男との対峙
『投影世界』から戻ったその日の夜、事件は起こった。
朝と昼は何ともなかった。日曜日だったので、拓也は今まで通り宿題を片付けた後に、テレビや読書で休日を楽しんで過ごした。
(なんだか、こういう余暇を過ごすのがとても久しぶりに感じられるな)
拓也はそんなことを考えた。
実際『投影世界』があるおかげで、拓也が持っている時間は単純計算で普通の人の二倍なのである。日にちの進み方が非常に遅く感じられ、そのために一週間の長さの感覚がとても長いものとなっていた。
しかし、そんな時間も虚しく散る。夕方、六時前に携帯電話が鳴ったのだ。
(こんな遅い時間に誰だろう?)
拓也はそんな疑問と共に携帯を手に取り、そして息をのんだ。
ディスプレイに表示されている名前は『藤沢亜衣』。
彼女があの夜に助けを求めてきたことを思い出す。
『拓也君……その、今あの人とお母さんが……』
「待ってて。すぐに行く」
拓也はためらわなかった。そして、その言葉には強い芯があった。
絶対にこの少女を助ける、と。
亜衣の家には以前にも近くまで行っていたので、すぐに分かった。拓也は全力疾走で向かう。
電話で亜衣が話したことによれば、亜衣の母親が仕事を終え、買い物をして帰ってきたところにあの男がやってきたらしい。その頃亜衣は部活の友達と遊びに出かけていた先から帰宅途中であり、家についたころにはすでに男がいたとのことだ。
彼女の住んでいるアパートが見えてきた。拓也は、駐車場を走って駆け抜ける。
団地の一階、ポストが並んでいるその場所に、亜衣は立っていた。
「あの……」
「ごめんって言うのはなしだよ。全ては問題を終わらせてからにしよう」
亜衣は彼の表情を見て驚いた。
拓也が、今までにない真剣な――それでいて怖くさえ感じられるような眼をしていたからだ。
「拓也君?」
「逃げないよ。僕たちの願いを――この世界に投影する」
そのために僕たちは行動してきたんじゃないの? と拓也は言って笑って見せた。
既にここにも言い争う声は聞こえてきていた。
「行くよ」
「……うん」
拓也は、亜衣と共に階段を駆け上がる。声の下へ行けば、そこが亜衣の家なのだ。
聞こえてくる怒鳴り声が拓也の心を締め付けて行った。しかし、そのたびに拓也は足に力を込めて階段を超えて行った。
(いた)
辺りは既に暗くなっていて、アパートの廊下を白い蛍光灯が寂しく照らしている中に、一つだけ暖かなオレンジ色の光が漏れている場所があった。
しかし、その光は一人の黒いポロシャツを着ている男の巨体に遮られている。
拓也はいつか低いドスの利いた声で警告してきた男を見て一度立ち止まり、しかし手を力強く握りしめて歩み寄ると言った。
「すみません。少しいいですか」
「だから、この家は……あん? 何だよテメエは」
男の鋭い、迫力のある視線が拓也に向けられる。
「何の用だ」
「僕の友達が、一人の男から迷惑を受けていると聞いたので」
拓也は五十歳前後の男を前にして少したじろいだものの、それでもきちんと返事をした。
「あ? 迷惑、だと?」
だが、拓也の言葉は男の気に障ったようだ。
「俺は自分の家に戻ってきただけだ。よそのガキがしゃしゃり出ているんじゃねえ」
男は拓也の肩を押す。しかし、彼は後ろに一歩下げられても再び前に出た。
「では、あなたが家に戻ってくることが迷惑なのでは? 聞いた話では、仕事もせずに家では酒を飲み、勝手にお金を持ち出しては遊び歩いているらしいですけれど」
これは亜衣から聞いた情報だ。
「自分の家の金だ。他人のテメエにどうこう言われる筋合いはねえ」
そこまで会話をして、拓也はようやく男の吐息にアルコールの臭いが混ざっていることに気が付いた。
彼はその強い臭いに顔をしかめるが、すぐに表情を平然としたものに戻して言った。
「とにかく、僕も大切な友人が困っているので、見過ごすことはできないんですよ。それに、本当にここがあなたの家だとでも思っているんですか? 離婚はとっくに成立しているのでは?」
「……さっきから、いい気になってペラペラとしゃべりやがって」
男は拓也の肩を再び力強く押すと、一歩前に出た。玄関とその前で対峙していた彼らは、二人ともアパートの外側にある廊下に出る。
「亜衣、関係ない子を巻き込むのは……」
母親なのだろうか、女の人が遠慮がちに言葉を漏らす。活発な性格の亜衣とは異なり落ち着いた印象を受けるが、ぱっちりとした二重の眼やふんわりとした茶色い髪は彼女と共通していた。
「大丈夫だよ。私たちに任せて」
亜衣も拓也の隣に並んだ。
拓也はちらりと彼女を見た。その表情には、どこか自信があふれているように見える。
だが、よく見るとその視線は少し揺らいでいた。
拓也にとっては、この男は初対面だ。先ほどのファーストコンタクトから乱暴な扱いをされたために、亜衣から聞いた話がようやく実感できたものでしかない。しかし、亜衣はその実態を目の当たりにしてきたはずだ。
知らないことは怖いが、時には知っている方が恐怖を感じることもある。
だが、それでも一人の少女が大人の男に立ち向かっている。そのことを考えると、拓也も勇気が出た。
これ以上、この男には好きにはさせない。
「いい気になっているのはあなたのほうでしょう」
拓也は男と言葉の応酬を続ける。とは言っても、まともな話し合いなどできるとは思っていなかった。
口論だとか、口喧嘩などでは終わらせない。言葉という武器で、相手をねじ伏せるしかない。
「人に迷惑をかけていることも自覚せず、小さな子供みたいに好き勝手にふるまって恥ずかしくないんですか?」
拓也は毅然とした態度でふるまう。
この男に、負けてはならないのだ。
「そうですよ。この家庭に必要なのは、私とお母さんだけなんです。あなたはただの部外者にして闖入者でしかありません」
「貴様、それが父親に対する態度か!」
「父親らしいことをしない男性が何を言っているんですか? 私の父親は今単身赴任でここを離れている人です。あなたが私のお母さんと共にいたのは過去の話でしょう」
亜衣も、堂々と言い放つ。
互いににらみ合いが続く。
「貴、様……!」
ついに、男が亜衣の肩をつかもうとする。だが恐らく、彼女の話通りなら事件にならない程度にしか手を出さないだろう。
だけど、今の激昂している状態ではその狡猾さを忘れている可能性がある。だから、拓也はすぐに両者の間を遮るようにして前に出た。
男が標的を亜衣から拓也に変える。ゴツイ手が伸びてくる。
「やめなさい」
その時、男の後ろから女性の声がした。
亜衣の母親だ。
「私ならともかく、亜衣や他所の子にまで手を出そうというなら、警察を呼びますよ」
「ちっ……」
男は舌打ちすると、手をひっこめた。
「貴様。俺の邪魔をしておいて、ただで済むと思うなよ」
ドン、という音がアパートに響いた。男が拓也の頭の横の壁を殴ったからだ。
「あなたこそ、こんなことをしているといつか破滅しますよ。それとも、こんなことになった理由でもあるんですか? あるいは、誰かの頼みに逆らえなかった、とか?」
「テメエ……!」
拓也は突然胸倉を掴み上げられる。
「その減らず口、効けなくしてやろうか」
「やめなさい! 本当に呼びますよ!」
亜衣の母親が叫ぶ。
「……今日の所はこれまでにしてやるよ」
男は吐き捨てるようにそう言うと、部屋を出てそのままどこかへと行ってしまった。
男が階段の下に消えて行ったのを見届けた拓也は、壁に身を預けた。亜衣も拓也の隣で同じような格好になった。
「はあ……とりあえずはなんとかなったね」
亜衣が拓也に笑顔を向けながら言う。
「前哨戦には勝利、といったところかな。これであの男の人が、少しでも変わってくれているといいんだけれど」
拓也も同じように笑顔で言葉を返した。
その時、亜衣の母親が声をかけてきた。
「すみませんね、私たちのことに巻き込んでしまって。亜衣の友達かしら?」
「あ、すみません」
拓也は慌てて体を起こす。
「はじめまして。滝川拓也です」
「藤沢由衣子です」
亜衣の母親――由衣子は名乗ると、深くお辞儀をした。
「本当に迷惑をおかけしました。家のことに巻き込んでしまってごめんなさい」
「いえ、僕が勝手に介入してきたことなので、気にしないでください。むしろ、よそ者が出しゃばってしまってすみません」
拓也も由衣子に頭を下げる。
それからしばらくの間彼らは話をしていたが、由衣子の「よければ夕食を食べて行きませんか?」という言葉で六時前になっていることに気が付いた。
亜衣の――女子の家にいて、尚且つそこで夕食までいただいたとなれば、母親や静菜に何を言われるか。
拓也は丁寧にその誘いを断ると、後の亜衣との話は『投影世界』ですることにして帰宅した。
「……ということでした」
その夜……というか、厳密には『投影世界』における朝なのであるが。
いつものように、亜衣の様子を拓也はリベラムとラクスに伝えた。
「とうとう、本格的な問題が入ってきやがったか……」
リベラムは呟いた。
「多分、あのエーテル使いの人との接触が引き金になったんだと思う」
拓也は言う。
「おはよう」
「「「おはよう」」」
二階から降りてきた亜衣に、三人が挨拶を返した。
「ありがとね、拓也君。報告しておいてくれたんでしょ?」
「うん」
四人は朝食をとった。メニューは、この宿ではいつも同じなのであるが、パン(のようなもの)に加えて、サラダとスープのバイキングである。紅茶もお代わり自由でつく。
「亜衣、良かったわね。拓也がすぐに来てくれて」
「うん。拓也君には、いきなり呼び出して悪かったけれど」
亜衣はそういったが、拓也は「気にしないで」と言った。
「僕がやりたくてやったことだから」
「……そう。でも、ありがと」
亜衣が笑顔でそう言うと、拓也の頬が少し紅潮した。
その様子をリベラムとラクスにじっと見られていることに気が付いた拓也は、慌てて話を振る。
「というか、今日は一日テッラさんから魔法を教えてくれる予定だったよね? 時間はいいの?」
昨日の討伐会議の後、彼らはそのような約束を取り付けたのだ。
その言葉で、すぐに支度が始まった。
「元素のことについては既に分かっているようね。だったら、具体的な魔法について指導を始めるわ」
ここは王宮にある、宮廷魔術師であるテッラの部屋。要するに、彼女専用のオフィスであった。
「まず、魔法を形成するのに重要なのはイメージよ。どの属性に従って、どのような形で魔法を使用するのか。それが重要になるわね」
そのため、同じ魔法を使用したつもりでも正確な効果は人によって多少異なることも多いのだという。
「イメージってことは、逆に言えばある程度イメージを働かせればどんな魔法で自由に作り出せる、ということになりますよね?」
「と、思うでしょうけれど、実際にはそこまで簡単じゃないのは分かっているのじゃないかしら?」
拓也の問いかけに対して返されたテッラの言葉を聞いて、二人は今まで使用した魔法を思い返した。
拓也のトリアイナはともかく、亜衣の捜索魔法は魔力量が多いがゆえに使用できた、魔術師としては落第点の魔法であるらしい。そのことを指摘された亜衣は、苦笑いをしていた。
「発想自体は悪くないのだけれど、雑なのは否めないわね」
テッラはズバッ、と切り捨てる。




