真似ることから始めよう
※振り子のシェリアイーダとミオとモフモフたちがにこにこするだけの話。
「犬飼ったことない人はあり得ないって言うけど、犬も笑うよ!」という話題を見かけたので…。
イーヴァは狼、ヤルゥルは豹の獣兵である。共に王女の警護を命じられ、王女が外出する時にはお供し、王宮では王女の部屋の前に控えて出入りする者を見張っている。とはいえ、朝から晩まで休みなく神経を張り詰めて警戒していろ、というのも無理な話。
「こう、かな?」
「ちょっと違う。この辺を、こう……」
「ん、んんっ、んぐぅ」
「それじゃ威嚇だ」
何やら小声でこそこそと、相談しているような気配がする。自室で論文の修正に頭を悩ませていたシェリアイーダは、そちらに気を取られて集中が途切れてしまった。困ったように戸口を振り返った彼女の視線を受けて、リゥディエンが「遮音しますか?」と気遣う。シェリアイーダは頭を振って立ち上がった。
「いいわ、どうせ行き詰まっていたところだから。少し気分を変えましょう」
うんと伸びをして、獣兵たちを構いに行く。ひょいと廊下を覗くと、ちょうどヤルゥルがイーヴァの口の両端を引っ張っているところだった。
「あっ」
「ひぇはま」
慌ててヤルゥルが手を離し、イーヴァは「姫様」と言い直して、揃って決まり悪げに姿勢を正す。シェリアイーダは困惑に目をしばたたいた。
「二人で何をしていたの?」
いつもなら素直に何でも答える二人が、なぜか今日はもじもじするばかり。互いの顔を見ては、言おうか言うまいか目で相談をしている。リゥディエンが首を傾げて、
「口に何か異状が……具合のおかしいところがあるのか?」
と気遣えば、二人は揃って首を振る。なおしばらくもじもじしてから、やっとイーヴァが口を開いた。
「姫様、」
呼びかけて、中途半端に口をぱかりと開けたまま、問いかけるような目つきをする。横でヤルゥルが少し目を細め、やはり同じく半端な形に口を開けた。そうして二人は、主人たちの反応を待つ。
「……ええと。おなかが空いたの?」
違うだろうな、と思いつつシェリアイーダが適当に憶測すると、案の定、二人はぱくんと口を閉じてうなだれた。イーヴァが尻尾をへにゃりと垂らして、むずかしい、と小声で嘆く。ヤルゥルが恥ずかしそうに白状した。
「笑う練習、してた。姫様みたいに」
「えっ」
予想外のことを聞かされ、シェリアイーダはきょとんとする。リゥディエンが、ああ、と納得した。
「人間のような笑顔をつくる練習、ということか。それで口を」
「そう。口の端を上げて、こうやって口を開けたら……ならない?」
言いながらヤルゥルは、さっきの半端な顔をした。シェリアイーダは思わず笑ってしまう。
「無理に私達の真似をしなくてもいいのに。あなた達だって、楽しい時には自然にそういう表情になっているわよ。人間とは違うけれど、ちゃんとわかるから大丈夫。尻尾は正直だし」
事実、彼女がそう話す間にも、イーヴァとヤルゥルは姫の笑顔につられるように、嬉しそうな面持ちになっている。イーヴァが尻尾をぱさぱさと揺らしながら言った。
「姫様の、その顔が好き。姫様、楽しいとき笑う、イーヴァも嬉しい。だからイーヴァが笑えたら、姫様も楽しくなる。でしょ?」
そうしてきらきらと純真な目で見つめられては、降参するしかない。シェリアイーダは狼の首を抱き寄せて、思うさま撫で回してやった。
「あなた達ったら、本当にもう、なんていい子なの!」
幸せな気持ちをくれる主を、幸せな気持ちにしてあげたい。そんな望みをもって、笑顔の真似をしようと練習しているだなんて。
「もちろん、わたしはあなた達が笑っていたら嬉しいし、幸せだわ。でもね、それは無理に真似した笑顔でなくて、あなた達が嬉しくて楽しくて自然にそういう顔になった時よ」
そこへ横からヤルゥルが頭をすりつけ、イーヴァばかりでなくこっちも、と催促しながら、口調だけは真面目ぶって言う。
「普通にしていて、人と同じ笑顔になれたら、みんな幸せ」
「同じ笑顔じゃなくてもわたしは幸せだけど……そうね、でも確かに、笑顔って見る人の気持ちを和らげてくれるから。笑い合えたら、幸せかもしれないわね……」
……そんな会話がなされたと、遙かな時の彼方に忘れ去られた後で。
「うん、これなら上出来だ。ありがとう、ミオ」
繕い終わった服を持ち上げて点検し、スルギはにっこり笑顔で礼を言う。ミオは相変わらず変化の乏しい表情で、どういたしまして、と返した後、ふと瞬きして小首を傾げた。
「? どうかしたかい」
「いえ……少し、不思議だなと。スルギさんも、里の皆さんも、まるで人間のように笑うのですよね」
狼や虎、そのほか獣本来の生態であるなら、笑顔などというものは必要ないだろうに。耳や鼻面、姿勢、尻尾。そうした諸々のところに示される徴で、互いの感情を伝え合うことはできるはずだ。
むろんジルヴァスツは獣と同じではないのだが、それにしても不思議に思われた。
「人間である私よりも、よほど自然に笑ってらして。……皆さんはきっと、喜びとか楽しさ、嬉しいことを、たくさん知っていらっしゃるんでしょうね」
ミオはしみじみと言った。嬉しい、楽しい。そんな感情も、彼女にとってはどこか遠いものだ。里に来て少しずつ実感が出てきたように思うが、彼らのように自然に笑顔になるほどのことはない。
スルギは真面目な面持ちで聞いていたが、ミオが黙り込むと、ぽんとひとつ手を打った。
「それならミオ、君も俺達の真似をして笑うといい」
「えっ?」
「ほら、こうして口の端を上げて。うん、そうそう。なんとなく、ちょっと楽しくならないかい?」
「……どうでしょう……?」
口元だけの笑みをつくったまま、ミオは曖昧に応じる。だが、にこにこと嬉しそうなスルギと向かい合って、自分も少し笑顔らしい表情を浮かべていると、確かになんだか気持ちが明るくなるようだ。
「……そうですね。はい、少し」
頷いた時には目元が緩んでいたのだが、本人は自覚がない。スルギが機嫌良く尻尾を一振りした。
「真似していれば、そのうち自然と、ちょっと楽しいかな、ぐらいの時にも笑えるようになるよ。そうして君が笑ってくれたら、俺達も嬉しい」
「皆さんが喜んでくださるのなら、頑張って練習します」
「無理はしなくていいんだ」
「はい。無理せず頑張ります」
真顔で決意表明したミオに、スルギが笑う。ああ、あんな風に笑えたらきっと気持ちが良いのだろうな、とミオは少し眩しいような気持ちで目を細めたのだった。
2025.7.7