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彩詠譚  作者: 風羽洸海
金枝を折りて
14/126

七章(祭司達の思惑・故郷は遠くなり)

     *


 その日を境に、候補者としての生活は一変した。

 真っ先にシェイダールは他の候補者を『白の宮』に呼び、白石で路を開くことにした。念のためにヤドゥカも招いたが、やって来たのは候補と従者ばかりではなかった。

「ぞろぞろと皆さんお揃いで」

 思わず皮肉に独りごちたシェイダールに、剣呑な視線をよこす祭司イシュイ。むろん第三と第四候補の御付祭司も随行しており、さらには『鍵の祭司』までが訪れたのだ。先に部屋に控えていたジョルハイは、澄まし顔で一揖いちゆうして彼らを迎えた。シェイダール当人に至っては、会釈すらせずぞんざいに声をかける。

「見物人がこんなに増えるとは思っていなかった。集中が必要なんだ、邪魔しないよう壁際で静かにしていてくれ」

 ぐるりと室内を示した手つきは、あちらへどうぞ、ではなく、しっしっと追い払うそれだ。祭司らは一様に顔をしかめたが、最上位の『鍵の祭司』が抗議しなかったので、ぶつぶつと不平をこぼしながらも言われた通り遠巻きにする。

 シェイダールは候補者達を絨毯に招き、白石を手に持って腰を下ろした。

「来るなり早々何のもてなしもせずに始めるのは、王宮のしきたりから言えば野暮なんだろうが、あまり長く待たせると痺れを切らせそうな連中がいるからな。さて、どっちから始める? 第三殿、第四殿。俺と手をつなぐのが嫌なら、ヤドゥカに頼んでもいいぞ。こいつも既に路は開かれているし、資質も充分だ」

 写し取れる標はシェイダールもヤドゥカも大差ないし、どのみち他の候補は資質に劣る、即ち路が狭いか短いのだから、すべての標を刻めるわけでもない。

 第四候補ザヴァイが、ずっと年少の第三候補に遠慮した視線を向け、もぞもぞする。ツォルエンはそれを当然のように無視し、ずいと進み出た。

「どうすれば良いのだ」

「石の上に手を置くだけだ。充分な資質があるなら、勝手に術が始まる」

 シェイダールが手を差し出すと、ツォルエンは一瞬怯み、それを打ち消すように唇を引き結んでさっと指示通りにした。

 少年の手が石に触れる寸前、シェイダールの胸を不安の影がよぎった。彼の路を開いて本当にいいのか。いずれはウルヴェーユを広く大勢のものとする、その理想と目標は確かだが、今ここで彼に――どんな人間かもろくに知らず、友好的でもない年少者に、力を与えたらどうなるのか。

(馬鹿なことを考えるな。こいつは共にウルヴェーユを探究すると誓ったはずだ。そうでなくとも、俺の一存で路を開くか否かを決めるのは、神殿のやり方と同じじゃないか)

 都合が悪い相手には「神々の祝福を授けない」と脅して、人の心と暮らしを支配する祭司ども。奴らと同じになってたまるか。

 不安を退けると同時に、ツォルエンの手が白石を覆った。ちらちらと色彩が瞬き、星の糸が紡がれる。開かれよ、と命じるまでもなく、術が動き始めた。雑念が消えて澄み渡ったシェイダールの意識に、光が流れ込む。

 ツォルエンの路が共鳴する。ヤドゥカよりは小さいものの、広さは充分。

「《写し取れ こだませよ》」

 音に合わせて詞を詠う。きらめく星の流れと回転が速まり、先達の路を逆流して、まだ標の刻まれていない路へと奔る。壁に星屑がチリンパリンと溶け込みしるしをつけ、

「《開かれよ 詠えよ 新たなる路に彩を与えよ》」

 祝福の詞をもって六色が輝き、術が終わった。

 ツォルエンは魂を抜かれたがごとく、しばし無防備に放心したまま宙を仰いだ。それからぶるっと震え、細く長く息を吐き出す。険しかった顔から傲岸さも冷たさも消え失せ、剥き出しの心細さがあらわれていた。あまりにも大きなものに触れ、己の存在を見失いそうになっているのだろう。

「……これが、本来の……『王の資質』とは、こういう」

「そうだ。その路を通じて力を汲み出し、色と音と詞によって操るのが、いにしえのわざ、ウルヴェーユというわけだ」

 シェイダールは端的に応じ、残る一人の候補者に目を転じた。路を開いてすぐは、良くも悪くも動揺する。平静を取り戻すまで時間がかかるのは皆同じだ。

「落ち着くまでちょっとかかるだろうから、その間に済ませてしまおう」

「えっ。あ、いや、わたしはその」

 途端にザヴァイは動揺し、大きく身を退いた。こわばった愛想笑いを浮かべて、ちらちらと第三候補の様子を窺いながら首を振る。

「やはりその、身に余るでしょう、遠慮して……」

「何を言ってるんだ、今さら」

 ここまで来ておいてなぜ、逃げ腰なのか。訝りながらシェイダールは白石を差し出して催促したが、近寄るどころかさらに後ずさる始末。

「で、ですが、その……わたしなどがそんな」

「さっさとしろ!」

 痺れを切らせて一喝する。ザヴァイは大急ぎでそばへ寄り、そのまま手を載せるかと思いきや、直前でなおためらった。シェイダールは舌打ちしたが、同時によく似た苛立ちの記憶がよみがえり、そうかと理解した。ヴィルメと同じだ。

「自分などが畏れ多くも神の力を、だとか考えて尻込みしてるのか。だったら言うが、俺なんか無一文の田舎者で、父親は女神の恵みを損なったとして殺された罪人だぞ。それでもこうして平気で白石を使っている。力に触れられるか、色と音を操れるかは、身分だの育ちだの、さらには罪の穢れの有る無しさえ、一切まったく関係ない。納得したか」

 ザヴァイは目を白黒させたが、ようやく大人しく手を置いた。

 光がこぼれたが、術は始まらない。シェイダールが「《開かれよ》」と詠った後に、色彩の星が流れだす。ザヴァイの路は安定していたものの、いかんせん浅く、写し取れた標はほんのわずかだった。それでも術が終わると、彼はほうっと息をついて「すばらしい」と一言つぶやいた。シェイダールは念のために警告する。

「あんまりきれいだからって、いきなり底まで降りようとするなよ。少しずつ時間をかけて標を養い、それを手がかり足がかりとして慎重に降りていくんだ。……あんたは色と音を感じ取ることはできるだろうが、あまり込み入ったわざは使えないだろうな。だがそれでも、俺はあんたのような普通の人間にこそウルヴェーユを知って欲しい。わたしなど、だとか言わずに、これからもよろしく頼む」

 先達からの穏やかな歓迎に、ザヴァイが感動で胸を詰まらせ、何度もこくこくとうなずく。見ていたヤドゥカがぼそりとつぶやいた。

「ことウルヴェーユとなると、まったく別人のようだな」

 聞いたリッダーシュが横で失笑し、こほんと咳払いしてごまかす。

「あれが我が君の天分にございますれば」

 一言ささやいて、彼はあるじに敬愛のまなざしを向けた。普段は癇癪持ちで意地っ張りで、何かといえば皮肉や冷笑で他人を挑発し攻撃する困ったあるじだが、ウルヴェーユに没頭している時だけは違う。

 誰にも邪魔されず独り己の魂に向き合い、力の神秘に触れて解き明かす時、本来の彼の真摯さ純粋さがあらわれる。ひたむきに、しかし貪欲ではなく誠実かつ理性的な姿勢で、力とわざに素直な驚嘆と畏敬をもって相対するさまを見れば、日頃のあれこれも許せてしまう。それもそれで困ったことだ、とリッダーシュは内心密かに苦笑した。

 そこへ、衝撃から立ち直った第三候補が噛み付いた。

「聞き捨てならぬぞ。そ奴のような者にこそとは、どういう意味だ。貴き人々を差し置いて物知らずの平民に力を与え、王と神殿に背かせようというつもりか!」

 極端な決め付けに対し、シェイダールはわざとらしく呆れた声を返す。

「いきなりすっ飛ばす奴だな。何をそんなに焦っているんだ。早く成果を出さないと、怖い親父に折檻されるのか」

「――っ!」

 図星だったらしい。ツォルエンが怒りで蒼白になり、拳を震わせる。ヤドゥカがやれやれと天を仰ぎ、リッダーシュが片手で顔を覆った。当のシェイダールは周囲の反応に頓着せず、反撃が来る前に続けた。

「ウルヴェーユは一部の人間だけが秘密を握っていても意味がない。どこの誰がどれほどの資質を持っているか、わかりやしないからこそ、こういうわざがあるってことを広く知らしめる必要がある。おまえたちは何かといえばすぐに、背かれるだとか心配するが、ウルヴェーユはそんなせせこましいものじゃない」

 一息置き、彼は全員に聞かせるように力を込めて断言した。

「世界だ。人の暮らしに役立つというのは一面でしかない。ウルヴェーユとは本来もっと大きい、世界そのものなんだ。王一人に負わせるのも、一部の人間だけが手にして支配の道具にするのも間違っている。いずれ誰もが深淵に触れ、それを識るだろう。おまえもだ、ツォルエン。自分が何に触れようとしているか、魂で理解するまで焦るな」

 厳然と言い渡され、ツォルエンは反論を封じられて唇を噛んだ。納得できない憤懣がくっきりと顔に浮かんでいるが、見苦しい悪罵を放たないだけの自制心はあるらしい。

「第一殿、よろしいかな」

 少年に代わって問いかけてきたのは、意外にも『鍵の祭司』だった。シェイダールが振り向くと、祭司は内心の窺えない穏やかな微笑を湛えて進み出た。

「私にもどうやら多少は資質が備わっているようでしてな。貴殿が白石を用いられた折、なにやら色とりどりの花が次々に開くのが見えた……いや、見えてはおらんのだが、そのように感じられた。ということは、私が誰かと白石を同時に持てば、それがたまたまであったとしても、『ウルヴェーユ』が始まるのかね?」

「いいや」シェイダールは即答した。「既に路を開かれ、ウルヴェーユを使えるようになっている者が触れていない限り、この術は発動しない。神殿に帰って片っ端から祭司に白石を持たせても無駄だぞ」

「おや。なぜ私がそのようなことをすると?」

「あんたらにとっては、『神の力』は神殿が管理すべきものなんだろう。だから自分たちだけが白石を使って、路を開いてやるかどうかを決めたい。そうじゃないのか」

 シェイダールが手厳しく決めつけたところへ、ジョルハイがするりと割り込んだ。

「『鍵の祭司』様。第一殿は、この驚嘆すべきいにしえのわざを神殿や王宮の内にのみ留めるのではなく、誰もが等しくその恩恵に浴し得るようお望みです。我々にとってもそれは歓迎すべきことでありましょう」

 露骨におもねる声色。他の祭司らが胡散臭げな顔になり、シェイダールも警戒に眉をひそめた。勝手なことを言うな、と視線で牽制したが、ジョルハイは柳に風と受け流す。

「いにしえのわざによってあまねく民が神の御力に触れ、その広大にして無尽なることを感じたならば、よりいっそう信仰は深まり、神々の威光も増しましょう。我々祭司もまた第一殿の教えを受けてウルヴェーユを学んだなら、いにしえの遺物を正しく取り扱い、祭儀を本来あるべき形に近付けてゆけましょう。そう、まさに第一殿が白石の正しい使途を解明し、我らの前途を拓いてくださったように!」

 抑制された熱意を感じさせる弁舌に、『鍵の祭司』も心惹かれた様子でうなずく。

「ふむ、資質ある祭司を第一殿のもとで学ばせよというのだな。ジョルハイ、ちょうど第一殿の御付でもあることだし、挑む気はないかね」

「畏れながら、私にさような大役は務まりませぬ。使者として国を巡る間、ずっと白石を所持していながら、何ら感じるところのなかった卑しい身でございますゆえ」

 ジョルハイが深々と頭を下げて辞退する。二人のやりとりに漂う不自然さを、シェイダールは苦い思いで理解した。

(茶番か。こういう話に持って行く、と前もって根回ししていたんだな。壁際の連中の様子からして、あいつらを出し抜いて『鍵の祭司』の得になるように)

 白石は第一候補に先を越された。だが今からでもウルヴェーユを会得すれば、神殿に所蔵されている多くの遺物を使いこなして優位に立てる、候補者に対してのみならず神殿の中でも『鍵の祭司』こそが最も力ある存在になれる――そんな風に口説いたのだろう。

 予想通り、ジョルハイは恭しく提案した。

「すぐれた資質がおありの『鍵の祭司』様こそがふさわしいかと存じます。御自ら第一殿の手ほどきを受けられたとあらば、他の祭司神官らにも模範となりましょう」

 淀みのない言葉が状況を誘導し、流れに乗せていてく。シェイダールは苛立ちと警戒に歯噛みしながらも、慇懃に頭を下げた『鍵の祭司』の頼みを聞き入れるしかなかった。

「第一殿。我が内なる資質を開き、神秘に至る路へと導きたまえ」

「仰々しく持ち上げないでくれ。理の力は確かに神秘だが、崇め奉って新たな神に据えるものじゃない。それと、念を押しておくが、あんた自身が路を開かれたからといって、安易に他人に白石を使おうとするなよ」

 己の御付祭司を睨んでから、彼は白石を持って『鍵の祭司』を招いた。

(どっちにしろ、独占しないと言った以上、祭司だけ拒むわけにもいかないからな。腹立たしいが!)

 皮肉なことに『鍵の祭司』は、色と音、路の感覚をすんなり受け入れた。常日頃、いにしえの遺物に囲まれて過ごしているためだろう。術が終わると、彼はしばし胸に手を当てて瞑目し、ほっと深い息をついた。

「なるほど。これは確かに、安易に使うなと制止されるも道理。宝物から感じられる遠い呼び声にも通ずる、なんとも不思議な……」

 うむうむと何度もうなずき、祭司はいくぶん、まなざしに敬意を込めた。

「感謝しますぞ、第一殿。この標を日々養い、私もまた理の一端に触れられるよう精進しよう。いにしえの人々の知恵と神々のみわざに、今ひとたびの栄えあらんことを」

 『鍵の祭司』は両手を広げて天を仰ぎ、いかにも祭司らしい祈りを唱えたのだった。


 それからしばらく、候補者に祭司をもまじえて、標をいかにして養うか、何が危険であるかといったことを話し合った後、それぞれ独り静かに集中すべく帰っていった。

 客がいなくなって、部屋には第一候補とその従者、御付祭司だけが残される。途端、待ちかねていたシェイダールはジョルハイに詰め寄った。

「どういうつもりだ! 他の御付どもはともかく、『鍵の祭司』が来たのはあんたの差し金だろう!」

「おっとっと……そう怒らないでくれたまえよ」

 予期していたジョルハイは素早く逃れ、どうどう、となだめる仕草をする。

「黙っていて悪かったよ。だが鍵殿が予想通りに動いてくれるかどうか、わからなかったものでね。堪えて彼にも術を施してくれて助かった。ありがとう」

 彼は深く腰を折って礼をしたが、その実まったく悪びれていないのは明らかだった。シェイダールが唸って「説明しろ」と要求したのに対し、涼しい顔で反問したのだ。

「君はどう読んだ?」

「教師ぶるな! 俺に先んじられて焦る神殿側の敵意を減じるためが一つ、『鍵の祭司』を特別扱いして気分良くさせておいて出世の便宜を図らせるためが二つ、だがそれだけじゃないんだろう」

「さすが、我が君は聡明でいらっしゃる……、褒めたのに怒らなくてもいいだろう! 説明する、ちゃんと説明するから落ち着きたまえよ」

 胸倉を掴まれてさすがに慌て、ジョルハイは急いで弁明した。

「お察しの通り、神殿では君を脅威とみなす声が強まっている。祭儀によらず『王の力』を手にした、次は自ら神を名乗るに違いない、と早合点している者もいるよ。だから、君が力を独り占めするつもりではないと知らしめる必要があった。それに、我々も力に触れられるとなれば、神のみわざの探究と解明に意欲を見せる神官も現れるだろう。いわば、種を蒔いたのさ。いずれ神殿の役割を変えてゆくための、最初の種を」

 そこまで言い、ジョルハイは掴まれて皺になった服をぴんと引っ張って整えた。

「それからもうひとつの、鍵殿を優遇するという点。これも君の読み通りだ。ただし、やはり別の狙いもある。彼にはせいぜい、玩具いじりに夢中になってもらいたいのさ」

「玩具だと?」

「そうさ。あれらは確かにすぐれた道具かもしれないがね、それを使いこなせる人間がどれだけいる? ウルヴェーユをものにするまで何年かかる? 果ては、皆が広くいにしえの力を手にしたなら、いくらでも新たに作り出せるだろう。鍵殿は長年、大事な大事な宝物に親しみすぎた。あれらにそれほど価値がないとは夢にも思わず、壺の底にひっついた蜜を舐めるのに必死の猿よろしく、頭ごと突っ込んでしまうだろうさ。すぽんと首を抜いた時に、すっかり違った世界を目にしてどんな顔をするかな。ははっ!」

 いっそ無邪気とさえ言えるほどに、軽やかな空色の笑声。シェイダールは衝撃のあまり言葉もなく、凝然とそれを見つめていた。

 ジョルハイは場の沈黙で我に返ったように、こほんと小さく咳払いした。

「まあ、そんなわけだから君に預けたあの玩具も、他の候補者と仲良くするための道具にすればいい。一緒に仕組みを解き明かすんだ、と言ってね。役に立つ物だろうとがらくただろうと、それはこの際、問題ではないのさ」

「……あんたはウルヴェーユを軽く見すぎだ」

 ようやくシェイダールはその一言を絞り出した。崇め奉るものではないとは言ったが、こうまで軽んじて良いものではない。しかし、色も見えず音も聞こえない、そもそも関心すらない相手に、理の深さを感じ取れと要求するのが間違いなのだろう。ジョルハイは怯みもせず、ただ苦笑を返した。

「ウルヴェーユは世界そのものだ、かい? 生憎、資質を持たない私にはその偉大なる神秘が感じられなくてね。だがそれで鍵殿がのめり込んでくれるなら、大いに結構。……そんな顔で睨まれるのは心外だな。何度も言っているだろう、私は君の味方だ。たとえ信じるものが異なろうと、見ている世界が違おうとね。では失礼するよ」

 いつものように泰然として、長衣の裾と袖を翻し、何事もなかったかのように去って行く。その後ろ姿が消えた帳の向こうを、シェイダールはじっと睨み続けていた。


     *


 一方その頃、幼い命もまた、色と音の源へ近付こうとしていた。

「あー、あぅー」

 おぼつかない声を上げながらぺたぺた這い回り、お気に入りの玩具を掴んで尻をつく。組み合わせた木の棒に小さな金属片がぶら下がり、動かすと澄んだ音を立てるものだ。チリン、コロン。飽きもせず音を鳴らし、たどたどしくそれを追って声を上げる。そんな娘の様子を、ヴィルメは椅子に腰かけたまま疲れた表情で眺めていた。

「シャニカ」

 呼ぶと振り返るが、母のもとへ寄って来はせず、じきにまた玩具に夢中になる。力加減が下手なために、いきなり大きな音を鳴らしたり、取り落して騒がせたり。その度にヴィルメは、耳で聞く音ばかりでなく別の感覚で色を捉え、煩わしさに頭を振った。

「やめて、シャニカ」

 唸っても、娘はきょとんとするだけだ。ヴィルメは手で耳を塞いで歯を食いしばった。夫はこの感覚とずっと付き合ってきたのだ。誰にも理解されず、気のせいだ、何も見えやしない、と否定されて。だから妻であるわたしが拒んではいけない。

(早く慣れるのよ、気にしなければいいの。それにシェイダールの声はきれいだわ。シャニカが笑うと暖かい色を感じるし。そう、これって素晴らしいことなのよ)

 ひたすら己に言い聞かせる。何百回と繰り返した呪文のように。

「あー、あーあー、うー」

 あどけない声が、六つの基音をなぞる。白、赤、緑。それによって路に流れが通い、標が養われてゆくと知っているのか、それともただ無意識に色を追っているだけなのか。

「あーうーあー、ああー」

 青、黄、紫。そしてまた白、赤……

「やめなさい!」

 耐え切れず、怒鳴りつけて遮った。シャニカはびくっと竦み、火がついたように泣きだす。ヴィルメはやかましさと自己嫌悪に頭を抱えた。泣きたいのはこちらだ。

 控えていた侍女のタナが、あやすべきかと顔色を窺う。母親のくせに、と無言でなじるような目つきだ。ヴィルメは平手打ちをくらわせたくなったが、堪えて首を振り、自分で娘を抱き上げに行った。

 シャニカは手足をばたつかせて母の手を拒み、大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、絨毯に引っくり返っていやいやと暴れる。ヴィルメは傍らに座り込み、両手に顔を埋めた。疲れている自覚はあったが、娘を侍女や王妃らに預けたくなかった。

 怖いのだ。もしラファーリィが既に白石で路を開かれていて……あるいは他の妃の誰であっても、すぐれた資質に恵まれていたならば。その女に抱かれたシャニカは、そちらに懐いてしまうのではないか。よその女を母親だと勘違いしないだろうか。

(だってあたしには、あの子が何をそんなに喜んでいるのかわからない)

 娘を置いて故郷に帰れ。王妃の言葉に恐怖を掻き立てられ、疑心暗鬼になっていく。

 わんわん泣く勢いは一向に弱まらない。なんでこんなに、無駄に元気なんだろう。ヴィルメは茫然と思い、ふと娘に手を伸ばした。いつまでも叫び続ける口を塞ごうとして。

 その時だった。

「ヴィルメ様。お会いしたいという方が」

 呼びかけられ、ヴィルメは我に返った。タナが困惑顔でささやく。

「アルハーシュ様がいらっしゃっています」

「……えっ!?」

 告げられた予想外の名に、ヴィルメはたっぷり一呼吸ほどぽかんとし、次いで頓狂な声を上げた。

「通りがかったところ泣き声が聞こえるので……赤子を抱かせて欲しいと仰せで」

「そんな、でも」

 こんな散らかした部屋、見苦しく泣き騒ぐ赤子と、化粧もしていない母親の姿を、王ともあろう貴人の目に入れるなど。ヴィルメは動揺し、断ってくれと頼もうとしたが、遅かった。こちらの許可を待たず、帳をくぐってアルハーシュ王が入って来たのだ。

 侍女が大急ぎで足元の玩具を片付け、部屋の隅へ避ける。ヴィルメも立ち上がり、引っくり返ったままの娘をどうしようかとおろおろしながら、中途半端なお辞儀をした。

「このような訪問が礼儀にもとるとは承知だが、どうか目こぼしを願いたい。そなたのことはシェイダールや我が妃からよく聞いているが、会うのは初めてだな、ヴィルメ」

 穏やかで深い声に語りかけられ、ヴィルメは畏れ入って返事もできず、ただひたすら頭を下げる。アルハーシュは苦笑し、悠然と彼女の横を通り過ぎて、赤子の傍らに膝をついた。泣いて真っ赤になった頭にちょっと触れてから、振り返って問う。

「どうすれば良いのか、教えてもらえまいか。赤子を抱くのは、実は初めてなのだ」

 王でありながら飾らぬ物言い。のみならず、穏便に丁寧に、教えてくれと頼む姿勢。ヴィルメは衝撃を受け、身づくろいも満足にしていない己の姿を、つかのま忘れた。慌てて気力を立て直し、娘のそばに寄る。シャニカはまだしゃくりあげていたが、驚きと好奇心がまさったようで、まじまじと王を見つめていた。正確には、王の髭を。ヴィルメは自然に微笑み、娘を抱き上げて手本を見せてから、王に渡した。

「こんな風に……首はもう据わっていますから、ずっと支えていなくても大丈夫です」

「ふむ。おお、意外と重いものだな」

 アルハーシュは怪しげな手つきながらも、無事にシャニカを受け取り、両腕でしっかりと抱いた。ごそごそと位置を調節したり、恐る恐る体を揺らしてみたりと、いかにも初心者の様子だが、満面に喜びが溢れている。

「それに温かい。いや、熱いほどだ。赤子は体温が高いというが、これほどとは……。どうした姫、髭が珍しいか? 怖くはないか。よーし、よし」

 まるで子煩悩な親か、初孫に浮かれる祖父か。気付くとヴィルメは笑っていた。微笑にとどまらず、はっきりと顔いっぱいに。心にも喜びが湧きあがる。嬉しい、楽しい――久しぶりに思い出した感情は、痺れるほどに甘い。目尻から涙がこぼれ落ちた。

 アルハーシュがそれを見て、気遣う表情になる。ヴィルメは涙を拭って頭を下げた。

「申し訳ございません、お見苦しいところを」

「何が見苦しいものか。余はシェイダールを息子のように思っておる。ならばそなたは我が娘。つらいことがあるなら申してみよ、その細腕ですべてを抱え込むでない」

「もったいなきお言葉でございます」

 ヴィルメは心からの感謝を込めて応じた。実の父にもかけられたことのない、思いやりと優しさに満ちた言葉が、肩から重荷を取り除き、息を妨げていた胸のつかえを溶かしてくれたのだ。娘を見ながら、彼女は訥々と心情を吐露した。

「この子は、王の資質を受け継いでいるのだと、聞きました。シェイダールと同じ。わたしには見えない世界を見ているんです。シェイダールも村にいた時より、どんどん遠い人になって……この子も、あの人も、わたしを置いて行ってしまうんだと思ったら」

 また涙がこぼれたが、それはもう悲嘆の苦しみゆえではなかった。誰にも話せず、積もり積もって固い氷になっていた心の雪が解けて流れ出した、温かい涙だった。

「つまらない悩みですが、聞いて頂けて本当に楽になりました」

「うむ。……この宮ではなかなか心の内を明かしにくいであろうな。シェイダールに、もっとそなたと話すよう促しておこう。あれはひとつのことに夢中になると他が見えなくなるゆえ、そなたに寂しい思いをさせがちであろうが、決して情が薄いわけではないのだ」

「はい、存じております」

 懐かしむ表情でうなずいたヴィルメに、そうだった、とアルハーシュも思い出す。

 と、シャニカが王の髭で遊ぶのに飽きたらしく、退屈そうにもぞもぞし始めた。アルハーシュは目顔で許可を求めてから、そっと赤子を絨毯に下ろす。早速またお気に入りの玩具のほうへと這って行くのを、ヴィルメは久しぶりに穏やかな気持ちで眺めた。

「あのおもちゃもシェイダールが作らせて、持って来たんです。村でも、いつもナラヤおばさんを大切にしていたし……家族思いなんです、とっても」

「であろうな。そなたはシェイダールに新たな家族を与え、この宮に命の喜びをもたらしたのだ。己を誇るが良い。黙って耐え忍ばず、声を上げて求めても良いのだぞ」

「ありがとうございます」

 ヴィルメは低頭し、礼を述べた。実際には、彼女が要求できることなどわずかだ。物や人手の入用はなんとかなっても、一番欲しいものは――夫の愛情、信頼できる相手との温かな交流は、『柘榴の宮』にいる限りおいそれと手に入らない。それでも、王たる人物からこのように認められたことが嬉しく、ありがたかった。

 その時、足に何かがぺたりとくっついた。見下ろすと、シャニカが裳裾の上から抱きつき、よろよろ立ち上がっている。おお、とアルハーシュが感嘆した。ヴィルメは驚きに目をみはって我が子を見つめる。澄んだ瞳がこちらを見上げ、小さな手が差し伸べられた。

「かーしゃ」

 舌足らずながらも明らかな呼びかけ。片手を離したので姿勢を崩し、のけぞって尻餅をつきそうになる。とっさにシャニカはまた、両手で足にしがみついた。

「ああ、シャニカ」

 愛しさがこみ上げて、ヴィルメはたまらず娘を抱き上げた。あーちゃ、と言いながら、シャニカは母の頬や唇に触れる。

「そうよ、お母様ですよ。いい子ね。……可愛い子」

 ヴィルメはささやき、優しく身体を揺らして娘をあやす。幸せな母娘の姿を、アルハーシュは眩しそうに見つめていた。瞳の奥にある哀惜を隠すように、目を細めて。


 そんな出来事があった数日後、王はシェイダールにひとつ提案した。

 王宮に来て早一年余り、そろそろ故郷に便りを送ってはどうか、というのである。

「良いのですか?」

 そんな私用を頼めるとは夢にも思わなかったので、シェイダールは頓狂な声で聞き返した。村を出る時に脅しをかけはしたものの、実際にはもうこれっきり、故郷と己をつなぐ糸は切れてしまうだろうと覚悟していたのだ。その反応にアルハーシュのほうが呆れた。

「良いに決まっておろう。何も言い出さぬゆえこちらも失念しておったが、やれやれ、まさか本当に生まれ故郷を捨てるつもりでおったのか? そなたと妻女の家族に、娘が元気に育っていると知らせてやるが良い」

「はい、……はい!」

 勢い込んでうなずくなり、シェイダールは腰を浮かせてそわそわする。アルハーシュが政務の見学を免除してやると、彼はかつてない勢いで飛び出していった。

 置き去りにされたリッダーシュが慌てて白の宮に戻った時には、シェイダールは早速あれこれ私物を引っ張り出していた。何か使者に預けられるもの、自分が確かに第一候補として暮らしている証になるもの、母が喜ぶ実用品か、美しく珍しいものは。

「新たに買うほうがいいかな。どこに行けばいいんだろう。ザヴァイに訊けばいいのか」

 ぶつぶつ。すっかり没頭しているその様子に、リッダーシュは呆れ、次いで笑み崩れそうになって口元を手で覆った。にやついた顔をあるじが見たら、またへそを曲げるに決まっている。別に厭味ではなく、微笑ましいだけなのだが。

「そうだ、書記……いや、先にヴィルメにも相談しないと」

 落ち着きなく右往左往していたシェイダールは、はたと従者の存在を思い出し、振り向いて妙な表情をした。羞恥を抑え込んで、しかし平静を装えず、かといっていきなり怒るわけにもいかない、ややこしい表情。とうとうリッダーシュはふきだしてしまった。

「失敬、おぬしがそこまで浮かれるとは思わなんだ。……やはり故郷を気にかけてはいたのだな。父君のことがあったから、すっぱり切り捨ててしまったのかと思っていたが」

 取り繕うように口にした言葉が、途中から真面目な気遣いに変わる。笑われてむすっとしていたシェイダールも、遠い記憶を探る静かな面持ちになった。

「正直、村が好きかと訊かれたら、否だ。帰りたいとも懐かしいとも思わない。ただ、母さんには苦労させたから……でも、まともな暮らしに戻れたかどうか、確かめられないと思い込んでいたんだ。俺にできるのは、父さんみたいに殺される人がもう出ないようにすることで、そのためにウルヴェーユを、と」

 ふつっと口を閉ざし、内省するように目を伏せる。そうして彼は小さく首を振った。

「違うな。いにしえのわざに夢中になっていただけだ。忘れたわけじゃないが、心の一番遠い隅に押し込んでいた」

「おぬしが薄情なのではないさ。同時にいくつもの事柄を、同じ重さで心に留めることはできない。探究に夢中になっているとしても、想いはしっかりとおぬしの奥底に根を下ろしている。故郷というのはそういうものだろう」

 同じく故郷と別れた身であるリッダーシュの言葉は、胸にすんなりと沁みた。

 その日は久しぶりにヴィルメと話し込んだ。

 村での思い出、母には何を贈れば喜ばれるだろうか、家族はどうしているだろうか。シャニカのことはどう伝えよう。一族の証たる黒髪と紫の瞳。もう掴まり立ちをしていることも。それ以前に、俺たちが婚儀を挙げたことも知らせていなかったじゃないか、驚かせてしまうだろうな。こちらの暮らしはどう言えば伝わるだろうか。

 二人はあれこれと言伝の内容を考え、あるいはとりとめもなく昔の話をした。その間シェイダールは、幼馴染みだけが唯一の理解者であった頃のように、心がごく近く寄り添っているのを感じていた。

 これがヴィルメの孤独を知ったアルハーシュの計らいであり、彼女が内心で王に感謝していることなど、彼が知る由もなかった。


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