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第十二章 その2 近江八幡雪景色

「ほう、随分と変わった形の鉄板だな」


 かまどから猛火の噴き出す工房の中、鍛冶屋の主人は広げた紙をじっと眺めながら呟いた。普段は包丁や鎌などの日用品を作っているようで、こんな物を頼まれるのは滅多に無いそうだ。


「そうです、この鉄板なら中に空洞ができるので、そこに小さな人形を入れることもできます」


 俺が江戸で出会ったおみくじ煎餅専用の煎餅焼き器の設計図だ。鉄板に窪みを作ることで独特な扁平形の煎餅を形成するのも容易になる。だが茜さんはこれをただの鉄板でも焼き上げられるというのだから、相当熟練した煎餅焼きの腕を持っているのだろう。


「ふうん、江戸では変わったものが流行っているんだな。わかった、今から準備するから時間はかかるけど、年が明けたら多分完成しているだろうから持っていくよ」


「ありがとうございます!」


 季節外れの汗を垂らしながら、俺はぺこりと頭を下げる。


「ああ、今後ともよろしくな。是非うちの道具を使ってくれよ!」


 挨拶もほどほどに鍛冶屋を出る。瞬間、それまでの熱気が嘘のような厳寒が身を突き刺し、俺は縮こまってしまった。


 年の瀬のこの日、八幡の町は雪景色だった。


 黒い瓦屋根も茅葺き屋根も皆一様に白一色の化粧を施し、八幡山は完全に雪で覆われている。


 道行く人はみので寒さをしのぐが、子供だけは今も昔も変わらないようで友達同士雪の上を走りまわっている。


 そんな子供たちに道を譲りながら、俺は紙の切れ端にまとめた今年中にやることリストのひとつにチェックを入れ、「これでよし」とひとり呟いた。


 おみくじ煎餅を八幡で売り出す計画が、ようやく一歩前進した。


 江戸で升衛門から解放された後、俺は茜さんの実家を訪れて改めて煎餅の大々的な売り出しについて話を進めたのだった。


 傾いた煎餅屋である彼女の家には病床の母と娘とが慎ましやかに暮らしていたが、最終的に白石屋がおみくじ煎餅のアイデアを拝借する形で全国に広めることで話はまとまった。


 茜さん一家には自分で働かなくとも食べていけるだけの金額が白石屋から毎月送られる上に、白石屋のおみくじ煎餅が有名になれば相乗効果で本家である浅草にも客が来る、さらに彼女らに経済的な負担は一切なしと良いことづくめの条件を提示したら、すんなりと応じてくれたのだった。


 だがそれでも彼女は煎餅焼きを続けるという。


「私はそんな豪勢な生活なんて似合わないよ。煎餅を焼いて、子供たちを喜ばせられたらそれでいいのさ」


 茜さんは屈託の無い笑顔でこう言った。打算的な人間には絶対にできない、気持ちの良い表情で。


 あの笑顔を守るためにも、俺はおみくじ煎餅の事業に全力で取り組むと改めて決心した。




 白石屋に帰ると店はいたって静かで、若い手代たちが囲炉裏に集まってくつろいでいた。


 こんなに寒くて雪深くては客足も遠のく。そもそも店の者だってすすんで外に出たくなどはない。


「ふうん、こうやって作るのですね」


 そんな中、台所で茜さん直筆のレシピメモを眺めるのは女中のかずらさんだ。


 料理の得意な彼女なら煎餅焼きもお手の物。俺は湖春ちゃんとも話し合い、彼女をおみくじ煎餅事業の重要メンバーに任命した。


 今まで店の奥で商品に触ることも無い裏方作業ばかりだったが、男たちに混ざって手腕を発揮できるとあって俄然張り切っていた。一見クールな彼女が最近饒舌になっているのは明らかな変化だった。


「でもなあ、いくら新しい商品でも、おみくじ煎餅だけってのもなぁ……」


 平穏な店内を見渡し、俺はまたひとりごちた。


 おみくじ煎餅は優れた商品にはなろう。だがせっかくの新しい事業なのだから、もっと派手なインパクトも欲しいところだ。これに乗じて他のビジネスにも繋げられればなおよしなのだが。


 ふと丁稚の子供たちに目を移す。


 火の回りから動かない手代と違い、掃除をしたり荷物を運んだりと店の手伝いに励んでいる。だが彼らも普段、自由時間となれば庭先でふざけ合っているような年頃だ。


 今ちょうど手が空いているのか、店の隅っこでじっと本を読んでいる吉松だって普段は他の子と走り回って遊んだり喧嘩したりしている。丁稚同士でも色々と力関係があるようだ。


 これくらいの子がおみくじ煎餅のメインターゲットなら、この子たちにアピールできるような商品を併せて開発すれば良いのではないか?


 それなら玩具など、子供の興味を強く惹きつける商品を同時に売り出してみてはどうだろう?


 そんなこんなで土間で立ち尽くしたまま考え込んでいると、ちょうど本を読み終えた吉松が「サブさん、どうしたの?」と訝しげに尋ねてきたのだった。


「ああ、ちょっと考え事ね。どう、その本?」


「うん、すっごく面白いよ、ありがとう!」


 吉松は満面の笑みを俺に向けた。


 この吉松は俺が番頭になっても一向に生意気な態度を改めない。まあ、そこがこいつらしいといえばらしいのだが。


 ちなみに今吉松が読んでいる本は俺が江戸で土産に買ってきた『発微算法』他数冊、この時代の算術書だ。勝手に名前を使った礼にと与えてやったら、不思議な顔はしたもののすぐさま貪るように読みふけっていた。


 本当に嬉しいのだろう、江戸から帰ってきてからというもの、暇さえあればずっと本を読んで庭の地面に俺でさえ理解できない数式を書いている。本当に良い買い物をしたと思う。


 俺もふふっと吉松に笑い返した、その時だった。


「お忙しいところ失礼します」


 店の戸が開けられ、蓑を着た若い男が店にやって来たのだ。


「棟弥さん!?」


 そう、あの川辺屋の棟弥さんだ。


 俺と湖春ちゃんはすぐに棟弥さんを奥の座敷まで招き入れ、襖を固く閉め切った。


 先日と同じく俺と湖春ちゃんが並び、棟弥さんと対面する。ただ今は以前のように、隣に父親である店主の姿は無い。


「栄三郎さん、私の店主としての初披露は年明け最初の会合になります。それをまずお伝えしておきたかった」


 棟弥さんはよそよそしくお辞儀をしながら話した。


 八幡の商人は店の跡を継ぐ際、商家同士の会合で仲間たちから正式に新たな店主であると認めてもらう必要があった。仲間内で信頼の置ける人物でないと、正式に店主は名乗れない。


 だが当然、そういったものはある程度脚本が決まっている。根回しを重ね、本番もつつがなく進行させるのが定石だ。


「そうですか、それでは川辺屋も安泰ですね」


 俺は心底ほっとした。俺の期待通りの展開で嬉しかったが、一方で心配事もあった。


 棟弥さんの父親、つまり川辺屋の店主はある日夜の内に忽然と姿を消してしまった。聞けば書置きで「息子の成功を遠き地にて願いながら余生を過ごす」とだけ残されていたらしい。


 隠居するか、もしくは近くの寺に入ってくれればいいや程度に思っていた俺はこの事実にショックを受け、自分がいかに浅はかであったか反省した。


 憎らしい親父ではあるが棟弥さんにとっては大切な父親だ。彼の喪失感はいかほどのものか、想像できない。


 俺の言葉を受けて棟弥さんは「はい、精進してまいります」と礼を返し、ゆっくりと身を起こした。


 だがその目はまったく笑ってなどいなかった。身体ももじもじと揺らし、どうも落ち着かない。


「棟弥さん、他に話したいこと、あるんじゃない?」


 湖春ちゃんが至ってストレートに尋ねる。


 棟弥さんは「ははっ」と小さく笑うが、すぐさま俺が「話したいことがあるなら、思い切って吐き出していいと思いますよ」と付け加えると、顔はたちまちこわばった。


 そしてしばらく黙り込んだ後、呟くように話し出したのだった。


「はい……私は悪事に手を染める父を憎たらしく思っていましたが、いざいなくなると胸にぽっかり穴が開いたようで。店の者たちも皆同じようで、何をするにも気分が億劫になっているのです。父の存在は大きすぎた、そしてそんな父を放っておいたのは……私の責任です」


 棟弥さんはぷるぷると震えていた。俺は慌てて口をはさんだ。


「そんな、棟弥さんは何も悪くないでしょう?」


「いえ、問題を止められる立場にありながらそうしなかった私に非があります。何せ私は悪いとわかっているのに何もしなかったのですから。少なくとも私がもっとしゃきっとしていれば、江戸支店のような事件は起こらなかったはずなのに」


 ついに棟弥さんが目頭を押さえた。


 江戸支店の暴走を招き俺を監禁させ、店の経営が悪化、さらに父親まで失った。彼も彼なりに罪悪感に苛まれているのだ。


 そんな彼の哀れな姿を見て、俺の口は自然と開いていた。


「棟弥さん、あなた思い詰めすぎですよ」


 湖春ちゃんが驚いたような目でじっと俺を見ている。一方の棟弥さんは相変わらず目を隠したままだが。その動きはピタリと止んだ。


「お父上が善良な商人であったとはとても言い切れません。不正や妨害工作に手を染め、多くの人を貶めているのですから。ですがこれだけは言えます」


 息を整え、はっきり、明瞭に発音する。


「お父上のあなたに対する愛情だけは、間違いなく本物だった。その証拠にお父上はあなたに店を託したのですよ。自分の代で盤石なる川辺屋を作り上げるため、すすんで憎まれ役を買いながら」


 棟弥さんが目を拭い、俺に向き直る。泣いて真っ赤に染まっているが、強い意志を秘めた男の眼。


「そんなお父上の期待に応えるのが今のあなたの役目ではないでしょうか? 先祖代々引き継いできた川辺屋の看板、ここで終わらせるのは少なくともあなたのするべきことではない」


 言い切ったと同時に、棟弥さんは「わかりました!」ときっぱりと答えた。


「ありがとうございます。私は父の想いを遂げられるよう努めます。それも、父とは全く違うやり方で」


 畏まった表情で、川辺屋の新たな店主はそう言うと再び頭を下げた。彼の本当の門出は今、始まった。


 そして次に顔を上げた時、彼の顔はいつもの朗らかな好青年に戻っていた。


「ところで栄三郎さん、川辺屋江戸支店なのですが、もうあそこまで大々的な企てがばれてしまった以上、あの場所で商売は続けられません。あの店は引き払うことにします」


「それでは店の働き手たちはどうされるのです? 彼らにも家族がいるでしょう」


「ええ、それで物は相談なのですが、以前支店を構えたいと仰っていましたよね? いかがでしょう、川辺屋江戸支店の建物と土地、それからいくらかの働き手を白石屋に引き取っていただきたいのですが」


 あまりの提案に、俺も湖春ちゃんも「よ、よろしいのですか!?」と間抜けに訊き返してしまった。


 これほどうまい話は滅多に無い。


 川辺屋江戸支店の位置する日本橋地区は当時大商家や問屋の密集地であり、トレンドの発信地でもあった。商売に適した立地であるのは間違いない。


 さらに建物をそのまま使えるので建て替えの必要もない。川辺屋は多角的に事業を行っているので蔵などの設備が豊富で、白石屋もそのまま利用できる。実際に俺が見た時も、非常に立派な店構えだったのが印象に残っている。


「ええ、江戸への再進出はほとぼりが冷めてから。いつのことになるかはわかりませんけれども」


 千載一遇の美味しい話、これを断る理由がどこにあろうか。


「湖春ちゃん、どう?」


 俺は隣に座る当座の店主に尋ねた。


「お江戸進出……いいじゃない、乗りましょう!」


 一切の迷い無く承諾される。


 それからしばらく話し合いをして、川辺屋と白石屋とで正式に店舗を売買することが決まったのだった。

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