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カラユキの記録

 わたくしは、元々は女中として作られた、からくり人形です。

 わたくしをお作りになったのは、からくり細工の職人である旦那様で、名をピグマと仰います。当時は奥様とお二人、広いお屋敷に暮らしていらっしゃいました。

 人間の女中は旦那様がわたくしの製作に着手される以前にも、延べにして7、8人いたそうですが、みな奥様の理不尽ないびりに耐えかねて逃げ出してしまい、ついにはあの屋敷では死ぬまで女中をいじめ抜くという噂までが立つようになり、いつしかどれだけ給金を増やしても新しい女中が来なくなってしまったため、とうとう諦めてわたくしをお作りになったそうです。

 旦那様はまず、人間の頭に相当する部位をお作りになりました。人間が記憶として、ときに曖昧に残してしまうところを、わたくしの場合は記録として、正確に残すことができるのです。また一度得た知識や経験を元に、自分で判断したり工夫したりすることができるという、人間でいうところの思考や学習の役割を果たす機能もあります。

 これが完成するなり、わたくしは旦那様から、自分がカラユキという名であることを始め、わたくしが製作された経緯や、旦那様や奥様にまつわる基本的な情報を教えていただき、また日常生活に事欠かない程度の言語、その文字や発音、そして種々の知識や人間らしい倫理観などを教えていただいたのです。

 旦那様は次に、人間の顔に相当する部位をお作りになりました。これは人間の頭と同じぐらいの大きさと輪郭の球形に近い立体に、目と耳と口と鼻を設け、それらによって五感の作用を果たす装置を備え、なおかつそれらを経て得られる情報を先ほどの頭に伝達する必要があったため、旦那様も難儀されたようです。それでもこれが完成したことにより、わたくしは旦那様と言葉を交わすことができるようになり、さらに多くの知識を習得することになりました。

 旦那様は続いて、わたくしの胴体をお作りになりました。これは主に炊事のときに味見として摂取した食物や水分を、如意に内側から開いて取り出すようになっている点や、あたかも生物が心臓によって血液を体内に循環させるように、補給した燃料を自動的に全身に供給させる機能がある点など、内部こそ緻密に作られていますが、外見は平均的な人間の女の体幹程度の大きさという、周囲が丸みを帯びた直方体の寸胴で、手足を接続する部分が四箇所設けられているだけのものでした。

 旦那様はさらに、わたくしの手足をお作りになりました。これは特筆するまでもありません。平均的な長さと太さの腕と脚、そしてそれぞれの五指です。もちろん関節は全て人間のそれと同様に可動します。それらを胴体に順々に接続したことで、わたくしは立ったり座ったり、歩いたり走ったり、握ったり開いたり、とにかく健常な人間であれば難なくこなせる全ての動作ができるようになりました。

 旦那様は最後に、わたくしの外見を整えるための準備をしてくださいました。もっともすでに自発的に動けるようになっていたわたくしは、旦那様があらかじめ必要な物を用意してくださっていた以外には、お手を煩わせることはせず、自らそれを済ませました。すなわち、一種類だけの下着と着物と割烹着を身に着け、やはり一つだけの島田髷の鬘を頭に被せたのです。念のため姿見で全身を確認し、軽く身なりを整えれば、完了です。

 こうしてわたくしは完成したわけですが、わたくしが旦那様より仰せつかった最初の仕事は、写真を撮られることでした。旦那様はご自分の作品をこうして必ず写真に残しておくのだそうで、後にアルバムに収められた同胞たちを目にする機会にも恵まれました。

 わたくしの日課は炊事、洗濯、裁縫、掃除、買物といった、家事全般にまつわるものです。いずれも人間の女中であっても特段変わりのないことですが、炊事については人間とは大きく異なります。わたくしは食べ物や飲み物を消化、吸収できないため、作った料理を味見のために喫食した後で、内側から取り出す必要があるのです。

 日課以外にも、旦那様や奥様からご用事を言いつけられることもありました。旦那様のそれはお仕事に関わることが多かったのですが、奥様のそれはご自分の愉楽に関わることばかりで、また無理難題がほとんどでした。

 一例をあげるならば、今日の夕方までに新しいドレスを作れと命じられたことがありました。仰せつかったのは昼食の後片付けをしているときです。縫製はもとより生地から用意しなければならないのですから、とても間に合いません。その旨を申し上げると大変に激昂され、いいからやれと重ねて命じられました。急ぎ生地を買い求め製作に取り掛かりましたが、半分も出来上がりません。奥様はやはり憤慨されてわたくしを叱責されました。

 これを教訓にわたくしは事前に生地を用意しておき、後に同じことを仰せつかったときは期限に間に合わせることができました。しかし完成したドレスをご覧になると、色が気に入らないと叱責されました。

 また別のときにははっきり黒と色の指定をお聞きすることができましたが、実際に出来上がったものをご覧になると、本当に黒で作るな辛気臭い、お前が気を利かせて色を変えておくべきだったのだなどと、やはり叱責されました。

 ここに至ってようやくわたくしは、奥様はわたくしをいびる名目を作り上げるために、このような無理難題を命じておられるのだと理解しました。そしてそれはこれまでの女中たちが受けてきた仕打ちとさほど変わりのないものなのだということも悟りました。それでも奥様の命令に背くわけにはいきませんので、能否を問わずどんなご用事でも承るようにしました。その代価としていただくのは、全てが叱責であり、暴力や暴言を伴うことも稀ではありませんでした。

 暴力の多くは殴られたり蹴られたりといったものですが、固い物で打たれたり重い物をぶつけられたりすることもありましたし、寒風吹き荒ぶ庭に全裸で追い出されて冷水を浴びせられたこともあれば、わざわざそのために赤く熱せられた火箸を顔面に押し付けられたこともありました。もっともわたくしの肉体は、こうなることを見越しておられた旦那様によって、誰のどのような攻撃を受けても傷一つ痣一つ咳一つしないようにいたって頑丈に作られておりましたので、ただの一度も応えたことはありませんでした。暴言についてはわたくしがごくありふれた人形のように脆弱だったとしても同じことです。怒鳴りつけられたり外見を罵られたりしたところで感じるものなど何もありません。

 日課を全て終え、旦那様と奥様がお休みになり、他にお役目を仰せつかっていなければ、わたくしの一日の仕事は終わります。

 この際に燃料を補給します。これを一日一回補給することで、わたくしは遅滞、停止することなく動き続けることができます。補給は経口によって行います。これがわたくしの構造上、最も効率的な方法なのです。口を経てわたくしの体内に流れ込んだ燃料は、そこからさらに全身内部の隅々まで行き渡るのです。この燃料補給に加えて旦那様による定期的な整備が欠かされなければ、わたくしは半永久的に動き続けることができるのです。

 燃料を補給した後で、わたくしは自室にこもります。わたくしにあてがわれたのは旦那様が作業場としてお使いになっているお部屋の隣です。歴代の女中たちが使っていた部屋で、畳張りの狭い一室ですが、わたくしには十分すぎるほどです。押入れには薄い布団に枕に毛布もありますが、睡眠を取る必要のないわたくしにはいずれも不要のものです。わたくしは畳の上に直に座し、夜が明けるのを待つのです。

 わたくしが完成してから10ヶ月後、日数にして307日後にお嬢様がお生まれになり、クグツと名付けられました。

 初めてのお子様ということもあって、旦那様はお嬢様の誕生を大層お喜びになり、目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりでした。しかし奥様はというと、ようやく出ていってくれた子供の世話なんかしたくないということで、日課の家事に加えてお嬢様のお世話もするようにと、わたくしに命ぜられました。

 旦那様はいつになくお怒りになりました。実の母親が我が子の世話をしたくないとは何事かということです。

 もっとも奥様は憮然として押し黙り、何も言い返そうとはしません。

 わたくしはさらに声を荒げそうな旦那様をなだめ、奥様はお嬢様がお生まれになるまで、たったお一人で、お腹の中でお嬢様をお育てになっていたのです、これからは旦那様もより一層子育てに参加されてはいかがでしょうかと申し上げました。

 旦那様は納得し、奥様にお詫びしてから、一緒にこの子を育てていこうと持ちかけました。

 しかし奥様は、吐き捨てるように仰いました。私は子供なんか育てたくない。

 わたくしは、旦那様が奥様に手を上げるのをどうにか押し留めると、そんなこと仰らないでください、わたくしも協力いたしますからと申し上げました。

 すると奥様はにっこりと微笑んで、旦那様に仰ったのです。カラユキが全部やってくれるって。

 こうしてわたくしは、お嬢様のお世話に適するように、改造を施されることになりました。

 旦那様は、まだ赤ん坊であるお嬢様のお世話をするのだから、機械的に家事をこなせる今のままでは足りない。情緒面での充実が必要だとお考えになり、わたくしの外見を整えられました。

 まずは顔です。わたくしの素性を知らない人を驚かせないためだけに、定期的なまばたきと発生の際の口の開閉しか機構として与えられなかったわたくしは、人間と変わらない豊かな表情を持つことになりました。もちろん人間のように反射的に微笑んだり嘆いたりはできないので、自分の判断で状況に応じてそれをすることができる、ということです。

 次に体です。寸胴だったわたくしの体は、人間の女と変わらない凹凸をつけられ、作り物の筋肉と脂肪と皮膚をまとわされ、燃料を援用して常に人肌の温度を保つようになりました。

 そして声と口調です。辛うじて人間の女の声に聞こえる程度だった無味乾燥なわたくしの声は、相変わらずそれほど高くはありませんでしたが、どんなに耳の遠い人がようやく聞き付けても、決して男の声と誤認することはないだろうという具合にはなりました。また、抑揚も強弱もない一本調子だった口調も、如意に変えられるようになりました。

 最後に頭髪。これは完全に終えたのがずっと後になりました。というのも、旦那様は髪の毛をちょうど十万本お作りになったのです。その一本一本は他の部位と同様に頑丈で、もしも刃物で切り裂こうとしても、ただの一本さえそれを果たせず、刃のほうが欠けるか折れるかするだろうというほどで、けれども手触りや質感は人間のそれと変わらず細く柔らかいという代物です。それが十万本。完成するまでにも大変な時間を要しました。

 さらに旦那様はその一本一本を全て、けして大きくはないわたくしの頭に手作業で埋め込んでいったのです。細かい作業ですので遅々として進みませんでした。これを行うのにさらに時間がかかったのです。

 全て終えるのには、初めに取り掛かってから実に5年余りの歳月を要しました。月にして62ヶ月。日にして1861日。

 しかしここまで時間がかかった事情は、それ以外にもやらなければならないことが増えてしまったからでもありました。そしてそれまでの間は、鬘を使い分けることになりました。

 製作途中の髪の毛を除いて、わたくしはより人間の女に近くなりました。柔らかくなった体でお嬢様を抱っこしてさしあげ、豊かになった表情であやしてさしあげ、調子を取れるようになった声で子守唄を歌ってさしあげる。もちろんそれまでどおりに家事もこなしました。

 また旦那様は前に宣言されたとおり、どんなにお仕事がお忙しくてもそれを言い訳にはせず、積極的にお嬢様の育児に参加されました。

 一事が万事そんな具合ですので、お嬢様は実のお母様である奥様のことを気にも留めなくなりました。わたくしの姿が見えなくなると、火がついたようにお泣きになりますが、奥様がそばにいても何も変化がありません。そしてまた奥様もそれを何とも思わないようで、わたくしがお嬢様のお世話をしているのをご覧になっては、誰が本当の母親かわかりゃしないわねと、皮肉にさえ聞こえない仰り方を、よくされていたものです。

 お嬢様には粉ミルクを差し上げておりましたが、わたくしは奥様に何度となく、正確には8度ですが、お嬢様にお乳を差し上げるようにと申し上げました。この頃までにわたくしが得てきた倫理感、道徳心では、母が我が子に乳を与えるのは、やむを得ない理由がない限り行うべきことであり、また望ましいことであったのです。奥様はいたって健康でおられ、また乳の出も良好でした。

 しかし奥様は、子供なんかに私の乳首を吸われたくない気持ち悪いと異常に嫌がり、それでは間接的にお嬢様に差し上げるためにお乳だけでもいただきたいと申し上げても、同様に拒絶されました。

 そして8度目のときには、もうその話をするなと大変な剣幕でお怒りになり、わたくしを殴打、打擲され、それでもわたくしが動じることなく再考をお願いすると、いくら痛めつけても砂のように手応えがないためでしょう、お嬢様にその矛先を向けることを宣言されましたので、わたくしもそれ以上申し上げることをやめたのです。

 お嬢様がお生まれになってからちょうど一年後、つまりお嬢様の1歳のお誕生日に、わたくしたちを取り巻く環境が一変することになりました。

 その日はご馳走の準備をするほかは、朝から特段変わり映えのしない日だったのですが、昼過ぎになって唐突に旦那様が用事ができたと仰って、嬉々としたご様子でお出かけになりました。その内容や理由については問うても教えてくださらず、後でわかるとだけ仰いました。

 旦那様がお出かけになってから程なくして、奥様がわたくしに買物をお命じになりました。歩いて一時間ほどかかろうかという店に、お嬢様のお誕生日をお祝いするための一升餅を注文しているため、それを取りに行ってこいということです。

 珍しいこともあるものだ、というのが率直な感想でした。奥様がお嬢様のために行動なさるなんて。それもお誕生日のお祝いの品をご用意されているなんて。当然傘を持っていきます。

 わたくしはお嬢様を背負って件の店に赴き、首尾よく一升餅を受け取りました。終始雲一つない空模様でした。

 向かいから歩いてこられる旦那様と出会ったのは、その帰路のこと。我が家まであと少しというところでした。

 旦那様は先ほどと同様にとても嬉しそうなご様子でしたが、先のやり取りがあったので如何をお尋ねすることはありませんでした。けれどこちらが黙っていても、はち切れんばかりの笑顔を筆頭に、喜びが全身から溢れ出ています。堪えられなくなったのは旦那様のほうでした。

「実はあいつから頼まれごとをしていたんだ。お前を驚かせたいから黙っているようにと言われていたが、もう家まですぐそこだし、言ってもいいだろう」

 旦那様はお手持ちの袋をわたくしにお見せくださいました。家から歩いて一時間半はかかる百貨店の屋号が記されています。旦那様より後に出て、旦那様より近くに赴いたわたくしとここで合流したのですから、よほど足取りが軽かったということでしょう。

「クグツの一升餅だ。あいつが前もって注文していたんだ。あいつがクグツのためにこんなことをしていたなんて、とても嬉しい。普段はあんなでも、やっぱり母親なんだな」

 旦那様はしみじみ仰います。わたくしは旦那様のもう片方の手に握られた傘をぼんやりと眺めておりました。

「お前はどうした? 何か用事でもあったのか?」

「わたくしも奥様に命じられてお嬢様の一升餅を買ってきたところです」

 わたくしも旦那様と同じように一升餅を包んだ風呂敷をお見せしました。

「奥様の勘違いでしょうか。それとも元々二つご注文されていたのでしょうか。そもそもなぜ、このように離れた店だったのでしょうか。もっと近いところにも似たような店はあるというのに」

 幾つもある疑問を一つ一つ口にしていると、旦那様の顔色が見る見るうちに変わっていきます。お尋ねするより早く駆け出しており、袋の中の一升餅のことなど気にも留めていらっしゃいません。只事ではないと悟り、わたくしも急いで後を追います。

 家の中は嵐が過ぎ去った後のように散らかっていました。居間も食堂も台所も旦那様のお部屋も奥様のお部屋も例外なく、応接間や客間やわたくしの部屋さえ家探しの行われた形跡がありました。作業場だけはいつもどおりでしたが、こちらは平時から乱雑なので、そのためかどうかはわかりません。後でお聞きしたところ、旦那様ご本人にも定かでないほどでした。

 しかしもっとも大きな変化は奥様の姿がどこにも見えないということでした。また奥様の部屋の乱れ具合は群を抜いています。

 もしやと思って調べてみると、金目のものやまとまった金銭も見当たりません。泥棒に入られた。しかも奥様がかどわかされてしまった! わたくしの危惧が伝わったかのように、背中でお嬢様が泣き出します。

「すぐに駐在に参ります」

 わたくしは旦那様にそうお伝えしながら、泣きじゃくるお嬢様を旦那様に託しました。しかし旦那様はわたくしを制するのです。

「いいんだ、何があったかはわかってる」

 さて、旦那様は私に先んじて帰宅し、荒れ果てた家の中を少し見回しただけで、へたり込んでしまわれました。その後わたくしが奥様を探し、財貨を調べている最中も、魂が抜けたように居間のソファーにその体をもたれて、浮かない顔をされていたわけです。

 わたくしは、思わぬ状況に旦那様が狼狽し、その余り茫然自失になってしまわれたのだと思っておりましたが、そうではなかったようです。

「あいつは男と逃げたんだ」

「どういうことですか?」

「昔から男がいたのさ。僕ではない別の男だ。顔も名前も知らないし、知る気もない。もしかしたら何度も相手が変わっていたのかもしれないし、一人ではなかったのかもしれない。とにかくあいつは間男と逃げたんだ。金目の物をありったけ持ち出してな」

「奥様の不貞をご存知だったのですか」

「隠すような女じゃないからな」

「お咎めにならなかったのですか」

「愛していたからな」

 甘い言葉のようですが、しっかりと過去形です。

 わたくしと旦那様の会話に横槍を入れるように、お嬢様の一層鋭い泣き声が響きました。

 旦那様は思い出したようにお嬢様をあやされます。程なくお嬢様は泣き止み、旦那様の腕に抱かれてお休みになりました。

 旦那様は続けます。

「僕が我儘を聞いていれば、いつか心を開いてくれるだろう。子供を産めば、さすがに落ち着くだろう。クグツが成長していけば、母としての自覚を持つだろう。そう信じていたからな」

 その信頼に対する奥様のお答えがこれなのですか。あんまりではありませんか。わたくしでさえそう感じるのですから、旦那様の心中はいかほどでしょう。しかしすぐに気を取り直します。

「すぐに追いかけましょう」

 ですが旦那様は首を横に振るだけです。

「あの女は夫と子供を捨てたんだ。そんな女を連れ戻してもしょうがない。また逃げるだけさ。あれぐらいの金や物、手切れ金と思ってくれてやるよ」

 本当にそれで良いのでしょうか。また、良かったのでしょうか。わたくしにはこのときにも後々になってもわかりかねましたが、旦那様がこう仰っている以上、背くわけにもいきません。もちろん旦那様の言い分に首肯できる部分も多々ありました。

 ともあれ旦那様はこの直後に、またそれから後も一貫して、奥様のことについてわたくしに次のように言付けました。

「いずれクグツが大きくなって、母親のことをお前に聞いてきたら、1歳の誕生日に死んだと教えてやってくれ。あんな女でも母は母だ。決して真実を明かすな」

 奥様がいなくなってしまってからも、旦那様はそれまでどおりお仕事でお忙しくしておられ、わたくしもそれまでどおり家事とお嬢様のお世話に勤しむという日々が続きました。

 変わったことはといえば、わたくしが奥様に無理難題を押し付けられることがなくなったということであり、その分だけわたくしの負担が減り、むしろ楽になったといえるでしょう。もっともわたくしは人形です。人間のように苦楽を感じる機能は備わっておりません。

 一方の旦那様は奥様がいらっしゃった頃より楽しそうで、実際にそう仰ったこともあります。あの女には苦労ばかりさせられた、クグツとお前がいてくれれば他に何もいらない、もっと早くにこうするべきだった、と常々仰っておりました。

 お嬢様も同様です。先に述べましたように、まだ幼いお嬢様にとって奥様の存在は、奥様の人格が大いに影響していたとはいえ、取るに足らない瑣末なものだったのです。喪失を知覚することさえできなかったようでした。

 旦那様とお嬢様とわたくしの満たされた生活は、しかし長くは続きませんでした。

 奥様が出奔されてからちょうど一年後、お嬢様の2歳のお誕生日のことです。

 前年は件のためにお祝いらしいお祝いができなかったので、今年は腕によりをかけてご馳走を拵えました。

 旦那様はお嬢様に舶来物の人形をお贈りになります。お嬢様は大層お喜びで、そのギンガムチェックの洋服をまとった金髪碧眼の少女は長くお嬢様の遊び相手となりました。

 そうして楽しく一時を過ごした後、夜も更けてお嬢様がお休みになり、わたくしが宴の後片付けをしていると、来客がありました。

 玄関に出迎えると、鞄をぶら提げた一人の男が立っていました。男は有り触れた挨拶で慇懃に頭を下げ、名を名乗り、旦那様に用があるとのことです。応接間にお通ししようとしましたがここでよいと固辞され、用件をお聞きしようとしても本人と話したいので呼んできてほしいとのことです。

 すでに作業場に戻って仕事をしていた旦那様に、来客があること、また客人のお名前をお伝えしましたが、お心当たりはないようです。人相風体についてもお話ししましたが、首を傾げられるばかり。とにかく行ってみるよと腰を上げられたので、わたくしも従います。

 男は三和土に佇んだままでしたが、鞄を提げた手に、先ほどまではなかった折り畳まれた紙を持っています。旦那様が現れるとやはり挨拶とともに頭を下げ、改めて名を名乗り、初めて肩書きを名乗られました。借金取りだということです。

「あなたの奥様がお借りになったお金を返していただこうと思いましてね」

 そう言って借金取りが広げて差し出した紙は証文でした。貸借の慣習がない旦那様、及びその女中であるわたくしには一見しても理解しかねる形式で書かれ、また聞き慣れない用語も散りばめられておりましたが、大意は掴めました。

 曰く、奥様が一年前の今日付けで借金をした、返済期限は本日である、保証人は旦那様であり、奥様が返済できないときは旦那様が返済する、それでも返済できない場合はお嬢様の身柄を以て返済に充てる、ということです。肝心の金額と月ごとの利率も、もちろん併記されています。

「今はこれだけの額になってます」

 借金取りは手際よく算盤を弾いてみせました。証文にある金額に今日までの利率に応じた利子を合算すると確かにその額ですが、元金だけでも旦那様が生涯をかけても払い切れないほど膨大で、その額に由来するためでしょうが尋常でない利率の利子が加わっており、わたくしでさえどこかを読み違えているのか、見落としがあるのではないかと混乱しました。

 もっともそのような過誤の有無など、旦那様には問題ではありません。証文が一瞬のうちに音を立てて丸められたかと思ったときには、旦那様が叫んでおりました。

「ふざけるな!」

 旦那様はいびつな紙玉となった証文を借金取りに投げつけ、なおも声を荒げます。

「こんな金返せるわけがない。そもそも僕が借りたものでもない。だから返す気なんて更々ない。あの女のところに行け。娘は絶対に渡さない」

 まとめると以上のことを、悪口雑言を交えながら怒鳴り続ける旦那様をなだめつつ、今日のところはお引き取りいただくよう申し上げると、意外にもすんなり了承されました。後から考えると、こちらに拒む方法などがないことを、よく承知していたのでしょう。

 旦那様は怒気を散らして家の中へと戻っていかれましたが、わたくしは残された証文を拾い上げ、丁寧に広げて読み返しました。額といい利率といい、お嬢様が抵当になっていることといい、見れば見るほど悪質です。しかし、奥様ならばやりかねないという一抹の不安もありました。

 わたくしは念のためにと、つまらない詐欺に引っ掛かることはないと仰る旦那様を説得し、ただちにこの債務について調べました。調べれば調べるほど雲行きは怪しくなりました。同時に方々に訴え出ました。こんな証文は無効であろうと。しかし全てが空振りでした。

 数多の制度の穴を搔い潜り、種々の法律を違えそうになってはいるものの、この借金は有効である。奥様が失踪してしまった今、旦那様がそれを返済しなければならず、それができなければお嬢様は抵当として連れていかれても文句は言えない。要はあの借金取りの言い分が正当であると証明されたに過ぎなかったのです。旦那様にもわたくしにも気がつかれずにこのような借金を得ていたとは、奥様は余程うまく立ち回ったのでしょう。

 万策尽きたと理解した旦那様は、たちまち抜け殻のようになってしまわれました。そして憤りのあまり家も潰れよとばかりに大暴れし、ようやく落ち着いたところで慟哭されました。

 突如圧し掛かってきた桁外れの負債、その抵当となってしまっているお嬢様、それらを知らぬ間に作り上げていた奥様…そのすべてに対する複雑な感情は、絞り出すように呟かれたたった一言に集約されていました。

「あの女は僕たちをなんだと思っているんだ」

 追い打ちをかけるように再び借金取りが来訪します。こちらの変化に気がついたのか、あるいはすでに知っていたのか、過日と同じ穏やかな振る舞いの中にも、過日とは異なる居丈高な態度が見て取れました。

 出迎えることになったわたくしは儀礼的に応接間に通そうとしましたが、借金取りはやはり固辞します。わたくしは仕事も手につかなくなってしまわれている旦那様をお連れし、その場に侍りました。

 借金取りの言い分は至極明快でした。

 以前詳らかにした額の借金を返すこと、それができなければお嬢様を連れていくとのことです。

 立ち尽くし項垂れて黙り込んでいる旦那様に代わり、わたくしは借金取りに反論を試みます。

「お借りになったのは奥様です」

「そのとおりです」

「奥様は失踪されたのです」

「知ってますよ」

「それでも旦那様から返せと言うのですか」

「そういうお約束ですからね」

「お嬢様はまだ2歳です。連れていって何になるのですか」

「何とでもなります。最も具合が良いのは赤子だというかたもいますからね」

 鳥肌が立つという反射をしたのはこれが初めてのことです。そのような扱いを受けている幼子が存在する。そのおぞましさに気を失いそうな心地がします。人間であるならば実際に卒倒する者もいたかもしれません。そしてお嬢様がその一員に加えられてしまう。

 ここに至ってようやくわたくしは悟りました。

「全て承知の上だったのですね」

 借金取りはわたくしの言わんとしていることをわかっていて、けれども薄笑いを浮かべたままです。わたくしはそのことを見抜いていながらも、重ねて問いただしました。

「奥様が旦那様やお嬢様をお捨てになることを承知で、その上であのような膨大な金子を貸したのですね」

 借金取りは無言で首肯します。

 今にも飛びかからんばかりに怒りが込み上がっていました。そんなわたくしを制するように旦那様がわたくしの肩に手を置き、そして無言で家の中に戻られました。

 わたくしは旦那様の意図がつかめず、さりとて何か行動を起こすこともできず、その場に立ち尽くします。

 まさかお嬢様をお連れするとは思えませんが、我が家の蓄財を掻き集めたところで借金を返せるはずもありません。あるいはわたくしの確信に反し、その御身よりも大切であるはずのお嬢様を差し出されるのでしょうか。

 いずれにしても、どのような形であれ、旦那様に楽しいと言わしめた生活は、これで終焉を迎えることでしょう。わたくしが人形でなければ、この歯がゆさに悶絶していたことでしょう。

「奥様はどうされているのですか」

 初めて借金取りは表情を曇らせました。そこまで関知していないのでしょう。

 わたくしもそれ以上は聞きません。そもそもなぜそんなことを聞いたのかがわからないぐらいです。

「あなたはどうします?」

 質問の意味が全くわかりません。借金取りは続けます。

「あなたも暇をもらうことになるでしょう。よろしければ新しい奉公先を周旋しますよ」

 わたくしは首を縦に振り、それから横に振りました。

「わたくしはこの家に殉じます」

 今度は借金取りのほうが返答の意味を掴み切れない様子ですが、特に聞き返そうとはしません。わたくしもあえて言葉を継ぐことはしません。

 やがて旦那様が戻っていらっしゃいました。とはいえお嬢様をお連れになっているわけではありません。代わりにその手には風呂敷包みをお持ちです。

 旦那様は框にその風呂敷を広げられました。紙幣や硬貨がまとまりもなくひしめいていたらしく、かすかに宙を舞ったり音を立てたりします。

 それは奥様が出奔されてからの蓄財の全てでした。旦那様のポケットマネーさえ混じっていたことでしょう。一見して利子の分は軽く賄えるほどですが、元金も含めた額には遠く及びません。

 内訳や事情はさておき、求めているものにとても足りないことは、借金取りもよく承知しています。足元の金に手をつけようともせず、冷たく旦那様を睨みつけるばかりです。

「利率を増やしていい」

 旦那様はそう仰いました。

「とりあえず今日までの利子だ。足りなければ言ってくれ。その代わり、こうして利子を払っている限りは、娘は渡さん。元金はいずれ一括で払う」

 借金取りは少し考えていたようですが、やがて身を屈めて金を数え、算盤を取り出して弾き、同時に頭の中でも別の計算をしていたようです。全て終えるとその場で証文を書き変えました。

 かくして旦那様の申し出が通りました。当初より高くつくものの、利子を払い続けている限り、お嬢様は無事です。しかしいつそれが滞るかはわかりません。旦那様がこれから先もずっと健在で働き続けることができるという保証などないのですから。それに強欲な借金取りのことです。利子や元金よりも抵当を求めてくるかもしれません。気がかりは募るばかりです。そしてそれは旦那様も同様であり、しかしながら旦那様はその具体的な解決策をお考えになっていたのです。

 借金取りが去ってから程なくして、旦那様がわたくしに仰いました。

「カラユキ、お前を改造させてくれ」

「仰せのとおりにいたします。今度はどのようになさるのですか?」

「お前には娼婦になってもらう」

「娼婦に…でございますか?」

「そうだ娼婦だ。いずれクグツは借金のかたに連れ去られ、いずこかで春を売るに違いない。それだけは何としてでも避けたい。そこでお前には娼婦になってもらう。お前はクグツの代わりに客を取り、クグツを守るんだ。いや、お前の言いたいことはわかるぞ。人形の自分に人間相手の娼婦が務まるのかと言いたいんだろう? 問題ない。むしろ都合がいい。いいかカラユキ、お前は確かに人形だ。だが人形であるからこそ、人間にはできないことができるのだ。人形なら疲れない。人形なら衰えない。人形なら死なない。人形なら壊れるだけ。そして人形なら、また直せる。ただの娼婦ではないぞ。僕がお前を改造して、どんな人間の女にも負けない最高の娼婦にしてみせる!」

 旦那様はそこまで言うなり息を切らしておられましたが、呼吸が平静になるにつれて我を取り戻したように項垂れていかれました。

「すまないなカラユキ…こんなことをお前に頼むなんてな…僕はどうかしているな…お前は僕の最高傑作だ…これから先にもお前を越えるからくり人形は作れないだろう…そのお前にこんな役目を負わせようだなんてな…」

 わずかにお顔を上げられ、上目遣いにわたくしをご覧になり、懇願するように仰います。

「嫌だと言ってくれないか。そんなことできないと言ってくれないか。さもなければ僕は、いくらクグツのためとはいえ、お前を手放すことになってしまう。そしてお前は無数の男に辱められることになってしまう。そんなのは僕が耐えられない」

「それではお嬢様が無数の男に辱められることには耐えられるのですか?」

「………」

 意地の悪い質問でした。しかしこうでもしなければ、旦那様はお嬢様をわたくしの犠牲にするという、誤った選択をしてしまいかねません。

 絶望の表情でわたくしを見つめておられる旦那様に、わたくしは畳み掛けるように申し上げました。

「旦那様、わたくしは人形でございます。お嬢様をお守りするための人形でございます。それでお嬢様をお守りすることができるのならば、わたくしからもお願いします。どうかわたくしを娼婦にしてください」

 旦那様は長い間黙り込んでおられましたが、やがて力なく頷かれました。

 旦那様はまず、わたくしの顔から着手されました。完成当初は奥様の嫉妬を防ぐために、醜悪とまではいかなくても、野暮ったく男受けのしない顔立ちであり、奥様が出奔されてからも整える手間を惜しんでそのままにしておりましたが、これを若く美しく魅力的なものに変えました。輪郭は顎を少し尖らせる具合にし、目は大きいけれども妥協しないような鋭さを兼ね備えさせ、鼻は小さく整え、唇は厚すぎず薄すぎず、という具合です。

 次に体型。背丈はそれまでと変わらず成人女性の平均を少し上回る程度ですが、横幅は全体的に細身にし、乳房はたわむほどに大きくなり、胴回りはくびれて、尻は適度に膨らみ、とにかく男ならば誰でも手にしたいと思うほどの姿になりました。製作途中の髪の毛を援用し、陰毛も加えます。

 服装も着物と割烹着からエブロンドレスとフリル付きのカチューシャに変わり、髪型も島田髷からおかっぱになりました。

 もちろんただ見栄えを整えるだけではなく、男の性欲を満たすために必要な設計をも施しました。具体的には尿道と膣と肛門を設け、口内や舌に粘膜をまとわせ、汗や唾液や体臭といった物質を如意に分泌できるようにしたのです。

 試行錯誤のため、旦那様は実験として毎夜のようにわたくしをお求めになりました。わたくしの学習能力はこの面においても変わらず冴え渡り、また旦那様の改良もその都度効果的でした。それらは旦那様の絶頂をこの身で受け止めるわたくしが、当の旦那様よりも正確に把握できることでした。旦那様の改良によって、わたくしは人間の女が用いうる全ての器官でもどんな場所でも随一の快楽を差し上げることができましたし、回を重ねるごとにわたくしが身につけていく技術は、それを十全に補完していきました。

 しかし旦那様は、わたくしと交わる度に嘆いておられました。いずれお嬢様と引き裂かれてしまう悲しみを、ひとときとはいえ掻き消されるほどの、わたくしの肉体と技倆。存分にそれを味わい我を忘れるほどの絶頂を迎えた後でそのことを思い出し、忸怩たる思いに嗚咽を漏らす。ほとんど日を置くことのない実験のたびに、旦那様のお心は削られていくようでした。そしてそんな旦那様をお慰めしつつ、叱咤するのもわたくしの役目でした。

「しっかりなさいませ! わたくしを最高の娼婦にするのでしょう? わたくしにお嬢様を守らせるのでしょう? 今こそ旦那様が奮い立たなければなりませんよ」

 何度このようなことを床の上で申し上げ、その度に旦那様が歯を食い縛ってわたくしにしがみ付いてこられたかわかりません。いえ、正確には2555度です。

 こうしてわたくしは次第に娼婦としての用を成せるようになっていきましたが、その間にもお嬢様はすくすくと成長なさいました。発語にも運動にも問題は見られず、知的発達も順調。徐々に幼児から子供へと変化していかれます。そしてそれが、ある程度は予想のついていたことや、全く思いもかけなかったことを引き起こしていく原因にも、なっていったのです。

 一度だけですが、わたくしのことを「お母さん」とお呼びになったことがありました。それまで「カラユキ」と呼ばれていたわたくしは大変に驚き、しかし来るべきときが来たと思って否定しました。

「わたくしは女中です。お嬢様のお母様ではありません」

「女中ってなーに?」

「お家のことや、お子様のお世話をする女のことです」

「ずっと昔からうちにいたの?」

「お嬢様がお生まれになる307日前からです」

 お嬢様は難しい顔をされ、それを横に傾けました。

「じゃあ、お母さんはどこにいるの?」

 わたくしはかねてよりそうするようにと旦那様に仰せつかっていたとおり、こうお答えしました。

「奥様はお嬢様の1歳のお誕生日に、お亡くなりになりました」

「じゃあお墓は?」

「お、お墓?」

「お墓あるんでしょ? どこなの? お参りに行きたい」

 わたくしの記録では、お嬢様が墓という単語を発したこと自体、これまでにはありませんでした。しかも、墓参という慣習までご存知でいらっしゃる。

 いつの間にそんな知識を得ていたのですかと内心頭を抱えつつも、ありもしない墓の場所をお教えするわけにはいきません。近いうちに旦那様と参りましょうねとその場は誤魔化し、すぐさま旦那様にそのことをお伝えしました。

 こちらもまた、いつの間にそんな知識を得ていたんだと頭を抱えておられましたが、わたくしと違って思い当たる節はあったようです。

「もしかしたら、あれのせいかもな。前にクグツが庭で虫を殺していたろう」

 それはわたくしの記録にもあります。初めて目撃したのはお嬢様が4歳6ヶ月5日のときで、折しも啓蟄を過ぎた頃でした。

 幼子が小さき命をないがしろにするのは世の常であり、そこから命の価値を学んでいくものだそうですが、そのためにはきちんと叱ることも大切です。この日を始め、庭の生き物を苛めているのを目にしたときは、例外なく咎めたものです。旦那様と一緒だったこともあれば、わたくし一人だったこともあります。わざわざ確認したことはありませんが、旦那様がお一人でお叱りになったこともあったのでしょう。

「それを注意したときだったかその後だったか…とにかく、死んでしまった生き物はお墓に埋めてあげるものだ、みたいなことを言った気がする。そのせいかもな」

「何にしても、奥様のお墓が必要ですよ。いかがいたしましょう? ああ…近いうちに参りましょうなんて…口を滑らせるべきではありませんでした…」

「気にしなくていい。墓だけあればいいんだろう? 簡単なことさ。実際に埋めるわけじゃないんだからな」

 一週間後、旦那様がお嬢様に、お母さんのお墓参りに行こうと持ちかけました。暦は折しも二日。偽りの月命日でしたが、旦那様はわたくしに指摘されるまで気が付かなかったということです。

 場所は屋敷の裏手の小高い丘でした。木々を擦り抜けた日光と微風が心地良く、背後には海が広がり、潮の香りがしています。

 旦那様は供花、供物、線香などをお持ちになり、わたくしは水の入った桶と柄杓を持って従います。手ぶらのお嬢様は遠足気分なのか、舞うように視界を外れたり戻ってきたりしながら、先へ先へと進んでしまわれます。

「気持ちいいね」

「クグツは覚えてないだろうけど、ここにはしょっちゅう来てるんだぞ。なあカラユキ」

 旦那様がお嬢様には見えないように、わたくしに片目をつむってみせました。わたくしも覚えていませんとは口が裂けても申し上げられませんが、うっかりしたことも言えません。控え目に頷くだけにしておきました。

 程なくしてその作り物のお墓に到達しました。特筆すべきこともない有り触れた墓石です。

「ここにお母さんが眠っているんだよ」

 旦那様はお嬢様にそうお伝えし、一方のわたくしには密かに耳打ちします。

「本当に入れてやりたいぐらいだがな」

 わたくしはお嬢様がご覧になっていないのをいいことに、首がもげそうなほど頷いておきました。

 それまではしゃいでおられたお嬢様は、俄かに神妙になられます。墓石の前に立ち、姿勢を正し、手を合わせて頭を垂れ、奥様の冥福を一心に祈っておられるようでした。

 本当に、子どもというのはどこで知識を得ているのでしょう。旦那様の記憶が確かであったとしても、わたくしの存じ上げないところで起こった出来事です。いくらお嬢様をお守りするためとはいえ、お嬢様の自主性や自我の成長を阻むわけにはいきません。こういうことはこれから先にも度々起こるのだろうと悟り、しかしその均衡は巧みに取っていかなければなるまいと、気を引き締めました。

 その後、作り物の墓石に水をかけ、花と香を供えるなどし、形ばかりの墓参を済ませた帰り道、お嬢様が誰にともなくお尋ねになりました。

「お母さんはどんな人だったの?」

 わたくしは答えに窮します。忌憚なく申し上げるならば人でなしであり、母としての資質は零以下であるというところですが、勿論そうは申し上げられません。とはいえ、ありもしない人柄を捏造してお伝えするのもいかがなものか。助けを求めるように旦那様を見遣り、はっとしました。

 旦那様は泣いておられるのでした。裂けんばかりに唇を噛み締め、意識の全てがその上下の歯に集中してしまっているように項垂れ、一瞬のうちに赤く染まった双方の瞳からは滂沱となった涙が滴っています。

 わたくしには旦那様の心の叫びが聞こえてくるようでした。あの女は、娘と亭主を捨て、その娘を抵当に借金を作った、悪魔のような女だ。あいつのせいで、お前はいずれ、どことも知れない地に売り飛ばされてしまう。あいつのせいで、僕は娘と、お前は父親と、離れ離れになってしまう。そうなっても、せめてお前だけは守れるようにと、僕はカラユキを犯し、壊し、直し、改造を重ねている。全部あいつのせいで!

 そんな呪詛が真一文字に結ばれた旦那様の口を今にもつんざいていきそうでした。それでもお嬢様の情操を害してはならないという執念によって、とめどない怨嗟を吐瀉することを唇一つで阻止されている旦那様。わたくしはそのお気持ちを汲み、代わりにお答えします。

「奥様は素晴らしいかたでしたよ。旦那様は奥様のことを思い出して、泣いてしまわれたのです」

 前の半分は誤っており、後の半分は正しい。けれども旦那様は訂正されず、お嬢様も納得されたようでした。

 その晩、お嬢様がお休みになってから、わたくしは旦那様にお伝えしました。

「先ほどはよく堪えられましたね」

 旦那様はわたくしを抱き締められ、声を殺してお泣きになりました。

 わたくしは旦那様をお慰めするため、旦那様のお召し物に手をかけましたが、旦那様がさらにその手を制されたので、わたくしは従いました。交接が全てではない、ただそばにいるだけで慰みになることがあるのだということをこのときに学び、後に役立ったこともあります。

 お嬢様による予期せぬ出来事はこれだけではありません。あるときにはわたくしの燃料をお飲みになろうとしました。

 後から思えばその兆候は幾つもあったのです。

 まず、ある日の朝食の際、お嬢様がこう仰いました。

「カラユキは食べないの?」

 人形であるわたくしは人間と同様に食べ物を摂取する必要はありません。もっともわたくしが人形であることを、未だお嬢様はご存知ありません。また旦那様やお嬢様とお食事をご一緒していないということは、今に始まったことでもありません。それでも改めてお聞きになったのですから、お答えしないわけにもいきません。

「わたくしは結構ですよ」

 しかしお嬢様は昼食の際にこう仰いました。

「一緒に食べよう」

 先のご質問の趣旨はここにあったということでしょう。となると話も変わりますしお答えも変わります。

「わたくしは女中ですから」

 けれどもお嬢様は夕食の際にはこう仰いました。

「一緒に食べたい」

 このときは旦那様がお答えになってくださいました。

「カラユキは女中だから」

 お嬢様はご不満そうでもあり不思議そうでもありましたが、ここで折れるわけにはいきません。わたくしは女中です。たとえ人形でなかったとしても、旦那様やお嬢様とお食事をご一緒するわけにはいかないのです。

 それから四日後の朝、わたくしに起こされたお嬢様は仰いました。

「どうしたら早く起きられるのかな」

 ここ四日は毎朝、寝起きを理由にしてもいつになく不機嫌そうでいらっしゃいましたが、このためだったのかと思ってお伝えしました。

「前もって仰っていただければ、その時間に起こして差し上げますよ」

 しかしお嬢様は、それについて特にお答えになりませんでした。

 翌日のお嬢様は夜になってから大変に聞き分けが悪くなられました。お休みになる時間を過ぎてもベッドに入ろうとせず、どんなにたしなめても聞き入れようとなさいません。さすがに手を焼いたわたくしは旦那様をお連れすることにします。

「昨夜も遅くまで起きてたな」

「まさか! お休みになるまでおそばにおりましたよ」

「いや、廊下で会ったんだ。用を足しに起きたところだって言ってた。ずっと起きてたわけじゃないんだろう」

 そうお話ししながら二人でお嬢様のお部屋に参ります。

「カラユキから聞いたぞ、どうして寝ないんだ」

 旦那様に問いただされると、お嬢様はお顔をうつむかせ、恐る恐る仰いました。

「昨夜、怖い夢見たの。だから一人で寝るのが嫌なの。今日はお父さんも一緒に寝て」

 そういう理由があるなら無下にもできません。けれども旦那様にはお仕事があります。わたくしはお嬢様に申し上げます。

「わたくしが朝までそばにおりますよ」

「それじゃダメ」

「必要とあれば添い寝もいたします」

「今日はお父さんがいいの」

「仕方ないな」

 旦那様はため息のように呟かれ、わたくしに仰います。

「カラユキ、今日はもう休んでいいよ」

「それもダメ!」

 わたくしが承知するより早くお嬢様が叫びます。

「お父さんと寝る。でもカラユキも私が寝るまでそばにいて」

 旦那様もわたくしも訝ります。お嬢様のお求めに応じることは容易ですが、何とも珍妙なご要望ではありませんか。お嬢様は怯えた様子で急き立てられるように仰います。

「あのねあのね、すっごく怖い夢だったの。カラユキの髪の毛がね、ずるっと取れてなくなっちゃう夢だったの」

 わたくしにしても旦那様にしても、はたから聞けば滑稽でしかないこの告白を笑い飛ばせないのは、この頃のわたくしがまだ鬘を使用していたからでした。またその鬘がお嬢様のご覧になっている目の前で外れたことも実際にあったことです。そのことがお嬢様の心の深いところに刻みつけられていたのかもしれません。それが恐怖となっているとは存じませんでしたが。

 わたくしたちは相談の上、旦那様のお部屋に参りました。旦那様とお嬢様が旦那様のベッドにお入りになり、わたくしはそのそばに侍ります。

 お嬢様はわたくしに取り留めのないお話を求めてこられ、わたくしもそれに応えておりましたが、程なく旦那様がお休みになりました。わたくしは、旦那様が起きてしまうことと、もう夜も遅いことを理由に、お喋りを止めにしてお休みになるようにと申し上げます。お嬢様は素直に従ってくださいました。

 お嬢様もお休みになったのを確認してから、わたくしは旦那様のお部屋を出ました。後はいつもどおり、作業場で燃料を補給し、自室に戻り、朝を待ちました。

 翌日、わたくしが台所で昼食の後片付けをしていると、お嬢様がいらっしゃいました。

「庭でお父さんが呼んでる」

 とのことで、庭に赴きます。しかし旦那様はいらっしゃいません。どうしたことかと考えていると、後ろから旦那様に声をかけられました。

「なんか用かい?」

「? 旦那様がわたくしにご用があったのではないのですか? お嬢様がそう仰ったので、こうして参ったのですが」

「?? 僕は作業場にいたぞ? そうしたらクグツがやってきて、台所でカラユキが呼んでるって言うから出てきたんだ。でもお前が庭に行くのが見えたから、こうして追ってきたんだ」

「???」

 わたくしと旦那様はしばしの間、丸くした目を見合わせていましたが、ややあって、わたくしはあることに気がつきました。旦那様もそうだったようです。

「前にもこんなことがあったな」

「5年2月20日前ですね」

「クグツの1歳の誕生日だ」

「左様でございます」

「あいつが僕に言ったんだ。クグツの誕生日を祝うための一升餅を買ってきてくれって」

「奥様がわたくしにお命じになりました。お嬢様のお誕生日をお祝いするための一升餅を買ってくるようにと」

 前回と異なっていたのは、若干ではありますが、わたくしのほうが早く駆け出していたことです。取るに足らない程度遅れて、旦那様も振り返り様に走り出されました。

 二人してなだれ込むように作業場に着くと、お嬢様がわたくしの燃料をその手にお持ちになっていました。すでにマグカップに注いでおり、今にも口をつけようというところです。

「クグツ!」

「お嬢様!」

 旦那様とわたくしはほぼ同時に叫び、中に飛び込みます。

 作業場は大小様々な工具や用途の異なる材料が散乱しており、旦那様はそのうちの一つに足を取られて豪快に転倒なさいました。

 わたくしは悩むまでもなく旦那様を追い越し、お嬢様からマグカップを速やかに、それでも中身がこぼれないように両手で慎重に奪い取ると、その片方の手でお嬢様の頬に平手を打ちつつ、強く叱りつけました。

「勝手に入ってはいけませんと申し上げているでしょう!」

 全ては一瞬の間に行われた出来事でした。図らずもマグカップを奪取した勢いを用いた形になり、強く叩きすぎてしまったこと、そのために思いの外大きな音が響いてしまったことなどに、ようやく気がつきます。

 言い訳をする暇もありませんでした。見る見るうちにお嬢様の左右の目に涙が満ちていき、それが溢れてきました。

「何よ! お母さんでもないのに! 女中のくせに!」

 お嬢様がそう叫ばれました。わたくしはそのお声に驚いた素振りをしましたが、その内容については何一つ感じるものはありません。わたくしはお嬢様のお母様ではありません。女中です。そのとおりです。それでもわたくしが人間であるならば、悲しい気持ちの一つでも抱くのだろうと考え、傷ついたように項垂れてみせました。我ながらいい演技ができたものと思われます。

 お嬢様はわたくしを押し退けるように走り出され、旦那様を通り過ぎて作業場を飛び出していかれました。

 わたくしはお嬢様から取り上げた燃料を、間違ってもお嬢様の手には届かないところに置いてから、旦那様を助け起こします。

「お怪我はありませんか?」

「少し打っただけだ。クグツはどうだろう」

「お飲みになる前だったようです。ご安心ください」

「やっぱり血が繋がっているんだな」

 旦那様は苦笑しました。わたくしと旦那様を出し抜いたお嬢様の手口が、奥様のそれと符合していることを嘆いておられるのでしょう。

 わたくしは努めて話を逸らします。

「それにしても、どうしてあれをお飲みになろうとしたのでしょう。場所をご存知だったのも、不思議ですね」

「ちょっと話をしてくるよ。そのことも聞いてみる」

「お願いいたします」

 わたくしは旦那様を見送ると、マグカップの燃料を瓶に戻し、二つともやはり高いところにしまいました。それから簡単に作業場の片づけをすることにしました。

 特に危険なもの、またお嬢様の目に触れてはならないものを手の届かないところにしまうなどしていると、旦那様が戻ってらっしゃいました。

 旦那様によると、お嬢様がわたくしの燃料をお飲みになろうとしたのは、わたくしの食事がどんなものなのかをお知りになりたかったからだそうです。またそれがわたくしの食事だと確信するに至ったのは、昨夜作業場にこっそり見に行かれ、そこでわたくしが燃料を補給しているのをご覧になったからだそうです。

 勝手に作業場に入ったことや、嘘をついたこと、そしてわたくしへの暴言について、それぞれ謝意を示されていたということですが、先の二つは繰り返されなければ結構ですし、最後の一つはわたくしのことなのでどうでもいいことです。

 ともかく、昨夜お休みになっているとわたくしが判断したのは誤りで、実はまだ起きていらっしゃったということでしょう。ここ数日の細々とした変事もそのための布石だったに違いありません。諸々合点がいきました。

「道理で昨夜はいつになく駄々をこねられたのですね」

「妙だとは思ったんだよな。一人で寝られるからカラユキがいなくてもいいなんて言ってたのに、急に僕と寝るなんて言い出すんだからな」

「それなのにわたくしにもそばにいてほしいなんて不思議なことを仰ったのも、これで辻褄が合いますね」

「怖い夢を見たってのも嘘なんだろうな。そうとは知らずにまだまだ子供なんだなって、嬉しくなっちゃったよ。クグツと一緒に寝るなんて、久し振りだったもんな」

「2年1月1日振りです」

「じゃあ4歳のとき以来か」

「4歳2ヶ月23日以来です」

「そこまで正確じゃなくてもいいよ。人間ってのは、もっと曖昧なものだ。違ってたら違ってたで、またいいのさ」

「かしこまりました…気をつけましょう」

「そんなわけで、クグツと話してやってくれないか。自分の部屋にいる。お前に言ったことを気にしてるから」

「仰せのとおりにいたします。それにしても、偶然とはいえ、昨夜も一昨日の夜も、実験をしていなくて良かったですね」

「全くだ…あんなところクグツに見せられないもんな」

 作業場を後にしたわたくしは、ふと思い立ち、台所に寄りました。ハニーミルクをお作りし、お嬢様にお持ちしようと思ったのです。お嬢様がわたくしの真似をして、何かお飲みになりたがっているのではないかと思ったからです。

 なぜハニーミルクにしたのかについては、論理的に説明できません。蜂蜜にしてもミルクにしても、特段お嬢様の好物というわけではありませんから。あえて言うならば、こういうのも目先を変えていいのではないかと思ったからです。人間で言うところのひらめきといったところでしょうか。ともあれお嬢様の猫舌でも召し上がられるようぬるめにしておき、入れ物はわたくしのマグカップと同じものを使いました。

 お嬢様はご自分のお部屋の隅に、縮こまるようにうずくまっていらっしゃいました。わたくしの来訪に決まり悪そうでしたが、わたくしが手にしているマグカップを認められたようです。

「何かお飲みになりたいのではないかと思いまして、お作りしました」

「ありがとう、ちょうだい」

「お口に合えばいいのですが」

 わたくしはお嬢様の正面に跪き、ハニーミルクを差し出しました。

「火傷しないように気をつけてくださいね」

 お嬢様は頷かれ、マグカップを両手で受け取られると、一口お飲みになりました。まだちょっと熱かったというような、そんな風に目を見開かれます。

「おいしい…なあにこれ?」

「ハニーミルクです。温めたミルクに蜂蜜を混ぜたものです」

「知らなかった…世の中にはこんなにおいしいものがあったんだね…」

 お嬢様は愛しむように中身をお飲みになります。そして思い出したように仰いました。

「カラユキの分は?」

「用意しておりません。お嬢様の分だけです」

「じゃあ分けてあげる。一緒に飲もう」

「わたくしは結構ですよ。お嬢様が召し上がってください。そのためにお作りしたのですから」

「今日は味見しかしてないじゃん。お腹空いてるでしょう?」

「旦那様が召し上がる量とお嬢様が召し上がる量は違いますでしょう? それと同じことですよ。わたくしは夜にあれをいただけば、それでいいのです」

「あれって?」

「お嬢様が気になられたという、わたくしのごはんですよ」

「ああ…あれ…」

「旦那様からお聞きしましたよ」

「ごめんね。カラユキのごはん食べちゃったら、カラユキだって怒るよね」

「わたくしはそんなことで怒ったわけではありませんよ」

「違うの?」

「あれはわたくしにとって大切な食事ですが、お嬢様には毒になってしまうのです」

「毒…? 死んじゃうの…?」

「場合によっては」

「………」

 お嬢様は黙り込んでしまいます。あと一歩のところで毒を口にしていたのだという危険をお知りになり、恐怖されたのでしょう、その両手が震えるのをわたくしは見逃しませんでした。すかさずマグカップの底に右手を差し込み、落下するのを防ぎます。

「ですからわたくしはお嬢様のことを叱ったのです。少々やり過ぎてしまったかもしれませんが…」

 わたくしはそう申し上げながら、先ほど叩いてしまったお嬢様の頬を残った左手でさすります。

「旦那様の作業場には、他にも危ないものが沢山あるのです」

 特に精神的に傷を負わせかねない娼婦の用に足るためのものですが、そこまではあえて申しません。

「ですからお嬢様、もう勝手に旦那様の作業場に入ってはいけませんよ。どうしても入ってみたいというときは、きちんと旦那様かわたくしに仰ってくださいませ。そうしたら、旦那様かわたくしがご一緒しますからね」

 お嬢様は未だ押し黙ったままお答えになりませんでしたが、拒絶の意思表示には見受けられません。

「私、カラユキと一緒に、ごはんを食べたかったのかもしれない」

 やがて、発見したというように仰いました。

「お父さんはいつも仕事仕事で作業場にこもってるけど、ごはんのときは必ず私と一緒にいてくれる。でも、カラユキは家事ばっかりしてる。私、カラユキが一緒じゃないのが、寂しかった。カラユキは一人でごはん食べるの、平気なの? 私やお父さんと一緒じゃなくて、寂しくないの?」

「わたくしは…」

 わたくしは、何とお答えすればいいのか、しばし悩みました。

 わたくしは人形です。寂しくないというのが真実です。ですが、それを申し上げると、お嬢様を傷つけてしまうかもしれない。けれども寂しいと嘘をつけば、じゃあ一緒に食べようよと仰ることでしょう。お嬢様のお食事に合わせて三度三度燃料を補給していたら、燃料過多になってしまいます。

 やがてわたくしは申し上げます。

「もちろん寂しいですよ」

「じゃあ一緒に食べようよ」

 ハイキター。

「ですがわたくしは女中です。旦那様やお嬢様と一緒にいただくわけにはいかないのです」

「私があんなこと言ったせい…?」

「それは元々のことでしょう? お嬢様のせいではありませんよ」

「………」

「それに、わたくしは一日に一度、夜にいただくだけでいいのです。お嬢様のお食事をそれに合わせてしまうと、時間が遅すぎます。旦那様だって困ってしまいます」

「じゃあ…」

 お嬢様はそう仰ったところで、空になったマグカップを差し出されました。

「一日に一度、これ作って。カラユキのごはんのときに、一緒に飲むから」

「仰せのとおりにいたしましょう」

 わたくしはどうにか誤魔化せたことに満足しつつ、マグカップを受け取ると、片方の目をつむってみせます。

「でも、明日からですよ。今日はもう召し上がってしまったんですからね」

「えーっ、そんなのないよー」

 言葉こそご不満そうですが、表情は楽しそうです。わたくしもより一層の笑みをお返しします。

「さあ、参りましょう」

 わたくしは立ち上がり、空いているほうの手をお嬢様に差し伸べます。お嬢様がそれを握られ、わたくしを引っ張り上げるようにお立ちになります。一緒にお部屋の外に出たところで、お嬢様が仰いました。

「さっきはあんなこと言ってごめんね」

「お気になさらないでくださいませ。心にもなく仰ってしまったということは、わかっています。ですがこれからも、お嬢様が間違ったことや、危ないことをなさりそうなときは、たとえ奥様でなくても、ただの女中であっても、わたくしはきちんと叱らせていただきますからね」

 わたくしはお嬢様を見下ろし、笑顔で脅します。

「やっぱりカラユキって、私のお母さんだよね」

 お嬢様がそう仰り、首をお振りになりました。

「ううん、私はお母さんのことを覚えてないから、こういうものなんだろうなって思うだけだけど」

 わたくしの手を握るお嬢様の力が強くなりました。心の中の奥様を想像していらっしゃるのでしょうか。わたくしも同じように握り返して差し上げました。

 わたくしはその夜、お嬢様を寝かしつけ、それが狸寝入りでないことを十分に確認してから、自分の部屋に戻りました。いつもならば旦那様に声をおかけし、実験するのかどうか確認するのが常なので、こんなことは初めてです。

 わたくしの狙いどおり、不審に思われた旦那様がわたくしを探して部屋に参られたとき、わたくしは真っ直ぐにそちらを向いて正座しておりましたので、旦那様も面喰らったようです。

「お座りください」

「何だ藪から棒に」

「いいからお座りください」

 旦那様はわたくしの前に腰を下ろし、遠慮なく足を崩しました。すかさず申し上げます。

「正座」

 人間の感情にあてはめるならば、怒っている、ということにようやく気がつかれたようです。

 旦那様は速やかに、それはもう迅速に姿勢を正されました。きっちりと背筋を伸ばして両手を太ももの上に置き、表情さえ不安げにこちらを窺っておられるのを確かめてから、わたくしは申し上げます。

「今日は大変な一日になってしまいましたね」

「何かあったっけ」

「冗談が過ぎますよ」

「いや、ホントに何のことだか…」

「………」

「その顔で睨まないでくれ。怖いから」

「旦那様がお作りになったんですよ。お嬢様をお守りできるように、その気になれば野生の猛獣でも逃げ出すほどの迫力を醸し出せるようにと。だからといって今更変えるなどと仰らないでくださいね。お嬢様が混乱してしまいますからね。それより本当に覚えていらっしゃらないのですか?」

「ごめん…思い出せない」

「お嬢様がわたくしの燃料をお飲みになろうとしたでしょう」

「ああ、あれか」

「あれかって、一歩間違えば大惨事ですよ。それに前々から申し上げておりましたよね。お嬢様にいくら言い聞かせたところで、作業場に入らないとは限らない、ですから危ないものは絶対にお嬢様の手の届かないところにしまっておいてくださいね、と」

「まあいいじゃないか、無事だったんだから」

「よくありません! その甘い見通しが今回の件に繋がったんですよ! もしも性具の類を目にされていたらどうなさるおつもりですか! 今までの努力や労苦が水泡に帰すとも限りませんよ!」

「まあ…それはそうだけど…すまなかったよ」

「もちろんわたくしにも非があります。元はと言えば、わたくしの正体をお嬢様にお教えしていないことが原因です。このことについて、もっと旦那様とお話ししておくべきだったのです。以前にお嬢様がわたくしのことを母とお呼びになったのも、先ほど母のようだと仰ったのも、そのせいではないでしょうか」

「無理もないさ。僕だってお前がクグツの母親だったらよかったと思っているぐらいだ」

「何を呑気なことを仰っているのですか」

「いやあ本気さ。今だって嬉しいんだ。クグツのことを一番に思い、そのためであれば父親である僕のことを平気で叱り飛ばせる…あの女には逆立ちしたってできやしないことだ」

「………」

「お前の言いたいことはわかってる。クグツにお前が人形であることを明かすべきだと言うんだろう? 僕もそう思っていたところだ」

「それではいよいよ…」

「ああ、いずれは知らなければならないことだ。いいきっかけだったと思うことにしよう」

 さて、わたくしは旦那様との二人三脚による試行錯誤により、徐々に最高の娼婦へと近づいていましたが、よしんばそれが果たせたとしても、まだ十分ではないのです。

 強欲な借金取りは、いかに優れた娼婦とて、わたくしを手に入れるだけでは飽き足らず、お嬢様をも要求するに決まっている。

 そう悟っていた旦那様は、いずれはお嬢様にも、わたくしの整備を体得させることに決めていたのです。それが済めば、いつ借金取りがお嬢様を連れて行っても、わたくしがお供をし、しかし肝心の売春はわたくしが請け負い、お嬢様は日々のわたくしの整備をすることで、その貞操を守ることができるのです。問題はその時期でした。

 わたくしの整備は、娼婦に足るようにと改造が行われてからは、女中としての用を成すためだけだった頃と比べると、複雑を極めるようになっていました。大体毎回同じように保守点検すれば良いということはなく、どのように使われたのかや、その回数がいかほどなのかを勘案して、体内で分泌物を生産するための物質の補給や、場合によっては消耗した箇所の修繕が必要になっていました。そのため整備のときには、何をどのようになすべきかを、その都度判断しなければならないのです。

 旦那様はわたくしをお作りになった当人であり、またお使いになっている本人でもあるので、どのように整えればいいのかは手に取るようにおわかりですが、お嬢様がそれをするためには、ご自分で判断しなければなりません。何よりわたくしは、まだ完成しているわけではないのです。

 あまり早すぎても難しくて果たせないだろうし、遅すぎると間に合わないかもしれない。旦那様はわたくしの整備をいつからお嬢様に始めさせるかということで常々お悩みでしたが、今回の騒動はいい機会だということになりました。

 しかし、そのためには避けて通れない問題があります。お嬢様に、わたくしの正体を、わたくしが人形であることを、お伝えしなければならないのです。

 翌日、旦那様は早くから作業場の整理整頓に取りかかりました。これからはお嬢様もお使いになる場所です。精神衛生上不適切なものは取り除いておかなければなりません。わたくしも家事やお嬢様のお世話を除いた時間にお手伝いをしましたが、それでも足りないほどでした。ようやく一段落ついたのは夜も更けてからです。

「今からクグツに話すよ。それから整備するところを見せる」

 旦那様がそう仰ったのは、わたくしがお風呂上がりのお嬢様にハニーミルクをこさえようとしていたところで、でした。

 わたくしは承知し、一つお願いをします。

「わたくしからもお話しさせてくださいませんか?」

「別に構わないけど」

「それでは作業場でお待ちしております」

 わたくしは作業場に赴くと、扉を向いて跪きました。お話しするとはいえ、何を差し置いても、まず初めにお詫びしなければならないと思ったからです。

 やがて扉の外に気配がして、お二人の声が聞こえてきました。

 旦那様がお嬢様に入るように言い、扉が開きます。

 お嬢様はわたくしの姿に驚き、旦那様も同様でしたが、わたくしは構わず叩頭しました。

「お許しください。わたくしはお嬢様をずっと欺いておりました」

「やっぱりお母さんなの?」

「いえ…そういうことではなく…」

 わたくしは頭の位置を戻しましたが、お嬢様のほうを見遣ることはできませんでした。お話しすると決めたものの、やはりためらわれるものです。

 けれどもこれは、いずれ通らなければならぬ道。わたくしはお嬢様を見据えて申し上げました。

「わたくしは人間ではないのです」

「お父さんが作った人形なんだ」

 わたくしの言葉に間髪を入れず、旦那様が仰いました。わたくしはさらに続けます。

「今日まで人形なんかに傅かれ、さぞかしお怒りかと思います。しかしどうかお許しください。そしてこれからもお嬢様のそばに置いてください」

 言うべきことはこれで全てでした。余剰も不足もありません。しかしお嬢様は盛んに瞬かせる目で、わたくしと旦那様を交互に見遣っていらっしゃいます。

「二人とも何言ってるの?」

 当然の反応かもしれません。もしわたくしが、お嬢様や旦那様がわたくしと同じ人形なのだと教えられたら、やはり同様のことを言っていたでしょう。

「だからな、クグツ。カラユキは人間じゃなくて、人形なんだ。お父さんが作ったからくり人形なんだ」

「お父さんがそんな人形作れるわけないじゃない」

「お父さんに何て言い方するんだ!」

「だって! そんなことできるわけないじゃん! お父さんが作ってるのは、もっと小さくて簡単で、ちょっと動くだけの人形でしょ? カラユキみたいに大きくて複雑で、何でもできる人形なんて、お父さんじゃなくたって作れないよ!」

「わかりました、証拠をお見せしましょう」

 七面倒くさい親子喧嘩が始まりそうでしたので、口を挟むことにしました。

 わたくしは両手で顎を持ち、お嬢様がこちらをご覧になるのを確認してから、首を胴体から分離させて持ち上げました。思わず後ずさったお嬢様が旦那様にぶつかり、旦那様はその両肩を押さえられます。

 わたくしはさらに首を高く、両腕が伸び切ったところまで持ち上げ、お嬢様を見下ろしてから、膝の上にゆっくり下ろしました。今度はお嬢様を見上げる形になります。

「いかがでしょう。信じていただけますか?」

「平気なの…? 痛くないの…? 苦しくないの…? 死んじゃわないの…?」

「もちろんですよ、わたくしは人形ですもの。痛くもなければ苦しくもないんです。もちろん死んでしまうこともありませんよ」

「ただし止まってしまうことはある」

 旦那様がお嬢様を追い越しながらそう仰り、わたくしのそばを通るときにわたくしの首をお持ちになりました。そしてわたくしの背後に回り、それを胴体に戻しながらお続けになります。

「カラユキは頑丈にできてる。自分で危険を察知することもできるし、そこから逃れることだってできる。壊れることはまずないだろう。もし壊れたって直してやればいいんだ。それでも色んなところが消耗し、性能が落ちてくる。それを防ぐために一日一回の整備が必要だ。そうしなれば、どんなに見た目がしっかりしていても、二度と動かなくなってしまう。今はお父さんが整備をしているが、その整備をやめてしまえば、たちまちカラユキは動かなくなる」

 首が結合したところで、旦那様がわたくしの頭にお触れになりました。整備や改良を終えたときの合図です。わたくしはその姿勢のまま旦那様に会釈しました。

「話というのはそれだ。クグツ、これからはお前がカラユキの整備をするんだ」

「私が?」

「カラユキも、自分ではできないからな」

「私にだってできないよ」

「いきなりやらせるわけじゃない。お父さんが少しずつ教えていく。いずれは一人でできるようになりなさい」

「お父さんがやればいいじゃない」

「お父さんがいなくなったらどうするつもりだ?」

「どうするつもりって…」

 お嬢様は今にも泣き出しそうなお顔をされます。旦那様は構わず畳み掛けます。

「カラユキの整備ができるのはお父さんだけだ。そのお父さんがいなくなったら、お前はカラユキと二人きりになる。だがカラユキの整備をできる人はいないから、そのうちカラユキは止まってしまう。そうしたらお前は一人ぼっちだ。それでもいいのか?」

「そんなのイヤ…」

「それじゃあお前がやりなさい」

「………」

「わたくしからもお願いします」

 今なお逡巡されているお嬢様に、わたくしは再度叩頭しました。そして顔を下げたまま申し上げます。

「お嬢様、どうかわたくしの整備をしてください。そしてこれからもお嬢様のそばに置いてください。お願いいたします」

 わたくしは意識的に、声を裏返らせてみました。さぞかし悲愴な調子に聞こえたことでしょう。お嬢様が整備をしてくださらなければ、わたくしは止まってしまうのです、どうかお助け下さい!

 言外にそんな思いを込めたわけですが、実際には露ほども思っていません。わたくしの本願はお嬢様をお守りすること。ただそれだけなのです。そのためならばどんな偽りだろうとしてみせます。

 やがてお嬢様の力強いお声が聞こえました。

「わかった。やってみる」

 この後、わたくしは旦那様の整備を受けました。お嬢様はそれをご覧になります。

 旦那様が道具と材料を用意されている間に、わたくしは服を脱いでおく。わたくしたちにとっては日常ですが、お嬢様にとっては初めてのこと。ふと気がつくとお嬢様が恥ずかしがっておられたので、下着だけはその箇所に差し掛かるまでつけたままにしておきました。

 整備そのものも、旦那様は特にお嬢様がご覧になっているということを斟酌せず、いつもどおりに済ませられました。お嬢様は百面相のようにくるくると表情を変えられていましたが、それでもその視線はわたくしたちから外れずにいました。

「これで終わりだ」

 旦那様が、おそらくはお嬢様に対して仰いました。

「お疲れ様でした」

 わたくしもお嬢様にお伝えするように申し上げます。

「後片付けをするから外に出なさい。明日からは本格的に教えていくからね」

「すぐにハニーミルクをお作りします。食堂でお待ちください」

 旦那様は道具を片付けながら、わたくしはエプロンドレスを着ながら、それぞれお嬢様にお伝えします。お嬢様はハニーミルクの存在を今の今まで忘れていたというようなお顔をなされて、作業場から出ていかれました。

 服装を整えたわたくしは、燃料をマグカップに注ぎ、外に向かいます。

「どこへ行くんだ?」

「お嬢様のご要望で、今日からご一緒するのです」

「夜のティータイムか。楽しそうだな」

「旦那様も参加なさいますか?」

「そうだな、それじゃあ僕は」

 そこまで仰ったところで、旦那様はお顔を伏せてしまわれます。

「いや、やめておこう。僕はいずれそこから外れてしまうからな」

「かしこまりました…」

 わたくしは台所でハニーミルクを作り、すでに食卓にお待ちになっているお嬢様の前にそれを置きました。そして燃料を手にしたまま、お嬢様の向かいに座ります。

「それは何なの?」

 お嬢様がお聞きになり、わたくしは頷きました。

「そうですね、このこともきちんとお話ししておきましょう。これはわたくしの燃料です。人間が口にしたら体を壊すことでしょうし、命を落とすかもしれません。しかし人形のわたくしには、お嬢様や旦那様のお食事のように、必要なものなのです」

「私たちと一緒にごはんを食べなかったのも、人形だから?」

「それはわたくしが女中だからです」

「どう違うの?」

「女中は後でいただくものです。わたくしは人形ですからいただく必要がありません。そしてわたくしは人形の女中ですので、お嬢様や旦那様とお食事をご一緒するわけにはいきませんし、その後いただかなくてもいいのです。わたくしは毎日整備をしていただいて、こうして燃料を補給すれば、それで十分なのです」

 わたくしは燃料を口に運び、それから続けます。

「お嬢様を不思議がらせないようにと思って、今日まで旦那様と二人で嘘をついていたのですが、間違いでしたね」

「そうだよ、言ってくれれば良かったのに。私はカラユキが人形だって、別にいいのに。そうだとわかってれば、昨日みたいなことしなかったのに」

 お嬢様もハニーミルクを召し上がります。わたくしは改めてお詫びします。

「長い間嘘をついていて申し訳ありません。わたくしや旦那様に、お嬢様を叱る資格なんて、本当はありませんよね」

「大丈夫、わかってる。カラユキもお父さんも、私のこと心配してくれて、大切にしてくれてるって、わかってる。だからこれからもずっとそばにいてね。お母さんみたいにいなくならないでね」

「お嬢様がきちんとわたくしの整備をしてくだされば、ずっとそばにいてさしあげられますよ」

 わたくしは少し悪戯っぽく申し上げてみました。その後のお嬢様は甘いハニーミルクをお飲みになっているはずなのに、渋い顔をされたままでした。

 こうしてお嬢様がわたくしの整備をする日々が始まりました。

 お嬢様は、わたくしの整備はとても難しく、どれ一つとして容易なことはないと漏らしており、特に消耗する箇所や消費する物質が毎日のように違い、それを見極めるのが一番大変だと仰っておりました。まさかそれが娼婦の用を成すためのものであるからだとは申し上げられず、申し訳なく思ったものです。

 それでも旦那様の教え方が良かったのでしょうか。それともお嬢様が旦那様の才覚を受け継いでいたのでしょうか。あるいその両方でしょうか。お嬢様は一を聞いて十を知るように、着実にその技術を身に付けられていきました。その迅速さは旦那様も舌を巻くほどで、これならもっと早くに教えてやるべきだったかなと、その誤算をお喜びになってさえいるようでした。

 そして初めての整備から2年3ヶ月4日が経った日のことです。旦那様がわたくしに仰いました。

「もう安心だ。お前の整備に関して、クグツの技術は僕に引けを取らない。そこで、これをクグツにやろうと思う。今なら多少動揺したところで、その技術が疎かになることはないだろう」

 それはわたくしが完成したときに旦那様がお撮りになった、わたくしの写真でした。島田髷の鬘を乗せ、垢抜けない顔をした、割烹着姿のわたくしです。

「これを母親だということにする。もうこの姿のお前が現れることはないんだし、そうしておけば万が一この先クグツがあの女と鉢合わせしても、それが母親だとはわからない」

「よろしいのですか? 奥様がしょっちゅう蔑んでおられた姿ですよ? 何よりご本人じゃありません」

「あの女の写真が残っていないのはお前も知っているだろう。今より若い昔の自分に嫉妬するからなんて、決して写りたがらない奴だったからな。そんなことよりクグツだ。クグツの母親への想いを満たしてやりたいんだ。それともお前は嫌か? あの女の代わりを、昔の自分が務めるなんて」

「旦那様こそご存知でしょう。わたくしは感情を抱きません。旦那様のお好きなようにしてください。それにわたくしも、お嬢様が奥様を、理想の母親として偲んでおられながら、お会いすることもできずに悶々としておられることは、重々承知しております。少しでもそのお気持ちを和らげてさしあげられるなら、これに勝る幸せはありません。いえ、わたくしが人間ならばそう感じるであろう、ということです」

「そんな回りくどい言い方をしなくていい。わかっているよ」

「恐れ入ります」

 旦那様はわたくしの昔の写真を作業場の修理道具のある棚の奥深くに、けれども見つけやすいところに隠しておきました。

 そしてお嬢様にわたくしの整備を、実地試験としてお一人だけでさせることにしました。

 とはいうものの、お嬢様の整備は完璧です。注意するところは一つもありません。

 そこでわたくしの体の数箇所を、前もって故障させておきました。これでその箇所の修理を行ってくださるでしょうし、その際には必ず写真を見つけられるはずです。

 もし一度で見つけられなければ、見つけられるまで行う。そういう段取りでした。

 唐突にお一人での整備を言い渡され、わたくしと二人だけで作業場にお入りになったお嬢様でしたが、動じることなく勤めを果たされました。故障した箇所に差し掛かると、修理道具のある棚に向かわれ、そこで凍りついたようになってしまわれました。どうやら見つけられたようです。

 わたくしはしばらく間を置いてから、お嬢様に声をおかけしました。

「どうかなさいましたか?」

「ううん、何でもないよ」

 お嬢様はそう仰って、こちらに戻っていらっしゃいます。仕掛けがあることを知らなければ、本当に何でもないと思い込まされたでしょう。

 やがて修理も済み、整備も終え、五度に渡ってチェックをされてから、お嬢様は旦那様をお呼びになりました。

 旦那様はお嬢様よりも細かくわたくしの検分をされましたが、目的はそれよりむしろお嬢様の目を欺くために違いありません。肝心の写真も棚からなくなっていたのでしょう、満足そうに仰るのでした。

「完璧だ。これなら安心してカラユキを任せられる。よく頑張ったね」

 お嬢様は幸福そうに微笑まれましたが、その喜びや安堵に浸ることなくすぐに仰いました。

「じゃあ、私部屋に戻るね」

「ハニーミルクはよろしいのですか?」

 わたくしが声をおかけしたときには、すでにお嬢様はそそくさと外に出てしまわれていました。旦那様がしたり顔で仰います。

「見たな」

「そのようですね」

「わかりやすい奴だ」

「まだ子供ですもの」

 わたくしはすぐにお嬢様のお部屋に行きました。ノックに対してやや平静さを欠いたお返事があり、中に入るとベッドにお座りになっていらっしゃいました。さも心配しているという風を装って声をおかけします。

「本当に召し上がらないのですか? お加減でも悪いのですか?」

 お嬢様は顔を逸らし、無言でご自分のお隣を叩きました。わたくしはわざとらしく首をかしげながら歩み寄り、お嬢様のお隣に腰を下ろします。

「さっき、作業場でこんなの見つけたの」

 お嬢様が懐から件の写真をお取りになり、わたくしに差し出されました。わたくしは素知らぬ態でそれを受け取り、驚いたふりをします。

「何でしょう。え…? まさか、これ…!」

「それ、お母さんでしょ? 他に考えられないもんね」

 旦那様のお見立てのとおりでした。お嬢様はかつてのわたくしを奥様だと勘違いしておられます。もちろん否定などしません。

「いつの写真? 私が生まれるより前?」

「いつのものでしょうね…お嬢様がお生まれになる前どころか、わたくしが女中になるより前のことでしょう…なにせ奥様は大変な写真嫌いでした。わたくしの知る限り、ただの一度も写真をお撮りになったことはありませんもの…」

 ただの一つも虚偽は含まれてません。わたくしはお嬢様に写真をお返しします。お嬢様はそれをしばしご覧になってから、懐にしまわれます。

「お母さんって、どんな人だった? 素晴らしい人だって、カラユキ随分前に言ってくれたと思うけど、どんな風に素晴らしかったの?」

「うまくご説明することはできませんが…」

 さて、どう言い繕ったものでしょう。無関心が高じて余計な手出しをしないでいただけたこと、とでも申しましょうか。もちろんそうとは言えませんが、それはそれで正解のように思えました。

「わたくしがお嬢様のお世話をする、そのやり方や内容は、奥様を参考にさせていただいています」

 反面教師として、ですが。

 お嬢様がわたくしの手に触れてこられました。

 お嬢様がわたくしの心の呟きを聞き取れないように、わたくしもお嬢様のお気持ちを完璧に見抜くことはできません。

 それでもわたくしは、お嬢様のお手を握り返し、もう片方の手で包んでさしあげました。これが妥当であろうという計算の元です。

 それでもお嬢様は、不意に涙ぐまれました。

「何で死んじゃったの」

 独り言のようにそう仰るなり、お嬢様がわたくしにしがみ付いてこられました。物凄い力でした。また呻くように泣きじゃくっておられます。奥様に対するはち切れんばかりの憎しみを必死で抑えているような、一方でこれまで封じ込めてきた愛しさを抑え切れないというような、そんなご様子です。

 わたくしは力を入れずにお嬢様を抱き締め、感情の奔流が収まっていくのをひたすら待ちます。お嬢様にとってもここが踏ん張りどころだと思い、願うように念じ続けます。どうか戦い抜いてください。奥様の呪縛を断ち切ってください。わたくしはここにおりますからね。

 程なくして、お嬢様がお顔を上げられ、わたくしをご覧になります。わたくしは普段と比べて一層の慈愛を込めて、お嬢様と見つめ合います。お嬢様は再びわたくしの胸元にお顔を寄せられます。

「お辛いでしょうね。でもお嬢様、奥様もお辛かったのですよ。奥様がお嬢様とお別れになることを、どれほど嘆いておられたことか。よりにもよってお嬢様のお誕生日に亡くなってしまわれることを、どれほど悔いておられたことか」

 一体誰の話をしているのでしょう? 我ながらよくもまあこれだけの嘘八百を並べられたものです。

 しかしながらお嬢様には何か感じる節がおありだったのでしょう。わたくしから離れられると、懐に手を置かれました。どうやら着物の上から昔のわたくしの写真を確かめ、理想の母親を偲んでいらっしゃるようです。

「この写真、宝物にしたいな。私がもらっちゃっていいかな。いいよね。お父さんだって、こんなのがあるってこと、きっと忘れてるんだろうし。だからあんなところにあったんだろうし」

「旦那様には秘密にしておきますよ」

 お嬢様が驚いたようにわたくしを見上げてこられました。わたくしはお嬢様に頷いてみせます。お嬢様は今度はとても嬉しそうにわたくしに抱きついてこられました。

 お嬢様がお幸せそうでなによりでしたが、わたくしは内心、どう旦那様にお伝えしたものかと悩んでいました。無理に取り上げるわけにもいかなかったので、こう申し上げたにすぎなかったわけです。

 お嬢様はそれからいつものようにハニーミルクを召し上がり、お休みになられました。

 わたくしは旦那様に顛末をお話しします。旦那様は計画がうまくいったことに大変喜ばれ、またわたくしが奥様をこき下ろしたことについては声を上げて笑っておられました。

 このまま写真のことをおざなりにできればなどと目論んで、話を倍以上に盛ってみました。おかげでとても楽しんでいただけましたが、やはり誤魔化し切ることはできず、話すこともなくなってしまった頃に、旦那様が仰いました。

「それじゃあ写真を返してくれ」

「そのことなのですが…」

 わたくしは思わず項垂れます。

「不可抗力で…旦那様には秘密にしておくとお約束してしまいまして…」

 旦那様は何も仰いませんが、咎めるような態度もお見せになりません。

「宝物にしたいということで…ご自分のものにされてしまいまして…」

 わたくしはそれ以上弁解のための言葉を紡ぐことができず、ただただ頭を下げました。

「申し訳ありません…」

「いや、そうなる気もしてたんだ。あいつにとってはただ一枚だけの、母親の写真だからな。大事にさせてやろう」

 そう仰る旦那様のご様子は、そのお言葉とは裏腹なものでした。

「お寂しそうですね…」

「僕にとってはただ一枚だけの、娼婦に改造する前のお前の写真だからな。お前を完成させたときの感動は何物にも代えがたい。それを手元に残せないのは、少しな…」

 わたくしは旦那様に寄り添い、その手を握ってさしあげました。

「今のわたくしではご不満ですか…?」

 旦那様はわたくしの手を握り返し、満足そうに微笑まれます。

「成長したねカラユキ。そんな甘い言葉を囁けるようになるとは思わなかったよ」

 わたくしは旦那様に笑顔をお返しします。それは何よりの賛辞でした。決して叱責されなかったことに安堵していたわけではありません。ええ決して。

 こうしてわたくしの整備は本格的にお嬢様のお役目になりました。すでに旦那様より太鼓判をいただいていたとおり、お嬢様の整備は完璧で、整備不良が起こることは一度もありませんでした。

 またその責任感にも目を見張るものがありました。お嬢様は旦那様やわたくしが求めたわけではないのに、ご自分用の道具を、それらを収納する皮革製の箱と一緒に用意され、わたくしに補給する材料もご自分で確認してから調達されるようになり、整備の作業もご自身のお部屋をお使いになるようになりました。

 一方、お嬢様のお休みの後で続けられていた、旦那様によるわたくしの娼婦への改造も、一定の終着を迎えました。これでいつ借金取りがお嬢様を連れていくために来訪しても構わないという具合です。

 もっともこの頃には、借金取りは毎月月初に訪れ、玄関先で利子を受け取り、そのまま帰るだけとなっていました。旦那様のお仕事も順調でしたので、このような緩やかな生活がいつまでも続いていく気さえしていたものです。

 しかし、人の世に巻き起こる嵐は、これという前触れもなく出現するものです。それに巻き込まれたときに初めて、我々はそこに嵐があることを知るのです。逃れることなど、できやしない――

 その日の早朝、わたくしは応接間の座卓に活けるため、庭から摘んできた今年初めての秋桜を三輪、花瓶に挿したところでした。どん、どん、と床が揺れ、何事かと辺りを見回しましたが、特に不審な様子はありません。

 気のせいかと思い、一旦応接間を後にし、水差しに水を汲んで戻り、花瓶に注いでいると、どすん、どすん、と先ほどよりも大きな音で床が揺れ、花瓶の水が縁を濡らすほど波打ちました。

 ここで初めて、玄関先に誰かがいるのだと気が付きます。果たして見たこともない男が一人、三和土に突っ立っていました。大方框の腹を蹴りつけて音を出し、家人を呼び付けていたのでしょう。

 思わぬ時間の来訪という非礼。声をかけてくるでもない尊大。初対面という希薄を通り越した透過な関係。内心鼻白みましたが、丁寧に膝をついて叩頭します。

「お待たせして申し訳ありません」

 男は舌打ち混じりにおせえんだよと呟いたようですが、これも聞き流します。

「何かご用でしょうか」

「ピグマはいるか」

「はい…失礼ですが」

「案内しろ」

 わたくしが誰何する間もなく、男は框に踏み込んできます。確信に近いただならぬ予感がしました。

「こちらでございます」

 わたくしは即座に立ち上がって男を制しつつも、応接間に通しました。男はそこに旦那様がおられないことを知り、いささか不服そうではありましたが、わたくしは速やかに扉を閉めつつ言い残します。

「すぐにお連れします」

 旦那様はすでに起きておられ、作業場にいらっしゃいました。早足で現れたわたくしの様子と、見知らぬ、そして名乗らない男が訪ねてきている旨を申し上げたことから、察しがついたようです。

 わたくしは旦那様とともに応接間に赴きました。男は座卓を挟んだソファーの片方を大股で陣取っており、旦那様は向かいのソファーに腰を下ろします。常ならず客人のため、わたくしは給茶に赴くこともなく、旦那様のおそばに侍ります。

「ピグマです。ご用件はなんでしょう」

 男は無言のまま、懐から一枚の紙切れを取り出して、座卓の上に放りました。服の中に無理に押し込まれていたせいで乱雑な折り目がついているものの、かつて旦那様と借金取りの間で交わされた証文に違いありません。

「金を返してもらおう」

 旦那様は黙って席を立ち、応接間から出ていかれました。幸いにして本日は月初。借金取りに渡すつもりの利子をすでに用意してあります。それをお持ちになるのでしょう。

 男と対峙することになったわたくしは、先に果たせなかった質問を、切り口を変えて行います。

「いつもの方はどうされたのですか?」

「焦げ付きや夜逃げが重なって、行き詰まっちまってな。残った証文をあちこちに叩き売って、その金でどこかに消えちまったよ」

「つまり債権者があなたに変わったということですね」

 男は証文をしまいこみつつ頷きました。

 予感は的中しそうです。後は祈るような気持ちで旦那様を待つだけです。

 程なく旦那様が戻ってこられました。封筒に入れた利子を座卓の上に置かれましたが、男は一瞥しただけで手に取ろうともしません。

「聞こえなかったか? 俺は金を返せと言ったんだ。ああそうか、こう言ってなかったな。全額返せ。耳を揃えてな。できなければ娘を連れていく」

 旦那様は観念したように、力なく項垂れてしまわれました。わたくしも気持ちは同じでしたが、一縷の望みを託して最後まで足掻いてみせます。

「前の方からお聞きになっていませんか? こちらからは毎月の利子として、この額をお支払いしています。これは当初よりも割高なのです。元金はいずれ、一括でお支払いします。そういうお約束をしているのです。今月はこれでお引き取りください」

 わたくしは利子をかすめ取るなり身を乗り出して男に押し付けました。体を防ぐように現れた男の手にしっかりと利子を掴ませます。

「足りないということならば、幾らか上乗せさせていただきます。遠慮なく仰ってください」

 男は封筒の中を検めようともせず、それを床に放りました。

「いつ取りそびれることになるかわからん利子なんかいらねえよ。こんなところまで毎月取り立てに来てやるほど暇でもない。そもそも俺の本職は金貸しじゃなく、女を売ることだからな」

 男の正体がようやく知れました。しかしそれがこれまでの借金取りとどのように異なるのかはわかりません。

 まるでわたくしの疑問を見透かし、それを解き明かすかのように、女衒は言うのです。

「俺としては娘のほうがいいんだ。金はその金の額の価値しかない。女ならこっちの都合で値をつけられる。安く買うための目利きもいるし高く売り捌くための腕もいる。商売って奴だ。金貸しよりもよほど浪漫がある」

 女衒は彼なりの職業における矜持を披露し、悦に入るように満足そうにソファーにふんぞり返ると、本来の目的を思い出したのか冷ややかな視線を旦那様に向けます。

「もう一度言う。金を返せ。それが嫌なら娘を寄越せ」

「金はない」

「それじゃあ娘だ」

「できない」

 女衒は旦那様を見据えたまま体を戻してきました。心なし身を引いた旦那様をお守りするように、わたくしは旦那様のお隣に滑り込み、そのお体の前に片腕を差し込みます。

「金はない。娘はある。それなら娘を出すしかないだろう」

「娘は駄目だ」

「だったら今すぐ金を返せ!」

 女衒が叫びました。それは用心していたであろう旦那様をなおも怯ませ、当然用心はしていましたが感ずることのないわたくしに怯んだように装わせ、それだけでなく家中に響き渡るかのような怒号でした。わたくしは今なお夢中にあるはずのお嬢様を憂えます。

「お静かにお願いします。お嬢様が起きてしまいますから」

「構やしねえ連れてこい。何なら俺が行ってやろうか」

「待ってくれ!」

 やおら腰を上げようとした女衒を、旦那様が制止しました。女衒は構わず立ち上がり、そのまま座ろうともしませんが、そこから動こうともしません。旦那様は懇願するように仰います。

「自分の立場もわかってる。今更言い逃れをするつもりもない。だが少しだけ時間をくれ。まだ娘には話してないんだ。家に借金があることも、その抵当にされていることも、何も知らないまま連れていかれるなんて、可哀想だろう」

「そんなのはお前らの都合だ。俺の知ったことじゃない。慰めになるかどうかは知らねえが、これまでに俺が売ってきた女はどっちもいたぞ。手前がカタにされてることを知ってた奴も、知らなかった奴もな。どうせやることは変わらないんだ」

「第一、どこに連れていくというんだ。この近くなのか」

「海の先だ。外国だよ」

「外国…! 尚更だ!」

「生憎そこが俺の得意なんでな」

「そんなところに娘をやれるか!」

「だったら金を返せばいい」

 旦那様は口をつぐんでしまわれました。残念ながら一貫して女衒の言い分に分があります。もはや感傷だけでは話が進みません。しかし旦那様はなおもその一点から抗弁します。

「そもそも、急過ぎるじゃないか。朝っぱらからいきなりやってきて、娘を寄越せだなんて、横暴だ」

「ずっと前からわかってたことだろう。これまでの奴がそうしなかっただけだ。むしろ運が良かったんだよ。だが俺はあいつみたいに甘くないないからな。返せないっていうんなら娘を連れていく。それだけだ」

「あなたのお話はよくわかりました。ですがわたくしどものほうにもお話したいことがあります。せめてそれを聞いてください」

 僭越でしたが堂々巡りを終わらせるべくわたくしは口を挟みます。けれどもそれがかえって逆鱗に触れたのかもしれません。一瞬のうちに女衒の顔面に怒気が溢れてきました。

「ゴチャゴチャうるせえな! 一日だって待つ気はねえんだよ!」

 女衒は後半の怒声とともに座卓を下から蹴り上げてきました。花瓶が倒れて床に落ち、甲高い音を立てて割れます。

 飛び散ったガラス片と水と秋桜に気を取られている間に、女衒は扉に向かっていました。わたくしは駆け出すように席を立ちます。旦那様が続く気配もしました。

「娘はどこだ」

「お待ちください」

「そうかい、だったら勝手に探すぜ」

 女衒が乱暴に扉を開け放ちました。なんとその外にお嬢様が佇んでおられます。

「お嬢様…!」

「クグツ、あっちに行ってなさい!」

 わたくしの呟きには、いつの間にいらっしゃったのですか、どこからお聞きになっていたのですか、そんな言葉が言外にありました。

 一方の旦那様はとにかくお嬢様の無事だけを考えておられます。こういうときにはやはり人の血が通っておられる旦那様のほうが反射として適切なのでしょう。わたくしも大いに反省し学習しました。

 けれどもお嬢様はわたくしや旦那様の声など届いていないのか、驚いたように女衒を見つめて硬直されています。

 女衒は女衒で予期せず鉢合わせしたためか、散々求めていたお嬢様と相対したのに固まったままです。しかし四者の中で最初に我に返ることができたのは、その欲求があったからこそなのかもしれません。

「お前がピグマの娘か」

 女衒はそう言うなり、お嬢様に手を伸ばしました。お嬢様は未だ驚きの鎖が解けないらしく、わずかに身を反らすことしかできません。

「悪くないな。それなりの値がつきそうだ」

「汚い手でお嬢様に触れるな!」

 わたくしは意識的に不快な言葉を選んで絶叫しました。成功です。女衒はお嬢様に振れる寸前でぴたりと静止し、敵意を剥き出しにした顔でわたくしを振り返ります。

「女中風情がでかい口叩きやがって…」

 わたくしは女衒を睨みつけたまま、内心怯えているように装い、後ろに下がります。女衒はわたくしの策など知る由もなく、床に散らばった花瓶の破片をまるで脅すように踏み締めて、こちらに迫ってきます。

 程なくわたくしの背は壁に達し、女衒はその目と鼻の先に現れます。女衒はわたくしの頭上に片手をつき、威圧的にわたくしを見下ろしてきます。わたくしは素早くその手を捻り上げました。

 あっという間にわたくしに背後に回られ制圧させられた女衒は、けれども自由の利く表情を忌々しげなそれに染めてわたくしになげうってきます。わたくしはそれを全く無視し、旦那様に申し上げます。

「後はわたくしがお話しします。旦那様はお嬢様とお部屋でお待ち下さい」

「わかった」

 わたくしと女衒が睨み合っている最中、手も足も口さえも出せずに立ち尽くしていた旦那様ですが、ようやくわたくしの言葉でご意思を取り戻して下さいました。すぐにお嬢様の元に走り寄り、その手を引いて部屋から出ていかれます。

「待てピグマ!」

「あなたの相手はわたくしがいたします」

 慌てた様子の女衒をたしなめるようにわたくしは言いました。それから扉が閉まります。これでどうにかお嬢様の無事は確保できました。一安心です。

 断じて旦那様とわたくしの間で、このような打ち合わせを重ねてきたわけではありません。叶わぬ望みと知りつつも、今日のような日は決して訪れず、穏やかな日々が永遠に続いていくことを信じてさえいたわけですから。

 しかし、いざこの日、この状況が出来したまさにこのときに、旦那様とわたくしは言葉を交わすまでもなく、それぞれの役目を執り行いました。以心伝心とはこのようなものを指すに違いありません。

 旦那様はお嬢様に、借金の事実やその返済の方法についてお話ししてくださるでしょう。わたくしは女衒に対して要求を突き付け、それを呑ませなければなりません。

「手前、こんなことしてただで済むと思うなよ」

「申し訳ありません。しかしこうでもしなければ、わたくしのお話を聞いていただけないでしょう?」

「女中の話を聞いてどうする。これはお前の主人との話だ」

「旦那様は全て心得ております。あなたの申し出に背くつもりは毛頭ありません」

「だったら引っ込んでろ」

「ひとつご相談があるのです」

「言ってるだろう、こっちは一日だって待つ気はねえんだ」

「そんなお話ではありません」

「じゃあなんだ」

「わたくしもご一緒させてください」

「なんだと?」

 話しながらもわたくしを出し抜く隙を窺っていた女衒は、そこで完全にその気を失ったようです。わたくしは拘束を解きます。

「わたくしがお嬢様の代わりにこの身を売ります。ですからお嬢様には手を出さないでください」

「借金はあの娘が返すことになってる。お前を連れていっても仕方ねえ」

「ですからこうしてご相談しているのです。返さないと言っているわけではありませんし、お嬢様を連れていくなと言っているわけでもありません。わたくしがお嬢様の代わりにお返しします。そのためにわたくしもご一緒させてください」

「俺はな、もう一人連れていくことになってるんだよ。この上さらに一人増やせだと? そんな船賃出せるか。金の無駄だ」

「そんな出費、わたくしを売り払う代金に上乗せして回収すればいいでしょう。それともわたくしを売り込むこともできないのですか? そうだとすれば、あなたは相当な節穴ですね。わたくしの技倆を見抜けないばかりか、この美貌と姿態すら見えていないのですね。もう少し審美眼を鍛えられたらよろしいのではありませんか?」

「大した自信だな。そこまで言うなら相手してやる。それで俺を納得させりゃあ、連れていってやるよ。だが甘く見るなよ。俺もこの世界長いんでな」

 わたくしは不敵に笑んで、女衒の手を取りました。そして自室に招き、悠然と床をしつらえました。

 大上段に構え、大見得を切り、大口まで叩いたものの、心中は不安ではち切れそうでした。旦那様以外の男を相手にするのは初めてのことなのです。しかも相手は堅気ですらありません。うまくいくだろうか。しかしわたくしにはその不安を凌駕するほどの決意もありました。ここでこの男を籠絡しなければ、始まる前から終わってしまう!

 わたくしは必死に戦いました。ただ一つの失敗も許されない苦闘でした。こんなにも辛い交接は後にも先にもないだろうというほどのものでした。事実そのとおりでした。

 詳細については割愛します。ただし、初めは意欲さえ見せなかった女衒が、次第に堪える仕草をするようになり、やがて向こうから求めてくるほどに変化していったことは、何を差し置いても記しておきます。

「稀に見る逸材だ。こんな掘り出し物が見つかるとは、俺も運がいいな」

 それは忘我に至る前の女衒が、行為の最中に漏らした言葉でした。わたくしは幾度となく行われた旦那様の改良と、それに伴い磨き上げてきた己の技能がここに結晶したことに、誇り高い充足を得たものです。

 事が済んだ後、女衒がわたくしに言いました。

「お前、郷はどこだ。親きょうだいに仕送りしてやろうってんなら、ここの家の金を返さなくてもいいだろう」

 わたくしは答えます。

「わたくしはこの家の女中です。お嬢様をお守りすることができれば、それでいいのです」

 女衒はよくわからないという顔をしていました。それで結構。わかってもらう必要などありません。お嬢様にさえ、その必要はないのです。

 わたくしと女衒が各々服に袖を通していると、女衒がこの後の段取りについて一方的に告げてきました。

「明朝迎えに来る。長旅になるだろうが飯の心配はいらない。ただし服や日用品は自分で用意しておけ。手持ちがあるならそれも持って来い」

 エプロンを結ぶ手が思わず止まります。碌な身支度もできず身一つに近い形で出発することになると思っていたからです。女衒は言います。

「俺はこの後もう一人の娘のところに行く。ここからだとちょっと離れててな。ついつい時間も潰しちまったから、着くのは夕方になるだろう。そいつを連れて近くの港から船に乗る。出港は夜中だ。その船が明日の朝一番でそこの港に着くから、そこで出直してくる。本当なら、ここの家の娘も連れていって、三人で船に乗って、下船はしないつもりだったがな。予定変更だ。部屋も一つじゃ足りんだろう」

「よろしいのですか」

「お前にも準備がいるだろう。娘の支度もしてやるといい。抜かりなくやっておけよ。明日は今日みたいに待てんからな。あと父親もだ。娘と離れるってんなら、前もって話しておくもんだ」

 わたくしは跪き、額を畳につけるほど叩頭しました。女衒は気にすることなく服を着終え、荷をまとめています。

「そういやお前、名前は?」

 女衒に問われ、わたくしは名乗りました。

「カラユキと申します」

「源氏名はどうする?」

「カラユキでお願いします」

 これまたよくわからないというように振り向いた女衒に、わたくしは言い放ちます。

「ほかに名乗る名はありません」

 軒先まで出て女衒を見送ったわたくしは、お嬢様の必需品を入れるための大風呂敷を用意して、旦那様とお嬢様を探しに行きました。

 探すといっても、旦那様とてわたくしや女衒の交わる声と音がお嬢様の耳に触れないようにと配慮されているでしょうから、わたくしの自室から最も離れた旦那様のお部屋にお二人がいらっしゃることは容易に察せられます。

 わたくしはお部屋の扉を開け放ち、果たしてお二人がいることを確認します。旦那様はベッドの上に力なく腰掛けておられ、お嬢様はそこから離れた床の上に直にうずくまっておられました。

「こちらの話は終わりました」

「こっちも済んだよ」

「明日出発です。急いで支度をしましょう」

 わたくしが旦那様にお伝えすると、旦那様が頷かれました。続いてお嬢様にお伝えし、言い終えないうちにお嬢様のお部屋に向かいます。

 何はともあれ衣類を用意しておかなくてはなりません。手当たり次第に箪笥から取り出したお嬢様の肌着や着物を、お嬢様の好みや生地の痛み具合、そして時候を考慮しながら大風呂敷に詰めていきます。すぐにお嬢様がやってこられました。

「あの人は?」

「帰りましたよ。明日の朝、迎えに来るそうです」

「私たちどこに行くの?」

「遥か海の先、遠い外国です。旦那様からお聞きになってませんか?」

 旦那様はきちんとお話ししたのでしょうか。わたくしの厳しい口調にお嬢様が目を伏せられます。

「聞いたけど…お父さんは?」

「旦那様はいらっしゃいません。だからわたくしがご一緒するのです。そうお聞きになったのではありませんか?」

 それともお嬢様がきちんと把握してらっしゃらないのでしょうか。その場にいられなかったのが歯がゆくてなりません。

「私、お父さんと離れたくないよ」

「旦那様も同じです。わたくしだってそうです」

「………」

「それとも、お一人で参られますか?」

 わたくしは手を止めて、お嬢様にお尋ねします。無論、万に一つそうされると仰ったところで、わたくしに居残るつもりはありません。お嬢様はお答えになります。

「一人ぼっちは嫌。みんなと一緒がいい。本当はお父さんともカラユキとも離れたくない。でも、それがダメだってことはわかってる。せめてどっちかとは一緒にいたい。お父さんと離れなくちゃいけないなら、私からもお願い。カラユキ、一緒に来て」

「仰せのとおりにいたします」

 お嬢様の支度は引き続きわたくしが行いました。肌着と着物の他、簪や手拭や足袋や草履等々、必要なものを詰め込んでも風呂敷にはまだ若干の余裕がありましたので、そこに入るものでどうしてもお持ちになりたいものがあればお入れくださいと申し上げておきました。夜も大分更けてから、奥様だと信じておられるわたくしの写真をお入れになっていました。

 わたくし自身の支度は、お聞きになられたときにお嬢様にもお答えしましたが、朝になってからでも事足りるので後回しにしました。ただわたくしの整備に必要な道具や船旅の間を賄う材料については、全てお嬢様にお任せしました。こればかりはわたくしにもわかりかねるのです。

 諸々の支度を終えると、ようやく朝食です。それから応接間の壊れた花瓶や床に置き去りにされたままの利子を片付け、買物に行って大量の食材を買い込みました。いつか来るであろうこのときには、許されるのであれば旦那様の好物や日持ちのする料理を少しでも多く拵えておこうと、以前から考えていたのです。その調理は後回しにし、掃除や洗濯といった家事を入念に行い、遅い昼食を途中に挟みました。

 お嬢様は、わたくしの整備に関する支度をされているときと、お食事のとき以外は、ほとんどお部屋におられたようです。お嬢様なりにも思うところがおありでしょうから、特に干渉はせずにいました。

 一方の旦那様はお部屋に閉じこもったままで、時折家中を震わせるような慟哭が聞こえてきました。その都度ご様子を伺いに参りましたし、そのとき以外にも折に触れてお訪ねしましたが、わたくしが拝見した限りでは、ずっとベッドの上で泣いておられ、お食事ができたことをお伝えしてもいらっしゃらず、料理をお持ちしても召し上がろうとしません。声をおかけしても色よい反応は返してくださいませんでした。お嬢様も心配そうに旦那様をお訪ねになっていらっしゃいましたが、わたくしと同様だったようです。

 お嬢様が夕食を済ませられ、わたくしが整備をしていただいた後になってから、旦那様がようやくお部屋から出ていらっしゃいました。

 旦那様は何かを召し上がるようにと申し上げるわたくしに首を振られ、頼みがあるとお嬢様に仰いました。お嬢様が諾われると、言いにくそうに仰います。

「一緒に寝てくれないか」

 お嬢様は快諾してご自分のお部屋に行かれます。わたくしは旦那様とともに旦那様のお部屋に行き、ベッドを整えます。旦那様は寝巻に着替えられながら、頼みがあるとわたくしに仰いました。

「後で僕を起こしに来てくれ。クグツに気づかれないようにな」

 程なくお嬢様が寝間着姿で枕を脇に抱えて入っていらっしゃいました。わたくしはベッドを整え終わると、お二人に一礼して、お部屋を後にします。

 一人になったわたくしは、ただちに台所に行きました。

 家事は夕方には全て終えており、夕食と並行して明日以降の料理の調理に取りかかっていましたが、まだ中盤です。旦那様がお一人でお作りになれるように、レシピも残しておかなければなりません。

 しばらくしてからふと気がつくと、お嬢様がお一人で台所の入口に佇んでおられました。

「眠れませんか?」

「うん、まだハニーミルク飲んでないもん」

「そうでしたね…それでは食堂でお待ちください」

 わたくしは調理を中断し、ハニーミルクを拵えます。ここでこうしてハニーミルクを作るのも、これが最後になるでしょう。またハニーミルクを差し上げるのも、明日からは難しくなるかもしれません。船中で作れるかどうかは不明ですし、蜂蜜やミルクを持参していく余裕もありません。場合によっては、お嬢様に我慢していただかなければならないかもしれません。

 渾身の一杯を食堂にお持ちすると、すでにお嬢様が両手でマグカップをお持ちになっています。わたくしは訝りましたが、お嬢様がそれを差し出されて次のように仰ったので、得心しました。

「持ってきたよ」

「恐れ入ります」

 わたくしはお嬢様とマグカップを交換し、お嬢様に合わせて燃料を一口含みました。お嬢様が仰います。

「これからは、カラユキの燃料は私が用意してあげる。ハニーミルク作るのに比べたら、ずっと楽で悪いけど」

「そんなことありませんよ。ありがとうございます」

「そうだ、じゃあマグカップも持っていかなきゃいけないね」

「わたくしが準備しておきましょう」

「じゃあ、カラユキのは私が持ってく。私のはカラユキが持ってって」

「仰せのとおりにいたしましょう」

 そうは申し上げたものの、次にお嬢様のマグカップを用いる機会がいつになるかは全くわかりません。船中で蜂蜜とミルクが得られることを願うばかりです。

 燃料を半ばほど補給したところで、わたくしはお聞きしました。

「旦那様はどうされていますか?」

「寝てるよ。泣き疲れちゃったみたい」

 お嬢様はわたくしにお答えになり、さらに続けられます。

「さっき、お父さんに聞いたよ。家には借金があって、私がそれを返さなくちゃいけないんだってね。カラユキ、何でその借金ができたのか知ってる? お父さん、人に騙されたって言ってた。それが誰か教えてくれないの。誰なのか知ってる?」

「いえ、わたくしも存じません」

「私、その人のこと許さない。絶対に許さない。私とお父さんとカラユキをこんな目に遭わせたその人のこと、絶対許さない」

「落ち着いてくださいお嬢様。まず会うことのない相手を憎んでも始まりませんよ。心配いりません。借金はわたくしが返します。お嬢様はこれまでどおり、わたくしの整備をしてくだされば、それでよろしいのですよ」

 お返事はありませんでした。お嬢様にとっては正体さえご存知ない巨悪なんかに、拘泥せずにいてくださればいいのですが。

「カラユキ」

「何でしょう」

「足りなかったら言ってね。私も一緒に春を売るから」

「わかりました」

「それでいつか必ず借金を返して、帰ってこようね。そうしたらまた、三人で暮らそうね」

「ええ――」

 ご存知ないというのは幸せなことなのかもしれません。お嬢様に課せられている借金の額は、私一人ではもちろん、例えお嬢様までもがその肉体を切り売りしたところで、一生をかけても返し切ることなどできないほどなのです。それでもわたくしにできることは、お嬢様の生きる希望を翳らせないことぐらいです。

「――必ず、帰ってきましょうね」

 お嬢様が旦那様のお部屋に戻られ、わたくしは台所に戻ります。料理を全て作り終わり、詳細かつ平易にレシピを書き留めてから、わたくしも旦那様のお部屋に参りました。

 旦那様とお嬢様は、ベッドの上で寄り添い合うようにお休みになっていました。言付けられていたとおり、わたくしはお嬢様を起こしてしまわないように、旦那様を起こします。

 旦那様も深い眠りにはついておられなかったのか、異を感じる様子もなく起床され、お嬢様を起こしてしまわれないようにベッドから出てこられました。

 旦那様はわたくしを率いてわたくしの部屋に赴き、床を作るように命じられました。そして、何もかもを忘れさせてくれ、と仰いました。

 わたくしは持てる力の全てを、適度に抑えながら使い果たし、旦那様の求めに応じました。元より何もかもを忘れることができたところで、また思い出すのが宿命なのです。これより上を目指すならば、命を絶つしかないことは、旦那様もご承知のこと。そしてお嬢様のために、その手段を選ぶことができないこともまた。

 やがて旦那様はわたくしの奉仕を留め、絶頂にも欲情にも向かわない愛撫に移行されていきました。わたくしもそれに応えていましたが、旦那様はしばらくしてからそれさえも留めました。

「カラユキ、お前は本当によくやってくれた。人間の女と遜色ない。いやそれをも超えている。本当に素晴らしい人形で、完璧な女中で、最高の娼婦だ」

「すべて旦那様の技術力とご教授の賜物です。ありがとうございました」

「でもこれで十分だったろうか。もっと改良の余地があったんじゃないだろうか」

「世は広いものです。わたくしの顔立ちや体型を好まないかたもいるでしょう。後は個人の嗜好の範疇です」

「技術はどうかな。もっと鍛えてやれなかったかな」

「それはこれからも磨いていきます。それにあの女衒は、稀に見る逸材だと驚いていましたよ」

「そうか…」

「ご不満そうですね」

「いや…いずれそうなるとわかっていたことだが…僕以外の男にお前を抱かせてしまったことが…今更ながらに悔しくて…情けなくてな…これからその人数は無数に増えていくんだものな…」

「全てはお嬢様をお守りするためです」

 わたくしは床から離れました。夜が明けつつあります。お二人の朝食をご用意しなければなりませんし、自分の支度もしなければなりません。そして今の今まで劣後していましたが、今日はお嬢様のお誕生日であり、奥様の偽りの命日です。お祝いは何一つして差し上げられそうにありませんが、最後になるであろうお参りは出立前に済ませておきたいものです。

「必要ならば、またわたくしのような人形をお作りください。そして存分にお使いください」

「僕はお前が戻るのを待つよ」

 わたくしは思わず旦那様を見遣っていました。旦那様は静かに微笑んでわたくしを見つめておられます。

 まさかあの途方のない借金を返し、帰ってこられるとお思いなのでしょうか。額のおおよそさえご承知でないお嬢様はともかく、一の位まで把握していらっしゃる旦那様が、一体何を仰るのでしょう。それともこれは旦那様なりの、甘い言葉なのでしょうか。

 わたくしは聞き返したり、その真意を尋ねたりはせず、何事もなかったように服を着ました。

 朝食は昨夜大量に拵えておいた料理を適当に見繕うことで、一刻で済ませました。

 わたくしの支度に要する時間はそれより短く、私物の全てである肌着とエブロンドレスとカチューシャと革靴の替えを二つずつ、ハンカチーフやちり紙を適当な数、簡単な繕い物なら可能な裁縫道具、そしてお嬢様のマグカップを鞄に詰め込めば、それでおしまいです。

 お嬢様のお荷物ともども玄関に運んでいると、旦那様がお見えになりました。餞別だと仰って、昨日女衒に渡すつもりだった利子をそのままお渡しくださいます。いざというときの虎の子としてありがたく頂戴し、へそくりとしてしまいこみます。

 そこまで済ませたところでお嬢様を起こすべく、旦那様のお部屋に参ります。お嬢様はよくお休みでしたが、声をおかけしながら軽く揺すって差し上げると、すぐに目を覚まされました。

「お父さんは?」

「もう起きていらっしゃいます。お召物を用意しますから、すぐに着替えてください。朝食が済んだら奥様のお墓参りです。あの男が来る前に行っておきましょう」

 そうお伝えしてからお嬢様のお部屋に行き、お着替えを持って旦那様のお部屋に戻ります。お嬢様はベッドに半身を起こされたままでした。あれだけ申し上げたのに、もう。

「早くしてください」

 強い口調に驚いたように、お嬢様は素早く従われます。寝巻を脱がれて着物を着られながら、不意にお尋ねになります。

「ねえ、私が前にお父さんと一緒に寝たのって、いつ頃だったっけ。ほら、カラユキのごはんを調べようとしてさ、一緒に寝てってお願いしたとき。覚えてる?」

「覚えてますよ。正確にお教えしましょうか?」

「大体でいいよ」

「3年ぐらい前です」

 正確には2年9ヶ月7日前です。

「私が何歳のとき?」

「6歳のときです」

「じゃあ、私今日で8歳なんだね」

「9歳です」

「そっか…」

 わたくしは一抹の不安を覚えました。教育らしい教育を受けてこなかったとはいえ、今日で9歳になるというのに、初歩的な算術一つ身についていないというのは、何とも心許ないものです。加えてこれからは旦那様という後ろ盾が消えてしまいます。危ういばかりです。もっとも即座に対応する暇も今はなく、なおざりにするしかありません。

 旦那様は食堂の食卓にいらっしゃり、お嬢様をお待ちになっていました。お二人が朝食を召し上がっている間に、わたくしは墓参の用意をしておきます。といっても供花も供物も準備できませんでしたので、桶に水を張り柄杓を浸すぐらいです。これらも墓石ともども無用の長物となるのでしょうが、どのように処理されるかは旦那様のご判断に委ねます。

 お食事がお済みになったのを見計らい、お二人を墓参に促します。心なし早足で奥様の偽りのお墓に達しました。

 これが最後とお思いでなくても、次が遠い先のことであるとはお考えでしょうから、お嬢様の合掌はいつもよりも一際真摯であるようにお見受けしました。

 お嬢様と異なり、何もかもが既知である旦那様とわたくしは、幾分苦い気持ちになります。そのせいでいささか距離を取ってしまいましたが、ここならお嬢様にはお聞きになれないことを幸いとばかり、言葉を交わします。

「頼んだぞカラユキ。必ずクグツを守ってやってくれ」

「心得ています。この身に代えてもお嬢様のことをお守りします」

「願わくば、お前も無事でいてくれ」

「心掛けましょう。お気遣いいただき、ありがとうございます」

 そのとき汽笛が聞こえてきました。

 聴覚を得たときより、のべつ幕無し耳にしている波打つ音に混じって、定期的に届いてたこの音に、きつく身を締められるような思いをしたのは、これが初めてのことでした。顧みるまでもありません。船が海を割ってくるのです。お嬢様を攫いに来たのです。わたくしを新たな戦いの場へと運びに来たのです。

 わたくしは旦那様に向き直り、一礼しました。

「行ってまいります」

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