噂の事件、その③ ローブに記された刺繍。ニアの場合
辺境伯であるお爺様とお婆様が、忙しい収穫の季節にも関わらず王都を訪ねていらっしゃいました。いつもならば、収穫終わりに合わせ此方から訪ねるのですが、何か急ぎのご用がおありでいらっしゃったようです。
御二方共に、相変わらずお元気なご様子に安堵いたしました。
そして、翌日の事。いつものように支度を整え婚約者である陛下の執務室を訪ねます。本日は、お婆様が見立てて下さいました薄紫のロマンチック・スタイルのドレスです。
馬車を降り、階段を登り、執務室の前で大きく深呼吸をしたのち、扉をたたきました。
と、そこで背後より陛下に朝のご挨拶を頂きます。
「おはよう。ニア嬢」
突然のことに驚き、心臓が飛び跳ねます。振り返りまずは頭を垂れ、カテーシーをいたしました。その間私は必死に、心を落ち着けるよう己に言い聞かせておりました。声が震えぬよう細心の注意を払いながらご挨拶申し上げます。
「おはようございます。陛下」
「あぁ。今日も美しいね」
美しいという言葉は、きっと御世辞でしょう。それでも、喜んでしまうのが乙女心と言うものです。例え相手が、婚約破棄をいずれ申し出る方だったとしても――。
「お二人共、入られないのですか?」
陛下の見目麗しい装いにうっとりしかけたわたくしの耳に、エリオット様の声が届き現実へと引き戻しました。カテーシーをしたまま動きを止めていたわたくしは、直に姿勢を正します。
エリオット様に視線を向けられていた陛下が、徐にわたくしの手を取りいつもの部屋までエスコートして下さいました。柑橘系の爽やかな香りがほのかに香り、上質な生地は滑らかな手触りです。歩幅もわたくしに合わせてくださるあたり、女性のエスコートには慣れていらっしゃるのかもしれません。
そんな感想を抱いたところで、陛下がソファーに座られたのを確認しわたくしも腰をおろしました。どこか緊張した面持ちの陛下とエリオット様のご様子に、ついに婚約破棄を言い出すのではないかと身構え思案しかけました。
音もなく差し出されたスッキリとする味わいの紅茶を口に含まれた陛下は、わたしくを真直ぐ見つめられ「ニア嬢。突然だが、これを見て欲しい」と言われると、エリオット様へ合図を出されます。
陛下の視線を受けたエリオット様が、頷き懐から一枚の紙をテーブルの上に取り出されます。
見て欲しいと言われた以上、見ない訳にはまいりません。気付かれぬよう細く息を吐き出し、紙を手に取りました。日本に居た頃と変わらぬ紙の手触りに、相当上質な紙なのだと思います。
この世界の紙は、高級品の扱いになります。目が粗くザラザラとした手触りの粗悪品でさえ銅貨5枚もします。日本円で、約5千円~ですよ? そんな粗悪品が、陛下のお手に触れる事はないでしょうが……。
折角なので、ここで通貨について軽く補足します。
鉄貨1枚=100円~150円
銅貨1枚=1,000円~1,500円
銀貨1枚=10,000~15,000円
金貨1枚=100,000~150,000円
白金貨1枚=1,000,000~1,500,000円
と言った価値になるようです。
更に、鉄貨10枚が銅貨1枚と言った具合に繰り上げられる事から、このような価値になるのではないかと考えました。
ちなみにですが、この国の平民の方のひと月の収入は約銀貨5枚だと聞いております。それを考えると、紙は相当な高級品であると言わざるをえません。
紙を開き見たわたくしは、記された絵とそれに補足するよう書かれた文字に目を走らせました。
百合の葉のような形の葉に縦に幾本もの筋が入り、下を向いて咲く銅鐘のような形の花。その横には、銀で縁取り淡い緑の色が入っていたなどと書かれています。
「この模様は……ディスポルムでしょうか?」
「ディスポルム?」
聞き返したように問われた陛下に声に、自分が声に出していたのだと気付かされました。
それが気恥かしくなったわたくしは、陛下に許しを得ると部屋の奥に備え付けられた本棚へと向かいます。数十冊はあろうかという手書きの本の中から、植物図鑑を取り出します。
本来ならば本に記された文章を確認して戻るべき所ですが、紙に記された文字の方に気を取られてしまい確認せずに陛下の前へと戻ってしまいました。以前読んだこの本は、陛下手ずから選んで下さったものです。好かれている訳ではありませんが、当時のわたくしは、とても大切にして頂けていると嬉しく思ったものです。
陛下の前に座りなおし、持ってきた本をパラパラと捲りディスポルムに関する記述のページを開きます。そのままでは読みにくいので、陛下が見やすいよう逆さに持ち説明を始めました。
「この本に、その植物について記載されています。正式名称は、ディスポルム。別名をプルムと言い、花言葉は、追憶もしくは嫉妬だとされています。生息する地域ですが、気温が高く雨が多い地方に多いそうですわ」
花言葉の説明は、敢て付け加えました。以前ヴィジリットのお婆様に教えて頂いたのです。魔女に関する者たちは銀で縁取る事を好むと。
今回見せて頂いた紙には、その特徴が記されておりました。ですから、わたくしは試したのです。その言葉が意図するものに気付いてくださるかどうかを……。
「追憶、もしくは嫉妬か」
眉根を寄せ、考え込むように陛下が呟かれます。エリオット様もまた思案しているようです。
これならば、話しても問題ないでしょう。
「えぇ。この絵に記された説明の通り明るい緑に銀で縁どる刺繍は、嫉妬の魔女が好む毒花を表わすものですわ。ですので、この刺繍はあまり人目に見せないようにご注意された方がよろしいでしょう」
わたくしが出来る事はここまで……。本当なら、お二人が抱える問題を共に考え解決したい。けれど、この世界で、女のわたくしが男性のような事をする事は良しとされません。
だからこそ、協力を申し出たい気持ちを心の底に押しこみ、紙を畳みテーブルへ置きました。
自身が知る限りの内容を伝え終えて、お二人の肩の力が抜けたのを確認したわたくしは、陛下に渡すよう頼まれた魔蝋印で封されている手紙をドレスの隠しから取り出します。
「グレン様……ヴィジリット辺境伯様より、お手紙をお預かりしております」
「……なっ!!」
紅茶を飲み寛いでおられた陛下が、ギョッとした顔をしつつ差し出した手紙を凝視されました。受け取って頂けない差し出された手紙に、わたくしは首をコテンと倒しながら陛下のご様子を伺います。
「グ、グレン様?」
改めてお名前をお呼びしましたが、陛下は反応してくださいません。仕方なく、エリオット様の方へ顔を向け手紙をお渡しすべく手を伸ばします。
「あっ!」そう小さく声を漏らされたエリオット様が、わたくしから手紙を受けとろうとした刹那――。陛下の腕が掠め取るような勢いで伸びて来ると手紙を掴みました。
「こ、これは私にあてた手紙なのだろう?」
「え、えぇ。そのように託っております」
焦ったような陛下のお声に、そうだと頷きます。すると、ニッコリ微笑まれ「じゃぁ、これを私に渡して?」と手紙を差し戻されました。
何がなさりたいのでしょうか? わたくしには陛下の考えがわかりません。
陛下の要望に答え仕方なく、今一度、手紙を陛下の前に差し出します。すると陛下は、手紙を受け取って下さいました。
「ありがとう。ニア嬢……」
そう言って、わたくしの手を握り甘いマスクで微笑み指先へ唇を落とされたのです。
足を運んで頂きありがとうございます。