応じて赤い音の盾が生じ、飛来した紐の先端を弾き返した。生き物のような動きで紐がしなり、シェイダールの手に戻る。それを追ってヤドゥカが三音鳴らした。
「《眩ませ 縛めよ 倒せ》!」
白い光の波が奔馬のごとく襲いかかる。シェイダールは再び紐に一言二言込め、身体の前面で回した。回転する紐が白光を捉えて封じ込め、粉砕する。ヤドゥカは舌打ちし、追撃せんと強く一音を鳴らす。直後、
「《茨よ 足を取れ》!」
「――っ!?」
シェイダールが音を奪った。ヤドゥカが愕然とした隙に、地を這う茨と化した紐がその足に絡みつき、引き倒す。
「うわ……っく!」
まともに引っくり返されるのは防いだが、立っていられず膝をつく。シェイダールが得意満面で軽く紐を引き、手元に呼び戻した。
「油断したな。おまえは武器を使ったまともな戦いが本領だから、どうにもやりにくいだろうけどな。せっかく優れた資質を持つんだから、今後はこっちも使いこなしてくれよ」
一応敗者の顔を立てながらも、あからさまに鼻高々である。ヤドゥカは渋面になった。
「私が発した音を使うとは……炙り肉を口に入れる直前で鳶にかっ攫われた気分だ」
「はははっ! 俺もできるとは思わなかった」
シェイダールは笑い、ヤドゥカに歩み寄って足元にしゃがんだ。紐が絡みついた跡が素足に赤く残っている。ぷつぷつとまさに棘が刺さったように小さな血の玉が並んでいるのを見て、彼は眉をひそめた。
「茨はまずかったな。ただ捕えるだけを考えて詞にしたからこの程度で済んだが、傷を負わせるほうを強く意識していたらどうなったか。悪かった」
「この程度、負傷の内にも入らぬ。だが次からは防具を着けたほうが良いだろうな」
そこへ、見物人の間から誰かが拍手しながら進み出た。
「お見事でございました、世嗣殿」
癇に障る気取った物言いはジョルハイだ。顔を見て確かめるまでもなく、シェイダールは不機嫌になる。何しに来た、と言うつもりで振り向き、
「……?」
舌先まで出かかったそれを飲み込んだ。実際、そこにいたのはジョルハイだったが、妙な違和感があったのだ。青年祭司が恭しく臣従の礼をとる。下げた頭越しに随伴者の姿が見え、シェイダールは違和感の理由に気付いた。神殿兵士が二人、従っている。のみならずジョルハイ自身も、帯に小さな短刀を差していた。今までにはなかったことだ。
「何か変事でもあったのか」
声を低めて問いかける。ジョルハイはいつもの澄ました微笑で応じた。
「まことに恐悦至極なれど、お心を煩わせるほどにはございませぬ。『柘榴の宮』よりお召しがありましたゆえ、先にご挨拶に参った次第にございます」
答えになっていないが、追及もしづらい。シェイダールは眉間の皺を険しくし、ひとまず見物していた兵士らに向き直って言った。
「今やって見せたようなわざを、いずれ皆にも修めてもらう。むろん資質の有無や得手不得手を考慮して、ウルヴェーユを主にする者と、今まで通りの武器を使う者とに振り分けるつもりだ。実際におこなうのは当分先になる。この場は解散し、持ち場に戻ってくれ」
説明を兼ねた命令に、兵士たちは各々一礼して解散する。誰もが敬意と服従を示しているが、程度は様々だ。期待と憧れに目を輝かせてぴしりと気合の入った礼をする者、新体制についていけるかどうか不安げな者。名残惜しげな最後の一人までがいなくなると、シェイダールは青年祭司を顎で呼びつけて木陰へ移動した。
ジョルハイは苦笑しながら従い、横柄な世嗣様の隣に腰を下ろそうとする。
「待たれよ」
鋭く制したのはリッダーシュだ。慇懃に一礼してから、すっと手を差し出す。
「念のため、武器は預からせて頂く」
「真面目だねぇ」
ジョルハイはほとんどわからないほどに怯んだが、すぐに言われた通り短刀を渡した。シェイダールは複雑な顔になる。
「そこまでする必要があるのか? 他の祭司ならともかく、こいつだぞ」
リッダーシュはジョルハイに再度低頭してから、対話の邪魔にならず、かつ主人を守れる位置に立った。
「個人に対する信用の問題ではない。長く親しんだ相手であっても、境遇の変化あるいはやむにやまれぬ事情によって、予想外の行動に出る可能性はある。不測の事態を防ぐには例外を作らぬことしかない。不自由に感じる時もあろうが、おぬしの命を守るためだ」
「それが賢明だな」
珍しくジョルハイが実直な声音で同意する。シェイダールは改めて問うた。
「神殿の状況が不穏なのか。『鍵の祭司』でさえ脅かされるほどに?」
「私は世嗣一派の筆頭だとみなされているからね。鍵といえども安泰ではないのさ。祭司長は、第二の御付だったイシュイ殿を『燈明の祭司』に任じられた。祭儀において重要な役目を司る位だよ。他方、前の鍵殿は学究派の領袖として自ら『六彩の司』を名乗り、着実に勢力を増している」
ジョルハイは淡々と説明し、ふと遠い目で彼方を見やった。無意識に手が何度も帯の辺りへ動く。身を守る重みがないと落ち着かないのだろう。
「近頃は神殿の中で、声を荒らげて激論を戦わせる神官がよく見られる。頼むから外ではやるなよと諭すのだが、分裂はもう一般市民に嗅ぎつけられているようだ。今まで折々の祭儀祝福を受け持っていた家から、別の祭司を寄越してほしいと言われる例も出てきた。私も、すれ違いざまに火のようなまなざしで射られることが増えてきたものでね。いささか身辺に気を使うべきかと判断したのさ。我ながら大層出世したものだよ」
言葉尻でにやりとしたものの、表情に以前の余裕はなく、代わって憔悴が覗きはじめている。シェイダールは眉を寄せて確かめた。
「物騒だな。俺に対する攻撃があれば大問題だが、神殿内でも刃傷沙汰になれば醜聞なんてものじゃないだろ。日和見して間を取り持つ祭司がいそうなもんだが」
「さすがにまだ暗殺騒ぎにはなっていないよ。祭司長も、内紛にかまけていたら君と王に出し抜かれるとわかっているようだ。喚き立てているのは主にイシュイ殿のほうでね。声と態度は大きいが、虚仮威しだけの御仁だ。ただ、つまらないことで火種に風を送るのはごめんだから、お供を連れて牽制しているわけさ。まったく、ヴィルメを訪ねるのが唯一安らげる時間だよ。危ない連中は誰一人いない、何の心配もいらない」
やれやれ、と伸びをしてから、ジョルハイは探る目つきになって問うた。
「ずっと彼女をあのままにしておくつもりかい」
ささやきに被せるように、ざわ、と梢が騒いだ。シェイダールは晴れた空を見上げ、動揺の欠片もなく静かに応じる。
「あんたに不平や不満を聞かせるのか」
「いいや、あの子は何も言わない。今の君と同じだ。諦めて、醒め切って、心に何の波風も立てないまま、シャニカのことだけを考えているよ。健気じゃないか」
「あいつが何か希望を漏らすことがあれば、教えてくれ。できるだけ叶えるようにする」
「そうじゃないだろう! まったく、君には呆れたな!」
「どうしろって言うんだ?」シェイダールは失笑した。「あんたがそんなに他人を気にかけるとは思わなかったな。次はあいつを利用するつもりなのか」
「……やれやれ。見くびらないでもらいたいね。これでも私は、彼女を都へ連れてきた責任を感じているんだよ。それに、私にだって人並の情はある。君を気に入っているのと同じぐらい、彼女にも好意を持っているさ。なんだい、突き放しておいて夫面かい?」
「挑発のつもりなら白けるからやめろ。あいつがシャニカを捨てて別の男と一緒になりたいと言うなら、離婚してやるさ。だがそうじゃないなら、余計なちょっかいは出すな」
シェイダールは厳しく命じ、ジョルハイを睨み据えた。妻への愛情はない。だが娘は己がきちんと導いてやらなければならないし、母親と引き離すのも憐れだ。妻を憎んでいるわけではないのだから、現状のまま平穏に暮らさせてやれば一番いい。
そんな彼の内心を見透かしてか、ジョルハイが鼻を鳴らした。
「それで君は他の王妃様とよろしくやってるわけかい。あんまりじゃないか?」
「女の所には行ってない」
シェイダールは素っ気なく応じ、話は終わりだ、と立ち上がった。
「もしヴィルメが気にしているのなら、教えてやって構わないぞ。他に用がなければ『柘榴の宮』へ行けよ。こっちもこの後、アルハーシュ様に呼ばれているんだ」
「おい待ちたまえよ、嘘だろう」
当惑したようにジョルハイが引き留めたが、シェイダールは無視し、リッダーシュとヤドゥカを連れて立ち去った。
ジョルハイに言ったのは嘘ではない。女を抱きたくなる時もあるが、『柘榴の宮』へ行くことを考えただけで気が萎える。外から娼婦を呼ぶのも感覚が馴染まない。
結局、そんな暇があるなら少しでもウルヴェーユをと励み、彼は他の一切を意識から締め出すほどの忙しさに自らを追い込んでいた。厳しく思い詰めた様子ではなく、普通に笑いもするし冗談も言う。だが身近にいる者の目には、彼の心のどこか一部だけが硬く凍っているような不自然さが見えていた。
さりとて、こうまで拗れた関係を第三者がどうすることもできない。リッダーシュは気遣わしげなまなざしをあるじに向け、すぐに気持ちを切り替えて懸念を払った。
「ラウタシュ様がしばらく前に視察から戻られて、アルハーシュ様と随分長く話し合われたそうだ。今日はその結果に関することだろうな」
「ああ、俺もそう思う。……なんとなく悪い予感がするな」
シェイダールは前を向いたまま、低く唸った。