夢の一片
シャンシャンシャン……鈴の音がさざめく。その銀波の上を弦の船がなめらかに走り、笛の翼が軽やかに飛んでゆく。
都の通りや広場の一部では、大道芸人の興業が認められており、あちらこちらで様々な音が聞こえてくる。所用で外出していたシェイダールは、そんな音色のひとつに惹かれて足を止めた。視線の先で、若い女が舞を披露していた。
横に並んだリッダーシュが思わずほうと嘆息したほどには、美しく巧みな舞手だ。長い黒髪をなびかせて、すらりとした手足をしなやかに操り、並外れた柔軟性で観衆を驚かせる。五弦琴と笛の奏者が仲間らしい。こちらの腕前はまずまずといったところだが、舞手の動きがよく調和して、全体の印象を引き立てている。
「上手いな」
シェイダールがつぶやいた。リッダーシュはうなずいて同意してから、主君の様子を窺った。見惚れているかと思いきや、何やら思案げな表情である。おや、これは、とリッダーシュが心構えをすると同時に、シェイダールは人垣を掻き分けて前へ出た。ちょうど曲が終わったのだ。お供の兵士たちも慌てて従い、主君の身の安全を確保する。
観衆が当惑にざわつく中、シェイダールは構わず拍手しながら舞手に歩み寄った。
「良いものを見せてもらった。その技量を見込んで頼みがある。後で王宮へ来てくれないか」
舞手の女が藍色の目をみはり、すぐに恭しく優雅に跪いて頭を垂れた。
「望外の光栄にございます。謹んで拝命いたします」
仲間の楽士二人が慌ててそれにならおうとしたので、シェイダールはそちらに向けて軽く手を振った。
「ああ、用があるのは舞手だけだから、おまえたちは残って興業を続けて構わないぞ。三人一緒でないと、と言うなら来てもいいが、もてなしは期待しないでくれ」
舞手だけ、と聞いて楽士二人は顔を見合わせ、気遣う目を舞手に向ける。シェイダールは彼らの反応を気にかけず、兵士の一人に案内を命じて先に王宮へ帰った。
しばらく後、兵士に連れられて私宮殿へとやって来た舞手は、見世物用の衣装を慎ましく隠すように、長いケープを羽織っていた。さすがに緊張した面持ちだが、怯えてカチカチに固まっているふうでもない。こうした展開には、いくらか慣れているらしかった。
だが私宮殿の帳をくぐった彼女が目にしたのは、まったく慣れない光景だった。思わずきょとんとして棒立ちになる。てっきり、酒肴の調えられた宴席か、さもなくば……伽をさせる床の用意がされているものと、予想していたのだが。
「ああ、来たか。ちょっと待ってくれ」
大王様がそう言いながら、絨毯をころころ丸めて壁際に寄せている。剥き出しになった黒曜石の床が闇夜のようだ。部屋の反対側ではリッダーシュが、寛ぐための肘置きやクッションを片付け、ぎりぎり数人が座れる程度のしつらえを残して場所を空けている。
部屋の隅には、五弦琴を抱えた角帽の祭司が一人だけ控えていた。
「……これは、いったい?」
ぽろりと口から疑問がこぼれる。大王様に対する言葉遣いではなかった、と慌てて女は口を押さえたが、当人は例によって気にしなかった。
「もうじき豊穣祈願の舞を奉納しなきゃならないんだが、どうにも引っかかるところがあるんだ。おまえなら上手いやり方がわかるかと思ってな。そうだ、まだ名前を聞いてなかったな」
「ニニと申します」
「よし。じゃあニニ、一度通しで見てくれ。そこらに適当に座ってくれていいぞ」
「畏れ入ります」
当惑しながらもニニは深く一礼し、リッダーシュに促されて腰を下ろす。シェイダールは長袖の長衣を脱ぎ捨てて身軽になると、祭司に軽く指で合図した。一、二、拍子に合わせて五弦琴が歌い出す。ダン、とシェイダールの足が床を鳴らした。
「――!」
一瞬でニニは目を奪われていた。息をするのも瞬きするのも忘れ、食い入るように見つめる。力強く風を切る手足、和音が花開くと同時に跳躍し回転する軽やかさ。
本来なら彼女のような一般人は、楽の音も届かぬ遠くから小さな姿を見るのがやっとであるものが、目の前で演じられているのだ。それは己の舞とは全く異なるものだった。観衆を魅了するためではない、神に捧げられる祈りの舞。挙措のひとつひとつに、目に見えない力が宿り世界を動かしてゆく――そう確信させるもの。動きの合間にそのまなざしを捉えた瞬間、意識が遙かな宇宙へと導かれる。
あっという間のひとときだった。
五弦琴の高らかな和音と同時に、シェイダールが両手を高く突き上げて動きを止める。一呼吸、二呼吸して、静寂がそっと遠慮がちに降りてくるのに合わせ、ゆっくりと手が下ろされてゆく。その後でようやく、ニニは思うさま深く息をついた。意識する間もなく目尻から涙が伝い落ち、堪えきれず祈りながら平伏する。
「ああ、なんと素晴らしい……もったいのうございます、感謝いたします」
感激に震えながら言った彼女に、返ってきたのは困惑した声音だった。
「いや。いやいや、待て。そうじゃない」
言いながらシェイダールが歩み寄り、あろうことか、軽くニニの肩を揺すった。大王様にいきなり触れられて、ニニのほうは心臓が止まりそうになる。
「あー……もういっぺん見せなきゃ駄目か? 途中で何箇所も、うまく拍子が噛み合ってないところがあったろう」
「――は?」
なんですって、と聞き返すわけにもゆかず、ニニは動転し絶句する。そういえば、先に「通しで見てくれ」と言われたのだった。あれはつまり、ぼやっと見とれていないで舞手としての目で確認しろ、という意味だったのか。悟ると同時に血の気が引く。
「申し訳ございません!!」
悲鳴を上げつつ、よりいっそう身を低くして平伏する。ありがたいことに、横から朗らかな笑い声が助け船を出してくれた。
「見とれるな、と言うほうが難しかろう。我が君、次は通しではなく区切りながら舞われては?」
「……そうか。通しのほうがわかりやすいかと思ったんだが……仕方ないな。ニニ、いいから、ほら、顔を上げて、今度はしっかり見ておいてくれ」
「は、はいっ!」
気合いの入った返事をし、ニニは背筋を伸ばして深呼吸する。彼女の用意が出来たと見ると、シェイダールは部屋の空いた場所に戻り、もう一度、今度は数節ごとに区切って舞い始めた。いくつかの区切りを経て、
「――あ」
ニニが声を漏らし、シェイダールも動きを止める。
「そう、ここだ。どうにも上手くない。楽の拍子と合わないし、だからって動きを前か後ろにずらすのもおさまりが悪い。演奏のほうを変えさせるのというのも無理だしな」
そこでニニが小首を傾げた。仲間同士であれば楽器のほうでも調整するものだからだろう。シェイダールは説明を付け足した。
「今はそこにいる一人だけだが、本番は当然、大勢がかかわる。それに、さっき見せた通り、全体としては大きな齟齬はないんだ。細かいところを調整するために全体をいじるはめになったら大仕事になってしまう」
そこまで言い、彼は苦々しい顔になって吐き捨てるように続けた。
「面倒だし、そもそも俺がそこまで真剣に奉納舞の練習に打ち込んでいるだとか思われて、あいつらを調子づかせるのは断固ごめんだ!」
大王様の機嫌を損ねてしまったか、とニニが恐縮すると、また横からリッダーシュが口を挟んでくれた。
「だから、秘密の練習に旅芸人を呼ぶ仕儀に相成った、というわけだ。付き合わせてすまないな、ニニ殿」
「とんでもない、身に余る光栄にございます」
慌ててニニは再び低頭したが、シェイダールは苦笑いになった。
「光栄だとか、ありがたがるようなものじゃないぞ。どうせ大昔から、本来の意味もわからず形を受け継いできただけのものだ。それで時代につれて、拍の取り方やら動きやら、あちこちがずれてしまったんだろう。俺はただ、音と色と動きの調和が取れていないのが気持ち悪いから、どうにか整えたいだけだ。だからおまえも遠慮するな。さっきのところ、おまえならどうやって合わせる?」
言いながら彼は、少し手前で踊った振り付けを適当にやって見せる。ニニはためらいながらも立ち上がり、ケープをその場に落として舞姫の姿になると、王の後ろに並んだ。
シェイダールがゆっくりと動くのに合わせて、ニニも振り付けをなぞる。
「そうですね……」
つぶやきながら何度か同じ部分を繰り返していると、祭司が気を利かせて音を合わせてくれた。確かに、破綻するほどではないが、音と動きがしっくり馴染まない。
「ここの手を翻すところ、こちら側に引き寄せる動きを加えてみては如何でしょう」
「こうか?」
「はい。こう捻って……こうすれば音に合うかと。色、というのは、わたくしにはわかりませんが」
基本的には同じ振り付けだが、少し変化を加えると動作の時間がわずかに伸びて、音にぴたりと寄り添う。シェイダールも試してみて、ああ、と嬉しそうな顔になった。
「いいな。これなら……うん」
楽の旋律を口ずさみながら、新しい動きを数回繰り返して身体に憶えさせる。ニニが最初にやって見せた動きからさらに少し変えて、やっと満足のいく振り付けに落ち着いた。
トン、タン、と足で拍子を踏んで、もう一度最初から通して踊る。新しい振り付けでうまく繋がることを確認すると、そのまま彼は舞を先へ進めた。そして、次の“引っかかり”で止まり、またニニが思案する。
そうして二人は時間も忘れて作業に没頭していたが、とうとう五弦琴の音がひどく乱れたので我に返った。いつの間にかリッダーシュが部屋に明かりを灯してくれている。
「しまった、すっかり遅くなったな。疲れたろう、悪かった。今日はここまでにしよう」
シェイダールは祭司をねぎらって「また明日よろしく頼む」と送り出すと、ニニに向き直った。
「おまえはどうする? 夕食を一緒に食べるなら運ばせるが、早く仲間のところに帰りたいなら、それでもいいぞ」
問いかける口調には何ら他意も含みも感じられなかったが、ニニは少し思案し、用心深く遠慮がちに答えた。
「お許し頂けますなら、仲間たちのところへ急ぎとうございます。心配しているでしょうから」
「そうか。ならとりあえず今日の分の礼を渡すから、三人で美味いものを食ってくれ」
シェイダールはあっさり受け入れ、リッダーシュに合図して、部屋の隅にある王の金庫を開けさせる。その反応に、ニニはほっとして肩の力を抜いた。
「……本当に、ご所望にならないのですね」
「うん? 何をだ」
「大王様のお召しだと伺って、わたくしはてっきり……この身体をお望みかと」
苦笑まじりにそう言われ、シェイダールは眉を上げた。いまさら改めて舞手の容姿をつくづくと眺め、首を振る。
「そっちの用は足りてる。確かにおまえは佳い女だが、『柘榴の宮』に迎えるでもないのに手をつけるほど、俺は色好きじゃない。だが、そう予想して来たわりには落ち着いていたな。……よくあるのか、そういうことは」
問いかけて、深い紫の瞳でじっと見つめる。ニニは視線を避けるように目を伏せた。
「あまりにも当たり前のことでございます、大王様。踊り子、舞姫と申しましても、舞うだけで済む女はほとんどおりませんでしょう。足りない稼ぎを補うために、あるいは安全に興業を続けるためにも。力のある方からのお召しを断るなど、できない相談でございます」
「……そうか。だったら、都にいる間は俺の先約があると言って断ればいい。ほら、今日の分の謝礼だ。帰りは兵をつけよう。また明日、迎えに行かせる」
「何から何まで、もったいのうございます」
深々と頭を下げたニニに、シェイダールは笑って応じた。
「そんなに恐縮するなよ、俺のほうがおまえに舞を教わっている身だぞ。おかげで、ずいぶん気持ち良く踊れるようになった。残りもよろしく頼む。それじゃあな」
そんな調子で、四日、五日とかけて、シェイダールとニニは奉納舞を少しずつ修正していった。ようやくすべての“引っかかり”を解消し、磨き上げられた振り付けでシェイダールが通して舞った時には、ニニはまた感激のあまり涙してしまった。
「ああ……本当に、大王様は類い稀なる舞手でいらっしゃいます。このような素晴らしい舞を間近で見られるなど、それだけで一生分の幸運に値するでしょう。わたくしなどが、この舞のために微力を尽くせたということが、もはや信じられないほどの奇蹟です」
掛け値無し、追従無しの純粋な称賛を浴びせられて、シェイダールは何ともややこしい顔になり、取り繕うように口を開いた。
「それは多分、おまえがこの数日で『路』を刺激されたせいだ。奉納舞はどれも、いくらか『路』に働きかける力があるからな。今までより音に敏感になっているだろうし、音色と動きが調和した舞だと、身の内に強く響くだろう」
「ウルヴェーユ、でございましたね。わたくしにも素質があるというのは、嬉しいことでございます。まだその……色と音の感覚というのは、はっきりいたしませんけれども、いずれわたくしも大王様のように、すぐれた舞手になれるという望みが持てます。わたくしにとってこの数日は、まるで夢のように信じがたい幸いに満ちておりました。その一片を、この胸に――『路』の中に抱いてゆけることを、何より嬉しく存じます」
ニニはつくづくと慈しむように、両手を胸に当てる。その様子を見てシェイダールは優しく満足げな微笑を浮かべたが、口に出したのは別のことだった。
「そういう『形のないもの』もいいが、王としてはちゃんと実のあるものを授けないとな。そら、これを持って行け」
言って手渡したのは、文字と印章が刻まれた小さな銅板だった。端の穴に革紐が通されており、携行に便利そうだ。ニニは恭しく受け取ったものの、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ありがたい賜り物に違いないのでしょうが、わたくしは文字が読めません。どのようなお言葉が記されているのか、お教え下さいませ」
「この女ニニは、大王シェイダールが庇護を与えし者である。この女を害する者は厳罰に処す。そう書いてある。面倒事に巻き込まれそうになったら使え。相手が文字を読めなくても、役人のところへ訴え出れば効力を発揮するだろう」
「……! なんと畏れ多い、そのような」
「おまえなら賢く使えるだろうと思ってな。それで少しは苦労が減るといいんだが。ああそうだ、当然だが、俺が死んだらそれは無効だから気をつけろよ」
ふと思いついたように装っておどけた大王様に、ニニも笑みを返す。
「でしたら、大王様にはぜひとも長生きしていただきとうございますね。どうぞくれぐれもご自愛を……そして、神々が長寿を授けてくださいますように」
わざとらしく祈願を付け足し、案の定シェイダールが苦い顔になったのを見て、ふふ、と彼女は柔らかく笑った。
「嫌いな相手からの贈り物でも、こればかりは断らないで下さいまし。御代永からんことを、わたくしも日々切に祈っております」
――そうして優雅に一礼し、旅の舞姫が大王の前を辞してから、一年ほどが過ぎた頃。
都の大王のもとへ、地方役人からの報告が一件、届けられた。庇護を与えたしるしの銅板を添えて。
厳しい面持ちで草木紙の書簡を読むシェイダールに、リッダーシュが気遣わしげな声をかける。
「我が君。それは……」
「ニニが殺された」
シェイダールは端的に答え、読めと報告書を手渡す。リッダーシュは目を通し、嘆息した。興業中に地元の若者集団に絡まれ、その場は居合わせた人々の仲裁でおさまったものの、後で待ち伏せされて暴行の末に殺された、殺害者は既に死刑に処した……そんな内容だった。
シェイダールは沈痛な面持ちで銅板をもてあそび、ぐっと強く握り締めた。歯を食いしばって罵りの言葉を押し込める。リッダーシュが無言で、友の肩に手を置いた。
ややあってシェイダールは拳を開き、ふっと息を吐いて銅板を見つめた。
「……役に立たなかったな」
沈んだ様子の彼に、リッダーシュが静かに「そんなことはない」と慰めた。
「最後に命を守れなかったことは残念だが、それでも、そこまでの旅路、彼女にとっては心の拠り所になっただろう。さすらいの身の上にとって、王の庇護を示すものがあるというのは心強いものだ。おぬしが彼女に与えたのは、ただの銅板一枚ではなかろうよ」
そう言われても、シェイダールは曖昧な相槌を打っただけで、納得はしない。なおしばし沈黙したのち、彼は小さく首を振ってつぶやいた。
「誰も殺されない国――なんて、遠い夢だな。だがそれでも……この銅板があったから、ニニを殺した奴は報いを受けた。でなければ、旅芸人の女が一人殺されたところで、誰も何もしようとせず放置されただろう」
「ああ。そうだろうな。だからこそ、おぬしがした事は小さくとも確かな一歩だ。遠い夢に辿り着くための」
今度はシェイダールも、うん、と深くうなずいた。銅板を掲げ、軽く指で弾く。
「これもまた夢の一片、か。諦めずに行くしかないな」
ようやく少し活力を取り戻した大王様に、その親友が「御意、我が君」と応じる。二人の声を映すように、小さな銅板がきらりと光った。
2025.7.21