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第三章 その3 東海道中艾売

 翌日、俺と宗仁さんは中山道を南下し、草津(くさつ)宿からは東海道を東に進んだ。


 そうして歩き続けること2日、ようやく鈴鹿峠の西側、土山つちやま宿に到着したのだった。


 広々と広がる田園風景の中に発達した、多くの人が行き交う風情ある宿場町だ。


 名産品は茶と藍染。街道沿い所々に建てられた茶屋はいずれも旅人で賑わい、白石屋もこの町の職人からも生地を仕入れているそうだ。


 そんな賑やかな土山の町で、俺たちは最も大きな旅籠はたご、つまりは昔のホテルを訪ねていた。


「八幡の白石屋とは、懐かしい名前ですな」


 俺たちを座敷に招いた旅籠の主人は、にたにたと貼り付けたような笑顔がやたらと目に着いた。


 なお白石屋がこの旅籠と取引していたことは無い。


「して、その白石屋が私たちに何の用で?」


「はい、この旅籠には峠を越えて多くの疲れ切った旅の方が立ち寄るとお聞きしています。その疲れを癒さんがため、私たちはこちら医者の出水いずみ宗仁そうじん様の力をお借りして、この土山にて新たな商いを始めたいと思い立ったのです」


 俺が話す隣で宗仁さんが漆塗りの箱を丁寧に開ける。中にはもぐさがぎっしりと詰められていた。


「これは伊吹山のもぐさですが、この出水様の作られるもぐさは極めて質が高いのです。歩いて峠を越えたばかりの旅人でさえも、疲れが吹き飛んでしまうほどです」


 早碁の主人は箱の中と俺の顔をちらちらと交互に見返していた。


 それを何往復か繰り返すと、主人は心得た様子でふんむとのけぞった。


「大体はわかりました。つまり旅籠に医者を呼んで、その艾を使って客にやいとを据えさせろと。そのためにもぐさを買ってくれと、そう言いたいわけですな?」


「さすがは旦那様、お見通しでしたか」


 俺は自分の頭をぴしゃりとはたいた。旅籠の主人は俺を小馬鹿にしたような目で見下している。


「確かに妙案ではありますが、この町の医者はこの近くで採れるヨモギを使って各々手間暇をかけてもぐさを作っています。それぞれが誇りをもって作るもぐさ、果たしてそううまくいくでしょうかね?」


「それでは是非お試し願います。どうぞ」


 俺は座敷の外に向かって声をかけた。


 ふすまが開けられる。現れたのはこの町で医者をしている男だ。


「旦那様のかかりつけ医とお聞きして、お招きしました」


 俺が得意げに話すと、主人は「用意がよろしいですね」と厭味ったらしく返した。




「うーん、これは極楽至極。今にも走り出したくなる気分だ」


 旅籠の主人の嫌らしい顔が、とろんと崩れている。


 彼は痛む腰にお灸を据えられていた。


「悔しい話ですが、このもぐさの質の高さは認めざるを得ません」


 灸を据える土山の医者も、苦笑いしながら次の艾に火を点けていた。


「これほど良質のもぐさならばたちまち評判になりましょう。乗りましょう、そのお話。うちがその艾を買ってここに来た客人に灸を施しましょう。ところで値はおいくらで?」


 灸を載せた背中をさらけていた主人はうつ伏せのままこちらに顔を向けて話した。


 表情は一変し、なんとも爽やかだった。


「1匁(約3.75グラム)で10文です」


 聞いて旅籠の主人は首をひねった。


「なかなかに強気の価格ですな」


「私たちもこれ以上下げると自分の首を絞めてしまいますので」


 何せ伊吹山でしか採れず、運搬の費用も込めればやや割高となってしまう。だがこれでも採算ラインギリギリだ。


 ここに来る前、白石屋の店主に商売の心得を教えられていた俺は、その言葉に従い決して値下げはしないと決めていた。


 白石屋はじめ近江商人は正札(定価)を定め、安易な値下げはしないよう心掛けているのだ。


 それまでの商売は客の顔色を窺い、値段を引き上げたり引き下げることが多かった。現代でも外国では値札の貼られていない市場があるが、あれを想像してくれればイメージが近い。


 だがこれでは信用を失うと考えた近江商人は、正札を貼って誰に対しても平等な取引ができるよう努めたのだった。


 長期的な付き合いを良しとする彼らにとって、資金の多寡よりも信用の有無の方がはるかに大切だからだ。


「ですがそれだけの価値はあると、売り手の私たちも確信しております。現在このもぐさを扱っている店は白石屋だけで、まだどなたにも卸していません。この旅籠は伊吹もぐさの灸を楽しめる唯一の店となりますよ」


 俺は続けた。


 正直なところこの旅籠の主人の性格はかなり傲慢で、金の無い者を見下している。


 だがその分、儲け話には弱いはずだ。そこに勝機がある。


 店主はうーんと悩んでいたものの、かかりつけ医の「このもぐさは最高ですよ」の一言で覚悟を決めたようだ。


「わかりました、そのもぐさ買い取りましょう」


 俺は心の中でガッツポーズを決めた。


「ありがとうございます。ではとりあえず300匁持って参りましたので、銭3貫文でいかがでしょう?」


「うむ、全部買おう」


「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」


 俺と宗仁さんはそろって頭を下げた。




 その夜、主人の好意で旅籠に泊めてもらった俺たちは多くの宿泊客が並んで夕飯を食べる中に混じっていいた。


「やりましたね栄三郎さん、私ももぐさが広く使われるようになって嬉しいです」


 雑穀でも混ぜてあるのか、やや硬めのご飯をもりもりと食べていた宗仁さんは俺に話しかけた。


 この時代は味の濃いおかずと味噌汁で大量の米を食べるのが庶民の生活だ。現代ほど食材が豊かでなく肉食も禁じられているので、カロリーの多くを米から摂取する必要があったのだろう。


「ええもちろん。ですが出水様、まだこれからですよ。もっと大量のもぐさが必要になるかもしれません」


 しょっぱい漬物を噛みながらにやりと笑う俺に、宗仁さんは「どういうことですか?」と尋ねた。


「この東海道は人通りが多く、噂はすぐに伝わります。土山の旅籠が良いもぐさを使っていると知られれば、江戸や大坂の商人も伊吹もぐさを求めて白石屋を訪ねましょう」


 つまりこれをきっかけにより多くの販路拡大が期待できるのだ。


「なるほど、そんなこと全く気づきませんでした」


 善良な性格の宗仁さんは考えが及ばなかったようで、驚いていた。


「店主が仰ったのです。良き品があれば広告するように、と」


 俺は笑いながら飯を腹にかき込んだ。


 さあ、明日はいよいよ鈴鹿峠越えだ。

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