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第十八章 その1 松前を守る武士

 俺たちが厚岸あっけしに入ってから早くも1ヶ月が経った。


 蝦夷と言えど盛夏を迎えれば暑いのはどこも同じ。だがここではいずれ来るべき冬に備えて、獣も木々も昆虫も、あらゆる生き物が精一杯に夏の日差しを謳歌している。


 作物の生育も順調で、ジャガイモの芽が出たときには俺はカゲさんたちと抱き合うほど喜んだ。


 そんな時に届いたのはさらに嬉しい報告だった。


「八幡からの返事だよ!」


 すっかり馴染んでしまったイソリの(コタン)の真ん中、祭りでは巨大な火を起こすこの場所に俺たちは集い、連日の農作業ですっかりワイルドな風貌に様変わりした手代たちに書状を見せつける。


「まず宗仁さんから。ハッカは売れる見込みあり、他にも貴重な薬草もあったから、栽培を勧めるってさ」


 サンプルとして送りつけた植物には大陸から輸入するしか手に入れる方法の無い薬草や香草のなかまも混じっていたようで、大層驚いたとも書かれていた。中には宗仁さんでさえも見知らぬものもあったそうだ。


「次にアットゥシについて。八幡の商人に聞き回ってみたら、良いものだし珍しいし、買う人も多いだろうってさ。実際にもう注文を入れている商家もあるみたいだ」


 アイヌの伝統衣装に使われるアットゥシについてはイソリが主導して若い娘から老婆まで、手の空いている女性を集めて製作を進めている。今は一番大きなイソリの家を当座の工房にしているが、すでに村の男たちが仕事の合間を使って新しい小屋の建設も始めている。


 いずれも商売として十分成り立ちそうな反応だ。俺たちは安堵とともに歓声を上げた。


「やったあ、日牟禮会が新しい商売を切り開いたぞ!」


「これでアイヌの人たちも、和人と対等な商売のできる足掛かりになるね!」


 互いにハイタッチもしながら喜びを分かち合う。


「おいおいおいおい、どういうことだこれは?」


 だがそんな俺たちを静まらせたのは、動揺した男の声だった。


 見ればコタンの入り口に一人の武士が立っている。厚岸を監視する松前藩士の水牧春彦みずまきはるひこさんだ。


 俺たちは急いで水牧さんの下に駆けつける。彼は泥に汚れた俺たちの姿を見て、呆れたように息を吐いたのだった。


「最近あんたらがアイヌと組んで何かを企んでいるとは聞いていたけどさ、何やってんだよ? おとなしくアイヌ連中に米を渡して鮭と昆布でももらっておけばいいのに。頼むから面倒事をこれ以上起こさないでくれよ」


「いえ、新しい商品をアイヌの皆さんと考案しているだけです。松前藩の皆様のお手を煩わせることは――」


「それが面倒事だって言ってんだよ。ここにはここのやり方がある、あんたたちは他の商人と同じことをしていればいいのに、わざと歩調を乱してくれるような真似したら収まりがつかないんだ」


「商売人は新たな商売を切り開くのが務めです。それにここの商売のやり方ではアイヌの皆さんへの負担が大きすぎます。このままでは疲弊して、長い目で見れば不利益も生じますよ」


「そんなことはどうだっていい。今ここで一番偉いのは大門屋の店主なんだ、あの人に逆らったらこの厚岸じゃ生きていけねえ」


「そんな、水牧様は藩士では?」


「藩士は藩士でも俺は下っ端、商人たちが法に背いた商売をしていないか監視するだけだよ。藩政の決定権もねえ。そういうわけで本当に頼むよ、大門屋さんに見限られちゃあ藩にとっても痛すぎるんだ。じゃあ俺は帰る、いいな。これ以上の面倒ごとはやめておくれよ」


 そう言って背を向け、水牧さんは再び歩き始める。


 大門屋にとっては俺たちのような新参者が場をかき乱すのは大層邪魔だろう。だが商売の世界は常にそのようなもの、既に得ている利権を守ろうとする者と、新たな活路を切り開く者のせめぎ合いが日々繰り返されている。


 俺はこの蝦夷へ利権で守られた商売を行うために来たわけではない。アイヌの人々と新しい商売を作り上げると誓ったはずだ。


 そのためには目の前の藩士に俺たちの行動を認めてもらうのが最優先の課題だ。


「もうしばらくすれば全国でもこの厚岸からしか出荷できない品が生まれます。やがて松前藩には今以上の収益が生まれるかもしれませんよ」


 俺の言葉に水牧さんの足がピタリと止まる。松前藩に仕える藩士なら、やはり自分の藩の繁栄を願うはずだ。俺たちの商売が藩に大きなメリットをもたらすことを説明すれば彼だってわかってくれるだろう。


「それを咎められては藩にとっても大きな損失のはず。ですが水牧様がこれを推し進めてくださるとしたら、先見性のある方だと家老の方々のお耳にも届きましょう」


 さらに付け加えると、水牧さんはゆっくりと振り返った。


 名誉欲に駆られたならば目を輝かせて今の話に食いつくところだ。


 だが意外なことに、水牧さんは今にも怒り出しそうな、それでいて俺たちを憐れむかのような目をこちらに向けたのだった。


 そんな予想外の反応に絶句する俺に、彼は「そういう問題じゃねえよ」と静かに返したのだった。


「蝦夷じゃ米は育たねえ。だからアイヌを酷使することでしか財政が維持できない。それを100年、松前藩は続けてきたんだ。今さらどうこうなる話じゃない」


 そう物憂げに水牧さんは言い放つのだった。


「俺の親父はな、昔シャクシャインというアイヌの頭が反乱を起こした時に鎮圧に向かった兵の一人だった。男も女も、皆ひどい殺され方で、多くの藩士も毒の矢にやられた」


 シャクシャインの戦いは1669年のことだ。水牧さん自身はまだ生まれていなかった頃の話だが、きっと父親から当時の惨状をよく聞かされていたのだろう、まるで本当に目の前で見たかのような話しぶりだった。


 松前藩の搾取に蜂起したシャクシャインの軍勢は各地の商人を襲い、数百人もの和人が殺害された。戦いは長期化し、幕府や東北各藩の支援を受けてようやく沈静化した激戦だったという。


「アイヌの連中が金を持って対等に交易を行えるようになったら何になる、清やもっと別の国に商売相手を切り替えるだけだ。もしかしたらまた反乱を起こすかもしれない。松前藩、いや日本のことを考えれば今のままアイヌを押さえつけておくのが一番だと、藩士たちはそう思っている。ただそれはいつ爆発するかもわからない火薬をずっと抱えているのと同じことだと、俺は思うんだがね」


 ここでようやく俺は理解した。


 この人は本心では今のアイヌの人々を取り巻く蝦夷の状況に満足していない。ただ藩とアイヌの搾取構造がすっかり出来上がっているので、手も足も出せずにいるのだと。


 この人は決して己の名誉のためだけで動くような人ではない。きっかけさえあれば、アイヌの人々のために地位さえも捨てて尽力できる、そんな人なのだと俺は直感した。


「私も水牧様のご意見に賛同いたします」


 俺の返事に水牧さんは表情を変えず黙り込む。


「商売における信用とは対等な関係だからこそ初めて成立するのです。どちらか一方に負担がのしかかってはそれは商売でなくただの搾取にしかなりません。信用無き商売相手ならいつでも見限られましょう。ですが商売を通して得た結びつきは非常に強く、その信用を揺るがす事態が起これば互いに手を取って立ち向かうこともできます」


 俺は一歩、前に出る。水牧さんはじっと俺を見たままだ。


「短期的には搾取によって潤うことはありますが、信用が築けないならいつ寝首をかかれてもおかしくありません。ですが互いに良き商売相手として信用し合えるなら、決してそのようなことは起こり得ません」


 そこでようやく藩士は表情を緩めた。


「おもしろいこと言うじゃないか。じゃあ少し聞かせてもらおうか。具体的に何を売り出そうとしているんだ?」


 すかさず俺と棟弥さんは水牧さんを近くの家に招き入れた。この村の空き家で、俺たち日牟禮会の面々が寝泊まりしている場所だ。


「この蝦夷でも育つ作物を選び、アイヌの人々の食糧とするだけでなく本土にも輸出します。植物によっては肥沃で暖かい土地よりも、寒冷で痩せた土地の方がよく育つものもありますので」


 3人で囲炉裏を囲み、商品のサンプルを見せながらあれこれと説明する。


「特にこのジャガイモは過酷な土地ほど多くの芋を実らせます。西洋には蝦夷よりも寒い国もありますが、そこではこのジャガイモが広く食べられています」


 水牧さんはイソリブレンドのお茶を飲みながら踏む踏むと頷いて俺たちの話に聞き入っていた。


「このアットゥシは非常に頑丈で、本土の織物にも負けません。布は総じて高く売れますので、藩にとっても見逃せない収入源になるはずです」


 棟弥さんの広げるアットゥシの上に手を滑らせ、その感触を確かめる。


「本当に売れるんだな?」


 そう尋ねる水牧さんの顔は真剣そのものだった。真の藩の安寧とアイヌとの関係改善を願う、一人の武士の顔。


「私たちはそう確信しております。ですがこれらはいずれもアイヌの皆さんの協力が得られなければ、送り出すことはできません」


 それに応えて俺たちも真面目に返す。


「そうだな、ハハハ!」


 いつ見ても仕事に不熱心な男の顔はそこに無かった。水牧さんは軽く笑い飛ばすと、自分の着ているつぎはぎだらけの衣服をぱんぱんとはたくのだった。


「実はこの服もだいぶ古くなってきたんで、ちょうど新しい反物が一枚欲しかったところだ。どうだ、そのアットゥシ、完成したら俺にも1枚売ってはくれないか?」


「ええ、当然ですとも!」


 アットゥシ工房にとってお客様第一号、誕生の瞬間だった。

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