第十六章 その2 約束と旅立ち
冒険ロマンあふれる蝦夷進出について男同士話し合った昼間の興奮のせいか、夜になってもどうも眠れなかった。
寝苦しさも感じ始めてきた初夏の夜だ。月が見下ろす中、俺は庭先でぼうっと星空を眺めて眠気が増すのを待っていた。
思い返せばこの3年間は白石屋を大きくすることに奔走し続けた日々だった。
比売神様によってこの時代に連れてこられた後いきなり店のピンチを救い、それからしばらく先代に付いて店主としての心得を学んだ。そして今は俺が白石屋の顔として全国展開を目指している。
ただの大学生だった俺がこうなってしまったのは本当に神様の気まぐれとしか言いようがない。
そんな風に思い出に浸っていたその時、家の引き戸がゆっくりと開かれ、俺は振り返った。
「ねえ、サブさん」
開いた戸の隙間からは寝間着姿の湖春ちゃんが顔を出していた。暗くて表情はよくわからないが、いつもの元気な様子は消え失せていた。
「湖春ちゃん、まだ寝てなかったの?」
「サブさんこそ、こんな夜中に何してるのよ」
寝ている店の者を起こさないよう、湖春ちゃんはすり抜けるように外に出る。月明りの下に照らされた彼女の姿は、不思議といつもより艶っぽく見えた。
湖春ちゃんは俺の隣にすっと身を寄せると、そのまま空を見上げた。今の季節、この時間にはちょうど天の川が南中しており、織姫ことベガと彦星ことアルタイル、そして天の川に隔てられたふたりをつなぐ北十字が燦然と輝いている。
「ねえ、蝦夷に行ったら、次ここに帰ってくるのはいつになりそう?」
不意に尋ねられ、俺は少し間をおいて答えた。
「わからない。けれどそう簡単に戻ることはできないし、船を大坂まで返すには海が落ち着くのを待たなくちゃならない。もしかしたら丸1年、蝦夷から出られないかもね」
「そっか……」
そうとだけ言うと湖春ちゃんはそれ以上深く尋ねることは無かった。だがその時天の川を流れ星が横切ると、彼女はそっと俺の服の袖をつかんだ。
「ねえ、覚えてる? 葛さんと大本さんの時のこと」
「ああ、もちろんだよ」
彼女が言いたいことはなんとなく分かった。つまりは2年前の春の結婚式のことだ。
「あの時からろくにこのことは話していなかったけど……私ももう18だからさ、そろそろいいかなって、そう思うのよ」
俺はじっと空を見上げていた。いや、正しくは振り向くのが怖くて必死で目を逸らしていた。
彼女の言う18とは数え年のことであり、現代で言うと17歳に当たる。そしてこれと同じ歳に葛さんは大本さんと結ばれた。当時の庶民の娘にとっては結婚適齢期と言える。
「そろそろ、ねえ」
ため息を交えて俺は呟いた。まさかこの時代で最初に出会った女の子と夫婦になるなんて、だれが予想しただろう。
極端な話、店主ならば替えが効く。今の手代や番頭も優秀なので、俺がいなくとも店は回る。
だが湖春ちゃんの婿になれば、残りの生涯をこの時代で過ごすことになる。守るべき家族を残して元の時代に帰るなど、俺にはとてもできない。
俺が最近商売に打ち込んでいたのはその事実を直視したくなかったからかもしれない。そして今まで湖春ちゃんがこの話題を持ち出さなかったのは、彼女なりに気を使っていてくれたからだろう。
「うん、お店のこともあるし、何よりこのまま宙ぶらりんの状態ってのも居心地悪いからさ。それにほら、葛と大本さん見てたらさ、私だって憧れちゃうのよ」
葛さんは結婚後すぐに妊娠、女の子を出産し、現在第二子の誕生も控えている。大本さんは毎日寺子屋の子供たちにのろけ話を披露しているようだ。
お金持ちでも地位があるわけでもない。だが一家が幸せであることは誰が見ても明らかだった。
「だからお願い」
湖春ちゃんは俺の手を強く握り、前に立って俺を見上げるので俺はその目を見つめ返した。
彼女の黒い瞳には空の星が映り込み、涙のように輝いている。
「蝦夷から帰ってきたら、どうか婿に来てください。私はいつでも準備できていますから」
彼女から初めて聞いた、心からの懇願だった。
俺は雷に打たれた気分だった。
そうだ、俺は女神から元の時代に戻らないかと勧められたのをわざわざ拒んでこの時代に残ったのだ。そして店主を任された時から、こうなることは承知していたはずだ。
俺は表情を緩め、湖春ちゃんのほんのりと温かい手を握り返した。
「ありがとう、湖春ちゃん。今までその話題から逃げてたのは俺の方だったよ。でもようやく決心がついた、蝦夷から帰ってきたら必ず祝言を挙げよう」
闇の中でも湖春ちゃんの顔に喜びが満ちていくのは簡単に見て取れた。
2人きりなのに妙に恥ずかしくなってきた俺は「蝦夷での仕事が終わったら、だけどね」と情けなくも付け加える。
「それは仕方ない、サブさんは白石屋の店主だもの。私だってわかっているわ、店と私のわがまま、秤にかければどちらを優先すべきかなんて」
普段は子供っぽいが、ここぞという時には忍耐強い子だ。
「でも1年も会えなくなるのは寂しいわ。だからこれから八幡を発つまで、それまでは思い切り甘えさせてよ」
「わかったわかった」
そう言うと俺と湖春ちゃんは身を寄せ合い、家の中へと戻ったのだった。
出立の日はあっという間にやってきた。店の者たちに見送られた俺と棟弥さんはそれぞれ若い男5名ずつ引き連れ八幡堀から琵琶湖を北上した。
琵琶湖の最北端である塩津港(現在の滋賀県西浅井町)に降りた後はそのまま荷物を担いで山を越え、若狭国(現在の福井県)へと出る。ここまで来れば敦賀はあっという間で、大したトラブルも無く俺たちは海に出ることができたのだった。
入り組んだ湾の奥に発展した敦賀の町は当時日本海の物流の拠点として栄えていた。町には廻船問屋が建ち並び、昆布や魚の干物など海の幸を求めに多くの人が集まっていた。
既に港には福岡を経由した白石屋の船が入っていた。長崎の高砂屋に商品を卸して手に入れたばかりの金銀を積んでいる。俺たちはそれを軍資金に、これから日本海沿岸の各港で商品を仕入れ蝦夷に進出する。
翌日の出港までは停泊許可をもらっているので、荷物を預けたあとは最後の自由時間だ。
「さあ、ここから後戻りはできませんよ。船が出るまでの間、思い切り羽目を外してきなさい」
棟弥さんがそう言うと手代たちはヒャッホウと歓声を上げて町へと繰り出した。遊郭にでも向かうのだろうか。
「1年間戻ってこれないとなると、さすがに堪えますね。棟弥さんも家族が心配でしょう?」
そう言って俺は棟弥さんを小突いた。大本さんのように明らかに顔に出すわけではないが、彼も妻とは仲睦まじく幸せな家庭を築いている。
「ええ、息子が生まれてからは初めての長旅なので。今まで妻にこのような心境にさせていたのかと、ようやく自分でもわかることができました」
普段滅多に不平不満を露わにしない棟弥さんが物憂げに山の向こう側を見つめている。店主であると同時に夫であり父である。家族と離れ離れになるのはやはり辛いようだ。
「ですが家族のことを顧みているだけでは店主は務まりません。日牟禮会には白石屋と川辺屋、ふたつの店の命運がかかっているのですから」
そう言って振り返る彼はいつも通りのにこやかな顔に戻っていた。この切り替えの早さが彼の強みだろう。
「それよりサブさんも心配でしょう? 白石屋で待つ人のため、無事に戻ってくる義務があるのですから」
「さあ、何のことですかねぇ」
俺はとぼけるが棟弥さんは無邪気に微笑んだ。
「バレバレですよ。きっと帰ってきたら婚礼をするとか、そういう約束でもしたのでしょう? 蝦夷の冬は厳しいと聞きます、湖春ちゃんを悲しませないためにも決して無理はなさらぬようお願いしますよ」
反論することもできず、俺は俯いて唸っていた。
翌朝、俺たちを乗せた船は敦賀の港を発った。はるか彼方海流の行き着く先、大いなる蝦夷を目指して。
 




