第十四章 その2 出島の壁
頭を下げる俺に、高砂屋の店主は眠そうな目を向けたまま固まる。
と、いきなり吹き出したかと思えば大口を開けて下品に笑い始めたのだった。
「がはははは、これはおもしろい。全く包み隠さず正直に切り出してきやがった。近江商人は誠実を良しとするらしいが、まさかここまでか!」
激しく膝をバシバシと叩くので、脇に座る遊女たちも身を引かせる。
そしてしばらく豪快に笑い続けると、やがてひいひいと息を切らしながら改めて俺と向き合って話し始めたのだった。
「今まで俺に近寄る連中は本心を隠したまま愛想良くしてくるおべっか使いばかりだった。お前のような己の欲望に忠実な商人は初めてだよ。だが残念、長崎であんたたちの相手をしてくれる奴はいないよ」
「どうしてです?」
気に入られたようで内心ガッツポーズを取るも束の間、俺はいきなり落胆してしまいそうだった。
「俺たち長崎の貿易商人は出島という唯一無二の権利を押さえている。これさえあればあくせく働かなくとも莫大な富が生まれるのさ。それこそ遊んでも遊び尽くせないほどのな」
当然のことながらここで言う出島とは日本で唯一外国人の居住が認められていたあの出島のことだ。
鎖国下の日本では外国人が市街地に出たり一般の人々と出会うことは許されず、異国の商人たちは約1.5ヘクタールの扇形の人工島に閉じ込められていた。日本人側も担当の役人や遊女、特別に許可を得た商人などを除き、ここに入ることは原則できなかったという。
「あんたたちみたいにそこらをドサ回りする必要は無い、無茶しない程度に経営していればいいんだ。こんな美味しい立場にいるとな、互いに切磋琢磨していこうという気概も削がれて、ずっと九州に籠っていればいいやって思ってしまうんだよ」
高砂屋の店主は空になった杯を遊女に突き出す。
遊女が手にしていた徳利から酒を注ぎ足すと、店主はすぐに口を付けた。
「ではこうしましょう、白石屋は今度江戸に支店を開きます。高砂屋さんもそこに商品を置かれてはいかはでしょうか。もちろん手間賃はいただきません」
俺の言葉に店主は酒を飲んでいる最中にも関わらずピタリと動きを止める。
そしてじっと俺の眼を睨みつけると杯から口を離した。
「お前たち、席を外してくれ」
けだるげな表情はどこへやら、戒めるように言い放つと遊女たちは口をとがらせて部屋を後にしたのだった。
遊女が襖を閉め、部屋に男だけが残されると店主はまだ使っていない杯に酒を注ぎ、俺に差し出したのだった。
「白石屋さん、あんた本当に面白いな。それじゃあせっかくだし、俺たちの仕事について教えてやろう」
礼をしながら酒を受け取る俺に、店主は嬉しそうに話し始めた。
「異国との貿易は幕府によって厳しく制限されている。年間に来港できる船の数は決まっているし、こちらが払える金の量にも上限があるんだ」
「どうしてまたそんなことを?」
「金銀の流出を防ぐためさ。日本は異国よりも金や銀が多く採れるもので、異国の連中はそれを欲しいがためにわざわざやって来て商品と交換するわけさ」
なるほど、金銀は貨幣の素材となり物価の基準にもなることから、多くの国が欲したわけだ。
全盛期には日本産の金銀は世界産出量の3分の1を占めていたと言われているが、それは長崎から世界へと流通していた。黄金の国ジパングとはあながち間違った表現でもなかったのだろう。
「昔は自由貿易の許されていた時代もあったんだが、それだと際限無く金銀が異国に流れる。そこで幕府は長崎全体で貿易に使える量に上限を設けたんだ。年間で清国には銀6000貫目、阿蘭陀には3000貫目とな。これは長崎奉行が一括で管理して、輸入した品も奉行所が価格を決める。商人たちはそれを買って売るわけだが、それができるのは昔からつながりのある地元の商人や江戸・大坂の大商人だけだよ」
ここで一瞬、店主は物憂げな目を見せた。そして杯の酒をぐいっと流し込むと、すぐに例のけだるげな顔に戻ったのだった。
「俺たち長崎の商人はこの取り分をうまく分かち合って、奉行所とも互いに持ちつ持たれつの関係を維持している。おかげでがつがつすることも無いが、店を大きくしようなんて考える奴は滅多にいねえ。何もしなくても貿易の利権だけで食っていけるのだからな」
「商人としては羨ましい限りですね。ですが、それって本当に大丈夫なのでしょうか?」
店主は再び俺を睨みつけた。痛いところを突かれたようだ。
「何が言いたい?」
「金も銀もいつかは必ず枯渇します。幕府が制限を設けても、いずれは掘り尽くしてしまうのではないでしょうか? そうなれば国内で貨幣に使われる金銀が不足し、物価も大混乱に陥ります」
21世紀の日本は第一次資源産出国とはとても呼べない。世界的に有名な石見銀山や佐渡金山も、既に現在の採算ラインでは掘り尽くされている。
店主の険しい顔が緩み、そして再び笑い始める。さっきからこの人はコロコロと表情が変わって
「はっはっは、よくそこまで頭が回るな。大当たり、皆気付かないふりをしているだけさ。聞けば石見の銀山の産出量も近年落ちているそうじゃないか。利権の上に胡坐をかいていられるのも今の内だけだよ」
店主はまた酒を流し込む。それから俺に向けた顔は、どこか物憂げに思えた。
「だが老い先短い爺さん連中はどうも今の生活を捨てられないみたいで、まだ日本には金の山が眠っているなんて思っていやがる。俺たちは子や孫のためにも、この状況を今のうちに解決しておかなければならんのに」
この店主も今のままでは駄目だと、痛いほど理解しているようだ。
だが長年に渡る既得権益によって完全に保守に走っている仲間たちが相手では何もできない。そのジレンマに揺れているのだろう。
確かにこのままで金銀の流出が止まらならければ、日本全体の問題にもなり得る。まずはこの金銀に依存した貿易のシステムを変える必要がある。
「ですが今の状況では幕府の管理が行き届いているのでしょう? これでは他の商人が入り込む余地はありませんね」
少し話題を変えてみる。すると店主は首を横に振った。
「そうとは限らん。金銀はダメでも、現物ならば何も問題は無い。代物替、つまり等価での物々交換を使えば異国の産物をより多く得ることも認められているんだよ」
「物々交換で?」
「そうだ、例えば干しアワビや鱶鰭は清国人に、陶磁器や銅は阿蘭陀人に特に喜ばれる」
輸入ばかりに目が行って輸出のことはすっかり忘れていた。日本から異国に送り出された物は金銀だけではなかったのだ。
「陶磁器の輸出って、この時代からあったのですね……」
そういえばと歴史の授業で聞いた話を思い出す。
明治時代以降、日本の工芸品はその物珍しさから西洋で一大ムーブメントを巻き起こした。特に美術の分野では日本の浮世絵の技法や簡略化された表現を模倣し、西洋美術に組み込むという『ジャポニスム』が広がり、印象派の隆盛と写実主義からの脱却を促した。これが起こらなければゴッホやセザンヌ、ロートレックも現れなかったであろう。
日本の陶磁器が世界的に評価されるのは明治期に開かれた万国博覧会でのこと。出品された陶磁器が想像以上の反響を呼び、日本の窯には注文が殺到、輸出用の商品も多数作られたという。
「この時代?」
「いえ、人気なんだなって」
目を細める店主に、俺は慌てて誤魔化した。
「ああ、阿蘭陀人は日本の陶磁器が好きみたいだ。何十年か前までは清国から輸入していたそうだが、一時期清国が輸出を止めたことがあって、その時代わりに日本に注文が入ったんだ。そこから日本でも本格的に陶磁器を作ることになって、今となっては九州各地で窯が開かれている」
なるほど、こうやって九州は焼き物王国として繁栄したのか。特に有田焼の柿右衛門様式は煌びやかな輸出商品として発展を遂げたと、どこかのテレビ番組でやっていたな。
いや待て、時代は違えどヨーロッパには王侯貴族や大商人など、世界の珍品を集める人々がいる。彼らにとって日本は足を踏み入れたくても許されない土地、その興味は尽きることが無いはずだ。
もしかしたら日本の工芸品は、彼らにとって極めて魅力的に映る逸品なのではなかろうか?
「阿蘭陀人は陶器以外にも興味はありませんか?」
俺がすかさず尋ねると、店主はうーんと首を傾げる。
「どうだろうな。ここらは元々窯が多かったから陶磁器を商品にしているけど、他はあまり聞かないな」
これはチャンス。うちで扱う漆器や反物を売り込む絶好の機会だ。
「白石屋は近江を中心に各地の優れた工芸品も扱っています。どうでしょう、これら工芸品を阿蘭陀への輸出品に使うことは?」
店主の目が点になる。そして今までで一番強く、吹き出したのだった。
「おいおい冗談はよせ。こんな外洋に出る船さえろくに作れない国に何がある。異国に誇れる工芸品があると言うのか? 陶磁器だって清国の代用品に過ぎないのだぞ」
店主は呆れたように笑い、日本の品物は輸出に値する価値な無いと一蹴した。
俺はむっと口を曲げた。この時ばかりはさすがにカチンときた。
「高砂屋さん、失礼を承知でお伺いします。あなたはその足で全国を歩き回り、本当に良き物に触れてきましたか? 人々が自らの作り出す物にどれほどの精魂を注ぎ、誇りを抱いているかご存知ですか?」
俺は詰め寄るように尋ねた。だが高砂屋の店主はまだ鼻で笑っている。
「そんなもの、出来上がった品を見てもわからんだろ」
「ええ、ですがそうしないと良き物は絶対に作り上げられない。ドサ回りに徹する近江商人だからこそ、作り手が本気で取り組んでいなければ商品として扱うことはいたしません」
この短い間だが、俺は中山道に東海道にと各地を歩き回り、その土地土地で懸命に生きる人々を見てきた。そして地域の産物を実際に目で見てその手に取り、売り出してきたのだ。
信州野沢のアケビ蔓工芸、日野椀の漆器。人の手によって生み出されるあらゆる産物。どれをとっても手を抜く作り手はおらず、最高の品を作り上げようと日々努力している。そして彼らの創り出す工芸品は、現代日本でも十分に通用する高品質な物だ。
商人は彼らの産物を運ぶ仕事、いわばおこぼれを預かっている立場だ。彼らへのリスペクト無くして何が商人か!
俺の様子が変わったことを察知してか、高砂屋の店主も笑うのをやめてまるで戦に出る武士のような表情へと一変する。今までの世を捨てたような顔はむしろ本心を悟られないための仮面であり、こちらの方が真の顔なのかもしれない。
そんな神妙な面持ちのまま、店主はにやりと笑って言い放った。
「ふむ、それでは良き物とやらを拝見したいものだな」
深く染み渡るような物言いだった。
思っていた過程とは違ったが、ガードの硬い長崎商人相手にここまでこぎつけたのだからしめたものだ。
俺はわざとらしく深く頭を下げた。
「ええ、それでは明日、こちらにお持ちいたしましょう」
「ああ、期待しておこう。だが見定めるのは俺ではない、良き物も悪しき物も詰まるところは商品なのだから、その価値は買い手に決めてもらおうではないか」




