第八章 その1 その男、尾形光琳
「よう葛ちゃん、美人さんになっちゃって。昔からそうだったけど」
白石屋の座敷に通された尾形光琳を名乗る男が出された菓子をパクパクと食べるのを、俺は襖の隙間から覗いていた。
まさかこの無頼漢みたいな男が、あの尾形光琳本人なのか?
江戸時代の代表的な画家であり、緻密な描写と美麗な装飾で、平成の今でも日本芸術の頂点に君臨する大芸術家。
そんな歴史的偉人の在りし日の姿を、俺は目にしているのか?
「お久しぶりです光琳さん」
白石屋の店主が出迎える。歩くのも辛くなってきたのだろう、自宅の畳の上でもふらふらと足取りは重い。
「やあ白石屋の旦那さん、相変わらず元気そう……てわけじゃなさそうだね」
「歳には勝てませんよ。こんな所までどういったご用件で?」
笑って答える店主に、突如光琳は畳に手を付いて深く頭を下げた。
「旦那頼む、一生のお願いだ! 俺の絵を買ってくれ!」
突然のことに襖の向こうの俺は固まってしまった。
だが店主は見越していたように目を逸らし、小さく断るのだった。
「光琳さんの絵が優れているのは皆も存じております。ですが白石屋も最近は持ち直したとはいえ、まだまだ蓄えは十分ではありません」
「そこをなんとか! 別に屏風でなくてもいい、団扇でも、店の包み紙でも!」
聞けば光琳さんの家は京の商家だが、以前から経営難に陥っているらしい。今は跡を継いだ兄がなんとか持たせているようだが、弟の光琳さんの絵が貴重な収入源になっているのが実情のようだ。
「なんとかと言われましても……うちの経営も難しい状態ですからねぇ」
店主の言うことももっともだ。まだまだ白石屋には絵を買うほどの余裕は無い。商家の生まれの光琳さんもそれは分かっているはずだ。
「旦那さん、旦那さん」
頭を抱える店主に俺が襖の隙間から小さく呼びかけると、「どうしました?」と光琳さんのいる座敷を出る。
「あの方は画家の尾形光琳……さんでお間違い無いのですね?」
「はい、京の雁金屋という呉服屋の当主の弟なのですが、むしろ画家として活動しておられるそうですね」
「実は私のいた300年後の世界でも、尾形光琳の名は残っているのです。歴史を変えた大画家として」
無言のまま、店主はこの上なく驚いた。やつれた頬のおかげで、ムンクの叫びにも似ている。
「なんと、それは驚いた。いやはや、あんな根なし草のような方が」
芸術家には変わった人が多いからなぁ。
「はい、今はまだ一画家という扱いでしょうが、やがて日本中、いえ世界で評価されます。多少無理してでも光琳さんに作品をお願いする意味はあると、私は思いますよ」
「そうですね……」
店主は顎を手に当てて考える。そしてしばらく経ってから「サブさん、一緒に座ってくれませんか?」と俺に訊いた。
「ええ、もちろん」
俺は頷き、店主に続いて光琳さんのいる部屋に入った。
「光琳さん、これはうちの店で働く栄三郎と申す若者なのですが、どうも光琳さんの絵に興味あるそうで。少しばかりお付き合いお願いできませんかね?」
光琳さんはぱあっと明るい顔を向ける。子どものように笑う人だ。
「お、絵に興味があるなんて若いのに感心だなぁ。俺の絵は見たことあるのかい?」
美術に興味がないことはない。
上野の国立博物館や西洋美術館でおもしろそうな企画展が催されれば、朝イチで並んだこともある。
大学でも初等科美術科教育の科目が必修だったので、一通り芸術史についてはさらっとだが習ったつもりだ。
「はい。金地に咲き乱れるかきつばたの絵が特に印象に残っています」
とりあえず教科書で見た尾形光琳の代表作である燕子花図屏風を思い出して話す。
この江戸時代は文化史としても、文化の大衆化という世界に類を見ない変遷を起こしている。
文化とは往々にしてその時代で最も力を発揮した階層が牛耳ることが多い。
たとえば平安時代なら雅な貴族文化。華やかさと厳かさが調和する宮廷では、能や雅楽、和歌が好まれた。
次に訪れた鎌倉時代は質実剛健な武家文化。自己鍛錬を重んじる武家の風潮は仏教芸術、特に禅宗との相性が良く、茶の湯や侘びさびの思想もこれを基に生まれている。運慶、快慶といった優れた仏師も武家文化の隆盛とともに名を挙げている。
そして江戸時代には町人が経済力をつける。大衆が主役となった時代では、それまでの高度な精神世界の追求は失速し、逆に即物的で分かりやすい文化が育まれる。具体的には笑い話の落語や大衆文学、娯楽として歌舞伎や浄瑠璃が発達した。
光琳の絵も仏画や水墨画のような奥ゆかしさを求めた物とは違い、秀吉が黄金の茶室に求めたような荘厳さと煌びやかさで見る者をただただ圧倒するのが特徴だ。
かの岡倉天心は江戸時代の芸術が大衆に迎合したことを嘆いていたが、時代ごとに求められる物は変わるのだからこの変化は当然と言えば当然である。
「あれ、俺そんな絵描いたかな?」
光琳さんが頭をかき、俺は顔をひきつらせた。
あれはもっと後年の作品だったようだ。
実際に光琳の作品で1600年代の物はあまり残っていない。彼は遅咲きだったのだ。この1695年時点では、まだ評価はさほど高くない。
「まあいいや、俺のことを知ってるなんて嬉しいね。感謝のしるしにほれ、ひとつ絵を描いてあげよう。白石屋さん、墨をもらってもいいかい?」
ルンルンと上機嫌な光琳さんが店主に尋ねる。
「ええ、あまり上質なものではありませんが」
「いいですよ、弘法は筆を選ばず、光琳は墨を選ばずってね」
そう言うと光琳さんは下敷きの布と紙を座敷に敷くと、出された硯に筆を付ける。そして鼻歌交じりにさらさらーと軽い筆使いで絵を描き始めたのだった。
もうしばらく時間がかかりそうだ。俺と店主は縁側に出てひそひそと話し始めた。
「店主さん、光琳さんが後に評価されるのは私が保障します。そこでここは光琳さんの絵を買うのではなくその力を借りて、ひとつ新しい商売に手を出してみてはいかがでしょう?」
「新しい商売ですか? ですが絵は一品ものですし、売り歩くものとはまた違いますよ」
「いえ、光琳さんは画家としてだけでなく、後の世ではデザインセンスも高く評価されているのです」
「でざいんせんす?」
「ええと、形を描く力と言いますか……家紋や模様を描くのが得意なのです。これは形が大切なのです」
俺はあれこれと店主に説明する。今までにない商売の方法だ。
店主はその突飛さに「はあ?」と何度か聞きなおしたが、最後には「もう私も長くない、あなたにお任せしますよ」と俺に託したのだった。
「できたよ!」
ちょうど光琳さんが声をかけ、俺はできたばかりの絵を覗き込んだ。
目の粗い紙に黒い墨のみで描かれた鯉の絵だ。見本も無いのに、鱗の一枚一枚まで丁寧に描き込まれている。縁起も良いので掛け軸にはもってこいだろう。
「はい、どうぞ」
俺は嬉々として受け取った。
もしもこれを現代に持って帰れたなら、某お宝鑑定番組では凄まじい価格が付くだろう。
「ほっほっほ、鯉は滝登りで良いものです。これから昇り行く若者のサブさんにはぴったりですな」
店主さんの声に俺は気付いた。光琳さんが鯉を題材に選んだのは、単に得意だからという意味ではなく、俺に当ててのメッセージだったのだ。
熱いものがこみ上げた俺は、気が付けば光琳さんの前で座って身を乗り出していた。
「光琳さん、あなたの絵は素晴らしいです。そこでですね、ひとつ私たちと新しい商売に乗り出してみませんか?」
「商売?」
「はい、良い案がひとつありまして」
俺のアイデアはこうだ。
まず光琳さんがデザインした何かしらの商品を作り、京の一流画家が描いた作品だと宣伝して売り出す。
それをどこかの有力な大名に献上できれば安泰、あの大名も愛用している品であるとアピールしながら庶民でも手の届く価格で売り出せば、強いブランドを確立できる。
つまり野球選手愛用のグローブと同じ発想だ。有名選手の名が挙がるだけで子どもたちは親にねだるからな。
「あんたが俺を高く買ってくれていることは嬉しいよ。でもそんなにうまくいくものかねえ、俺はこの歳でも京から出れば無名だし」
目を輝かせながらも哀愁を漂わせながら、光琳さんはぼそっと言い放った。
「なああんた、今まで見た絵の中で最高のものって何だと思う?」
不意に尋ねられた俺は「え?」と返事に困る。
現代ならゴッホとかピカソとか答えるところだが、今は元禄時代。これ以前の時代の作品なんてほとんど知らないぞ。
「風神雷神図屏風、ですかね」
美術の教科書を思い出し、出任せで言ってみた。確かこれは1600年代の前半だったような気がする。
その時光琳さんの身体がぴくっと跳ね上がった。
「それって……俵屋宗達先生のか?」
「はい、あれです」
左に雷神、右に風神。あまりに有名なあの屏風絵だ。
直後、俺は驚きで固まる。
突如何の前触れも無く光琳さんが目を押さえ、涙ぐんだのだ。
「ど、どうされました?」
慌てて俺が声をかける。
「……気に入った」
「……はい?」
「気に入った! その話、乗ってやろうじゃないか!」
光琳さんが俺の肩を強くつかんだ。涙でだだ濡れのくしゃくしゃの顔は、満面の笑みで彩られていた。
「俺はあの屏風絵を一目見た時からあの絵に取りつかれてしまった。何十回何百回と模写を続けたが、一度も満足できる作品にはならねえ。でもな、あの絵は俺の中で一生をかけてでも作り上げる到達点であり、超えるべき高嶺なんだ! 俺はいつかあれを超えてみせると、」
そうだ思い出した。
尾形光琳は俵屋宗達の模作として、風神雷神図屏風を描いたのだ。
上野の国立博物館に収蔵されている風神雷神図屏風を、俺は何度か見ていた。そしてそれは尾形光琳の作だった。
偉大なる先人へのリスペクトと対抗心が結実した光琳の作品は、宗達のそれとは空間の使い方が微妙に異なる。模作でありながら違った味わいを見せる、全く別の作品に仕上げられている。
「俺はあんたが気に入った。あの絵の良さが分かる奴なら、俺の絵に対する姿勢も分かるはずだ。その商売、一緒にやろうぜ!」
「ありがとうございます!」
よくわからない激情家のこの人だが、気持ちの良い人であることだけは分かった。矛盾する言い方かもしれないが、俺にはこの人のことが少しだけ分かった気がした。
「それじゃあ、どんな品に光琳さんの技術を転用しましょうか?」
俺と店主、光琳さんの三人は茶を交えて話し合う。
「俺は蒔絵もできる。漆塗りの商品なら売り出せるだろうな」
「漆器ですか……ここらへんで協力してくれそうな店ってありますか?」
俺は店主に尋ねた。
店主はうーんと考え込んだ後、ポンと手を叩いた。
「たしか日野の町に腕の良い漆塗りの職人がいましたな」




