第十二章 その3 元禄の年末年始
年末といえばこたつに入りながらテレビのチャンネルを切り替えつつ、紅白歌合戦と芸人が尻を叩かれるのを交互に見ているのが恒例だろう。
だが今年に関しては残念なことにテレビもラジオも使えない。この世界で電気が実用化されるには、まずは開国を迎えなければならない。
そもそもこの日は旧暦の大晦日。新暦で言えば2月の上旬、現代人の感覚なら単なる寒い一日として気にも留められない日だ。
「あんたたち、お皿用意して!」
湯気立つ大鍋にいっぱいの煮豆を持ち上げながら、女中の葛さんが威勢良く言うと幼い女中見習いの女の子たちがせっせと大皿や重箱を並べる。江戸土産の棒鱈も、すっかり見事な煮付けへと姿を変えていた。
「はい! はい!」
「せい! せい!」
外では手代の若い男たちが杵と臼を持ち出し、テンポ良く餅をつく。普段力仕事の多い彼らにはこの程度の作業は慣れたものだった。
この時代、元日はほとんどすべての店が営業を休んでいた。コンビニもスーパーも無く、日本全体がストップする日、それが正月だった。
ゆえに大晦日の間に数日分の料理を作り溜めし、正月の間は何も働かなくてもよいよう準備しておくのが通例だった。
「ほらほら、ぼけっとしてないの。邪魔邪魔!」
湖春ちゃんも丁稚たちを率いて家中で雑巾がけを行っている。年内の汚れを落とし清々しく新年を迎えるのは今も昔も変わらない。
帳簿の整理をしていた俺の足元にも子供たちは容赦なく突撃する。これはたまらんと、俺は大福帳と筆を持って隣の部屋に逃げ込んだ。
翌朝、初日の出とともに目覚めた俺たちは、湖春ちゃんはじめ店の従業員一同25名、全員で座敷に座って並んだ。
「皆さん、今年もよろしくお願いします」
床の間の前で湖春ちゃんが挨拶をする。神無月に店主が亡くなったばかりなので、あけましておめでとうという言葉は使えない。
それでもいつもより豪華な晴れ着をまとった彼女の微笑みに、普段から見慣れているはずの手代の男たちも顔を緩ませていた。
「よろしくお願いします」
店の者たちがそろって頭を下げる。いくら喪中とはいえ、やはり新年最初の挨拶は清々しく執り行いたい。
「去年は色々と大変だったけれど、今年も白石屋を盛り上げていきましょうね。何て言ったって、いよいよ江戸にもお店を開くのだから」
こんなにおめかししながら、結局いつもと同じ調子で話す湖春ちゃんに、店の者たちは呆れながらも安心していた。
その後すぐに解散すると、店の者たちは貴重な休日を過ごすこととなった。今日は1年で唯一、何も働かなくてよい日だ。店の者にとっては待ちに待った日だろう。
本来なら祝賀ムードは避けるべきであろうが、あの親父さんなら店の者たちには休みを楽しんでもらいたいと願うだろうと、料理と休みに関してはいつもの正月と同じ過ごし方をすることにしたのだった。これは湖春ちゃんが言い出したことだった。
「はい、上がり!」
「あ、湖春さんずるい!」
「ずるくないわ、こんなの運が全てよ」
子どもたちとのすごろくに勝った湖春ちゃんが新年早々調子に乗って跳びはねる。
さいころを振って上がりを目指す絵双六は、この時代には既に定番の遊びとなっていた。特に東海道や中山道の各宿をマスに見立てた道中双六は部屋の中に居ながら旅気分を楽しめるとあって、民衆に広く受け入れられた。
家の中では他の子供たちもあやとりをしたり囲碁を打ち合ったり、庭に出て雪の上でちゃんばらをしたりと各々遊びに興じている。一日中自由とあって、束縛から解き放たれた子供たちは精一杯この時間を享受していた。
ちなみにこの時代に初詣の習慣は無く、正月は家で過ごすのがほとんどだった。ただでさえ寒いのに外に出ても店は開いていないので、遊びの大半は室内で完結するものが多かった。初日の出を見ることさえも一部のモノ好きの間で広まっている程度で、現代の常識とは色々と異なっている。
まあ、お年玉お年玉と子供たちから正当に現金を要求されないのは気が楽だが。
「サブさん、弱いなあ」
一方の俺は吉松と将棋を指し合い、次々と持ち駒を奪われていた。いつも俺を見下しているような吉松の顔が今日は一段と憎らしい。
俺自身将棋はそこまで得意ではない。別の子と対戦していたら吉松が割り込んできたのだが、さすがは数学の天才、ゲームに関してもずば抜けた技術と閃きを備えている。
さらにこの盤面、初期状態では『醉象』とかいう見慣れない駒が王将の前に堂々と置かれている。聞けばこれは酔って暴れたゾウのことで、後退以外は全方向に一歩ずつ動ける駒らしい。
どうして戦場にゾウを連れてきたのかは分かりかねるが、これをうまく活用する方法がどうも思いつかない。
あれよあれよと俺の率いる軍勢は歴戦の軍師を前に為す術もなく瓦解していった。
「これで8連勝、サブさん、外郎おごってもらう約束だからね」
「くっそー、別のゲームなら勝てるのに……」
咄嗟に横文字を使って呟いてしまったが……得意顔の吉松は気付いていないようだ。
「みなさん、お雑煮ができましたよ」
手代の中でも料理の得意な青年が台所から顔を出す。年初めのこの料理は男の手で作るのが慣例だった。
運ばれてきたお雑煮は田舎味噌仕立ての優しい味のものだ。昆布出汁をベースに里芋、大根、餅を煮込み、自家製の味噌を混ぜている。
各自お膳を前にした俺たちは待ってましたとばかりに喝采を上げ、丁稚も手代も店の者皆で肩を並べて温かい雑煮を頬張った。
「丸餅かあ、珍しいな」
「え、お餅って普通丸めるものじゃないの?」
つい思ったままに言ってしまった俺に、口に噛んだ餅を箸で伸ばしていた湖春ちゃんがきょとんとした目を向ける。
雑煮に入っていたのは丸餅だった。昨日手代たちがついたもので、その後俺も混じって餅を丸めていた。
元々角が立たないようにという意味を込めて、お雑煮には全国的に丸餅が使われていたそうだ。だが人口急増に困惑する江戸ではいちいち餅を丸めるのが面倒なため、切りそろえるだけの角餅が広まったという。
その名残だろう、現代でも東京では角餅の方が一般的だ。俺も東京の実家では角餅しか出されなかった。
丸餅かあ……この形を見ているとさっき丁稚の子供がやっていた囲碁を思い出すなぁ。囲碁のルール、実はよくわからないけど。
「囲碁……そうだ!」
「どうしたのサブさん?」
餅を呑み込むなり湖春ちゃんが尋ねる。
「吉松!」
俺の呼びかけに呑気に雑煮をすすっている吉松が怪訝な顔を向ける。
「もう一回勝負しないか? 勝ったら外郎、もう一本追加していいよ」
「本当!? でもサブさん弱いからまた勝っちゃうけど?」
小馬鹿にしたように笑う吉松。だがそんな顔ができるのも今の内だけだ。
「いいよ。でも、俺が即興で考えた遊びでね」
「何これ?」
子どもたちが群がる中、俺は紙に8×8のマスを描いていた。またそのマスの大きさに合わせて丸く紙を切り、その片面に墨で十字の印を書き入れる。
「ああ、さっき思いついた遊びでね。この小さな丸い紙は表に十の字が書いてあって、裏には何も書いていない。で、俺はこの表を、吉松は裏を交互に囲碁と同じように打つ。でもルール……いや、遊び方は単純、表と表の間に裏を挟んだらその紙はひっくり返って表になるんだ」
長々と説明しているが、つまりはリバーシだ。
片面が黒、もう片面が白に塗られた石を互いに打ち合い、相手の石を挟むとひっくり返して自分の石になる。単純ゆえに年代を問わぬ間口の広さと、今なおコンピュータが人間に勝利できない奥深さを兼ね備えたゲームだ。
このゲームは江戸時代の日本には存在していない。確か元はイギリスでできたゲームだとか聞いたことはあるが、とにかくこの場の誰も知らない遊びであることは間違いない。
ちなみにこのゲーム、日本人にとっては別の名の方が有名であろう。だがこちらは商標なので、この場での使用は控えさせていただく。
「ほうなるほどね、おもしろそうじゃん」
不敵に笑う吉松。既にかった気分のようだが、そうはいかせるものか!
いくら吉松でもこちらには一日の長がある。負ける要素はない!
「さあ大人の恐ろしさ、見せてやる!」
「今日のサブさん、なんだか子供みたい」
盛り上がる俺に湖春ちゃんはぼそっと言い放った。
「やっぱり天才児には勝てなかったよ……」
盤面のほとんどを十字に埋め尽くされた俺は、その場で突っ伏してしまった。
「はい、外郎いただきまーす!」
子どもたちの歓声に包まれながら、吉松はほっほっほと老練の大名のように笑っていた。
最初こそ俺優勢でゲームを進められていたものの、何度か試し打ちする内に吉松は遊び方を覚えたようで、俺の置きたい場所を塞ぐように石を置き始めたのだ。四隅を取れば有利、という事実をわずか2手目で見抜いたのは驚異的だった。
結果として後半になるほど吉松が逆転し、ついに俺は敗北した。
このゲームの存在すら知らなかった初心者、それも子供に負けてしまったショックで、俺の中の大切な何かが崩れてしまった。あまりにもカッコ悪すぎる……。
「でも思い付きの割りに結構面白いじゃん。ねえ、これ商品にしたら売れるんじゃね?」
吉松が俺にぐいっと顔を近づける。その目はこれぞ名案とばかりに輝いていた。
「そうだね、いいかもね……」
確かに良いアイデアだが、それよりも今は大人としての威厳をボロボロにされたせいで、俺はへへっと軽く笑って答えるのでいっぱいいっぱいだった。




