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悪魔

作者: 月澄狸

 僕は今、生きる気力を無くしていた。明確な理由があるわけではない。何をやってもうまくいかなくて、もうなんだかめんどくさいのだ。

 昔から勉強ができず運動神経が悪く、歌とか絵とかの才能もなく性格も良くなかった。何をやっても叱られるだけで褒められたことなんてありやしなかった。表彰されるクラスメイトをいつも遠くから見ていた。

 ひょっとしたら、いつか僕も何かの才能に目覚めるかもしれない。そうしたらどんなに楽しいことだろう。自分の得意なことで人が喜んでくれるんだ。

「人を喜ばせるのが生き甲斐です」なんてこと、一度は言ってみたい。本気でそう思いたい。

 そんな淡い願いを抱いて今まで生き続けてきた。しかし人生が好転するような気配は全く感じられなかった。

 僕の周りの人はいつも困り顔でイライラしている。学生の時は勉強ができなくてもコミュニケーションが取れなくてもなんとなく自分の居場所は確保されていたが、社会人になるとそうはいかなかった。

「何をやっているんだ!」と注意され続ける毎日だ。

 最初は、多分注意をたくさんされるのなんて当たり前だし、自分なりに真面目に頑張っていれば他の人と同様に仕事ができるようになると思っていた。

 しかしいつまでたっても自分だけモタモタしていて注意され、やがて入ってきた後輩たちの方が仕事が上手くなった。

 怒られてばかりの僕は、「才能が欲しい」と夢みたいなことばかり考えていた。現実逃避なのだろうが本気でそうなりたいと思っていた。

 もっと本気で頑張ればいいじゃないかと思う人もあるだろう。現実逃避ではなく現実に本気になるべきだとは、僕も考えている。けれどこの現状が僕の本気の結果であり、精一杯やっているつもりである。

 仕事ができず謝り続ける日々が過ぎ、友達もいないし毎日が全く楽しくなかった。生きる意味が見出だせない。僕は結婚したいとも家や車が欲しいとも思わないし、食事もそんなに好きじゃないし趣味も無い。楽しめる要素が見当たらなかった。

 性格は悪いけれど人に嫌がられるのは好きじゃない。もし人に喜んでもらえる生き方が見つかったのなら、迷わずそちらへ向かうだろう。人の役に立つことをするだろう。

 でも見つかりそうにないから僕は人が嫌いになった。自己嫌悪からくる八つ当たりだ。何もできないと自分を甘やかしているだけだ。だけどそれでも構わない。何をしようがどうせ心の底から叱ってくれる人などいないのだから。

 そんなこんなで絶望した僕は、幽霊とか魔物とか、怪しげなものに興味を持った。

 普通に幸せに暮らしている人なら、気味悪がってあまり近づかない分野だろう。けれど僕にはこちらの方が魅力的に思えた。

 今、僕は失うと困るものなど何も無い。死んだって別にいい。というか、その方が楽だろう。何の役にも立っていないのだから。

 悪魔や悪霊に取りつかれようがドラゴンに焼き殺されようが構わない。だから魔物が怖いとは思わず、心霊映像などを見てはあの世や異世界を想像して楽しんでいた。

 だがそういったもので気を紛らわしても、現実という最大の恐怖は常に付きまとい、頭から離れることは無かった。

 夢を見ようが魔界に思いを馳せようが毎日朝はやってきて、もう逃げ場は無いと悟った僕は死ぬことにした。

 会社を辞め、少ない全財産をかばんに詰め僕はフラフラと旅に出た。空は青く風は心地よく、町の人は今日も変わらず行き交っている。学校に向かいランドセルを揺らしながら駆けていく子供たちを眺め、幼少期の自由な頃を思い出していた。

 こうして何をするでもなく漂っていられれば僕は幸せだ。それだけで満足だ。他にこうなりたいとかああしたいとか思いはしない。

 生きようと思えば食物や住みかが必要で、そのためにお金が必要で、お金が欲しければ働くしかない。蜘蛛の巣が中央から広がっていく様子のごとく、考えれば考えるほど必要な物は多く複雑な「生き方」の網が張り巡らされた。

 生きてさえいなければこうはならないはずなのだ。死ねば消えられるだろうか。それともひょっとして、また同じような世界が目の前に広がるだけだろうか。分からないが、賭けるしかない。

 僕は久々に自由に遊び回り死への時間を進めた。何も目的がなくしなければならないことも無いのは嬉しいことだ。死ぬのは苦しいかもしれないが高いところから飛び下りれば一瞬で終わるだろうし、消えてしまうのだから苦しみの記憶も何も残らないだろう。

 自分の死を惜しむ人もおらず思い残すこともなく、自分が消えても世界は動き続けることが約束されている。なんと清々しい自殺日和だろう。

 日が暮れ町が輝きを増し、電車には愛する家族の元へ帰る人々が乗っている。今日嫌なことがあった人も、楽しんでいた人も、家族とそのことで会話したりして新たな一日に備え眠りにつくだろう。

 賑やかな町の片隅にはネコの腐った死骸があり、それも含め町は妙に美しかった。

 世界には悪役や犠牲者がいる。物語において主人公の意思をより明確にする働きを持つ。僕らが誰かの目に止まることはないだろうが、それでも何らかの意味を持つと信じたい。

 車にはねられたネコに野草の花を手向けた後、僕は目についた高い建物の階段に足をかけた。気持ちいい恐怖が込み上げ、しかし表は冷静に、たんたんと歩を進めた。

 もうすぐそこに、憧れの死が迫っている。振り返る理由など何も無い。最上階にたどり着いた僕は、乱れる呼吸を整えることもせず昇りきった勢いのままそこから身を乗り出した。地上はぐんと遠く見え、鳥肌が立った。

 僕は空を見上げ、光り始めた星々を一瞬眺めた後、目をつぶり体を前に傾けた。

 フワッと天地が逆転し、体が浮いた。それは今までの人生で経験した恐怖を全て合わせたような感覚だった。大事な大事な書類を無くした瞬間とか、間違って人に傷を負わせてしまった時の様子が、白昼夢のように頭に浮かんだ。次の瞬間体は地面にぶつかるだろうと身構えたが、なぜか痛みは感じず、風をきって落ちてゆく感覚も途絶えた。

 もう死んでしまったのだろうか?だとしたら案外簡単だった。こんなもんで済むのならまぁ、何度でも死ねそうだ。

 いや死んだ後どうなるかの方が問題か。僕はおそるおそる、しかしワクワクしつつ目を開けた。

 僕はさっき昇った建物の下に、手をついて座り込んでいた。辺りは暗くところどころ明かりがつき、先程と特に様子は変わっていない。僕は幽霊になったのだろうか。

 立ち上がってみると特に痛みは無く、体の変化も無いようだった。

 しかし改めて町の様子を見てみると、何かが若干違う気がした。信号が放つ光の色や、走る電車など見覚えがあるはずだが別の物のように見え、空間がよじれて裂け得体の知れない物がはみ出していた。ゲームのバグのようで、自分というより世界が死んだようだ。

 そして突然、僕の前に大きな翼を広げた生物が現れた。角があり、尻尾も生えている。目は赤く獣のように鋭いが全体的に人間の形をしていた。悪魔だと僕は思った。

「こんにちは。あなたは悪魔ですか」と聞いてみると、彼女は

「驚かないのね」と呟いた後、

「ええそうね、悪魔よ」と答えた。

「あなたは死のうとしたのね」と今度は悪魔の方から聞かれたので僕ははいと答えた。

僕は悪魔にも興味がある。生きているとなんだか善悪があやふやで悪の定義がもやもやしていて納得のしようがないことだらけだったが、絶対的な「悪」である存在を見れば逆に真理が見える気がした。

 悪魔がどんな悪いことを言ってくるのかと僕は待っていた。意味不明な状況だが、不安定な「生」を捨てたのだからもうどうだっていい。

「あなたって本当に自分のことしか考えない人なんでしょうね」と悪魔は言った。

「あなたに食べられ続けた動物たちは、生きたくても生きられず、死にたくても死ねず苦しめられたことでしょう。なのにあなたは彼らの命を踏みにじってなんとなく生き、なんとなく死んだのね。感謝も罪悪感もなく」

 悪魔が冷たく言い放った言葉を聞いて、なんだか悪魔のくせに正論のようなことを言うなと僕が思っていると、悪魔は急に笑った。

「完璧よ。あなたは悪魔になる素質がある。どうしようもないくらいの悪人だわ」

 それを聞いて僕が

「でも人殺しとか盗みとかしたことは無いし、そこまで悪人でも無いんじゃないですか」と言うと、彼女は

「いいえ。スパッと殺しとか盗みとかやっちゃうような人は、かえって簡単に改心しちゃったりするものよ。その点あなたのような、何もできずグダグダと汚い言葉を吐くだけの人間はいい悪魔になるわ」と答えた。

「だいたい悪魔はカッとなって手を出すとかそういう存在じゃないわ。盗みや殺しをそそのかすことはあっても、自分では滅多にやらない。悪の言葉を囁いて、人を悪の道に引きずり込むのが仕事なの」

 僕はそれを聞いて感心した後、ふと疑問に思った。

「何のためにその仕事をやっているんです」

「何となくよ。だって面白いでしょ」彼女は答え、そして

「あなたに悪の言葉を囁いたのは私よ。おかげであなたの思考は悪に染まったわね。死ぬとまでは思わなかったけど」と言った。

「悪の言葉を囁いた?僕は君に会ったことはないと思うんだけど」

「悪魔は姿を見せず人に忍び寄って、囁くこともあるの。見えたり聞こえたりしていなくてもちゃんと効果はあるわ。現にあなたは私たち魔物に興味を持ったでしょう」

 なるほどと僕は思った。

「僕は悪魔になれる素質があると言ったね。どうやったら悪魔になれるの?」

 質問すると、彼女は

「教えてあげる。ついて来て」と答えた。

 その日から僕は彼女について行った。不気味にうごめく町には黒い影や大きな生物のようなものがうろついていて、それに混じり普通の人間も歩いていた。

 普通の人間は普通の景色を見ているらしく、周りの魔物には気づかない様子で歩き続けている。そんな人間たちにまとわりつき、悪魔は優しく声を掛けた。

「人のことなんてどうでもいい。自分のためだけに生きなさい」

 僕は彼女の言葉を聞いて、

「それって悪いこと?」と尋ねた。悪魔は、

「人が思いやりの心を捨てるのは悪よ。素晴らしいことなの」と笑った。

「悪にも、正しい悪とか間違った悪とかあるの?悪のつもりで悪じゃないことをやっちゃったりする?」

「悪だと思うことなら全て悪よ。正しさなんて悪には無い。人によって違うんだから、自分が悪だと思うことをやればいいの」


 僕は死んだんだか何なのか分からないが、どうも現実の世界からは見えない存在になったらしい。そして僕には異世界が見える。

 今まで見えていた現実の世界は時がたつ程崩れ歪み、不安定な世界の中己の信じる世界のみを見てひたすら歩く人間の姿は儚く見えた。

 僕は現実の世界から消え去り、歪んだ思想ゆえに魔物となることを許されたようだ。この間まであった体の感覚が軽くなり、全ての疲れが吹き飛んだ。

 なんだか面白そうだし、なれるのなら悪魔になろうと僕は思った。悪の美学を追求し気の向くまま人間を翻弄しよう。そう決意すると僕の体は変化し、背中には黒い翼が生えた。角や尻尾も生え、悪魔になったのだ。

 僕はとりあえず飛び回ってみたくなった。地を蹴り背中に力をこめ、勢いよく羽ばたいた。練習などが必要かと思ったらそんなことはなく、思った通りに体は宙に浮いた。

 この間息を切らして昇った建物を軽々と越し、高く高く舞い上がった。

「どこへ行くの」彼女は笑いながら後をついて来た。

 空へ上がると、人が建てたおぞましい数の建物が揺らぎ、何かを睨むように光っていた。

 ここも遠い昔は森だったのだろう。消えた風景の幻が現代の風景に重なって見え、忘れ去られた妖怪たちが姿を現した。

 死ぬのは人間や動物だけではないのだろうか。今見ているのは景色の幽霊のようなものなのだろうか。

 かつてあった山々、美しい川が時折鮮やかによみがえっては消え、アスファルトの網の底に沈んでいった。

「悪は誰のためにあるの」僕は彼女に聞いた。「悪は自由よ。何をしてもいいし何もしないのもいい。全てのことを悪く言うことができる。悪く考える心こそが悪なの。だから誰のためでもいいのよ」彼女は答えた。

 一見美談にされていても、全てのことに悪は潜んでいる。皆、いじめは良くないと気づきつつ社会全体で動物いじめをしている。

 誰にも知られず馬や犬猫が処分され、牛豚鶏は悲鳴をあげ、狐狸の毛皮が着られる。そんな狂った世界の中、人は己の身に起こる事のみに理不尽だと怒り他人の悪口を言ったり己の正当性を訴えたりする。

 爽やかな顔で夢は叶うだの努力は報われるだの言う人もいる。いずれにせよ動物や精霊には物申す権利など無く、星は汚れ精霊たちにとっては住みづらいものとなり、人間のみの考えで世界を変化させている。

 そして人間の中にも生きにくいと感じる者がいる。夢も希望もなくどうなれば幸せなのかも分からず、ただ波に流されるように世のシステムに合わせ生き続けるゾンビのような人種だ。

 人から言われたことをやり続け人に合わせて右往左往するだけで人生が終わる。戦争が正しいと言われればそうだそうだと同調し、平和を目指そうと言われればその通りだとついて行き、どこかで誰かが言った言葉を覚えそれを繰り返し、自分の意見と見せかけるだけである。

 何か違うようだが正解も見えずため息をつくばかりで、全く違うどこかへ行ってしまいたいと思う人もいる。そんな人を見つけては

「やりたい放題やれ」と言ってやった。


 今日もいつの間にか朝が来て、太陽が上り小鳥が鳴き出した。カラスがゴミをあさり人は駅に向かい、散る命があることになど目も止めず同じことをまた始める。

 今日もどこかの国で衝突があるだろう。こちらから見える景色はどこまで行っても朝で、遠い国の夜に思いを馳せる余裕などはない。

 飛び回ると朝から交通事故で亡くなる者がいるのを見た。その魂はどこか別の所へ行ったらしく見当たらず、人によって死後の行き先は違うらしいと知った。

 朝から人助けをしている者もいた。人助けなら立派なことだから、それで遅刻したとしても怒られはしないだろう。

 動物助けなら怒られる可能性がある。車にひかれ放っておかれる狸は皆に見捨てられ絶命し、何事もないように人は動き続ける。いちいち彼らに構っていてはキリがない。

 木が折れてるとか虫が羽化に失敗しそうだからなんて理由で立ち止まる者は皆無であろう。そんなことで足を止めていたら一歩も前に進めない。頭がおかしい、狂っていると思われる。

 ところが虫助けをする人もいるようで、車道にいる幼虫を草の上に乗せている者がある。

 人は普通どこかで自分と他者の間に線を引く。人が死ねば動揺するが、ネコや鳥の死骸を見かけるたびに同じ気持ちになっていたのでは身がもたない。しかし哺乳類鳥類の味方はまだ多い。

 体長2~3ミリの小虫の死骸を見るたびに悲しむような人はいないだろう。道草や微生物を踏み潰すことに悩む人もいないだろう。世界は墓場だ。どこかで他者を他者と扱わねば生きてすらゆけない。

 全ての命が同じなどと思ってはいけない。だいたい同じと思って虫を助けようとしたところで、人間の感覚で手を出しているのだからそれが虫にとって本当の幸せかどうかは知るよしもない。

僕は虫助けをする珍しい人間を見つけて、

「あれは悪だろうか」と呟いた。隣で翼をはためかせながら、彼女は

「善意でやったなら善よ」と言った。

 見て見ぬふりをし、我が身を守り生きる偽善者たちを、世界は怪しく優しく許容し地上を明るく照らした。僕も彼ら偽善者に

「思いのままに生きよ」と囁き続けた。自らの罪に目もくれず自分は真っ当な人間だと信じて疑わない彼らは今日も仲間と笑いあっている。

 人が全ての罪を本気で背負ったのなら、苦しみのあまり胸はつぶれてしまうだろう。だから悪でいいのだと、僕は人々に囁いて回った。

 彼らは受け入れられる分だけ考え、自分の生活を守っている。その偽りの笑顔を愛おしいと感じた。笑って生きていればいいと思った。


 どうも悪魔になると腹が減ったり疲れたり眠くなったりしないらしい。僕が彼女に

「いつから悪魔でいるの?」と聞くと彼女は

「分からない」と答えた。確かに時間の感覚も無くなっていくようだった。

 好きに遊び回った僕はなんだか人が好きになった。怒られてばかりだったこともいい思い出とさえ思えてくる。人も皆虫や草のようなもので、生態は面白い。役割としては宿主の体を破壊する病原菌や寄生虫のようだが、そうとも言い切れないところが興味深い。

 なんとなく今日は、動物園へ行ってみた。動物たちはオリに入れられ人間は自由に歩き回って動物たちを見ていた。

 こんな小さい世界に閉じ込められるだけでも嫌だろうに、クマもゾウもライオンも毎日人々にジロジロと見られ好き放題言われ大した娯楽も無い。気の合わないやつと無理に結婚させられそうになる者もいるようだ。

 戦争時代には銃や毒で殺されたり栄養失調で亡くなったりした動物も多かったらしいが、こんな状況でも最後まで生きた方が幸せなのだろうか。

 しかしこの時代も永遠のものではなく、ひとときの夢でしかないのである。差別を楽しむのは今しかできず、やがて新しい時代となるのだ。

 動物園を抜け小学校を覗くと、クラスでささやかないじめを受けている子がちらほらいた。ささやかどころかすごく激しいいじめを受けている子もいたが、いずれもいじめっ子は先生に気づかれない所でのみ行動を起こしている。

 先生たちは鈍いというより忙しく、いじめにまで気を向けてはいられないようだ。日本人は基本的に忙しく、あまり幅広く目を向けてはいられないようで、やるべき事を押し付けあっている。

 クラスの人気者や明るい子たちはたくさん話して遊び、おとなしい子は賑やかさに圧倒され隅で縮こまっている。

 悪魔的視点から見ればこの世は実に不平等だ。アンバランスでいびつで、何かを守り抜こうとして規則だの伝統だの言っているがそのせいで犠牲者が出ているなんて思っちゃいない。

 訳の分からないところに理屈をつけ必死になるが致命傷には気づかない。身の周りのわずかなスペースしか見えていない。

 すぐそばにエサがあるのに気づかないアリのようだ。巨人というものがいたのなら、人間だってまどろっこしい動きをするアリに見えるだろう。

 しかしエサにたどり着くことが全てというわけでもなく、遠回りすることで見える道も楽しみ方もある。この不平等を克服し一歩を踏み出したときに人は感動できるのかもしれない。感動している場合じゃないとも言えるが。


 ぼんやりと旅をしているうちに何日も過ぎたようだ。政治遊びに参加し働くことを求められる世界においては、皆があくせく働く中こうしてやる気なくぼんやりとしている事は悪と言えよう。

 人間は「やらない」ことの重要さを知らず何かやるべきだと思っているようだ。もちろん食べなきゃ生きていられないしやる事はあるが、無駄に労力をかけている事も山ほどあるだろう。また、逆にやらずに済んだこともあるわけだ。不発に終わった事故事件の予定もあり、そのシナリオは静かに闇へと葬られた。ここはもっと評価すべきだと思うのだけれど、起きなかった事について知る人は少ない。

 ただ何も無いのもつまらないことだ。何かいつもと違うことが起こってほしいと願う人もいて、身の周りの人が亡くなったりして悲しみを演じる自分の姿に酔うこともある。

 自分から罪になるようなことをしたくはないが人がやるのには少し興味を抱いたりする。自分よりもっと悪い人がいると安心したり、悪口を言う対象にして気を紛らわしたりもするし、純粋に見物だと楽しむ者もある。

 そんな悪しき好奇心を称賛し、日々何事かを起こすこの世を祝いつつ僕らは飛び回る。悪の讃歌を地上に響かせ人々の心を守っている。

 悪は息抜きとなり時として人の命を救うことさえある。だが人は善を目指す。善と悪は裏表なようで境目が見えない。実質追求すれば同じものなのかもしれない。

 競争社会は大人も子供も巻き込み人々を焦らせて、今日も日が上る前から一斉に群れが動き出す。人混みは群れのようでバラバラであり一定の秩序は保ちつつ皆無関心で、どこかへ向かうことにのみ気を注いでいる。

 これだけ人が集まっているのだから仕事なんて放り出してもっと楽しいことをすればいいのにと思うが、朝の孤独な群れは無表情でそんな事を考える気力は無さそうだ。

この中にどれだけの可能性が秘められているのだろう。ひょっとすると自分の心をつかんで離さないような、見たこともないすごい考えを持っている人間がいるかもしれない。大親友になれる人がいるかもしれない。それでも一心不乱にどこかを目指しすれ違うのみである。

 競争なんて小さい頃はかけっこぐらいで済んでいたが、大きくなればテストの点数を他の子と比べられ順位が決まり、受験では他生徒に勝つ学力を求められる。誰かが望む所へ行ければ誰かが負けて泣くだろうに、静かに戦わせられるのだ。

 就職しても他社より優れた物を作らねばならず競争は延々と続き、競争したくないなどと生易しい事を言っていれば負けることとなる。利益を得て社会を回し成長している。

 そうまでして追う成長が良いものなのか、成長なんて本当はしていなくてただ右から左へ意味のない変化を続けているだけなのか。この先地球は滅亡するのかもしれない。


 日が上っては沈み、建物が建てられ壊され、人が生まれては死んでいく。ある時

「だいぶ悪魔らしくなったわね」と彼女が僕に言った。

「特に何もしていないよ」と答えると、

「何もしないのも立派な悪。ほら、今日も皆悪の道を進んでいるでしょ。これで十分よ」と彼女は笑った。

「そうだね、これでいいよね」僕も笑った。

 夕日は優しく皆の悲しみに影を落とし、全てのものが温かい光に包まれた。

 オタマジャクシをヤゴが追い、トンボの死骸がアリに食われ、アリジゴクにアリがかかっている。カゲロウは儚げに飛んでいく。カエルをヘビが追い、カラスがザリガニをつつき、雨上がりの草原ではカナヘビが水を飲む。春夏秋冬はまるで一瞬のことのように過ぎ去り、春に戻れば新しい命が芽吹いた。

 食い食われる者たちの宿命を、いつの日も我々は見守り続けた。残酷な優しさで全てを愛し、悪であることに誇りを持った。

 人間は肉を食べなくても生きていけるらしいが、そんな事は日本では習わず全ての栄養を取れと言われる。

 ベジタリアンになろうと決意すればできるだろうがその勇気はなく、必要のない殺生を続け食品ロスも出している。

 快感、美味しさを味わうためだけに動物を殺し、これは必要なことなのだと子供たちに教え「いただきます」を言って命に感謝するのだと言い続け社会はいじめを容認する。

 人は人をいじめてはならない、殺してはいけないと強く言い聞かせ、しかしスポーツなどでルールを守って戦うことを強制する。

 学校でドッジボールや競争、スポーツをやりたくなくても無理にやらされる。我が国の文化は正しいと言い張るように、子供たちに「やるべき事」を押し付ける。

 教育とは何なのか。自分の意見を押し付けることか。

 正しいと自分が思うのは構わないが、それぞれ皆考えが違うのだから、一人が正しい事だと思い込んでいるものを皆にさせても上手くは回らない。ヤマトシジミはカタバミを、モンシロチョウはキャベツを食べて育つからこそ歯車は上手く回るのだ。己の正しさを信じて疑わない事も悪の道の一つである。


 僕が悪魔になってから大分時が経ったようだ。「なんだか悪魔のイメージが変わったよ」僕は彼女にそう話しかけた。

「悪魔ってもっと悪いものだと思ってた。一言聞けば『ああ、悪だな』って分かるような明らかに悪いことしか言わないと思っていたんだ。そりゃどんな事も悪だと言えると思うけど、思ってたより優しいものみたいだね」

 彼女はニッコリ笑って言った。

「悪は優しいものなのよ。心地のいい言葉ばかり言って、人の成長を止めてしまうの。悪いように聞こえる言葉の方が、かえって善の性質を持っていたりするものよ。物語の悪役が、主人公の善の心をより引き出してしまうようにね」

「そうか。悪だと思う事を言っても悪が広まるとは限らないんだね」僕は納得した。

 悪魔になってから随分ヒマになり、今までよりじっくりと景色を見るようになった。早く家に帰らなきゃとか、時間の無駄だとか考えなくて済むようになった。

 カラスウリの花や実の美しさに見とれたり、ヤモリの目が暗い所と明るい所とで変化する事を知ったり、イタチの気の強さに感心したりと、まるで子供のように時を過ごした。

 大人になると休日であっても明日は仕事だからとか雑念が取れる間がなく何も楽しめなかったが、今は違う。

 今日も僕は、オオマツヨイグサの花が開く瞬間を眺めたりして遊んでいた。ヒマなのが嫌いな人もいるだろうが、僕はヒマが大好きだ。花は微かな音を立てて開き、香りが辺りに広がった。

 僕は悪魔になってみて、絶対的な悪など存在しないと分かった。自然がバランスを保とうとする行為は災害と呼ばれ人の命を脅かし、人の幸せのための発展は自然破壊を伴った。

 植物を育てる人にとってはアブラムシが悪で、アブラムシにとってはテントウムシが悪と言えるだろうが、そうではないとも言える。

 悪に見えるものが一つあってそれが無くなればいいと思ったとしても、それは他の存在と密接に関わっていて無くしてはならないものかもしれないのだ。

 全てのものが存在することで絶妙なバランスを保っているのであり、迂闊に無くしてはならないのだ。とはいえやってみなければ分からない事も多々ある。

 人間が安易な考えで右から左へ移した生物たちが人間の思惑とは違う方向へ働き、外来種と呼ばれ処分の対象となった事もあるらしいが、おかげで人は考えることになった。

 知らず関わらず一切手を出さない事が正しいとも限らない。時には傷つけつつも、なんとか関わってみようとしたからこそ築けた関係もあるのだ。

 今、UMAを追っている人々がいるがこれだって善とも悪とも言える。静かに暮らしている彼らを、捕らえ檻に入れ人前に引きずり出す事が善とは到底言えない気がするが、新しい関係の始まりでもあるのだ。

 犬や猫だってひどい扱いをされもしたが、着実に人の仲間となりつつある。人が動物の命について考える重要なきっかけの一つである事は間違いない。

 ここまで考えて、僕はくすりと笑った。人間だった時間は短かったしそんなに人間らしくもないつもりだったけど、やはり僕の心は人間であり、人間に偏った考えしかできないのだ。

 もっともっと広い視点で見ることもできるはずだが、人間以外の見方になかなか気付けないでいる。悪は奥が深いと思った。

 今日も車道で狸がひかれ死んでいる。町中ではネコの死骸の方がよく見かけるが、交通事故死する動物は狸が一番多いとどこかで聞いた。どこからどこまでを動物と捉えたデータなのか分からないが、狸は車のライトを見て驚いて立ちすくんでしまったりするそうなので、確かに死亡率は高そうだ。人間が目にする動物の死といえばこうした野生動物やペットのものが多いだろうが、今も肉にされる動物たちはひっそりと命を落としている。

 動物たちは生きたまま解体されることも多いらしく、その苦しみは想像を絶し、見る者の善悪感を狂わせる。牛は死の直前に涙を流すこともあるらしい。

 毛皮にされる動物たちは劣悪な環境の中で育ち生きたまま皮を剥がされることもあるそうだ。

 殺処分される野良犬などは毒ガスによる窒息死で、決して安らかな死ではないという。中には毒ガスでは死ねなかった者もいて、生きたまま焼かれるそうだ。

 これらの死を深く知る者は少なく、僕もあまり知らない事である。誰もが関わる食に関する死でも、あまり深く普段から考えたりはしなかった。けれど最近は話題に上ることが多く、人類の視点が広がったことを示している。


 植物の命はどうなっているのだろう。我々と同じく生きている存在なはずだが不思議な生命力を持っている。いや、僕もなんだか妙な事になっていて、生きているか死んでいるか分からないのだが。

 ウキクサは一枚の葉のようなものからどんどん増えバラバラにしてもまた増え出すし、木の枝は地面に挿せば根が生える。

 葉から子株を出したり接ぎ木ができたりとそれぞれに特徴があり、一本の草の命が一人の人間の命と同じなのかどうか分からない。

 基本的に食べられてくれる存在でありつつある者にとっては毒となったり、また栄養を補うために食虫能力を身に付けていたりと実にバリエーション豊かだ。薬になったりもする。

 植物が一本枯れてもそれは死ではなく、一つの種に一つの意思があるのかもしれない。我々とは全く違う世界観を持っているかもしれないし、案外分かり合える部分があったりするのかもしれない。

 もし植物とコミュニケーションが取れるようになったら色々と聞いてみたいものだ。


 最近は時が進んでいるのか止まっているのか分からない。相変わらず人間界では動物実験が盛んなようで、人体に影響が出ないかどうか、さまざまな薬物を動物たちに投与して確かめている。

 寄ってたかって小さな体の動物たちに負担をかけっぱなしだ。一方では弱い者いじめはいけないという認識が広まっているが、動物実験をやめるという発想にはたどり着きそうにない。せっかく進歩した技術なのに今更手放し後戻りする事はできないのだ。

 しかし一方で全く違う景色がふっと見える事が増えた。以前からこちらの世界は不安定な見え方だがより時空が歪んだようになり、見渡す限りの大自然が目前に広がったり、爆弾を落とす飛行機や燃える家々が見えたり、目の前が真っ暗になったりした。

 ある時映画館に入ってみると、それは見たことのある映画だった。しかし所々ストーリーの進み方が違い、見たことのないシーンが出てきた。そして最後には全く違う展開になった。

 町で見かけたテレビでは若くして亡くなったはずの歌手がまだ出ていて、亡くなった年齢を越えていた。

 他にも、全く見たことのない番組が多く流れ、よく知っている歌の歌詞が変わり、国民的アニメのキャラクターデザインが変化していた。

「ひょっとしたら、僕はまだ死んでいないのかもしれないな」なんとなくそう思った。

 僕はあの日、死のうとした夢を見ていたのかもしれない。目を覚ませばあの時の事は全部夢だと分かり、長い夢だったなと思いつつやがて全てを忘れるのかもしれない。

 いや、建物から飛び下りたところまでは本当だけど実は死なずに生きていて、病院のベッドの上で眠ったようになっているのかもしれない。

 あの時は自分の死を確かめようという発想はなく、自分の死体も葬式も見ていない。だからもう確かめる術は無さそうだ。


 恐竜たちの住む森が見えたり未来の町が見えたりする事もあったが自分の軸は自分が生きていた時代らしく、やがては見覚えのあるあの時代へ戻った。

 どうやら時間は基本的に止まっているようだが世界は動き季節が変わり、壊れたCDのように同じ映像を何度も映し出しているようだった。

 あるいは主人公が年をとらないアニメやマンガのようだ。しかし時は止まったまま何かがずれていく。店の看板には見たことの無い言語が表記され、馴染みのある道具が全く違う形に変わり、構築された歴史が歪み始めたようだった。

「人が違う進化の方法を選んだら、世界はどうなっていたか。そんな別の世界が見えているのよ」彼女はそう説明してくれた。

「今は流れに身を任せるしかないだろうけど、いずれ感覚がつかめてきてどんな世界にでも行けるようになるわ」

「どんな世界にでも?」僕は聞き返した。

「そうよ。死んだはずの人が死んでいなくて起こったはずの事が起こっていない。作家は売れなかったはずの本を全く違う展開にしてベストセラーにしているし、画家は有名な作品を全く違うものとして描きあげている。男として生まれるはずだった人は女を選び、ある夫婦の元に生まれるはずだった子が違う親を選ぶ。どんなパターンも存在するのよ」

「まだ僕が生きている世界もある?」

「ええ、あるわ。外見も人生も全く違う自分もいるの」

「そうなんだ」僕は驚いた。

「人殺しは一つの悪だよね。けれど、殺されたはずの人が生きていて、人殺しになったはずの人が殺すのを思い留まっている世界もあるんだね」

「そうね。全部実在するわ」彼女は面白そうに言った。

「一つは本物の世界で、他の全部は偽物の世界なの?」僕が聞くと、彼女は

「全部本物よ」と言った。

 つまり善悪とは何だろう。やってしまった事が悪でやらずに済めば善だとしても、やってしまった自分もやらなかった自分も存在するのだ。どちらかが本当でも嘘でもない。いや、両方真実なのだという。

「私たちは悪へ導くのが仕事。だけど全ての世界を悪の方へ振り向かせることはできないわ。また、何もしなくても半分は自動的に悪の道を選んだことになるわね」

「なら僕らはいてもいなくても変わらないんじゃないの」

「いることに意味があるんじゃないかしら。何をしても全ての道を選ぶことになるけれど、存在しなければ何も始まらないわ」彼女はよく分からないことを教えてくれた。なので僕はしばらく悪魔の存在意義について悩むこととなった。

 だが悩みというのは長く続かないもので、流れ星を数えているうちにどうでも良くなった。人間が存在しない世界とか天国とかファンタジーの世界とか、行き先を決めればどんな世界でも見られるらしく、面白いので練習してあれこれ覗いてみた。

 まるで映画の中に入るみたいだ。ドラゴンが出てくる映画でもドラゴンの設定がそれぞれ全く違うように、慣れれば違う設定の世界へ行けた。しかも自分で設定ができる。

 僕は思い付く限りのさまざまな世界を楽しんだ。不思議な家を出したり違う進化をした動植物を眺めたり、幽霊たちのパーティーやマンガの世界に飛び込んだりもした。

 元の世界に戻って、想像を膨らませたりもした。生き物が食い合って栄養を取る必要が無くて、国境が無くて、死の恐怖や暑さ寒さのない世界が目の前に広がった。

 動物たちは宙を駆け他種の動物たちとじゃれ合い、人々はゆったりと散歩をして笑い合っていた。生存競争は地上に存在せずお金もなく、全てが自由で温かい光に包まれていた。僕はその光景を、いつまでも見ていた。

 争いをやめた人々の楽しみは何なのか。まずしっかり思い描かないとその世界を見ることができない。僕ははっきりと天国のような世界を思い浮かべた。

 スポーツは無くなるだろう。バトルのゲームや勝負事も無いだろう。あれこれ取り除いては付け足し、見たかった世界を実現させた。

 そして僕は悪の素晴らしさを再認識した。悪は全ての命を認め許すことなのだ。食い合うことや差別や偏見があってもそれを否定し倒すようなことはない。それが究極の悪であり善の極みでもあるのではないだろうか。

 フワフワとした温かい世界を飛び回っていると、目の前に翼を広げた生物が現れた。頭の上には金の輪があり背中の翼は白く鳥のようだった。そして全体的にそれは人間の形をしていた。

「天国へようこそ。悪魔さんたち」舞い降りた天使が微笑んだ。

「こんにちは」と彼女が挨拶し、僕も

「やあ、天使さん」と笑顔を返した。

「素敵な世界だね。君はいつもここにいるの?」僕は天使に尋ねた。

「そうです。貴方はここを素敵な世界だと言ってくれましたが、どこを気に入ったのでしょうか?」天使も質問をしてきた。

「支配や争いが無いみたいで、良いと思ったんだ」しばらく考えた後僕が答えると、

「ここは悪いものが消えた世界ではなくて、悪いものが進化した世界なんですよ」と天使が教えてくれた。

「最初は悪だと思われたことも、後になれば善の効果が現れたりしますよね。その逆にもできるのですが、ここは悪のものが善に到達した世界なのです」天使はそう言って笑った。

「水は空に昇れば雲と呼ばれ、降り注ぐ時は雨と呼ばれ、冷えれば氷となる。善悪だって一時その役割をしているものであって、永遠のものではないんです。誰かにとって悪となっても他の視点から見れば善であり、完璧の悪にも完璧の善にもならないんですよね、きっと」

「つまり、善も悪も無いってことかな」

「悪と言えば悪、そうじゃないと思えばそうじゃない。信じれば存在するけれど本当は無いのかもしれないわね」

 善も悪もペガサスやグリフィンのような架空の生物と同じなのだ。ペガサスは僕がいた世界には存在しなかったけれど、たくさんの人がその名を知っていた。存在を信じているのとは違うだろうけど、芸術作品の中などで確かな概念を持ち姿を現していた。

 本当は無いのにあると信じている事はたくさんあるだろう。習っている歴史は全部間違いかもしれないし、国境だって動物にとっては無いかもしれない。

 生きている、自分がここにいると感じることすら思い込みかもしれない。自分が赤だと思って見ている色が、実は赤ではないかもしれない。

 人が二人だけで話している時でさえ、上手く通じ合わない事があるのだ。それが何十億人にもなれば誤差や価値観の違いがたくさんあることくらい当たり前である。

 我々にできる事は、無限に視野を広げあらゆる可能性を信じることくらいだ。

「じゃあ、自分さえ良ければいいなんて考え方も、間違っているわけではないのかな」

「人の為に犠牲になったり何かしたりしても、それが人の為になるとは限らないからね。結局人は、自分の思い込みでしか動けないのだから。なら自分の為に生きるのもアリなんじゃないの。自分が喜んでくれることを確実に知っている人は自分しかいないしね」彼女はそう言った。

「おや、悪魔くん。どうやらもう少し、続きが残っているようですよ」天使は何かを見つけ、僕に言った。何のことだか、僕はすぐに分かった。

「また、戻っておいで」彼女が言う。

「姿は見えなくなるけど、私は貴方の側にいるわよ」

「今度は天国でももっとゆっくり過ごしていってくださいね。ではまた会いましょう」二人は僕に手を振った。僕も手を振り返し、ゆっくりと目を閉じた。


 随分と長い休息だった。僕が目覚めた場所は高い建物のてっぺんで、壁にもたれかかっていた。空では星が瞬き、あれからちっとも時間は過ぎていないのだと知った。

 きっとあと数十年生きるだろうが、長いとは感じなかった。僕は息を吸い込み、生きている感覚を久々に味わいつつ階段を降りた。

 それから僕は、バイトをしながら文章などを書くようになった。文法も段落も全く分からないがまぁそれでもいいんじゃないかと思ってインターネットで公開した。

 そして、世の中には実に様々な考え方をする人がいるのだと分かった。皆哲学をしているのだなぁと思うと、なんだか楽しくなった。反応を返してくれる人もいる。

 頑張って生きることもできるけど、生きるのはそんなに大変なことじゃないと思えるようになった。自分にとっては大変じゃない方が楽しいからそれで良いと思う。

 人の文章を見たり自分の作品を出したりしてささやかな交流を楽しみつつ、四季の変化を感じゆったりと時を過ごした。朝はキジバトの声に耳を傾け、夕方はコウモリを眺めた。


 最近は音楽でも本でも、身近な人との会話でも深いテーマになったりして面白い。物やシステムだけでなく人の本質に迫る時代が来たようだ。

 僕はあれこれ考えるのは好きだけど人間との会話になるとどうも上手くいかなくて、相手を怒らせてばかりだ。身の回りの人は皆大人で、しっかり自分の意見を言えてすごいと思う。

 今まで自分は傲慢な態度ばかり取ってきたと反省した。これからは無闇に自分の考え方を押し付けないようにしようと思いつつ、あまり上手くできないでいる。

 けれど別に上手くいかなくても良いと思う。と、言うと僕に迷惑をかけられている人に失礼だけど、焦ればできるというものでもない。

 僕はじっくり考えて書ける文章が好きになり始めた。直接人と話すと失言をしてしまったりするけど、文章なら自分のペースで言葉を出せる。

 また、色々な人の考え方を知りたくて本などで少し調べた。アスペルガー症候群について調べた時は、詩的な独特の感性を持つ人たちの話を見て感動した。違う世界が見えているのではないかと思った。

 半陰陽の人がいると知った時は、男らしさや女らしさについて考えた。男と女は別のものではなく、皆男らしさも女らしさも持てればいいなと考えた。

 虫の生態について調べた時は、本当に色んな虫がいると思った。擬態をする虫は鳥のフンや木の葉に姿を似せているけど、虫は鳥や木の事を見ていて知っているんだろうかと不思議だった。

 全ての生き物は進化をしてきたらしいけど進化は誰が考えてどうやってしているんだろう。自然の綺麗な形はどうしてそうなったんだろう。綺麗だと感じる事に理由や意味はあるんだろうか。

 興味は尽きず、僕なりに色々な事を考えるようになった。科学とか専門的な事は分からないけど、こうしてぼんやり考えるだけなのも良いと思う。


 近頃周りの人に

「少し丸くなったね」と言われる。攻撃的なつもりは無かったけど、穏やかに過ごせているのなら嬉しいことだ。

 最近は死後の世界について考えている。僕が見ていたあの世界は死後に行ける所だと思うけど、もっとたくさんの行き先があって皆違う所に行くのだと思う。

 そして皆、生まれ変わったり、新しい場所で新しいものになったりすると思う。僕はもう、死んだ人が消えて無くなるとは思わない。

 人は回遊魚のようにあちらへ行ってはこちらへ戻ると思う。その考え方の方が面白いから信じている。

 もし人生が一度きりなら、生まれてすぐに死んでしまった子や、殺されるために生まれてくる動物たちの命は悲しすぎると思う。努力して報われることも無く、夢が叶う事も多分無い。それで終わりだとしたら理不尽すぎる。そんなんじゃないはずだ。

 死んでしまっても、皆必ずどこかにいると思う。大好きな人にまた会うこともできるし、殺した命とはきっと向き合う時が来る。殺したり殺されたりしたまま終わることは無いと思う。

 以前に考えた植物の命のことを、僕はまた思い出していた。プラナリアとかプランクトンたちもそうだけど、切られても二つに分かれて両方生きているものがある。彼らの命はどうなっているんだろう。

 僕は一つの種に一つの命があると思ったけど、実は動物も植物も地球も宇宙も、全部で一つの命なのかもしれない。ある種は滅びある種は進化して二つに分かれ、そんな事を繰り返しながら皆で生きてきたのだろう。滅びた種にも役割や意味があったはずで、おかげで僕らが生きている。

 だから僕たちが生きる理由は種の保存ではないと思う。いつか自分の命を保つために他の命を奪う事をしなくなって、本当に皆で一つの命になると思う。

 まだ分からない事も多いけど、ちゃんと最後まで生きて楽しむつもりだ。途中で嫌だからと投げ出しても、続きはまたやってくる。

 ちゃんと納得してどんな人とも向き合えるようになりたいから、今日も僕は文章を書いて皆と話をした。そして、隣で見守ってくれているであろう悪魔さんに

「ありがとう」と感謝の言葉を伝えた。

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