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第九章 その4 ここに残る理由

 葬儀が終わり、その年の神無月も過ぎ去った。


 紅葉も褐色に移り、山肌にも木の幹が(あらわ)になる頃のことだった。


 俺の夢に、再びあの比売神様が現れたのだった。


「ただいま、なんとか歴史は……変えられたみたいね」


 いつもの古風な衣装で枕元に立つ女神も、顔は陰鬱に曇っていた。


「はい。ですが店主さんは……」


 身体を起こした俺は顔を反らし、言葉に詰まる。わかっていたことではあっても、辛いものは辛い。


「ごめんなさい、そればかりは神である私にもどうしようもできないの」


 女神も扇で顔を隠す。ひとりの信者のためにここまでできる神だ、それだけに彼女自身の辛さもよくわかる。


「でも、あなたのおかげよ。湖春ちゃんは生き延びたし、川辺屋のせいでこの町が寂れるのも防ぐことができた。本当にありがとう!」


 女神は精一杯の明るい笑顔と声を俺に向ける。だがやはり顔の陰りは完全に消えてはいなかった。


 そして深く息を吸うと暗闇の中に浮かび上がる女神の身体が、さらに強く光を放ち始めるのだった。


「あなたも大変だったでしょう、ご苦労様。とりあえずあとは残された人たちだけでもなんとかなると思うわ。どれ、時間を元に戻すから――」


「いえ、それはご遠慮願います」


「はい?」


 女神が素っ頓狂な声をあげ、発光が止む。


「自分の時代に戻りたくないの?」


 驚いた顔で尋ねる女神に、俺は「はい」と強く言い切った。


「そりゃ家族や友達に会いたいと思うときはありますよ。ですが……託されたのです、店主さんから。この白石屋にかつての栄華を取り戻すようにと。できるかどうかはわかりませんが、少なくとも俺はこのままで帰ることはできないと、そう思うのですよ。これは私のわがままだってことは重々承知しております。でも、俺はまだ帰りたくないのです」


 数秒の間、女神は驚き顔のまま固まっていたが、すぐにくすくすと声を漏らして笑い始めたのだった。


「やっぱりあんたは見所のある男だったわね。いいわ、ここに居続けられるよう他の神様には私から頼んでおくわ。もし帰りたくなったら、いつでも私を訪ねなさい」


 そう言い残し、女神の姿は掻き消えてしまった。




 夕日差し込む縁側に、ぼうっと座り込んだ少女はぴくりとも動かない。


「湖春ちゃん、夕飯だよ」


 俺の声も彼女には届いていないようだ。


 指先ひとつ、反応しない。


 店主さんが亡くなってからというもの、ずっとこの調子だ。


「湖春さん、聞いております?」


 俺に代わって葛さんが怒鳴り付ける。


「ええ……何?」


 ようやく湖春ちゃんは振り向いた。だがいつもの元気は完全に消え失せ、脱け殻のようだった。


 はあとため息を吐きながら、葛さんは部屋の中を指差す。


「夕飯です。店の者たちも腹を空かせて待っております」


「そうね、今行くわ」


 湖春ちゃんがゆっくりと重い腰を上げる。


 その時だった。


「お、お客様です!」


 手代の一人が部屋に飛び込むように入ってきたのだ。随分と大慌てな様子だ。


「客? こんな時間に?」


「どなたです、そんな非常識な方は?」


 口々に尋ねる。手代はぶるぶると震えていたが、なんとか口を動かしてその名を告げる。


「そ、それが……紀州徳川家のご子息と!」


 葛さんの目玉が飛び出たかと思ったが、俺もきっと彼女と同じ顔をしていたのだろう。




「ほほう、お前が白石屋の店主か?」


 店の前にいたのは美しい白馬にまたがった少年だった。


 まだあどけない顔つきだが、空色の羽織袴に数名の付き人を従えるその姿は、言い知れぬ威厳を放っていた。


 俺たちは顔を直視しないよう地面に跪くが、すぐに「そう堅苦しくなるな。面を上げよ」との声に遠慮がちに顔だけを若き侍に向けるのだった。


「いえ、私は番頭でして、店主さんはこの前亡くなられたばかりで。この娘が店主さんの一人娘の湖春でございます」


 俺は隣の湖春ちゃんの背中を軽く叩く。彼女もガチガチに緊張しているようで、身体も小刻みに震えていた。


「そうか、話は本当だったか」


 馬上の少年は残念そうにため息を吐く。それを見て俺たちは首をかしげた。


「いや、先日作らせたこの日野椀、実に良いものではないか! 気に入ったぞ!」


 少年は懐からすっと何かを取り出し、俺たちに見せつける。


 夕日を反射して赤く輝く炎のようなそれは、まさしく光琳さんたちの日野椀だった。


「俺は徳川頼久(とくがわよりひさ)。ちょうどこれから江戸の紀州藩邸に向かうところだったので、礼を言いに日野に立ち寄ったのだ。だが聞けば本当にこの椀作りに尽力したのは八幡の白石屋の店主だと。しかもその店主はもう亡くなっており、これが最後の仕事だったと」


 頼久様が話すほどに、湖春ちゃんの顔に徐々に徐々に光が戻っていく。


「日野を訪ねたのならそれならばこちらもと八幡まで足を伸ばしたのだが、迷惑だったかな?」


「いえ、滅相ございません!」


 俺たちは地面に頭をこすり付けんばかりに平伏する。


 将軍の血縁から直接褒められる。当時これに勝る名誉があろうか。


「湖春と言ったな」


「は、はい!」


 不意に名を呼ばれ、湖春ちゃんも返事が上ずる。


「そなたの父上は良き働きをした。だが亡くなられたのは残念だ、代わりにそなたに礼を言おう。ありがとう」


「も、もったいなきお言葉。父も喜んでおりましょう」


 湖春ちゃんは震えながら頭を下げる。緊張と喜びで何が何やらわけがわからなくなっている興奮を必死で抑えているのだろう、動きがすべて油の切れたロボットのようで、力の加減を失っていた。


「さて、長居は迷惑だろうし、俺も戻らなくてはな。では、また何かの縁があれば会おう!」


 そう言うと頼久様は俺たちに背を向け、お付きの者たちと八幡の町を闊歩して去って行った。その姿が見えなくなってもなお、俺たちは跪き続けた。


 徳川頼久。後にこの少年が名君徳川吉宗として歴史に名を残すことに、俺は気付いていなかった。

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