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第八章 その4 思わぬ依頼、来るべき時

地元に帰った際の取材記録を短編のエッセイにまとめました。

つきましてはこの作品を軸に『近江商人シリーズ』として関連作品をまとめます。

他に取材を行った際などに、関連作品が増えることがあるかもしれません。


というわけで是非短編エッセイ『近江商人の聖地を訪ねて 近江八幡取材レポート』もご一読ください。

 俺と光琳さんは店主に率いられて再び日野の町を訪ねた。


「白石屋さん、今更こうも舞い戻って来られましてもねぇ」


 大葦おおよし屋の若き店主はじっと俺たちを見下ろした。


 俺たちが持ちかけた話が光琳さんのわがままな振る舞いでおじゃんになりかけたのだ、ブチ切れられても文句は言えない。


「ええ、それは私の責任です。申し訳ありません」


 白石屋の店主はひたすらに頭を下げる。やせ細った身体のおかげで、いつも以上に弱々しく見えた。


 そんな姿を見て大葦屋の店主も腹の虫が多少は収まったのか、ため息を吐くとわざとらしい笑顔を向けた。


「まあいいです。今度こそ本当に頼みますよ。私らだって他に注文されている品もたくさんあるのですから」


「はい、ありがとうございます」


 俺たちは再びそろって頭を下げた。


 正直、話しを断られる覚悟もしていたが、危ういところで首の皮一枚つながった気分だ。


「ところで……先日このようなふみが届いたのですがね」


 そう言いながら若き店主は黒い漆塗りの文箱から一枚の紙を取り出した。


 折りたたんだ書状だ。傍から見ても上質な紙が使われ、美しく崩された文字が長々と書き連ねられている。


 それを手渡された白石屋の店主は、読み進める内にだらだらと汗を流し始めたのだった。


「なんと、これは紀州徳川家からの文ではありませんか!」


 な、なんだって!?


 あまりに驚き過ぎて、俺も光琳さんも言葉を出せないまま顔を見合わせていた。


 肌寒くなってきた季節だというのに、大葦屋の店主も扇子を取り出してパタパタと自身をあおぐ。


「ええ、上方で評判の日野椀を是非とも所望したいとのこと。藩主光貞様の12歳になられるお子がどうも手の付けられないほどの暴れん坊だそうで、投げても壊れないほど丈夫で、かつ見栄えある漆器が必要だそうです」


 紀州といえば現在の和歌山のこと。そこを治めるのが紀州徳川家。


 江戸時代、徳川家の親戚筋で特に力を持った御三家の一角だ。そこらの藩主とは比べ物にならないほど圧倒的な権力を持った家系で、江戸時代の日本を直接支えた名門中の名門だ。


「光琳殿の蒔絵を施しながら頑丈な椀を作る。願っても無い好機だと、私は思うのですがねぇ」


 扇子をあおぎながら平静を装う大葦屋の店主。彼としても最高級の逸品を贈りたいと考えるのは当然のこと。


 光琳さんの蒔絵は日野椀を彩るのに最適だった。


「私もそう思います。光琳さん、いかがですかな?」


 白石屋の店主は振り返って尋ねる。だが肝心の光琳さんはぼーっと口を開いたまま固まっていた。


 あまりの高貴な名の登場に我を忘れていたようだが、店主が再度「光琳さん」と声をかけると跳ね上がるように商機を取り戻し、額の汗を拭うのだった。


「じ、実用というなら仕方ない。それで作ってみるよ」




「よく戻ってこられたな」


 俺たちが店の暖簾をくぐった瞬間、ちょうど漆に赤色の顔料を溶かしていた誠蔵さんはこちらに目を向けて言い放った。


「その件については本当に申し訳ありません。私からも謝ります」


 白石屋の店主と俺、そして光琳さんも頭を下げる。


「椀が完成するまでは白石屋との連絡役にこちらの栄三郎を日野に残します。何かあればまずこの者にご相談ください」


 話し合いの末、俺はこの日野で光琳さんの監視をすることとなった。八幡の町で商家と寺子屋の運営に関わりたいところだったが、今はまずこちらが優先だ。


「ふん、まあいい。光琳さん、あんたこれからどうするんだ?」


 鮮やかな朱に輝く漆をとぎながら誠蔵さんが尋ねると、光琳さんはむっと頬を膨らませながらもずかずかと床に上がり込んだ。


「作るものはだいたい決めている。作業に戻るよ」


 聞いて誠蔵さんは「そうか」と一言呟いた。




 蒔絵とはその名の通り、漆器などの表面に金属粉をまいて描き出す表現技法だ。


 その技法も数多く存在し、既に出来上がった漆器にさらに漆を塗って乾かない内に金粉をまく「平蒔絵」や、塗った金粉の上にさらに無色の漆を塗り重ね封入した後に磨いて平坦にする「研ぎ出し蒔絵」などが基本的なものとして知られている。これらにはさらに細かい分類や立体化の技法もあり、その表現の幅は広い。


 今回課された条件である実用に適した漆器となれば、手にフィットしながらかつ金粉の剥離の少ない技法が好ましいのは当然だ。


 だがそれは技法の制限を意味し、真鍮しんちゅうなど人体に有毒な金属は使えない。ちなみに真鍮の錆である緑青ろくしょうには毒性があると言われているが、実際は他の金属と大差ないと判明している。この時代、緑青は猛毒と考えられていたことに留意したい。


 いずれにせよ実用性を重視した場合、自由な表現の幅が大きく狭まるのだ。


 この枷は職人にとっては当たり前のことだが、芸術家である光琳さんには耐えられなかったのだろう。そこに互いに譲歩できない性格が合わさってあんな事態に陥ったのだ。


 今度は最初から実用向けと目的が明示されているので、光琳さんも渋々ながら条件を呑むことができた。


 いやはや、共同で事業を行うことがどれほど大変か。認識の齟齬をあらかじめ取り払っておくのがいかに重要か思い知らされた。


 店主を先に帰し、残された俺は監視役を務めるべく工房の隅っこに座り込んで作業に当たるふたりを見守る。


 ではいざ、製作に取りかからん。


 光琳さんはひとつ、乾燥の終わった椀を手に取る。既に漆を塗り重ねられ、光沢も放っているこのままでも使えそうな状態だが、ここからさらに塗り重ねて仕上げるらしい。


 針の先よりも細い絵筆の先端を巧みに操り、下絵も無しに漆を塗り付ける。しかもこの漆は赤や黒で着色されていない、やや飴色に染まった透明なワックスのようなものだ。当然、光琳さんの並外れた構成力と造形力あっての芸当である。


「ふーんふん、長刀突き出し山伏出でれば、月のもとに岩戸が開くー♪」


 妙な鼻歌を口遊みながら軽やかに筆を動かす光琳さんの顔は、夢中で遊ぶ幼い子供のようだった。これが彼の創作スタイルなのだろう。誠蔵さんが一瞬だけ睨みつけたが、そんな彼も木地剥き出しの椀を目の前にすれば一切の雑音を遮断し自らの世界に没入し、朱の漆を椀の表面に塗りつける。


 迷いなく走らされた筆は間もなく一枚のかえでを描きだす。それを何枚も何枚も、繰り返し椀の側面に描いて埋めていくのだ。


「遊びをせんとや生れけむー戯れせんとや生れけんー遊ぶ子供の声きけばー我が身さえこそゆるがるれ……と、できたー!」


 恐ろしいスピードだった。


 ものの15分もかからない内に、光琳さんは無数の楓の葉を描き切ったのだった。あとは数日寝かせ、乾く直前に金粉をまいて色を付け、最後に漆を重ねて磨けば完成だ。


 漆の乾燥には時間がかかり、早くともこの椀の完成まではあと一週間はかかるだろう。


「これは鈴鹿の山々の楓だ。もうすぐしたら、ここはさぞ絶景の紅葉を拝めるだろうな」


「ほう、京には紅葉の名所も多いと聞き及んでいたが、鈴鹿の山が気に入ってくれたかな?」


 光琳さんの言葉に、珍しく作業中の誠蔵さんが返事した。


 なんだか嬉しそうな顔。とっつきにくい印象だが、意外と気さくな人なのかもしれない。


「ああ、見れば鈴鹿の山には色とりどりの木々が植わっている。赤一色に染まるのも良いが、そこに混じる緑や黄の葉、さらには枯れ木もすべてが合わさってひとつの風景となるのが面白いんだ。そんな美しさを俺はこの手で描き出したい」


 誠蔵さんは光琳さんの話にうんうんと頷く。


「俺もだ。目指していたのは本物の楓以上の赤だ。今はまだまだだが、必ずや野山の色をこの椀に写し取りたい」


「ほほう、その時は俺の蒔絵でさらなる秋を演出してやろう」


 そこではははと笑う二人。つい先日まで意見を異にしていた仲とは思えない。


 やれやれ、こんな雰囲気がいつまでも続いてくれれば良いのだが。




 その夜、俺は旅籠の一室を借りて眠った。


 この日野は東海道土山宿と中山道小幡宿とをつなぐ脇街道沿いに位置し、東海道ほどでなくとも宿が軒を連ねている。盆地である近江は網の目のように街道が整備されていた。


「ちょっとあんた、聞きなさい」


 聞き覚えのある声に俺は目を開く。なんと枕元に立っていたのは日牟禮八幡宮の比売神だった。てっきり神社を離れることができないとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。


「私はもう社殿を離れるから、あんたとはしばらくの間話すこともできないわ」


「そうですね、神無月ですものね」


 俺は布団から身を起こし答える。


「そう。で、大切な話よ。史実なら白石屋の店主さんは、あと1週間で亡くなる」


 俺は喉を鳴らした。


 覚悟はしていたが、いざその時が近づくとなると心臓が激しく脈打ち、息さえも辛くなる。


 あの優しくて頼りになる店主が。普通なら妄言と切り捨てるような俺の言葉を聞き、受け入れてくれたあの店主がいなくなると思うと寂しいし、悲しい。


 それに残された店の者たち、吉松ら丁稚に葛さんら女中、そして湖春ちゃん。彼らが精神的支柱を失えばどうなるか、一切想像できない。


「とりあえずあんたのおかげで神無月の間に店が潰れるのだけは回避できたわ。でも、人の生き死に関しては神であっても手出しはできない、こればかりは変えようが無いわ。本人の気力で持ったとしても、せいぜい数日生き永らえるだけよ」


「店主さんを救う方法は無いのですか?」


 これから確定的に迫り来る難局を、俺は乗り越えられる自信がまだ無かった。とにかく店主の命が一分一秒でも伸びてくれれば、ただただそれを期待していた。


 だが女神は顔を背け、手にした扇で顔を隠すのだった。


「残念だけど。それにあったとしても私の口から教えることはできないわ。ただ……」


 そしてちらりと扇の隙間から目を覗かせる。


「この町からなら鈴鹿峠も近いわよね。ちょっとそこの知人を訪ねてみなさい。あ、今のはオフレコでお願いね」


「どういうことですか、女神様!」


 鈴鹿峠? 知人?


 何のことやら、つい強く尋ね返してしまった。




 気が付くと俺は布団に仰向けに寝ていた。当然目の前には女神など立ってはいない。


 ぐっしょりと汗に濡れ、布団もひどく湿っていた。


 今のはただの夢か、それとも……。


「鈴鹿峠……あそこって確か」


 女神の言ったことを思い出す。


 鈴鹿峠は以前、宗仁さんのもぐさを売るために歩いた場所だ。ここからなら無理すれば日帰りでも往復できる。


 あそこでは確か若葉率いる山賊たちに襲われた経験があるが、知人とは彼女のことだろうか?


 気になり出すと夜闇の中でもすっかり目も覚めてしまった。ずっと布団でごろごろしていたが、空が明るくなり始めると俺は早速布団をたたみ、日の出を待たずして宿を発ったのだった。

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