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ピグマの日記(打ち上げ話)

 9月2日。

 とうとう二人が行ってしまった。

 いつかは来るとわかっていたこの日だが、どれだけ覚悟を決めていたつもりでも、その瞬間を迎えることは想像以上の苦痛だった。

 昨夜はクグツとともに床に入り、最後となるかもしれない親子の語らいに没頭した。そのあとでカラユキに起こしてもらい、最後となるかもしれない逢瀬に浸った。

 程なく夜が明けた。

 折しもクグツの誕生日。その母親の偽りの月命日。

 かりそめの墓参は汽笛の音で終わらされ、カラユキはクグツの手を引いて、クグツはカラユキにしがみついた。

 しかし僕はその場から動く気になれず、そのまま二人が離れていくのを見送った。

 やがて船が離れていく。時間をかけてゆっくりと。しかし確実に。いずれそれも遠ざかり、水平線の果てに消えていく。

 二人の姿が完全に捉えられなくなってしまうと、最愛の娘と最高傑作を奪われた実感が、激流が逆流するように込み上げてきた。

 覚えず僕は咆哮を轟かせていた。

 我が身の不甲斐なさを呪うように言葉にならぬ声を泣き叫んでいた。

 だが全ての元凶はあの女だ。

 僕はその名の刻された墓石を蹴り倒し、拾い上げては叩き付け、片手で持てるほどの群にまで破砕した。さらにそれらを細断するべく打ち付け合わせた。

 僕の手指はあの女が力づくで抵抗するように傷つけられていった。その不快な痛みは愚鈍な僕への当然の仕打ちに感じられた。

 あの女を嬲り、併せて自らを罰するその行為を、僕は飽くことなく続けていた。

 このようにしてやりたいのはあの女だけではない。この僕も等しくこうなればいい。それがクグツへの、そしてカラユキへの、精いっぱいの贖罪だ。許しなどいらない。ただただ詫びたかった。

 僕の思いとは裏腹に、僕の肉体は僕を守り生かそうと抗う。

 次第に息が切れるようになり、緩慢な動きはやがて途絶え、それでも停止には至らない。だがこれを幾度か続ければ、いずれ終わりを迎えるだろう。

 血まみれの手で今一度、手近なこぶし大の破片を握り締めた、そのときだ。

「その辺にしておけ、仕事できなくなるぞ」

 思わず動きを止めた。

 声のほうを振り返ると、作者が突っ立っているのだった。

「カラユキとクグツに会いに来たが、遅かったみたいだな」

「わかっているなら話は早い。消えてくれ。見てのとおりここには僕しかいない」

「そうだよ。あんたがいるじゃないか。このまま俺がいなくなったら、あんたも消えちまう気がしてならない。今後のこともあるからそりゃ困る」

「………」

「折角だ。ここまでで打ち上げ話をしておこう」

「まだ始まったばかりじゃないか」

「仕方ないだろう。俺が二人に追い付くにはだいぶ時間がかかるだろうからさ」

 僕は作者に促されて帰宅した。

 無人の家に帰ることなど、いつ以来かも思い出せない。

 きっと、クグツの1歳の誕生日以来だ。あの女が死んだ日だ。

 それでもあのときは、カラユキがクグツを連れて、すぐ後を追って来てくれたっけ…。

「薬箱どこよ」

「………」

 僕の感傷を妨げるように作者が言う。

 苛立ったのはそのせいだけではない。何もかもカラユキに任せっぱなしだったから、どこに何があるのかよくわからないのだ。

「どうでもいい。放っておいてくれ」

 僕は一人洗面所に赴き、手を洗って泥と血を流し、手拭いを掴んだ。

 手を伸ばした先にそれがあることが当たり前という日々も、今日で終わりだ。思わず僕は水気を含んだその手拭いで顔を覆っていた。手拭いの重みはさらに熱く増していく。カラユキの姿が、においが、声が、そこに残っているような気がして、いつまでもこうしていたかった。

「茶ァ淹れたぞ」

「………」

 狙っているとしか思えない作者の出現に、僕は自分に向けていた殺意の方角が変わる感触を覚えた。

 食堂に用意されたその茶は、カラユキが淹れてくれる味には及びもつかない、まずいものだった。それでも疲弊した僕の心身に情けなくも染み渡っていく。

 人心地がついてしかし、逆上じみたその理不尽な感情だけが残っていた。そしてその発露を止められない。あの女が元凶ならば、この男はその大元だ。

「なぜ僕たちを思いつき、そして書こうと思った」

 あとから考えれば、こんなにも都合のいい誘い水はなかっただろう。

 作者は茶碗の残りを一気に飲み干し、話し始めるのだった。


「ユーチューブで昔のバラエティ番組の映像を見ていたら、ルビー・モレノが出ていた。

 そんな人いたなあと思うとともに、いつからか全く見なくなったな、なんかトラブルがあったように記憶しているが、なんだったんだろうと思ってググってみたら、“ジャパゆきさん”という単語にたどり着いた。

“ジャパゆきさん”とはなんぞ? と思ってさらに調べたら、“からゆきさん”に至った。

 ショックだった。我が国において、他国に売春をしに行っていた人がいたなんて、と。

 一方で、他国から我が国に売春をしに来ている人がいたことにさほど頓着しなかった自分の卑小さに落胆した。

 さておき、“からゆきさん”という人たちのことを色々考えたりちょっと調べたりしてみただけで、望んで身を売ったわけではなく、親きょうだいに楽をさせるために仕方なくそうした、というような背景があったこともわかった。

 それを踏まえたうえで真っ先に感じたのは、売春という行為は悪しきものだということだ。昔から良いものだとは思わなかったが、決定的にそう思うようになった。

 参考文献である『サンダカン八番娼館』の著者の山崎朋子は、社会の不備や当時の為政者の思惑を指摘・糾弾するスタンスだし、そこに頷ける部分も多々あったが、俺はどうしても個の部分にコミットしたい気持ちが残った。

 もちろん時代が違うと言ってしまえばそれまでだ。それは否めないファクターだ。それで折り合いをつけることもできなくはない。

 しかし現在も売春という行為は通常的に行われている。あるいは“からゆきさん”よりもずっと利己的な理由によってだ。

 実際のところ、自分がガキだった数十年前を現在とみなしていいならば、国を違えているとはいえ、“ジャパゆきさん”は存在していたわけである。俺が知らないだけで今この瞬間にも、この世のどこかに誕生しているのかもしれない。してるだろうな。

 無論、責められるべきは売る側ばかりではない。買う側もそうだ。

 春を売るのは愚かなことだし、春を買うのは恥ずかしいことだ。

 今後このフレーズは作中でも出すかもしれないな。

 とにかくそれを踏まえて売春婦の物語を書いてみようと思った」

「僕のいるこの場所は君の国なのか」

「わかっているだろうが言及はしていない。今後する気もない。

 はっきりそうでないところにしようかとも思ったが、そうだということでもよい。

 文化的なものは酷似しているな。旧カラユキの風体にクグツの服装、作中で言及していないがあんたの格好も作務衣や甚平だろう。金髪碧眼の人形が舶来物として扱われていることや、1歳の誕生日を祝うのに一升餅という風習があることも、その現れだろう」

「新カラユキは完全に洋装だな」

「俗にいうメイド服だ。その単語を出さないようにはしたが」

「君の趣味か」

「大ぴんぽん」

「………」

「“旦那様”という言い回しは“ご主人様”ほど媚びがなくていい」

「………」

「もっとも、初めはバースデーケーキという設定で行くつもりだったが、一升餅という存在を知って、それに変えたわけだ。もし俺の国だとするなら、時代もある程度昔になるだろう。着物は一般的ではないからな」

「君の時代ではないわけだ」

「“からゆきさん”の時代に即しているかどうかはわからないが、それぐらいの時代のつもりで書いた。インターネットは存在しない時代だ」

「構成はこれまでとはまるっきり違うな」

「そこは一番意識したよ。

 人間であるクグツは記憶というあやふやなかたちを思い出すことしかできない一方、人形であるカラユキは記録としてその経験の全てを正確になぞることができる。

 クグツの記憶とカラユキの記録が交互に展開される構成により、クグツが覚えていないところや不正確なところをカラユキが補完したり、逆にカラユキが知らないところをクグツが知っていたりするという体裁にして、物語は進む。

 本人たちには不知の部分もある。認識の齟齬もある。実際にあったことや本当のことは、読んでいる人だけが把握できる」

「同じ部分を二度書く具合になるから嵩増しもできる」

「アーアーキコエナーイ」

「聞け。これからが本題だ」

「はい、どんぞ」

「なぜカラユキである必要がある」

「あんたが作中で言ったとおり。人形だからだ。

 そのあたりから瞬間的にストーリーがひらめいていった。

 人間の売春婦ではなく、人形の売春婦を主人公にしよう。

 目的は一人の少女を守るため。

 その少女を売春婦にさせないために自らが春を売る人形。

 となるとその少女が人形の主人ということにしよう。

 人形だから衰えないし、壊れても直せる。

 メンテナンスはその少女にさせればいい。

 そんな感じだ」

「そこでクグツまで生み出したのか。いっそ僕でいいだろう」

「無目的に春を売るだけの人形じゃあドラマがないからな」

「可哀想なことをさせるな!」

「名が体を表していていいじゃないの。翻弄される運命を生きる彼女にぴったりの名だ」

「それならカラユキの由来はなんだ」

「無論“からゆきさん”だ。そこから始まった着想でもあったから、その語を主人公に宛がった。“ちゃん”をつけて源氏名ということにしたし、それをそのままタイトルにした。響きが人名っぽくなく、さりとて無機物的でもない気がしてよい。

 ちなみにあんたの名前は便宜的に付けていた呼び名から投稿前に変わった。ピグマリオンという単語は知っていたが、それが人名だとは知らなかったし、由来も知らなかった。元のままだと長いから略したけどね。もっと言うと、あんたの名前を確定できたことで、今回投稿しようという決意が固まったよ」

「一生涯、思いついてくれなければよかったな」

「それでも俺の頭の中には留まっていたろうよ」

「だったらとっとと終わらせてくれ。次はいつ投稿するんだ」

「未定」

「なんだと」

「次の話さえ書きかけで止まっている。その後も粗筋はおおむねできているがプロット程度だ」

「呆れたものだ。それでよくここに寄る気になったな。こんな自己満足まで垂れ流しやがって。そもそも後書きというものはすべて終えてから著すものだろう」

「自分に発破かけるために書いてんだよ。

 俺には書きたいものがいくつかある。それは何がしかのテーマを追求したいものであったり、誰も思いついたことのないようなストーリーを展開したいものであったり、魅力的なキャラクターを創造したいものであったりする。

 いずれにしても、読んだ人に何らかの影響をもたらすものでありたいと思うわけだ。面白かったとか、泣けたとか。要するに形而上への影響だ。俺が書いたものを読んだところで、ダイエットに繋がることもなければ幼馴染の彼女ができることもないし、それを望んでもいない。

 しかしこの物語は、今の自分が書きたいと思っているものの中では、最も形而下における影響をもたらしたいと思うものだ」

「痩せたり結婚できたりするのか」

「それなら暗記するまで読み返すわ」

「君は僕たちに降りかかる災難と不幸を描いていって、その果てに現実世界で何を望むというのだ」

「売春の根絶だよ」

「……随分大きく出たものだな」

「そんなものがハナからこの世に存在しなければ、あんたらは災難に見舞われることも不幸を味わうこともなかった。“からゆきさん”も、“ジャパゆきさん”もいなかった。俺がこんなもの書く必要もない。だからこの物語でそれが実現することさえ願っている。

 しかし、これまで投稿したものもそうだが、投稿しないままだといつまでも同じものを読み返したり、ぐじぐじ書き直したりして先になんて進みゃあしない。

 だが、一度投稿してしまえば、それはもう俺のものとはいえなくなる。本音を言えば投稿作品は一言一句変えたくないし、そういう思いを抱かないように振り返ることも少なくなった」

「前作は書き直したいとか言ってたくせに」

「書き直すにしたって改稿だよ。一度投稿したものをなかったことにしたくないだけだ。

 とにかく今作は、叶うかどうかは別にして目的がある。ずっと俺の腹の中で秘めていたって仕方ない。

 だからあえてスタートさせてみた。これで退路は断たれた。なかったことにはできなくなった。あとは進んでいくだけだ」

「売春は最古の商売ともいわれている。良し悪しはさておき、たかが創作物一つで、この世からそれがなくなる日なんて来るだろうかね」

「そりゃ代替物は必要だよ。その筆頭候補が人形だし、カラユキはその具体的なモデルだ。あんたも言ったように、人形なら老いず壊れず人間にはできないことができる。AIの発展が待ち望まれるな」

「作るのは僕のような人間だぞ。春を売らせるために我が子同然の人形を作りたがる奴などいるものか」

「それなら我が子そのものに春を売らせりゃいい」

「………」

「カラユキも似たようなこと言ってたが、人形の立場としては気にならないだろう。元よりそれが当たり前。それが彼らのレゾンデートル。あんたがよくわかってるだろ。

 カラユキは幾度も感情的な面を見せるが、作中で言及しているとおりあくまでもそれは、人間だったらそう感じるだろうという反応でしかない。カラユキがクグツを第一に考えているのは、自発的なものではなく、あんたにそうインプットされているからにすぎない。だからカラユキに人間と同じ感性は抱かせないように徹底したし、この後の話でもそれは一貫している。

 そもそも人間を想うなんて観念、すべからく人形は持ち合わせていない。もしそれがカラユキにあるとしても、クグツを守り通せる喜びでいっぱいのはずだ。理想的な人間と人形の関係だ。

 それでもあんたやクグツがカラユキに色んな感情を抱くのは、人間の特性なんだろう。俺もそうだよ。人間は人形に限らず、人のかたちをしているものに対して親近感を抱くものだ。

 だがその感慨をそれらのものに投影して、人形も人間と同様に感じるものだと思い込むのはナンセンスだ。

 人間を想えばこそ、彼らはその身を人間の好きなようにさせる。しかし喜びを感じるわけでも恥辱を覚えるわけでもない。

 可哀想なんかじゃない。

 そしてそうでなけりゃあ、それこそ可哀想だ。

 人形ってのは、読みを変えればひとがた。ひとがたといえば形代でもある。つまり身代わりだ。

 いつか誕生するカラユキたちに俺たちがするべきことは、せいぜい尊敬と感謝ぐらいだ。

 自分にできないことをやってくれる相手に対しては、それが生き物だろうとそうじゃなかろうと、尊敬を抱いて感謝を伝えればいい。伝わらなくてもいい」

「カラユキができるまではどうする。そんな日は技術面で永遠に来ないかもしれない。だとすればいつまでも春を売る者と春を買う者が存在し続ける。カラユキがいてもなお、そうかもしれない」

「もちろん売春を根絶するもう一つのファクターは、売る側と買う側の意識変革だ。なぜ売るのか、なぜ買うのか。そしてそれを止めるにはどうしたらいいか。当然そこにも言及していく。もしもそれが果たせるならば、カラユキだっていらなくなる。可哀想な人形は存在しないままでいられる」

「そうか…」

「………」

「………」

「え、終わり?」

「ああ、もう十分だ。それほど期待はしていないが、存分にやってくれ」

「まあ、俺も自分にそんなに期待してない。それができるだけのものならとっくにやれてるだろうからな。それでもまずは動くだけだ」

「………」

「君はわかっていないな。

 僕が期待していないのは君が生きる君の世の中に対してだ。

 創作物一つで人を動かすことはできない。

 たとえ人が動いても世を変えることなどできやしない」

「人のト書きを奪うな」

「代わりに俺のをくれてやる」

「…それでも善意の糸を織り成していくしかないんだ。

 俺はその一針目になるだけなんだよ」

「頑張り給え」

「それも僕の台詞だ」


 作者を見送るために玄関先まで赴いた。

 ここまででいいと言われたが、元よりそのつもりである。

「この後はどこに行くんだ」

「二人を追うよ。追い付くまでは時間がかかるだろうけどな。元の道に戻るかもしれないし、また別の寄り道をするかもしれないし、途中で道に迷うかもしれない。それでもいつかたどり着きたい」

「粗筋はできていると言ったな」

「ラストまでしっかり。あとは煮詰めていくだけ」

「じゃあ教えてくれ。僕はいつかもう一度、二人に会えるのか」

「それはこれから先のお楽しみ」

「クグツは無事なんだろうな」

「それも今は言えない」

「カラユキはどうなる」

「クグツが生きている限り春を売り続けるだろうさ」

「その後はどうなる! カラユキは整備不良と燃料が尽きるまでは止まらないんだぞ! どれだけ後になってもクグツが死ぬのが先なんだ!」

「今それ言っちゃったら続編書けないじゃないか」

「………」

「お互い長生きしないとだな」

「それか早く続きを書いてから死んでくれ」

「ひど」

 そうして作者と別れた途端、飢餓のような空腹を催した。

 台所に行き、カラユキが作り置きしてくれた料理の数々の少しずつを口に運び、歯を食い縛って味わった。

 食べ慣れたカラユキの味は、ささやかにしかし確実に、僕に活力を注ぎ込んでいく。僕が望めばそれは一滴ほどすら取り込めず、同じく望めば無限にだって増えていく。

 僕はこうして生きている。そうしてまだまだ生きるのだ。二人にもう一度出会うのだ。

 クグツ、カラユキ。

 君たちのいないこれからの日々を、僕はどうにか生きていく。

 だから君たちもどうか、同じ毎日を生き抜いてくれ。

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