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第二章 その3 商人のプライド

「藍染めの麻織物、30反!」


「はい、1反6両で計180両」


「柿渋染めの麻織物、20反!」


「一反8両20匁、なので……計168両!」


 扱っている品は高級な反物から安価な日用品まで様々だった。一体どれほどの損失が出るのか、怖くて耳を塞ぎたいところだがそれはできない。


 店の一同は蝋燭の明かりを頼りにそろばんを弾く俺を、緊迫の面持ちで座って眺めていた。


 皆で集めた証文をまとめ、店主がその数量を読み上げて俺が即座に計算する。こうして出される数字のひとつひとつを、彼らは黙って聞いていた。


 小学生の頃からそろばんを習っていて本当に良かった。高校数学で習ったピタゴラスの定理だのベクトルだのは苦手だったが、計算に関しては人並み以上にこなせる。


 よく考えてみれば金勘定というのは読み書き計算すべてができないと任せられない。教育機関が十分に普及していない時代では、それだけで大きな価値ある人材となり得たのだ。


「よって……796両32匁の損失!」


 最終的にはじき出した莫大な数字に、俺の手はそろばんを持ったまま小刻みに震えていた。


「およそ800両……か」


 店主が白い頭を抱えた。見守っていた店の面々も一斉に顔を青くする。


 現代の価値で言うと数千万円だ。その大金が湖深くに沈んだと思うとやるせない思いになる。


 だが問題はそれだけではない。店主は痩せた頬を余計にげっそりとさせながらも、背筋を伸ばして鋭い目つきで一同を見渡す。


「さあ、ここからはどこにどれだけ返済するか、計算するぞ」


 そう言って『大福帳』と書かれた最も大きく分厚い冊子を手に取り、すさまじい勢いでめくり始めた。


「あった! 反物を仕入れるために川辺屋から150両借りている。他にも御伽屋、山岸屋、大鳥屋からもそれぞれ30両ずつ。まずはこれを埋めるのが先だ!」


 俺は横から首を伸ばしその帳簿を覗き込む。そしてその項目の緻密さに、俺は心底驚いてしまった。


 その帳簿は単純な差し引きではなく、純資金と借入金を併記する、いわゆる複式簿記の形式だった。書き方は若干違うが、原理は基本的に同じで、どこの金を何に使ったか、しっかりと明記されている。


 以前、就職に便利だからと簿記の勉強をしたことがあった。だがこの複式簿記が厄介で使い方を身に着けるのに苦労したのを覚えている。


 現代でも専門の勉強をしないと使いこなせない高度な会計術が、この300年以上前の日本には既に存在していたのだ。会計学の概念は明治以降ヨーロッパから持ち込まれたとは聞いていたが、それ以前から独自のシステムが構築されていたことになる。


 そんな風に思い出に浸っていた俺のことなどまるで気にも留めず、店主は一同に向かって声を張り上げ続けた。


「水運商が多少は補償するだろうが、それだけではとても足りない。資産を切り崩して金を作るしかない。何でもいい、蔵を隈無く探して売れそうなものをかき集めろ!」


 店の者は「はい!」と声を揃えて立ち上がり、またしても各自が散らばる。


 既に陽も沈んでいるのに蔵の扉は開け放たれ、中のあらゆる物をひっさらうおお仕事が行われていた。男たちだけでなく女中一同に湖春ちゃんも加わり、金に換えられそうな物を血眼で探した。


「掛け軸や茶道具が出てきました」


「茶人が欲しがるはずだ。売り払おう」


「これら漆器はどうしましょう?」


「祝いの席で客人をもてなすのに必要だ、それはまだ手放すときではない」


 既に同じようなことが行われてきたのか、蔵の中は思った以上にスカスカだった。残されたのは餅つきの杵と臼のような生活のための道具か、祝いの席に使う道具だけだった。


「旦那様、もう売れる物はありませんよ」


 丁稚の吉松がかき集めた陶器を持ってくると、皆と座って箱詰め作業をしていた店主は深いため息を吐いて頭を垂れた。


「そうか……ご先祖様には申し訳ないが、こうする他無い」


 店主は立ち上がると、重い足取りで座敷へと向かう。そしておもむろに床の間の地袋から木箱を引っ張り出した。


 それを見た湖春ちゃんは「ああ!」と悲痛な叫びをあげ、けたたましい足音で父親の下に飛んでいった。


「そ、そのお茶碗!」


 店主が手にしていたのは大越の茶碗だった。かつての当主が東南アジアから持って帰ってきた、湖春ちゃんもお気に入りのあの逸品。


 つまりはかつてこの家が繁栄していた頃を偲ばせる唯一の足跡だった。


「世にも珍しい名品だ。以前茶に詳しい友人が50両で譲ってくれと頼んできたこともあった。返済の足しになるだろう」


 店主は大事に抱えながら畳の上にそっと置くが、その目はまるで死人のようだった。


「やめて、それだけはダメ!」


 湖春ちゃんは涙を流しながら父の腕にすがり付いた。


 だが父は娘を振り払うことも無く娘に顔を向け、空いた片手で娘をそっと包み込んだ。


「湖春、お前の気持ちもわかる。だがわかってくれ、ご先祖様もこの家を守るためなら許してくれるだろう」


 湖春ちゃんは顔を伏せたままひっくひっくと嗚咽を漏らし続けていた。父親が静かに立ち上がってもずっと丸まったままだ。


 そんな彼女を不憫に思ったのは俺だけではないようで、惣介が口をはさんだ。


「旦那ぁ、こっちの漆器も売れば良い値が付くと私は思うのですがねぇ」


 途端、家の者全員が惣介を睨みつけた。若い男は「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、後ずさってしまった。


 座敷から木箱を丁寧に抱えて歩いてきた店主は名残を惜しみながらも決意を決めたように、きりっとした面持ちで話した。


「惣介、私たちは商人だ。他者をもてなすためなら苦労を惜しまない。たとえ今我が身を削ろうとも、末永く付き合える客を作るのが鉄則だ。この漆器は客人のための漆器、つまりは客人への思いやりと同じ。これを手放すことは決してできない」


 店の者は皆同じ考えのようで、主の言葉を噛みしめていた。


 商人とは質素倹約を旨とする、悪く言えばケチなものだと聞いたことがあった。だが彼らは決してケチなどではない、むしろここぞという時には出し惜しみをせず、目先の損得よりも長い利益を見据えて商売をしているのだ。


 そのためには客人をぞんざいに扱うことは絶対にできない。商人としてのプライドは自分の財産よりも他者との信用にあるのだ。


 そんな父の言葉を聞いていたのか、ずっと泣いていた湖春ちゃんは身を起こし、涙を拭う。


「……お父ちゃん、それ、売って!」


 そして真っ赤になった目を父に向けて、震える唇で言い切ったのだった。


「すまんな、湖春」


 店主は振り返らずに小さく謝った。


 こんなの見ていられない。俺は店を飛び出した。


「おおい、どこに行くんだい!?」


 惣介たちの声に俺は走りながら「すぐに帰る!」とだけ答えた。


 夜の商家街を駆け抜ける俺は、まっすぐに日牟禮ひむれ八幡宮はちまんぐうを目指していた。


 困ったら来いと夕方に言われたばかりで早速だが、あの比売神様なら良い知恵を貸してくれるかもしれない!

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