平穏な『投影世界』
その後もしつこく亜衣との関係について聞いてくる瞬と陵太から逃れた後、拓也は前のようにロッカーへ弁当箱をしまったところで、亜衣に話しかけられた。
亜衣もまた先ほどまで友人と話していたようなのだが、彼女たちは二人の視線が重なるなり、何かを察したようにどこかへ行ってしまった。
そんな自分の友人たちを少し気恥ずかしそうに見つめた後、彼女は言った。
「えっと、今朝は何もなかったよ。それに、心なしかあの人の様子が大人しくなった気がするし。拓也君のおかげだね。ありがとう」
彼女の心の底から嬉しそうな笑顔に、拓也は少し顔を赤くする。
「べ、別に僕が何かをしたとかじゃなくて、亜衣さんが頑張ったからだよ。僕一人でも、何もできなかったし」
「みんなで頑張ったとは思うよ。それでも、きっかけをくれたのは間違いなく拓也君だから。謙遜しないで」
そう言った亜衣は、窓の外へと視線を移した。
彼女は、そこに広がる青空を見つめながら呟く。
「これで、『現実世界』も変わった……はずだよね。こうして学校にいると、あんまり実感がわかないよ」
それは拓也も感じていた。
むしろ逆に、亜衣が学校ではあまり自分の家庭の事情とその負担を表面に出さないようにしていたため、あまり差が分からない、というのが正直なところだった。
しかし、それでも目の前の少女が力を抜いてリラックスしている様子を見ると、変えることができたのだな、と素直に思えてくる。
「そうだね。これからは、ずっと良い方向に動いて行くはずだよ」
『投影世界』は人間の心が映し出された世界。そこにおいては、『現実世界』の人々の恐怖や不安、怒りといった『負の感情』が投影されて、具現化されてしまう。
しかしそれは、逆に言えばその具現化された対象を破壊すれば、『現実世界』の人々の感情も克服することができる。そして、人の心を動かすことができる。
そのために彼らは戦い、仲間を集め、ミノタウロスを倒したのだった。
「そういえば、これからも『投影世界』には行くんだよね? 多分。結局、どうして僕たちのようなオリジナルというものが発生するのかは、聞いていなかったけどさ」
まあ、分からないのかもしれないね、と拓也は付け加えて言う。
「きっと、まだこれから毎日行くんじゃないのかな? 今までみたいに。まあ、別に『現実世界』には精神的な負担しか持ち越さないから、私としては別に良いけどね」
適当にあの世界を見て回ろうよ、と亜衣が言うと、拓也もリベラムについて行って世界旅でもしようかな、などと笑いながら話した。
心配事が消えた彼らは、そのまま放課後も図書委員とダンス部の活動に打ち込んだ。
「そんな訳で、亜衣さんの家の方は大丈夫みたいだよ」
夜になり『投影世界』へやってきた拓也は、リベラムとラクスに『現実世界』での亜衣の様子を報告していた。
というのも、朝起きた途端にリベラムによって強引に連れ出されたと思ったら、ラクスが旅館の外に待っていたのだ。よほど心配してくれていたらしい。
亜衣は、まだ起きてきてはいないようだった。
「そっか。じゃあ、亜衣は大丈夫なんだな」
「まあ、すぐに気を抜かない方が良いとは思うけどね」
リベラムが安心したように笑い、ラクスも嬉しそうに言った。
こうしていると、昨日の戦闘が嘘のように拓也には感じられる。非常に平和な感じがするのだった。
つまり、あまり良くない表現であることは分かっているのだが……どこか、物足りないように感じてしまう。何かが、欠けているような気がする。
それは、早々と目的を達成してしまったためなのか。それとも、
(別の原因があるのか。何かを、一つの可能性を見落としている気がする)
亜衣の家では、少なくともこの日は問題が起こっていなかったと聞く。しかし、今までもそんな日はあったはずだ。さすがに、毎日のように言い争いが起きていたということは聞いていない。亜衣から話を聞く限り、彼女やその母親が拒絶するようにあの男から離れていることは知っているし、その男も毎日のように彼女らに絡んできたわけではないことを聞いている。
だから、疑ってしまう。
「どうしたの、拓也? 解決したことなのだから、あまり難しい顔をしない方が良いわよ?」
「あ、うん」
ラクスの言葉に、拓也は頭を切り替えることにした。悩んでいたところで、自分に何かできるわけではないのだ。
それよりも、目的を失った今はこれからどうするのか。そのことについて考えた方が良さそうだった。
「じゃあ、これからどうするの? ……というかそもそも、リベラムは何のためにドリムト・レス王国に来たの? そう言えば聞いていなかったけど」
拓也のその言葉に、ラクスはリベラムを非難するような目線を送った。
「あなた、この子に自分のこと何も教えていなかったわけ?」
「い、いや。忘れてたんだよ。あはは……」
いつもは頼もしい大人キャラであるはずのリベラムが、たじろいでいる。以外にも、彼にはどこか抜けているところがあるようだった。
拓也としては、かえって親近感がわく様子であったが。
「俺は行商人ってところだな。ほうぼう旅をして回りながら、そこの特産品なんかを安く手に入れて、それが入手しにくい街に来ると相応の値段で売り払う」
まあ、元は若い頃に旅をして回りたいと思って故郷の街を飛び出してからこんな生活を始めたんだけどな、とリベラムは笑った。
「私は幼い頃から動物に対して興味があったからね。獣医を目指していたのだけれど、治癒魔法に必要な魔力量が少なくて断念したの。だから、今は勉強してつけた知識をもとに、動物に関するアドバイザーってところかしら」
ミノタウロスの討伐会議の場所にも呼ばれていたが、ラクスの知識量は高いようだった。さらに、今は本の執筆も多く行っており、現にこの国で使われている主流の獣医学書は彼女が執筆したものだと聞いて、拓也と亜衣は驚く。
まだ高校生である彼らからすれば、そのように旅をしたり、専門家として活躍したりするのは、どこか遠い世界のように感じられたのだった。
「じゃあ、リベラムはこれから市場の方へ行くの?」
「おう。まずはこの街最大の商会に行って、今まで手に入れたものを見せるところから始める。お前らもついて来るか? 世界中からいろいろなものが集められている場所だから、見ていると面白いと思うぞ」
リベラムの言葉に興味がわいた二人は、言葉に甘えて連れて行ってもらうことにした。ラクスとは一度別れることとなった。
初めてまともにこの街の市場というものを物色できることに、彼らはわくわくしていた。というか、非常に嬉しそうな様子であった。
「この世界の市場かー。この間はまともに見れなかったからなあ」
拓也は、辺りにキョロキョロと視線を動かしながら呟く。
「アタシもね……この世界に来たばかりは、緊張してよく見ていなかったから。その後は、あの問題のおかげでそれどころではなくなっていたし。あ、この世界にもバナナがある。隣には……ザクロ?」
「ザクロは、多産と豊穣の効果をもたらすんだ」
亜衣の言葉にリベラムが答えた。
実際に『現実世界』でも、種子が多いことから転じて豊穣や子宝に恵まれる吉木とされる国や地域が多い。さらにエジプト神話では、戦場で敵を皆殺しにするセクメトに対し、太陽神ラーは七千の水差しにザクロの果汁で魔法の薬を作り、セクメトに血であると誤認させて飲ませ、酩酊して殺戮を止めたという伝説もある。
拓也の役に立つのか分からない薀蓄に、亜衣はへえ、と声を漏らす。
「さすが図書委員。すごく物知りだよね」
「ザクロを知っていたのは、お爺ちゃんが育てているからだけど」
もっとも、ザクロは育ててから実を付けるようになるまでに十年近くかかるものだったりする。木から得られる果実だから仕方ないものの、時間がかかる代物だ。
拓也の祖父も、好奇心で育て始めたというのが正直なところである。唯一の長所は、日当たりさえよければ北海道を除く日本の大部分で育てられること、らしい。
「他にも、知っているものと知らない物といろいろあるよね」
彼らは、市場に並んでいる様々な品物を物色していく。
他にもキウイやオレンジなど、『現実世界』でもなじみ深い品物が並んでいた。
「人の心から生み出された世界だから、やっぱり同じなのかな」
「とは言っても、『現実世界』にはさすがに不老不死の果実とかはないだろ?」
拓也の言葉を聞いて、リベラムが言う。
この世界には不老不死をもたらすアンブロシアのような果実やネクターのような飲み物も希少ながら存在するとのことだ。最も、不老不死を手に入れたところでその後いつかは死ぬために並ならぬ努力をする必要が出てくるので、今の時代となってはそれを望む人間はほとんどいないとのことだ。
過去にはそれで発狂に近い状況になった人間もあり、死のうとも死ねずに湖の底をさまよい歩いているなんて怪談話までできあがっているとか。
「生き地獄……」
「勘弁したいよね」
その様子を想像して、彼らは顔をしかめた。
「じゃあ、そんなところで……ん? なんか騒がしいな」
リベラムが言うと、拓也たちも遠くからわずかながら喧騒が聞こえてくることに気が付く。三人は顔を見合わせると、その武器に手をかけながら速やかに移動する。
「どういうことだ。話が違う!」
すると、そこでは一人のキャニスタ族の男が三人のユーモ族の商人と言い争いをしていた。
周囲の人間から注目を集めているが、彼らはそれに構わずに続けている。
「これだけそろえば、借入額を全てチャラにできるといったのは貴様らだろうが!」
キャニスタ族の男が叫ぶ。どうやら、借金のことで食い違いが生じているようだった。
「だから、この間からその商品は軒並み価格が下がっているんだよ。知っているだろ? この間大きな鉱山が近くで見つかったことを、な。材料が安くなる分、これからその金属製品はどんどん値下がりする。俺たちが次に売るときには、値段が下がっている。それが分かっているから、悪いが元の金額で買う訳にはいかねえな」
必死に食い掛かる彼らに対し、ユーモ族の男たちの中でも特に体格の良い男があざ笑うかのように告げる。それに対し、猫顔の男は必死に食らいつくように抗議していた。
拓也が話を聞いた限り、商人との取引でもめているようだった。
彼らはしばらく言い争いをしていたが、しばらくするとキャニスタ族の男がその場から悔しそうに去って行った。商人たちは、その後姿をあざ笑う。
「何があったの?」
周囲でその様子を見ていた野次馬が散っていく頃になって、亜衣はリベラムに訊く。
「多分、商売上の取引に文句をつけ始めたんだろうな。恐らくは、あの三人組が」
リベラムも、ため息をついて言った。
「文句?」
「それだけじゃなくて、ユーモ族とキャニスタ族っていうのも拍車をかけたんだろうなあ」
リベラムの言葉に、今度は拓也が訊いた。
「それって、人種差別みたいな?」
「ああ。この国が生まれる前は、部族ごとに分かれていたって話をしただろ? だけど、それは主に種族によって分かれていたんだよ。ここはユーモ族の部族の領地。こっちはキャニスタ族で、こっちはラサータ族っていう具合にな」
この土地の統一と王国の誕生によって、建前上は部族間、種族間の壁は取り払われた。法において彼らは平等であるし、公的な機関であるビギルやミリタリスにおいても、三種族は同等の権限を持つ。
しかし、人々の意識は簡単には変わらない。
『現実世界』においても未だに、世界には人種差別の意識が根強く残っている人間がいるし、日本にも部落問題がある。
拓也はそのことを考えて、何とも言えない嫌な気分になった。
自分たちの生活の中では、あからさまな差別をする人はあまり見受けられない。いるにはいるのかもしれないが、ほとんどの人は会ったことがいないだろう。もっとも、表へと出していないだけかもしれないが。
拓也たちからしてみれば、人を外見や出身で差別する理由が分からないのだ。
その時、亜衣が「あ……」と小さく声を上げた。
彼女はしばらく眉間に指先を当てていたが、突然走り出した。
「亜衣さん!」
「どうした、亜衣?」
その後を拓也とリベラムが追う。
彼女は人ごみの中をかき分けながら進んでいたが、結局男を見失ってしまったようだった。
「見えた……」
ぽつりと亜衣が呟く。
「何が見えたって?」
リベラムの問いに、彼女は答えた。
「『現実世界』での、お母さんとあの人の様子とか。あの人が誰か知らない男の人と言い争いしているシーンとか。短い時間だったけれどいくつか見えた」
その言葉に、拓也とリベラムが顔を見合わせた。
どうやら、思わぬ場所から決定的な何かが転がり込んできたらしい。




