【番外編】 雪、降ってますね 【みかんシリーズ】
私と彼の新しい生活の第十話より少し前の御話です。
「ねぇ、みて!雪だよっ!」
いつものホテルのお決まりの部屋、スウィートでは無いが広めのそこの大きな窓の外を見て美沙が大声を上げた。
あんなに鳴かせたと言うのにまだそんな元気があったのか、と思う。
「んー、そうだね」
急に彼女が起き上がったせいでひやりと冷たくなったような気がした布団を引っ張り上げそっちを向きながら言えば彼女は俺を跨いでベッドを降りた。
そのままぺたぺたと裸足で絨毯の上を歩き開いたままの窓のガラスにぺたりと両手を着く。
「綺麗だねー、徹」
外を見続けていた美沙はそう呟いてきらきらした笑顔をこちらへ向け、自分より四つ程年下の恋人の相変わらずな無邪気さに目を細める。
仕方ないな、と布団から脚を下ろし、肩にそれを纏ったままベッドから抜ける。
ベッドサイドのデジタル時計はちょうど午後六時を示していた。
マントのようにずりずりと引き摺ってそっと柔らかい曲線を描く美沙の体を後から布団を掛けるよう抱き締めた。
「風邪ひくよ」
纏っていた布団を出来るだけ美沙に掛けてやりながら言えば、ふふっと笑って美沙が俺に甘えるようにすりすりと頬を寄せた。
それによって生じる彼女の髪の感触がくすぐったくくすくすと笑えば、嬉しそうに顔を上げて背伸びをしそのまま唇を寄せた。
ああ、なんて、幸せなんだろうと思う。
普段、忙しくてあまり会えずにいる美沙が側に居るのはとてつもなく幸福を感じる。
それは俺が雛子では無く百パーセント、徹として向けられる相手だからだろう。
この子を離したく無い。
美沙を抱く手に力を少し込めれば彼女は首を少し傾ける。
それに何でもないよ、と言ってやり、そっと窓の外を見た。
しんしんと降る白い雪は止めど無く空から落ちて街を白く染めていた。
ビルも看板も街路樹も人も傘も道路も植え込みも、すべて真っ白く徐々に徐々に、白い何にも染まらない自由の色へと移ろいで行く。
この雪を礼はどこで見ているだろうかと思った。
俺の大事な佐久間礼も俺と同じよう、伯母様から見せられたあの子と見ているのだろうかと、思った。
バレンタインへ向けて帰ってくる日が少なくなってきた礼から、帰ると連絡があったのは午後だった。
天気予報は耳が痛くなるほど都心に雪が降ると言っていて、それでかと尋ねれば、そうだよ、と返された。
『交通機関がマヒする前に皆を返したいからね。さすがにこういう日まで残業はさせたくないんだ。……だって、ほら、色々と心配でしょう?』
そういう礼に、電話の向こうでこちらが見えないと言うのにうんうんと頷いた。
雪国育ちだから雪が滅多に降らない地方の人だと雪に弱いのは良く知っている。
「そうですね。……何時くらいになりそうですか?酒井さんに送って貰えるんですよね?」
歩きながら返事をしリビングダイニングの窓ガラスに近寄れば確かに今にも降り始めそうなどんよりとした灰色の空が広がっている。
雪が降る前特有の嫌な感じに、小さく息を吐いた。
『いや、朝の内に断ったよ。事故にでも遭うとね、酒井に迷惑が掛かるから』
その言葉に、それもそうだと思った。
佐久間の本家の人で社長さんなのだから、大変な事だろう。
「じゃあ、お帰りは電車ですか?傘、あります?」
『うん、電車。傘持って歩くように見える?』
くすくすと笑いながら言う礼に、馬鹿な事を聞いたと思った。
一年の大半を酒井さんの車に、それこそ勤務中であっても彼が運転する高級車で移動しているのだから、折り畳み傘どころか普通の傘だって、礼は一年に一度触るか触らないかかもしれない。
「そうですね。分かりました。御気を付けて」
迎えに行きましょうか、とも、迎えに行きます、とも言わなかったのはそれを言えば礼は断るからだ。
私の言葉に彼は少し間を開けて、わかった、といつもの穏やかな低くそれでいて伸びのある綺麗な声で告げ、電話が切れた。
さて、出掛ける準備をしよう。
雪が降る前に傘を一本買わなくてはいけない。
年に数回しか乗らない電車の中はどんよりとしていた。
湿気とかそういうのではなくただ流れている空気がどんよりとしていたんだ。
それは窓の外に高速で流れて行く白い粒の夥しい数を見ているから、だろう。
かくいう俺もその一人で、後悔していた。
何だかんだと仕事をしていたら帰るのが遅くなったんだ。
祐樹も俺より少し前には出たけれど、きっと今頃同じように電車の中からこれを見ているだろう。
ただ、彼はあくまで何に対してもポジティブだから一人にやにやしているかもしれない。
憂鬱だな、と思う。
雪が嫌いな訳じゃない。
ただ祐樹より現実を見てしまうだけだ。
路面は滑るし傘は無いし。
これだけ降っているならコンビニのそれはとっくに品切れになっている。
こんな事なら会社の最寄り駅で買えばよかったと思いながら自宅の最寄り駅に着いた電車から人の流れに乗って出た。
その瞬間、あまりの寒さに肩を竦める。
涼から貰った煉瓦色のマフラーをぐるぐると顎と口、出来れば耳も隠すよう巻き直し足早にホームを去った。
エスカレーターに乗りながら思うのは風呂沸いているかな、という事だけで、改札を出るまで俺は考えもしなかった。
人の流れにそのまま沿って改札を抜け、左右に分かれて行く人のその中央に、小さな体で寒そうに肩を竦めている姿を見つけた。
まさか、ね、と慌てて足早に近寄れば俯いていた視線が上に上がり、ふっと笑みを漏らした。
グレーのロング丈のダッフルコートに白いニットの角が二つにポンポンがついた帽子を被って、ピンクのモヘアのマフラーを巻いている。
「雪、降ってますね」
はい、と差し出すのは真新しい紺色の紳士物の長めの傘で。
けれど涼はそれしか持っておらず、また、彼女の何処を見ても濡れていなかった。
それに、いつから雪が降っていた?と思う。
電車を降りエスカレーターで見た時計は午後六時半を回っていた。
雪が降ってきた時に見たのは午後六時少し前だった。
つまり涼はここで少なくとも三十分以上待っている。
「帰りましょう」
差し出されたそれを受け取らすに居る俺に涼はぐいっとまた伸ばしてきてそれを受け取る。
それから先にすたすたと歩き出してしまい慌てて後を追った。
駅舎から出ればしんしんと冷たく白い綿のようなそれは次から次へと斜めに降り注ぎ、傘もささずに涼はすたすたとそこを進み、慌てて追いかけた。
「濡れるよ」
真新しいそれを開き追い付いた涼に差しかければ歩きながら顔を上げ首を真横に振る。
それからにっこりと笑って口を開いた。
「要りません。慣れてますから」
そういう涼の帽子にもコートにもマフラーにも、まつ毛にも雪がすでにふわりとその身を委ねていてあまりに寒そうで首を振った。
「だめ。また風邪ひいちゃうでしょ」
涼はそれにうーんと少し唸ってから困った顔をして口を開いた。
「雪国では傘、差さないんです。だから、本当に、大丈夫。それに……」
涼は俺の側にある手をそっと伸ばして、俺の手を掴んだ。
ひやりと冷たいそれに目を開けばくすくすっと笑ってからまた口を開く。
「傘差したら手繋げませんから。帽子あるから大丈夫です」
繋いだ手と反対側でちょんちょんっとポンポンの一つを摘まんで見せるそれに溜息を吐き、歩き出しながら口を開く。
「じゃあ俺が勝手に涼の方に傾ける分には文句言わないね?」
言いつつぐっと繋いだ手を引き寄せなるべく涼が傘に入るようにすれば彼女はすこし俺を見上げて嬉しそうに笑った。
さくりさくりと歩く度に積もった雪が音を立て、前に歩いた人の足跡を消したそこに俺と涼の足跡がつく。
大きな俺のと小さな涼のはずっと並んで家まで続いていた。
インフルエンザの熱は下がりました。
雪が降ったので、記念に番外編を書いてみました。
竹野から皆さまへの寒中見舞いという事にしてくださいませ。




