リハビリ開始
(天空都市群グングニル最北島内陸部北側:プラト山村キャンピングロッジ)
朝がやってきた。
あれから、俺はさっさと風呂にはいり、一日の疲れをとってから、すぐに寝た。
ロッジのバスルームはなかなかいい感じだった。
人工岩をくりぬいて造形された浴槽に、薬浴液の混ぜられたお湯。
よく温まれたし、疲れもとれた。
キーロの言っていた通り、怪我に効くかもしれない。
朝の目覚めも快適だ。活力が全身から漲る感じがする。風呂一回でこの変化はあり得ないから、恐らくメンタル面の影響もあるのだろう。
今日から、本格的に怪我との闘いが始まるのだ。
負けるわけにはいかない。なんとしてでも、俺は返り咲くのだ。そして、キーロに推薦状を書く。
そのためには、ハードワークが不可欠だ。無理は禁物だが。
トレーニングの開始は午前六時から。休憩をはさんで、午後十時に終了する。
今は、AM5:45。そろそろキーロが起き出す頃だろう。
トレーニング内容は、主治医のキーロが考えて、俺もいくつか要望をだした。
そのメニュー表を見ているだけで、かなりきついものだと尻ごみもしたが、ここまできて逃げ出すつもりはない。やってやろう。
「ふわあ。おはよ。よく眠れた?」
個室を出たところで、キーロと鉢合わせする。
キーロは、すでにトレーナーっぽい恰好になっている。上下防寒性能の高いジャージに、ホイッスル。手には、今日のトレーニングメニューが書かれた、スケジュール表。
「ああ。ばっちりだぜ。いくらでも動いてやる」
俺は息まいた。キーロが天才だと知ったとき、俺の扉が開いたような、あの感覚。
それが、現実になろうとしている。彼女が本物かどうか、俺はまだほんの少し疑っているが、そんなことは、このリハビリを通して、いずれ明らかになる。
俺がこれからできるのは、彼女を信頼し、自分に与えられた課題をこなすことだけだ。それだけに、集中すればいい。
今の俺に必要なのは、削ぎ落されたリーンな向上心だけだ。
「そ。でも、張り切り過ぎて怪我を悪化させないでね。主治医である私の指示には、ちゃんと従うこと。いいわね?」
「ああ。お前を、信頼する。頼むぜ、ドクター兼トレーナー」
「そう。分かってるならいいわ。午前中は室内訓練よ。午後から、競技場でアニマ―ジュ後の姿になってもらうわ」
ちゃんと主治医扱いしたのが良かったのか、キーロは機嫌よさそうに一階に降りていった。
室内訓練は、一階のラウンジでやる。キーロが天空術でソファとテーブルを隅の方にやり、代わりにトレーニング器具を広々とした空間に並べる。
これから、ここで人間の姿を鍛えるためだ。俺の変身後の姿は巨大すぎて、室内には収まらない。それ故、変身後の鍛錬には演習所が不可欠なのだ。
まあ、これはワイバーンタイプのアニマ―ガス全員に言えることだが……。
アニマ―ジュは、複雑な天空術だ。変身前と後の姿は、別物として切り離せない。
変身前の姿が完全な肉体から遠ざかれば、それだけ変身後の姿も貧相な代物になってしまう。
(※つまり、強靭な変身後の姿を手に入れるには、変身前の人間の身体も鍛え抜く必要がある。無論、変身後の姿もだ)
なんでも、変身前の身体が貧弱だと、マナの因子変換に悪影響を及ぼして、変身後の姿が不完全なものになってしまうらしい。
それ故、プロ天空闘竜選手たちは、皆、変身前の姿もアスリート体型だ。
俺の身体は、三か月の不節制がたたって、少し贅肉がついている。
キーロは、それを改善するために、まず危険の少ない変身前のトレーニングを、午前中に組んだんだろう。
体と筋肉を温めてから、満を持して変身後のトレーニングというわけだ。
「さて、まずはストレッチよ。久しぶりに動くと怪我になりやすいから、入念にやるわ。たこみたいになるまでね」
「たこ? それは流石に……」
「つべこべ、いわない!」
いつもの癖で茶々を入れてしまったが、言う通りに身体を伸ばしていく。
伸ばし方は特に変わったやり方ではない。やり方よりは、入念さ、丁寧さを重視しているようだ。
久しぶりに体を動かす俺を、気づかってくれているのかも。いや、俺というより、俺の身体のほうか。
かなり時間をかけて隅々まで筋肉を伸ばし切ったとは、室内で各部位のトレーニングだ。
ストレッチが終わった段階で、うっすらと汗をかいている。
暖炉で室温を南国なみにしているのと、代謝が上がりつつあるからだろう。
これなら、動いてもどこかを傷める心配はない。
さて、人間の身体のトレーニングメニューは以下の通りだ。
①ランニングマシーンで5キロのジョギング
②休憩・朝食(青汁と複合プロテイン。修行僧みたいな朝飯だ! でも栄養はある)
③エアロバイク一時間。キーロの指示つき。『ペースが落ちてるわよ、小鳥さん?』
④休憩。一時間の仮眠。
⑤起きる。足あげ腹筋一千百回
⑥腕立て伏せ五百回
⑦ディップス七百回(20キロの重り付き)
⑤と⑥、⑥と⑦の間には、それぞれ数十分程度の休憩がある。
かなり過酷だ。因みに、初日から五日間は、体への負荷軽減から、それぞれ0.8倍の練習量だ。五日目以降は、この量を午前の部だけでこなさねばならない。
このトレーニング中に聞いた話だが、キーロはこのメニューを、地上界の「ある伝説的なボクサー」のトレーニングメニューから引用したらしい。
地上界も捨てたもんじゃないな。こんな殺人的なトレーニングをほぼ毎日こなした奴がいるなんて。
というよりも、単純にアスリートとして尊敬する。なんでも、そのボクサーは現役時代、「世界最強」と言われていたとか。そりゃ、最強にもなるだろ。これ毎日やれば。
だが、「世界最強」がやっていたトレーニング。縁起がいい。それに、そのボクサーの身長は、俺と同じ180㎝。俺に最適の訓練メニューだ。
何度かリタイアしそうになったが、俺の返り咲くという意志は揺らがなかった。
これくらいで根を上げれば、キーロやサポーターの期待にはこたえられない。
それに、他の七帝達も、同じようなトレーニングを日々ストイックにこなしているはずだ。
倒すべき対手がこなす努力を、俺が投げ出すわけにはいかない。
投げ出せば、逃げだせば、俺は永遠に奴らに勝てない。
だからこそ、逃げずにやり遂げるのだ。
氷息帝の誇りに賭けて、俺は逃げ出すわけには、いかない。
練習メニュー午前の部、最後の一回を終えた刹那、俺はラウンジの床に倒れ込んだ。
倒れ込んだ床には、俺の流した汗が水たまりのようになっている。
普段なら、そこに倒れ込むことはないが、困憊した俺は気にせず汗の水たまりに浸かった。
「お疲れ様。よく耐えたわね。流石は、元七帝ってところかしら」
キーロが労いの言葉をかけてくる。
だが、それに反応する余裕はない。
「あら。だいぶ消耗しているけれど、まだ午前の部よ。午後は、外で変身後の姿を鍛えるわ」
「……その、前に。昼飯とマッサージだろ」
「あら、よくわかってるわね。でも、その前に清潔を保たなきゃ。――『クリア』」
キーロが、俺に向けて浄化作用のある天空術をかける。
床の水たまりと、体表とウェアに付着する汗が消えた。
汗のじっとりとした不快感がなくなる。
「これで、汗が蒸発しすぎて体温が奪われることもないわ。さ、お昼ごはんにしましょ」
「……ああ、肉くいてぇ」
「ササミならあるわよ」
「ほんとか!? いっそ、もう肉ならなんでもいい!!」
「つくってくるから、ダウンとストレッチしてなさい。サボったら……。青汁だけ、よ」
「……はい。わかりました。やっておきます」
あの地獄のトレーニングをした後で、青汁だけなんて本当に死んじまう。
ここは、主治医兼トレーナーに逆らわないようにしないと。
というより、あいつトレーニングのとき、凄いドSじゃなかったか?
ストレッチをしながら、俺は午前中のキーロを思い出す。
辛辣な文句で、ペースの落ちた俺に発破をかけるキーロの姿。
しかも、そのときのあいつは、何故か満面の笑みなのである。
「……、素質はあったが。本物か。これは、懸念材料が一つ増えたな」
午後はどうなるのだろう。少し心配である。
これが、日に日にエスカレートしていかなければいいのだが……。無理かもしれないな。
そして、俺の懸念は的中した。
それも、食事のあとのマッサージで。
――まだまだ、道のりは長く、険しそうだ。始まったばかりだし。




