第十二章 その4 新たなる店主
寝正月な元日を終え、俺は湖春ちゃんと連れ立って八幡の商家のひとつ、沖島屋に向かった。
ここは川辺屋ほどではないものの八幡でも有力な商家のひとつで、会合があれば川辺屋と交代で店の座敷を開放している。
着いた頃には既に多くの人で座敷は埋まっていた。俺とそう変わらない若者から成人した孫のいる老人まで年齢は幅広いが、皆この町で看板を掲げる一国一城の主たちだ。
これは本来店主クラスだけが集う商人にとって重要な会合。店主不在という特殊な事情があって初めて番頭の俺と亡き店主の娘である湖春ちゃんの参加が認められたのだった。
全国展開する蚊帳売りや廻船問屋の経営者など錚々たる顔ぶれが居並ぶ中、若輩の俺たちは狭苦しい末席に案内された。
しばらく待つとペコペコと腰の低い初老の男が皆の前に出て、互いに談笑していた店主たちもシンと静まり返る。
この人こそ沖島屋の店主。川辺屋前店主の失脚した今、実質この町で一番の名士だ。
「皆様、明けましておめでとうございます」
店主が丸い顔で全員を見渡しながら挨拶すると、列席した他の商家の店主たちも「明けましておめでとうございます」と返す。
喪に服している俺たちは皆に合わせて軽く頭を下げた。
「昨年はこの町も多くの変化を迎えました。営利を追求するあまり、商人としての心構えを忘れ結果的にこの町の評判を落としかねない出来事もありました――」
言葉を濁してはいるが、何を話しているのかこの場に居る全員が理解していた。
「――それでは私からの新年のあいさつはほどほどに、新たなる同朋を迎え入れましょう」
店主が格式ばった挨拶を終えるとともに、若者たちの中からひとつの影が立ち上がる。
川辺屋の棟弥さんだ。いつも清潔な服を着ているが、今日は屋号の描かれた紋付き袴と最上級の正装を纏っていた。
申し訳なさそうに道を譲ってもらいながら前に出ると、用意された座布団に流れるような動きで座る。性格は全く別でもやはり店主の息子、人前でもどっしりと構えていられる度量の持ち主だ。
「皆様、あけましておめでとうございます。本日より新たに川辺屋を継がせていただきます、棟弥と申します。よろしくお願いいたします」
棟弥さんが深々と礼をする。年長者たちはそれを貫くような視線でじっと見ていたが、ワンテンポ置いてから一斉に頭を下げ返した。
八幡の町をともに作り上げてゆく仲間として、この会合でいかに迎え入れられるかは今後の経営を大きく左右する。ひとつの有力の商家ではなく、様々な分野に秀でた多くの商家が集まって近江商人の名を全国に知らしめたのだから。
「異存ある方はおりませんか?」
脇に座っていた沖島屋の店主が皆に尋ねる。反対の声は何も挙がらなかった。
「それでは棟弥殿、今後ともよろしくお願いします」
沖島屋の店主が隣の若者に向き直って頭を下げると、棟弥さんもそれに応えて深々とお辞儀する。
こうして無事に、棟弥さんは新たなる店主として仲間たちに迎え入れられたのだった。
和やかなムードに包まれる会場で、前に出た店主ふたりは再び皆に顔を向けた。
「さて、こうして川辺屋に新たな店主が生まれたわけですが……この町にはもうひとつ、店主不在の商家がありましたな」
「へ?」
沖島屋の店主の言葉に俺は思わず声を漏らした。
同時に隣の湖春ちゃんが立ち上がり、つかつかと前に出る。
俺は困惑した。こんな進行、聞いていないぞ?
棟弥さんが席を譲り座布団に湖春ちゃんが座ると、男たちは微笑みをもってまだあどけない少女を迎えた。彼らにとっても活発な湖春ちゃんは娘であり孫であり妹であり、町のアイドルのような存在なのだ。
「各商家の店主の皆様、この場をお貸しくださりありがとうございます」
普段の言動からはまったく想像できない湖春ちゃんの立ち居振る舞いに、俺が一番戸惑っていた。町の皆は今にも拍手でもしながらコールを起こしそうな雰囲気を漂わせていたが、表情を緩ませるだけで耐えていた。
「昨年の神無月に白石屋の店主である父が亡くなって以降、白石屋は店主不在の状態が続いていました。というのも親戚筋に男がおらず、店主の座に置ける者がいないのが主な理由でした。ですがそんな白石屋も今は持ち直しています。これも窮乏の私たちに救いの手を差しのべてくれた、栄三郎殿のおかげです」
湖春ちゃんがちらりと俺に目を配ると、他の店主たちも一斉に俺を振り返る。
何も準備をしていないところでこの人数の視線を一気に集め、俺は若干テンパってしまいそうだった。
そんな俺の様子を見てか、湖春ちゃんはくすくすと笑いながらさらに続けた。
「栄三郎殿の商才には大いに助けられました。その効果は私たち白石屋だけではありません、この八幡の町全体にも波及するでしょう。よって私、前店主が娘湖春は、栄三郎殿を次期白石屋店主に推挙します」
な、なんだって!?
この場で発言が許されていたなら絶対にそう叫んでいた。
俺を白石屋の店主にする、だと!?
そんな話、今の今まで全く知らなかったぞ!
「私も賛同します。川辺屋としても栄三郎殿には頭が上がりませんから」
俺の心情など知ってか知らずか、棟弥さんも乗っかる。
そこで俺は気が付いた。知らない間にあの2人が示し合わせて、俺を担ぎ上げる準備をしていたのだと。
湖春ちゃんの提案を受け入れた棟弥さんが年寄りたちに根回ししてくれていたのだ。きっとそうだ!
あまりにも急なサプライズに俺は呆れ、文句の一言二言は付けたかった。
だが考えてみれば白石屋にとって新しい店主を置くことは急務であるし、日は浅いとはいえ番頭である俺がそのまま店主に繰り上がっても順序としておかしくはない。
むしろ今まで以上に自由な商売ができるとあって、俺にとってもメリットは大きい。
「では栄三郎殿、いかがですかな? 白石屋の店主として、我らとともに八幡の名を世に響かせませんか?」
沖島屋の店主がにこにこと微笑みかける。
反対意見が一切出てこないのは前にいる2人の尽力の成果だろう。
俺は深く呼吸を繰り返して高鳴る心臓を押さえつけ、落ち着きを取り戻す。
「本当に、私でよろしいのですか?」
そして全員に顔を回しながら尋ねた。
店主たちは無言で頷いた。
どうやら覚悟を決める時が来たようだ。
「それでは――」
俺は立ち上がり、壁伝いに前に出る。
そしててへっと舌を出して笑う湖春ちゃんを一瞥すると、その隣に腰を下ろした。
「ええと、こういう場で何と申せばよいのか、何も思い付きませんが……これから白石屋の店主を務めさせていただきます、栄三郎と申します。皆様、これからよろしくお願いします」
白石屋の新たな顔として、深く頭を下げる。
店主たちは俺と同じように、頭を下げて歓迎した。
会合の後は宴会だった。
座敷に収まり切らず板のままでお膳を並べられ、店主たちは酒を酌み交わして新たなる年の商売繁盛を願った。
そんな人々の中で一番目立つ席、床の間の真ん前で俺と湖春ちゃん、棟弥さんの3人は席をあてがわれていた。新たな店主である俺たちはこの宴のメインだった。
「棟弥さんも湖春ちゃんも人が悪いなぁ。驚いて心臓止まるかと思ったよ」
俺は酒を注がれた杯を手に持ったまま口を尖らせる。
「ごめんなさいね。でもサブさんには絶対に店主になってもらいたかったから」
ちびちびと酒を口に含みながら、湖春ちゃんが苦笑いで返す。
この時代は飲酒に関する年齢の制限は無く、15を迎えていない若者でも祝いの席では酒を飲まされることが至極普通のことだった。
「気付かれないよう皆さんに頼んで回るのは結構大変だったのですよ。サブさんが江戸に行っていた頃には湖春ちゃんが下準備をしていたみたいですが」
ぐいぐいと酒を流し込みながら、棟弥さんが付け加える。まだ宴は始まったばかりだというのに、既に軽く3合は飲んでいる。外見に似合わず、なかなかの蟒蛇のようだ。
「その時から?」
「やっぱり私じゃ店主は務まらないから。サブさんほどの適任は他にいないわ」
笑う湖春ちゃんに俺はじっと細めた眼を向ける。
確かにこの待遇、嬉しくないわけではないのだが……。
そこでふと別件を思い出し、俺は話題を変えるためにも棟弥さんに話しかけた。
「そういえば棟弥さん、新しい商品を考えたのですが……」
懐から折りたたんだ紙を取り出し、見せつける。
昨日吉松と対戦したリバーシのルールと道具の説明書きだ。
「ふんふん、おもしろそうな遊戯ですね」
棟弥さんは受け取った紙を興味津々な様子で読み込んだ。
「でしょう? で、盤は木として石が裏表で色が違うのですが、どういった素材を使えば良いでしょうか?」
「碁石は黒は那智黒石、白はハマグリの殻から作りますが……これは両面に別の色を付けますし、ひっくり返すとなれば平らにした方が良さそうですね。丈夫に作れば木でも十分ではないでしょうか?」
「そうですか、木ですか。それでしたら、是非腕の良い職人を――」
「おうおう湖春ちゃんにサブさん、二人で頑張って店を大きくしていくんだよ!」
話している最中に割り込んできたのはすっかり酔っぱらった廻船問屋の店主だった。手に徳利を持ち、別の若者に支えられながらふらふらになって俺たちの前に立っていた。
そして震える手つきで徳利を突き出す。酒を注ぐ、という意味だろう。
「へ? ええ、ありがとう」
首を傾げながらも湖春ちゃんは杯を前に出すと、廻船問屋の店主は大量にこぼしながら酒をよそった。
袖を酒に濡らしながらも、湖春ちゃんは嫌な顔ひとつせず注がれた分を飲み干した。
「おお、いい飲みっぷりだ。あんた達のこれからに、幸せがあらん事を!」
「飲み過ぎですよ! もう戻りましょう!」
べろんべろんになって強制送還される男を、俺と湖春ちゃんはぽかんと口を開けたまま見送った。
俺たちの様子を横目に、棟弥さんが小声で尋ねる。
「湖春ちゃん、本当によかったのですか?」
「何を?」
「店主とは本来家系で継いでいくもの。ということはサブさんを店主に迎え入れるとあれば湖春ちゃんの婿に入るのと同じ意味ではないのですか? 皆さんきっとそう思っていますよ」
聞くなり湖春ちゃんは耳まで赤くなった。
「ああああああ、そうだった! まったく思い付かなかった!」
彼女は頭を押さえてその場に丸まった。
俺も飲んでいた酒をぶっと噴き出し、ゴホゴホと咳き込む。
「おいおいおいおい、しっかりしておくれよ!」
そういえばそうだった。商家が店主の家系ではない人物を店主として迎え入れる場合、家族の娘の下に婿入りさせて家を続かせるのが通例だった。
傍からは余所者の俺が店主を務めるためには、湖春ちゃんに婿入りするのが当たり前だと受け取られても不思議ではない。
そんな俺たちに今度はこの会場を提供してくれた沖島屋の店主も近付く。彼も顔を真っ赤にし、だいぶ出来上がっているようだ。
「さあさあ、近い内にあんたらは夫婦だ。少し気が早いが、私からも祝わせておくれよ」
周りの皆もそう思っているようで、店主の言葉にあちこちで「そうだ、お幸せに!」「早く式を挙げて、子供の顔を見せてくれ!」などと声が上がる。
「それでは、若い二人の門出を祝ってこの沖島屋、渾身の腹躍りをご覧せしめよう!」
そして脱ぎだす店主。突き出た腹には既に恵比寿さんのような顔が描かれており、男たちからは爆笑が飛び交った。
「ああもう、わけわからねえよ!」
赤面して伏せてしまった湖春ちゃんの隣で俺は悲痛な叫びを挙げる。だが宴の盛り上がりにかき消され、困惑する俺のことなど誰も見向きもしないのだった。




