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第四章 その2 へんぽんがん?

 翌日、白石屋を出発して中山道の脇街道である朝鮮人街道を半日ほど北へ歩く。


 田園地帯をひた走るこの街道の名の由来は、朝鮮通信使がここを通って江戸へ向かったからだと言われている。


 (いらか)の海を突き破る石垣、それに乗っかる荘厳な天守は小振りながらも格式に溢れていた。


 ここは彦根、譜代大名井伊家35万石のお膝元。現代なら超有名ゆるキャラで名高い彦根城とその城下町は、江戸にも劣らぬ賑わいを見せていた。


 そんな城にほど近い呉服屋に、俺は頼まれていた反物を持って訪れたのだった。


「これこれ、やっぱり京の職人はすごいな、本当に上質のちりめんだよ」


 棚一面を埋め尽くす反物に囲まれながら、呉服屋の主人はしげしげと俺の持ってきた生地を手に取って眺めていた。


 鮮やかな花模様が秋の野山のような地の色によって引き立てられたいかにも高級そうな絹織物だ。表面が微妙に凸凹しているのが特徴だ。


「やっぱり白石屋さんに頼んで正解でしたよ。歴史が長いから色んな所に伝手があって、とんでもない珍品まで見つけてくるのですから」


「いえいえ、お客様に頼まれた物を探すのが我々商売人の誇りなのですよ」


 そうやって呉服屋の主人と話していると、店の外からはかなげな声が聞こえる。


「店主さん、それってもしかして」


 店に女の子が入ってきた。声と同じく線の細い美人で、色白で奥ゆかしい。元気っ子の湖春ちゃんとは良い意味で対照的だ。


「おう千代乃ちよのちゃん、今届いたところだよ!」


 店主が手招きすると、千代乃と呼ばれた少女は足音も立てずにすっと近付く。


「この娘が注文主の千代乃ちゃんさ、近くの庄屋のお嬢さんだよ」


「あなたが届けてくださったのですか? ありがとうございます」


 千代乃ちゃんは深く礼をした。よく見ると手に風呂敷を持っている。


「いえいえ、お礼には及びませんよ」


 俺が返す一方で、千代乃ちゃんは風呂敷をほどいた。中には二段、白木のわっぱ弁当箱が重ねられていた。


「いつもお世話になっています。呉服屋さんにこれをと父が」


 千代乃ちゃんがその箱をひとつ差し出すと、店主の目が光った。


「いいのかい? いやぁありがとう、うちの連中は全員これが好きでねぇ」


 喜びを隠せないでいる店主。


 それを見ていた俺にも、千代乃ちゃんは同じく弁当箱を差し出す。


「あなたにも是非。うちで作りましたの」


「あ、ありがとうございます」


 受け取ってみると意外とずっしり重い。


 食べ物かな?


 今夜店に戻るからみんなに見せるまでのお楽しみに取っておこう。




 その夜、日が暮れてから白石屋に帰ってきた俺は、渡された曲げわっぱの箱を開けた。


 途端、俺は目を丸くした。


 ぎっしりと詰められた味噌の中に、赤い塊が埋もれている。


「これって、肉じゃ?」


反本丸へんぽんがんじゃないの! 嬉しい!」


 後ろから見ていた湖春ちゃんが耳慣れない言葉を口にする。


「へ……へん……ぽんがん?」


 何だそれ、ちりとてちんの一種かな?


 この言葉ですんなり分かる人がいたらその人は語彙力検定一級だ。


「なんだよサブ、反本丸へんぽんがんも知らないのかよ」


 吉松がふんぞり返る。


「牛肉を味噌で漬けた彦根の名物だよ。街道沿いでも売られていて、とっても美味いんだ」


「すごいねぇ、吉松さんは何でも知ってるんだ!」


 褒めてやると吉松は鼻を伸ばした。


「それじゃあ獣の肉は食べてはいけないのに、どうしてこの反本丸が売られているのですか?」


「そ、そりゃあ……美味いからよ!」


 たじろぐ吉松を見て店主はぷっと吹き出すと、丁寧に話してくれた。


「彦根藩では以前から陣太鼓や鎧の素材として、幕府に牛の皮革を献上していました。そのため彦根藩では屠殺が認められており、殺された牛は幕府からも許可を得て食べられています」


 譜代大名の特権だなぁ。


「さあ、早速これを召し上がりましょう! 仏壇を閉めなさい!」


 店主の声に全員がてきぱきと動き始めた。湖春ちゃんが仏壇を閉め、吉松と(かずら)さんは調理場へと急ぐ。


「よいのですか?」


「仏様の目の前で獣の肉を食べるからいけないのです。それでしたら見ていない場所でなら少々食べても問題無いでしょう」


 店主の声もうきうき軽やかだった。


 なるほどこうやって理由づけしてみんな食ってたんだな。


 近江牛という有名なブランド和牛へとつながる素地は、この時代に既に形成されていたのだ。


 店の者一同で縁側に並んで座る。俺と店主に至っては既に徳利を出して酒をついばんでいた。


「さあ、焼けましたよ!」


 女中の葛さんが焼き立ての肉を大皿に載せて持ってくると、全員が歓声と拍手で迎えた。


 あふれる肉汁と焦げた味噌の香ばしさ。口にした途端、身体の隅々まで染み渡るうまみ。


「うーん、デリシャス!」


 久しぶりの牛肉を俺は何度も噛みしめた。


「癖になるんですよ、この辛みが」


 店主は肉と酒を交互に口にし、それぞれの味を引き立てる。通だねぇ。


「こんなに美味しいのに彦根以外ではあまり食べられないなんて、勿体ないわねぇ」


 湖春ちゃんも大口を開けて肉にかぶりつく。昼間だ出会った千代乃ちゃんならこんな顔は絶対にしないだろう。


「一応は肉食は禁じられているからなぁ。大々的に扱うのは難しいな」


 店主は肉をのみ込みながら悲しげに言った。


 確かに肉の珍しいこのご時世、この反本丸を売り出せたらボロ儲けも可能だろう。値は張ってもそれだけの価値がある。


「……いや、もしかしたらいけるかもしれない!」


 俺はよく噛んだ肉をのみ込んでから、おもむろに立ち上がった。

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