第五章 その1 売り込め反本丸!
「白石屋、これは何だ?」
大津奉行の代官は差し出された木箱の中身を見て、目を丸くした。
座敷の上で畏まって座り込んでいた俺の前で、白石屋の店主は流暢に話す。
「反本丸です。代官様にはいつもお世話になっておりますので、何か贈り物をと考えていたのですが、以前腰を痛めたと仰っていたのを思い出しまして、是非ともこれをお召しにならればと用意いたしました。身体にとても良いと物の本にも書いておりますし、どうかご賞味あれ」
牛肉に腰痛を治す効果なんてあるのかな?
だが代官はすっかり箱の中の牛肉の味噌漬けにノックアウトされたようで、口の端から垂れた涎を慌てて拭くと、おほんと咳払いした。
「ふむ、そうだな。私も腰の痛みにはほとほと困らされている。また痛くなったら頼むぞ、白石屋」
「はは!」
俺と店主は頭を下げた。
「まさかここまでうまくいくなんて、話が良すぎて怖いですね」
帰り道、大津から渡し船で琵琶湖を越えて対岸の草津へと到着した俺たちは、東海道と中山道の交わる草津宿の旅籠で一泊することとなった。
ここには俺と白石屋の店主、そして彦根の牛飼い庄屋の段平もいて、三人で名物の『姥が餅』を食べていた。
このこしあんをたっぷり塗りたくった餅は歌川広重の東海道五十三次にも描かれている400年の歴史を誇る草津名物だという。
「当り前よ、うちの反本丸は古今東西どんな食材にも負けねえからな。寿命を売り払ってでも食いたくなる、それが彦根藩の牛だ」
「それもう健康に悪くなってるよね」
俺の言葉に店主が噴き出し、段平も下品に笑った。
牛飼い庄屋から反本丸の販売を許された俺たちは、ここ最近は顧客の元を訪れ、反本丸をプレゼントして回っていた。
日ごろの感謝の意味合いもだが、新商品である牛肉を身を切りながらアピールするのが最大の目的だった。
「これで近くのお得意様はだいたい回ったはずです。あとは注文が入るのを指をくわえて待つだけだよ」
反本丸の味には絶対的な自信がある。気に入ってくれた人は金を惜しまず反本丸を白石屋に注文するだろう。同時に白石屋との関係を保ち続けるためにも、他の反物などの品を注文してくれる相乗効果も期待してよい。
また白石屋と仲良くすれば牛肉がもらえる、なんて噂も立てば願ったり叶ったりだ。新規の客が付く絶好のチャンスとなる。
希少品なのでこちらとしても数は用意できないが、反本丸のコストパフォーマンスはもぐさ以上なので心強い収入源となるポテンシャルを秘めていた。
八幡の町に帰った時には既に反本丸は評判となっており、店を開けた2日の間に注文も複数入るほどの幸先の良いスタートを切ることができた。
「いやあ、あの牛肉を食べて寝たきりだった爺さんが活き活きしだしたんだ。今では肉のためにと言いながら毎朝木刀を振るくらいに若さを取り戻している」
奉行所より八幡の町に派遣されている武士の大本久道さんは白石屋の店先で茶を飲みながらにこやかに話した。彼は商家ではないが白石屋と親しく付き合っており、反物を買う時にはご愛顧にしてもらっている。
「喜んでいただけたようで嬉しいです。今後とも白石屋をよろしくお願いします」
「もちろんだとも」
俺がペコペコと頭を下げると、大本さんは貫禄はあるがまだまだ若々しい、おそらく20代後半くらいの爽やかな笑顔と白い歯を見せつけた。
「大本様、お茶をどうぞ」
そこに女中の葛さんが現れ、淹れたての煎茶をそっと置く。
途端、武士の顔が突如崩壊し、頬を赤らめデレデレと目を垂らし始めた。
「いやあありがとう葛さん、あなたの入れるお茶は本当に極上、富士の天然水、伝説に出てくる甘露ですよ!」
何だこの人?
葛さんは口を押えてくすくすと笑うと、そのまま奥に引っ込んだ。
大本さんは悲しそうな顔でその背中を見送ると、再び眉をきりっと上げて俺に向き直った。
「そう言えばここ最近、山賊の動きが活発のようだ。荷物を運ぶ際は気を付けた方がいい、別の商家が何人も襲われているみたいなんだ」
山賊だって? まさか若葉が?
あの幼い女頭の顔が俺の頭をよぎる。
確かに若葉一味は山賊で、道行く人々を襲っているそうだが彼らの活動場所はここからだいぶ離れている。鈴鹿山脈の、それも鈴鹿峠周辺を根城としている彼らがここまで来るには2日はかけなければならない。
「俺たちも見回りを強化しているけれども、如何せん山の中ではどこに隠れているのか見当もつかない。街道沿いなら滅多に降りてくることは無いと思うが、一人で歩くのはやめといた方がいいな」
「そうですか、ありがとうございます」
その時、ゴロゴロと空が鳴った。どんよりとした雲が立ち込め、今にも強く降ってきそうな予感だ。
「おっと、雨も降りそうだし、そろそろ仕事に戻らないと。葛さん、また来ますからねー!」
大本さんの声に葛さんは奥から「またどうぞー」と返事をした。
それを聞くなり大本さんは足取り軽く、店を出ていったのだった。
本当に何なんだこの人?
その日、雨の降りしきる夕方のことだった。
店を閉めて帳簿を整理していると、コンコンと誰かがノックする。
「お客さん、もう今日は店じまいですよ」
帳簿とにらめっこしていた俺はぶっきらぼうに言う。
だがしばらくの沈黙の後、返ってきたのは小さな女の子の声だった。
「……鈴鹿峠の若葉だ」
俺はずっこけそうな勢いで立ち上がり、慌てて引き戸の閂を外した。
「久しぶりだね栄三郎」
雨で泥水の跳ね返る軒先に、蓑と笠を着込んだ女の子がたった一人立っている。
にやりと不敵な笑みの幼い顔は、まさに以前であった若葉そのものだった。
「なぜ、どうしてここに?」
誰も見ていないだろうな?
俺は周囲を見回し、小さな声で尋ねながら彼女を店に招き入れると、急いで戸を閉めた。
滴を垂らしながら土間に立ち尽くす若葉。
俺が手ぬぐいを渡すと笠を脱ぎ、切りそろえた頭を拭きながら彼女はこう言い放った。
「まずいことが起こった。川辺屋があたいらと敵対する山賊一味を買収したらしい」




