蒼い月の下で
二人は店の外へ出た。
周囲は既に暗くなっており、空に浮かぶ蒼い月が彼らを照らしている。
「言い忘れていたけれど、討伐お疲れ」
拓也が言うと、亜衣は笑顔になった。
「うん。拓也君こそ、お疲れ」
そう言った彼女は一度横を向くが、すぐに拓也の方へと向き直って言った。
「今まで、ありがとう」
亜衣の声が、静かな夜道に響く。
「この世界に来てからずっと、不安だったんだ。いつかダメになっちゃうって、思っていたし。ううん。もうダメだって、思っていた」
亜衣は、一人で話す。
「一人でさ、どうすれば良いのかも分からなかったし。それでも何とかしなくちゃって、始めの方は、この世界で生きていくことだけを考えていた」
しかし、しばらくすると『現実世界』の方で問題が浮上した。
「だから、戦う。何とかするって、決めたんだ」
召喚士の下へ行って、新たな属性の精霊と契約した。魔法も覚えた。
「だけど、それでも何も変わることはなくて。だから、それで隣にあったこの街に移動したの」
何も見つからないようならば、見つかるまで旅を続ける予定だったらしい。
「そうしてしばらく狩りとかをしていたんだけれど、それで疲れ切っていた時あの騒動に巻き込まれて」
そのタイミングで彼らは出会いを果たし、この世界で共に歩くこととなった。
「それ以降は、知っての通りだよ」
亜衣の簡潔な話が終わった。
「そう、か」
「だから、滝川君と会って、リベラムと会って、ラクスと会って。嬉しかった。それまで、人の助けを借りることを忘れていた、そのことに気が付かされたんだ。無理しないようになったら、それからずっと、問題が進んで行った」
亜衣は、拓也の前で頭を下げる。
「本当に、ありがとう。拓也君がいなかったら、きっと私は潰れていた」
「い、いや……僕がしたことなんて、そこまでじゃないよ」
拓也は言う。
「僕はあの日、藤沢さんと会った日に初めて『投影世界』に来たんだ。そこで、ウルフレストと会ってさ。何も分からない状況で、あっさりと追い詰められちゃって」
だけど、と彼は続けた。
「その時、たまたま通りかかったリベラムが助けてくれたんだ。その後は、ドリムト・レス王国までついて行って、そこで藤沢さんと出会った。そしたらたまたま、精霊と契約できたんだ」
彼は、少し俯くと言った。
「それだけだよ。たまたま、運が良かっただけなんだ」
あの時、リベラムが拓也を助けてくれなかったら、彼は今、ここにはいなかった。
あの時、亜衣と会うことができなかったら、拓也は怪物と戦うことなんて、できなかった。
あの時、水の精と契約を結ぶことができなかったら、拓也は目の前でとらわれている亜衣を助けることなんか、できなかった。
「僕が特別強かったわけじゃない。ただ」
「目の前に来たチャンスをつかみ取ることができた……でも、その選択肢を選んだのは滝川君なんだよ?」
誰も同じ選択をするとは限らないから、と亜衣は言った。
例えば、拓也が『現実世界』であのビルの屋上にいた亜衣を見つけた時、彼女の下へ駆けつけなかったら、亜衣はそのまま身を投げていた。
例えば、拓也が『投影世界』で初めてウルフレストに襲われたとき、『戦う』のではなく『逃げる』という選択肢を取っていたら、リベラムと会うことはなかった。
例えば、拓也が『投影世界』で亜衣を見つけた時、テロリストたちを見て逃げ出していれば、拓也は亜衣を救うことはできずに、精霊とも契約できなかった。
拓也のお人好しさが恐怖心を上回ったのは、決して『投影世界』にいたからというだけではない。彼は、そもそもそれが可能な人間だったのかもしれない。
いや、厳密には誰にでもできることだったのだろう。ただ、みんなが『可能だった』のに対して、拓也は『実行した』。その違いだった。
絶対的で、大きな、その違い。彼は、そこを乗り越えることができたのだ。
「だから、それ以上謙遜はしないで。私のために、謙遜はしないで」
亜衣は、拓也の手を取って握りしめた。
「私は……私を助けてくれたのは拓也君だった。それが事実だよ」
自分に顔を近づけて話す少女に、拓也は顔を少し赤く染めると微笑んだ。
「分かったよ。ありがとう、亜衣さん」
拓也も彼女に対して、普段の子供のような無邪気な表情とは違う、優しげな微笑みを返した。普段彼が見せないその表情に、亜衣の鼓動が高鳴る。
しかし、二人は自分たちの繋がれた手を見ると、顔をより赤くして慌てて距離を取った。
「「ご、ごめん!」」
声が重なり、さらに顔を赤くする二人。
しかし、拓也にとってその緊張はどこか心地よいものにさえ感じられた。
ウルフレストや、ミノタウロスを相手に武器を構えているときとは違う、この心地よくさえ思われる緊張感。拓也はそれに身を委ねる。
「じゃあ、日常に戻ろうか。亜衣さん」
「うん、拓也君」
その時、宴会場となっている店から多くの人間が出てきた。
「おい、主役が外に出ているんじゃねえ! 店の中に戻ってこい!」
「そうだ、そうだ!」
彼らに腕をつかまれたり、肩に手を回されたりして半ば無理矢理に宴会場へ引き戻される二人。
彼らの表情は、清々しい笑顔であった。
「……眠い」
それが『現実世界』での翌朝の、拓也の第一声であった。
『投影世界』での行動は、肉体的な疲れは現実へ影響をしない物の、精神的な疲れはそのままフィードバックされてしまうのだ。したがって、体は元気なものの、気分だけなぜか疲れ切ったような感じになってしまうのだった。
(倒したんだよね、ミノタウロスを)
拓也は思い返す。
最後の一斉攻撃により、ミノタウロスは確かに殺されていた。もっとも、『投影世界』においてはこのような魔物や怪物はたとえ倒しても、『現実世界』からの人々のイメージの投影によって一定期間後に復活してしまうらしい。だが、その後再びドリムト・レス王国周辺に現れることは少ないだろう、という話を受けていたので、ミノタウロスの一件はあの討伐で解決したと言っても良いだろう。
「おはよう」
「おはよ。お兄ちゃん、また眠そうだね?」
拓也は部屋を出ると、いつも通り家族とのやり取りを交わす。
「全く、最近ずっとそうなんだから。授業中に寝るんじゃないわよ?」
「分かっているって。そんなことはやらないよ」
母親の注意に対して、拓也は苦笑いをして返事をする。
今日の1時間目は化学の問題演習の授業であり、その先生は緩いことで有名である。そのために隙を見て寝てしまおうと少しだけ考えてしまったことは内緒だ。
「高校だと、授業に寝る人とかいるんだねー」
静菜がご飯を口に運びながら呟いた。
「特に朝とか、体育の後とかはいるね。ハードな運動部の人が多いけど」
とはいっても、やっぱり生活リズムが崩れている人が多いみたいだけどね。と拓也は言った。
時折読書にのめりこんで多少の夜更かしをするものの、基本的には規則正しい生活を送っている拓也は授業中に寝たことは幸いにも今までに一度もない。
「寝たらダメだよ、お兄ちゃん」
「小学生が心配する必要はないって。それよりも、静菜は今日の体育のことでも考えたら?」
静菜も拓也と同様に、あまり運動神経は良いほうではない。身体能力に関してはあくまでスタンダードであるのは、この家族全員に共通することであった。
「別に、適当に参加するだけだからいいもーん」
だが拓也の指摘に、静菜は適当に答える。
「まあ、僕も似たような感じだから、静菜のこと言えないけどさ……」
拓也も体育の時間は、基本的に周囲の人間の迷惑にならない程度に参加するのが常であった。最も、最近は『投影世界』で体を動かすことが増えたために、以前よりは積極的に動けるようになってはいたが。
「でも、端からやる気がないのはどうかと思うけど」
「お、お兄ちゃんに言われるようなことじゃないもん! 行ってきます!」
そのタイミングで朝食を食べ終えた静菜は、すぐさま逃げ出した。
「おーい、お茶飲み忘れているよー」
拓也は、リラックスした調子で彼女を呼び戻す。そして朝食を食べ終えると、自分の部屋に戻って身支度を整え、高校へと向かった。
この日、亜衣は朝のSHR直前になってきてから登校してきた。日頃からダンス部の練習をしている上に、肉体だけでなく家の状況と『投影世界』のせいで精神的にも疲れていることを考えると、しょうがないと拓也は思う。
昼休みになり、拓也はいつものメンバーと昼食を取る。
「で、拓也は最近どうなんだよ?」
購買のコロッケパンを口に運びながら、瞬が言った。
「どう、って?」
彼の言葉に拓也はキョトンとした表情で返すが、その様子に瞬は陵太と共にはぁー、と長い溜息をついた。
「だから、俺たちが訊きたいのは」
「藤沢さんのことに決まっているだろ!」
二人の息ピッタリの攻撃に、拓也は困惑する。
昨夜の『投影世界』の出来事によって、拓也と亜衣との仲は非常に深まった。
休み時間も教室で仲良く話をしていたし、朝はギリギリに登校してきた亜衣に対して拓也が声をかけ、それに亜衣が笑顔で答えていた。
傍から見れば、非常に仲が良さそうに見えたのである。
「何なんだよ、本当にどこでお前は藤沢さんをひっかけたんだ?」
「本当だよ。お前はいつからそんな色男になったんだ? 可愛い顔をしているくせに」
二人が口々に叫ぶ。
「か、顔がかわいいとかは関係ないでしょ……。ただ、最近下校しているときにたまたま会って、その時から話をしただけだって」
『投影世界』でのことを全て省いて、拓也は簡潔に説明すると気が付いた。
(『投影世界』でのことを省くと、僕ってあまり藤沢さんと話とかしていないんだよなあ。魔法のことについて少し話しただけで)
拓也としては、彼女とは結構仲良くなった気がしていたのだが、改めて思い返してみると『投影世界』のことばかりで、『現実世界』ではまるで話をしていない。
それは、彼らの関係はその世界で問題を解決することだけにあるからなのだろうか。しかし、それは少し寂しく拓也は思う。
せっかくあのような少女と仲良くなれたのだ。
亜衣といると拓也もどこか心が温まる気がした。それは、彼女が美少女であるという理由だけではない気がする。
中学生の時、クラス一番の美少女と偶然にも話をしたとき、あるいは図書委員の関係で美人の先輩と話をしたとき。その時のもどかしいような緊張とは違う。
それは、安心感だった。
亜衣といると、いつもの臆病な自分が消えているような、安心感を思わせるのだ。
彼女といれば、拓也は勇気が出る。
彼女といれば、拓也は行動が変わる。
だが、それは逆に――拓也が亜衣と共にいることがなくなった時、どうなるのだろうか。
彼女といればできる、というのは逆に、彼女がいなければできない、と言っているのと同じだ。
彼には、小説の物語の主人公のような、天賦の才はない。
彼には、マンガで出てくる登場人物のような、卓越した技能を誇る趣味は存在しない。
したがって、滝川拓也は、藤沢亜衣と『投影世界』にいなければ、その存在価値は非常に下がってしまう人間でしかなかったのだ。




