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第三章 その1 霊山の鍼灸師

「ふう、なんてでっかい山だ……」


 確かに湖春ちゃんの言ったように、その山肌は美しい花々で彩られていた。


 ここは伊吹山いぶきやま、近江の国と揖斐いび不破ふわとの境目、現代でいう滋賀県と岐阜県との境界線上に佇む標高1377メートルの霊峰。


 裾野がなだらかに広がる雄大な山容は、なるほど古くから密教の修行場として神聖視されたのも頷ける。


 八幡はちまんの白石屋を発った俺は中山道なかせんどうを北へと進み、丸一日かけて中山道六十九次の60番目、柏原宿に到着した。


 旅籠で一夜を過ごした翌日、俺は街道を外れこの伊吹山の見える村まで足を伸ばしていた。


 さて、なぜ俺がこんな所まで来ているのかというと、それは一昨日、琵琶湖に船の沈んだ翌朝のことである。


 いくら船が沈もうとも、とりあえずは現在注文を受けている商品だけは何があっても届けなければならない。


 しかし白石屋の台所事情はのっぴきならない状況にあり、運び手を雇うのも惜しいところ。それならばと俺から名乗り出たのだった。


 当然最初は断られたが、頼み込むうちに店主はついに折れ、俺は一時的に白石屋の運び手として雇われたのだった。


 そして明くる朝から柏原宿場近くの得意先へと背負子しょいこを背にまっすぐと向かい、その翌朝、つまり今朝には頼まれた荷物を渡して俺のミッションは完遂した。


 その帰り道、俺は湖春ちゃんの話を思い出して伊吹山に立ち寄ったのだった。


 比売神様が話したように、地域に隠された商機を求めて。


 実際に伊吹山を前にすると、広大な田園風景と色付いた山影の美しさに目を奪われる。


 だが昨日からずっと歩き続けていたせいで脚ががくがくと震え、もうこれ以上は前に進めない。


「あーもう、疲れたぁ」


 ついに俺はあぜ道に立てられたお地蔵様のほこらの前にしゃがみ込む。すぐ近くをせせらぎが流れ、俺は両手を突っ込んで顔を洗った。


 冷え切った水が身体に冴え渡り、幾分かは楽になる。だがしばらくはここから動けないだろう。


「もし、旅のお方ですか?」


 背後から声をかけられ、身震いして俺は振り返った。


 時代劇の浪人のような、ぼろぼろの黒い着物を纏った30歳くらいの男だった。だがその髷はしっかりと整えられており顔つきも穏やかで、怖いという印象はまったく受けなかった。


 俺は懐から取り出した手ぬぐいで濡れた顔を拭いながら「はい」と答えた。


「これからどちらに?」


「ええ、あの伊吹山に登ってみようかと」


 そう答えると男は「うーん」と唸って顔を歪めた。


「これはこれは。この山は花々は美しいですが、かつては鬼が住んでいたと恐れられる神の山です。気軽に立ち入っては戻って帰れません。見たところかなりお疲れのようですし、どうでしょう、私の家がすぐ近くにありますので、そこでお休みになられませんか?」


 随分と親切な話に、俺は「よろしいのですか?」と尋ね返した。


「ええもちろん。時には修行僧の方も休まれるのですよ」


 男はにこりと微笑んでいた。


 この疲れた中で休ませてもらえるのは大変にありがたいのだが、いや待て、もしかしたらこの男は野盗の一員で俺をどこかに連れて行って身ぐるみ剥いでしまうかもしれない。


 俺は一瞬男を睨みつけるが、彼はそれに気づかないようで終始ニコニコ笑顔のままだった。


 直感的に、この男は悪人には思えなかった。


「それではお邪魔させていただきますか」


 言いながら俺はゆっくりと立ち上がると、足がふらつく。


 男はそんな俺に手を貸した。


「どうぞ。ああ、申し遅れました。私、医者の出水いずみ宗仁そうじんと申します」




 小高い丘の上に建つそれは、家と呼ぶには疑問符の付く掘っ立て小屋だった。中に入っても畳どころか板張りの床も無く、土の上にスノコやござを置いてその上で生活している。


「この山は高さによって生えている植物がまるで違います。ゆえにここは豊富な種類の薬草が実り、医者の私にとってはまさに蓬莱の地なのです」


 医者の宗仁さんは俺をござの上にうつ伏せで寝かせ、俺の引き吊った足を軽く揉んだ。


 指がツボに食い込み、静電気が全神経を走ったような刺激と同時に、身体中の力が緩む感覚に襲われ、俺はそのまま陥落してしまった。


「随分と足が火照っていますね。だいぶ歩かれたのですか?」


「普段そんなに歩かないので」


 たった一日でこうなってしまった。


 だが自動車など無いこの時代では、老人も少年もお姉さんも、皆文句ひとつ言わず俺以上のペースを保ったままさらに数日間歩き続けている。昔の人は本当にすごい。


「こんな足ではろくに歩くこともできないでしょう。どうです、ここはひとつ私にお任せくださいませんか?」


「……何をするのですか?」


やいとですよ。よく効くと評判です」


 つまりはお灸のことだ。


 ヨモギの葉をよくすり潰し、精製して繊維質を取り出したもぐさに火を点け、その熱と薬効で患部を刺激する昔ながらの治療法だ。


「伊吹山は古くから灸の原料である良質なもぐさが採れました。百人一首でも読まれていますよ、『かくとだに えはや伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを』と」


「へぇー、知らなかったなぁ」


 俺はお灸自体据えてもらうのは初めてで、自分の身体の上で火が焚かれると思うと怖かったが、この親切な医者には断れなかった。


 そもそも足の痛みがひどくてどうにかしてでもこれを鎮めてほしいと思っていたので、効くにせよ効かないにせよありがたかった。


 ふくらはぎにペースト状の練り物を置き、その上にもぐさを載せる。そして宗仁は囲炉裏から小枝に火を灯すと、その火を積み上げたもぐさにも移した。


 肌のすぐ近くで小さいとはいえ火が燃えている。その慣れない熱さと不安のせいで、俺はつい口を開いてしまった。


「あちちちちちち!」


 身をよじらせたい気分だった。だがそうすれば燃えるもぐさが肌に振り落とされる。ここは耐えるしかなかった。


「熱いのは最初だけです。もう少し我慢すると、快い温かさが足全体に広がりますよ」


「そんな、あちち!」


 俺はとにかく耐えた。ツボを何度も針でチクチクと刺されるような感覚で、それが全身に伝わっているようだ。


 だがしばらくすると、どういうわけかあんなに熱かった火がまるで心地よい刺激に変わり、さらにじわっと温かさが広がっていく。


 もぐさの煙のにおいさえもアロマテラピーのようで眠気を誘う。


「なんだか……すごく気持ちよくなってきた」


 俺は重くなった瞼を閉じ、全体重をござの敷かれた地面にかけていた。


「でしょう? 伊吹のもぐさと他の薬草をほど良く混ぜ合わせた自信作ですから。日本中でやいとは作られていますが、伊吹山ならではの材料と配合で生み出したこれは他のどれにも負けません」


 宗仁が艾をひとつまみ手に取ると、それを俺の掌にさらさらとふりまいた。ふわふわと肌触りの良い繊維のようで、このまま弄ってみたくなる。


「こんなに効くのなら、さぞや大人気でしょう」


「いえ、織田信長の時代には大いに栄えたそうですが、今では江戸にも大坂にも遠く、一部の医者や僧侶が細々と伝えているに過ぎません。どうです、これが終わったら鍼も打ちましょうか?」


「そうなのかぁ、せっかくこんなに気持ち良いのになぁ……あ、お願いします」


 宗仁は革袋から鍼を取り出す。


 俺はもぐさをつまみ上げ、しげしげと眺めていた。


 そこでふと思いつく。もしかしてこれって、すごい商品になるんじゃないか?

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