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第七章 その3 人は誰しも皆先生

(くすのき)、一年中緑を絶やさない大きな木ですね」


 子どもたちの前に座る宗仁(そうじん)さんは実に堂々として、穏やかな見た目なのに内面からは威厳も湧き出ていた。


 表面の波打った硬いくすのきの葉を子供たち全員に配り、実際に手に取らせて観察させる。


「そしてこの葉。これを手で叩いてみてください。そしてにおいを嗅ぐと……」


 その葉を手のひらでパンと叩くと、子供たちも真似て続く。そして鼻を近づけると、一斉に咳き込むのだった。


「うわ、くっさ!」


 粘膜を刺すような刺激臭に悶絶する子どもたち。それを見て宗仁さんは笑いながら話を続けた。


「その香りには防虫の効果があります。衣装と一緒に葉を入れておけば虫も寄り付きません」


 宗仁さんはさしずめ理科の先生だった。本草綱目に書かれている薬草を実際に用意し、教材として喫術以上のことを教えていた。


「やっぱり様になるなぁ」


 そんな和気あいあいとした授業の風景を、俺と牛飼い庄屋の段平さんは後ろから見学していた。ちょうど反本丸を届けに彦根から来ていたのだ。


「読み書きを教えてもらうのは親父からだったよ。うちの親父、あれで面倒見はいいんだ。ただ千代乃の時は相当苦労した、あいつ器量が良さそうでも物覚え凄く悪いから」


 今の話を千代乃さんが聞いていたら、またあの殺人ゲンコツを食らっていただろうな。


「先生、獣の肉も薬になるって本当ですか?」


 子どもの一人が手を挙げて質問する。


 あまりのタイムリーさに、段平さんが身を乗り出した。


「ええ、肉は活力の素、失った精力を取り戻します。脾胃や脚の病に効くと言われていますね。特にあちらの段平さんの飼う牛の肉は味も良く、ひとたび口にすれば一晩中走り続けることもできますよ」


 聞いて子どもたちが一斉に振り向いた。


 段平さんも表情が引きつる。


「本当ですか?」


「食べてみとうございます」


 口々に言う子供たちに、段平さんは頭を振った。


「おいおいおいおい、これは大切なうちの商品でなぁ」


 じーっと注がれ続ける子供たちの熱い視線。彼はついに根負けした。


「ったく、仕方ねーな。うちの反本丸、お前らに少しだけ分けてやるよ。いいか、少しだけだぞ」


「やったぁ!」


 その後も授業は続く。だが次に前に立っていたのは女中のかずらさんだった。


 彼女は数枚の衣服を並べ、一枚一枚その素材について説明していた。


「絹は蚕の繭から作る糸よ。見た目は艶があり美しいので価格も高いですが、陽に焼けやすく水にも弱いから干すときは室内で陰干しをするの」


 普段から縫物をしているおかげで葛さんは衣類の扱いに長けていた。


 なんだかんだで白石屋最大の収入源である反物を扱うためにも、葛さんを講師とした講義は手代の若者たちにも好評だった。店番をしていた手代も持ち場を離れて講義を覗きに来るので、珍しく店主に叱責されるシーンもあった。


 さらに別の講義では意外な人物も前に立つ。


「ここから江戸に行くには大きく分けてふたつの方法がある。ひとつは東海道、近江の南側から伊勢方面へ抜けて、海沿いを歩いて江戸を目指す。もうひとつは中山道、こっちは北に抜けて山の間を歩くんだ」


 湖春ちゃんの父親、つまり白石屋の店主も各地を歩き回った経験を活かし、巨大な地図を前に周辺の国々の風土や産業について語る。講義としてもだが、その商人として鍛えられた話術はお話としても引き込まれるものだった。


 はじめは俺が読み書き計算を教えるのが目的であったが、宗仁さんを招いて以降白石屋に出入りする多くの人々がすすんで自らの持つ知識や技術を子供たちに披露していた。


 白石屋には様々な専門家がいる。彼らは皆自分の仕事に誇りを持ちながら、誰かに教え広めたいという欲求があった。


 後進の育成のためにも、俺は直接業務とは関係の無い分野まで講義をセッティングした。


 もちろん、基本の読み書き計算の授業も忘れない。


 子どもたちが慣れない手つきで算盤そろばんの玉を弾くのを横目に、俺はゆっくりと問題を出す。


「2文なり、1文なり、3文では?」


 そして一人を指差すと、その子供は弾きだした答えを見つめながら堂々と答えた。


「はい、6文です」


「大正解! 5の玉がちゃんと使えているね!」


 本当に、小さい頃に算盤を習っておいたのがこんなところで役立つとは思わなかった。


 ちなみに近江の国大津は江戸時代最大の算盤の生産地であった。この八幡でも人数分の算盤は容易に手に入った。


「こんな簡単な問題誰だってできるよ」


 悪態をつくように吉松が算盤をじゃらじゃらと鳴らす。彼は白石屋の店主が既に一通りのことを教えていたようで、小学校低学年レベルのこの授業はいささか簡単すぎた。


「こらこら、他の子も見ているんだ、この店で一番長い吉松さんがしゃきっとしもらわないと」


「じゃあもっと難しい問題、出してみてよ」


 この野郎、大人を舐めやがって。


「それなら……15両と銀20(もんめ)を持って8両と30匁の反物を買った場合、手元にはいくら残るかな?」


 大人気なくこんな出題をしてやった。


「6両と40匁」


 即答だった。算盤を弾いてすらいない。


 愕然とする俺に、吉松は勝ち誇った笑みを向けた。


 もちろん子供たちは授業だけでなく、店に出て手伝いをしている。だが年長者に気楽に質問してもよい、さらに質問されたら可能な限りしっかりと答えることを手代たちにはお願いした。


 異年齢かつ異なる立場の人々をごちゃまぜにして互いに教え合う環境を整えることは、教育学において非常に有効であるとはヨーロッパを中心に広く浸透している発想だ。例えばドイツで生まれオランダで特に発展したイエナプラン教育は普段の授業から異年齢の集団で受け、先生も上級生が下級生に教えるよう誘導する仕組みを作っている。


 職業選択の自由は保障されない時代であるが、せめて子供たちには興味あることをのびのびと。そのスタンスを保持しながら、俺たちは丁稚たちに教育を続けた。


 そんな風にしばらくの間、俺は教育を重視した経営に打ち込んでいた。


 噂が広まるのは早いもので、白石屋が丁稚たちに変わった教え方をしているという話はたちまち有名になってしまった。


「最近大評判ですね、白石屋さんの丁稚たちへの講義が」


 別の店に商品を届けた帰り道、川辺屋の跡取り息子の棟弥とうやさんがちょうど通りがかって話しかけてきたので、俺たちは茶屋の軒先で一服していた。


 彼は食糧難の奥州の人々のため、八幡の商人からかき集めた米を大坂から船で送り出してようやく落ち着いたところだった。


「寺子屋での教え方に心得がありますので」


 とりあえず口から出任せでごまかす。


「大切に想われる子供たちが羨ましいです。私もだいぶ苦労しましたから。他の商家に修行に出され、それまでぬくぬくと育っていたところをガツンと殴られた気分でした」


 棟弥さんは遠い目で過去の日々を思い出している。


 近江商人は例え自分の息子であっても、幼い頃に別の店に丁稚奉公に出して鍛え上げるのが一般的だった。


 近江商人の世界は実力主義を貫いていた。もしも実子が不出来な場合にはその子には店を任せず、高等遊民のように一生遊ばせておくこともあったという。


 跡取りに長男を選ぶことはむしろ稀で、多くは長女の婿に優秀な番頭を迎えて後の店主として育てることが多かったという。白石屋の店主も別の家の生まれで、白石屋で修行を積んで長女、つまり当時の店主の娘に婿入りした身らしい。棟弥さんはかなり珍しい例と言える。


 そんな時、どたどたと走りながら三人ほど男が駆け寄ってきたのだった。


「ああいたいた、白石屋の栄三郎さん!」


 近所の商家の店主たちだった。全員あまり大きくない店の店主で、商人同士の会合の際に顔を合わせたことがある。


「どうしましたか?」


 俺、何かやらかしたかな?


 不安になって尋ねると、店主たちは懇願するように頭を下げるのだった。


「恥を忍んでお願いします。どうかうちの丁稚たちにも講義を受けさせてください!」


「ここ最近は八幡の商家はどこも勢いを失ってしまいましたが、あなたが来てからと言うもの白石屋はぐんぐんと往時の繁栄を取り戻しつつあります。そんなあなたが子供を相手に講義を開いているとお聞きして、是非ともうちの店の者たちにも受けさせたいと思ったのです」


 なんだか知らない間に頼られるようになってしまったなぁ。最初はどこの馬の骨かと侮蔑されるような目を向けられていたのに。


 とはいえ認められたのは素直に嬉しいし、俺個人としても丁稚たちの育成には興味がある。ただ今でもいっぱいいっぱいなのに、複数の店の子供が対象となると明らかに俺の手には負えない。


 そもそも未来でも俺はまだ学生であって、プロの教師ではないのだから。


「でもうちの店じゃ入り切らないですし……いっそのこと皆で協力して寺子屋を作ってはいかがでしょう? 商家の子も丁稚の子も、農民の子も呼んで読み書き計算を教えれば、一部の店だけでなく、この八幡の町全体の活気にもつながります」


 思い付きで言ってみた、ただそれだけだった。


 だが店主たちは互いに顔を見合わせ、ぱあっと顔を明るくする。


「それは名案ですね!」


 そして声を揃えて俺を讃えるのだった。


 多くの場合、それぞれの商家秘伝の作法や理論が確立されている。その方法論は大っぴらにするものではない。


 特に互いにライバル関係の商家同士では、協力して寺子屋を作るという発想はなかなか生まれなかったようだ。


 だが川辺屋や白石屋のような大きな商家とは違い、彼らはいわば零細商家だ。互いの苦労を分かっているからこそつぶし合うよりは協力関係を構築することが大切だと俺の提案をすぐに受け入れたようだ。

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