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第十五章 その3 近江の春

「それではおふたりの門出を祝って、今日は飲み明かしましょう!」


「おおー!」


 白石屋の大座敷、ここには白石屋の従業員はじめ宗仁さんに牛飼い庄屋の段平さんと千代乃さん、さらに尾形光琳さんと関係者が勢ぞろいしていた。


 皆の見つめる先には白無垢姿で気品良く佇む(かずら)さんと、ガッチガチに緊張し細かく震えている大本久道(おおもとひさみち)さんが並んで座っていた。


 桜のつぼみから淡いピンク色が見え始めたこの季節、ふたりの婚礼は白石屋主催で盛大に行われたのだった。


 この時代、一般庶民は現代のような結婚式らしい結婚式を開くことは滅多になかった。神前式のスタイルも元々武家などで広がっていたものが、幕末から明治期にかけて庶民にも伝搬したのである。


 だが白石屋の関係者が婚姻を迎えるのは久々のこと。俺たちは店を挙げてふたりを祝福した。


「葛ちゃん、いい嫁さんになってくれよ」


「今日から長屋に移るんですって? 末永くお幸せに!」


 段平さんと千代乃さん兄妹が葛さんに歩み寄って祝いの言葉を贈る。


「大本先生、これからも私たちに読み書きを教えてくださいね」


 奉行所を辞めて浪人となった大本さんは現在、寺子屋で先生をしている。子供たちとの触れ合いは彼の性分に合っているようで、以前より収入は下がったものの毎日活き活きとしていた。


「葛ぁー、なんでお嫁にいっちゃうのぉー。私を捨てないでよー」


 まだ宴は始まったばかりだというのに、すっかり酔いの回った湖春ちゃんが葛さんに抱きつくと、葛さんはその背中を軽く撫でた。


「湖春さん、この店を去るわけではありませんよ。でないと誰が煎餅を焼くのです? 他の女中たちもまだ幼く仕事をすべて任せることはできません。が、女中たちには早く一人前になってもらわないといけませんので、これからはより厳しくしていきませんと」


 葛さんがちらりと女中に目を見遣ると、彼女たちは戦慄した。やはり葛さんには誰も敵わないようだ。


「か、かず、ずらさん」


 隣に座る花嫁の美しさに、大本さんは呂律が回っていない。


 このままでは駄目だと思ったか、新郎はお膳の上の酒を手に取るとそのまま一気に喉に流し込み、ぷはっと息を吐いた。


「葛さん、俺、必ずあなたを幸せにしますから。墓に入るその日まで、絶対にあなたを守り通してみせますから」


 そして改まった様子で新婦に決意を告げるが、緊張を酒で誤魔化したせいで顔が真っ赤になって、まったく格好がついていない。


 だがそんな花婿に葛さんは優しく微笑むと、ゆっくりと頭を下げて答えたのだった。


「こちらこそ。一生お慕い申します」


 ここで大本さんはただでさえ赤い顔をさらに赤くし、背中から倒れてしまった。


「ああもう、示しがつかないなぁ」


 駆けつけた男たちが呆れ返り、座敷には笑いがこだまする。


 店主の俺はこれら一連のやり取りを眺めながらちびちびと酒と川魚料理をついばんでいた。


 仕方のない話であるが、この白石屋も大きくなるにつれて人の出入りが活発になる。しかしそれは去る者も増えるというわけだ。


「今はもうしばらく葛さんも残ってくれるけど、今度からはいなくなると思うと寂しいな」


 せめてこの場に吉松、いや、白石丸もいればこの祝宴もより賑やかになっていただろうに。


 帰郷後、吉松改め白石丸はすぐに福岡へと戻った。事前に手紙を送っていたとはいえ、湖春ちゃんも葛さんもそれは大層驚いていた。


 だが白石丸の決心は固く、見たことの無い真摯な態度に誰もがただ頷くしかなかった。


 先日届いた手紙によれば、白石丸は藩の学問所に通いはじめたという。慣れない剣の訓練に苦労しながらも、学問では早速師範を驚かせているそうだ。同年代の親しい友達もでき、毎日楽しく過ごしているという。


「サブさーん、私たちもいっしょになりましょうよー」


 物思いに耽る俺に、湖春ちゃんが身をぴったりと貼り付ける。


 不覚にもドキッとしてしまったが、こんな色気も無い子に遅れをとるような俺ではない。


「湖春ちゃん、ここでそういう話はよそうよ」


 俺は彼女を引き剥がすわけでもなく、杯の酒をすすった。


 だがそんな俺たちを見て、葛さんは口に手を当てて笑いながら言った。


「あら、いいじゃないですか。私だけ婚礼を済ませるのもまるで先に抜けたみたいで後味が悪うございますし、湖春さんだってお年頃、婿を迎え入れるのを考えても当然では?」


「そうよー、サブさーん、よろしくねー」


 ぺたぺたと俺の頭に手を載せる湖春ちゃん。


「ふふっ、これで白石屋の将来も安泰ですね」


 ちょうど酒を注いで回っていた川辺屋の棟弥さんがさらに付け加え、俺は深くため息を吐いた。


「そういう棟弥さんだって、早く嫁さんをもらわないと。お母上が川辺屋の女将さんを務めておられるようですが、本来は店主の妻の役目なのですから」


「そうですね。そろそろ動き出しても良いかと思っていました」


 俺の杯に酒を注ぎながらぼそっと言う。


「へ?」


 俺は思わず聞き返した。今、凄く大切なことを言わなかったか?


「お相手がおられるのですか?」


「あれ、お話ししていませんでしたか? 堺に北前船を出している廻船問屋がありまして、そこのお嬢さんを近々迎え入れる予定があるのですよ。実は父の代から決めていたことで、父のいなくなった今でも約束はまだ生きていますし……」


 平然と言ってのける棟弥さんに、俺はあんぐりと口を開けていた。


 この時代の自由恋愛は庶民の間だけでまかり通るものであり、武家や大きな商家では家同士婚約者が決まっていることがほとんどだった。川辺屋もその例に倣い、家同士の発展を願った政略婚を執り行うのだろう。


 しかしイケメンにして婚約者ありときた。現代なら憎たらしいくらいのリア充っぷり、江戸時代でなければ嫉妬で悶え死にそうだ。




 その夜、俺たちは全員酔いが回るまで飲んで飲んで飲み尽くした。正直なところいつ布団に入ったのか、今一覚えていない。


 早朝、目覚めた俺は厠で用を足すために外に出た。


 まだ肌寒い朝の空気、ふと空を眺めれば冬を越したユリカモメが群れをなして北の空へと羽ばたいている。この八幡の町は今年も新たな春を迎えたのだった。

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