えっ、どういう事?
不穏な場が、とりあえず収まりそうな状況を見て遙香はホッとした顔を見せる。
しかし、遥香は南央樹の左腕に絡ませた自分の右腕と、そこに自分の胸をブラ越しとは言え押しつけている格好になっている事に、まだ気付いてはいない。
多田という男の態度に反発するまま南央樹を庇ってしまった成り行きとは言え、落ち着いて考えて見れば、それがずいぶんと大胆な事なのだと言う事にはきっと後で気付くのだろう。
南央樹の方はと言えば、朝比奈たちから思わぬ助けが入った事でホッとしたはずなのに、なんだか残念そうな表情をしていた。
遥香はまだ気が付いて居ないが、自分が南央樹に腕を絡めて胸を押しつけているという状況は、彼としても予想外の展開だったのだ。
「なんだか楽しそうな展開になってるじゃねーか」
浅黒く日焼けした大柄な來斗が、気楽なことを言いながらニヤニヤと南央樹と遥香を眺めていた。
その隣で朝比奈はチラリと南央樹と遙香の方を見た後、真面目な顔で多田と言う嫌な男に向き直る。
多田という男の様子はどうなんだろうと遥香が視線を戻すと、彼は悔しそうな顔をして南央樹を睨んでいた。
寄り添うでもなく、少し距離を置いてその隣に立っているだけの岡田という女の子は、なんだかバツの悪そうな顔をして後方へ離れようとしているようにも見える。
多田の表情は、振り上げた手を無理矢理押さえつけられたような、やり場の無い憤りを堪えているように見える。
だけど、それは余りに理不尽な怒りだとしか思えない。
恐らく、多田は普段から南央樹を見下して馬鹿にして来たのだろう。
それが、よりにもよって多田の学校中を探しても勝てる者が居ないようなスタイルの良い美人の遥香を南央樹が連れているという事は、決して認めたく無い敗北感を彼に与えているのかもしれない。
しかも、それだけでは無い。
目の前で、あたかも二人が親しく付き合っているかのような態度を見せつけられた屈辱もある。
きっと、多田という男のプライドは二重の意味でズタズタなのだろう。
岡田という女の子は、多田の居るクラスの中でも可愛い部類に入る。
その彼女を、あれこれ言って強引に海に連れてきたというのに、今の状況はそんな楽しい気分を台無しにする展開となっていた。
とにかく新学期を迎える前に、このままでは終われない。
なんとか南央樹の悔しがる姿を見てやりたいと、多田は考えていた。
だが暴力に訴えるにしても、この場では分が悪いのは間違いが無い。
「とにかく喧嘩は駄目だよ」
朝比奈の発する冷静な言葉は、憤懣やるかたない気持ちを無理矢理抑えていた多田と言う男に対して、逆効果だったようだ。
押さえつけられない憤りで心の中が溢れそうな時に、そんな事を言われてしまえば尚更冷静ではいられなくなる。
そして、思わず拒否の言葉が口を突いて出そうになる。
「関係無ぇ奴らは…… 」
引っ込んでいろと言いかけた言葉を、多田と言う男は途中で飲み込んで黙った。
それは、見るからに粗暴そうな黒くて大きい男に怯えたのでは無い。
彼に向けて暴力は駄目だと注意を促している、一見優しそうな顔をした朝比奈という男の目が、まったく笑っていないことに気付いたからだった。
そんな2人の遣り取りを見ていた遥香は、急に慌てて南央樹の腕から離れて顔を背ける。
一方的に馬鹿にされている南央樹への援護の為とは言え、自分のやっていた行為の大胆さに今更のように気付いたのだった。
自分の半身に感じた南央樹の体温とその腕の感触は、まだリアルに残っている
遥香が急に離れた事に気付いた南央樹は、露骨に残念そうな顔した。
そしてその現況である朝比奈と來斗へと、恨めしそうな視線を送る。
そんな南央樹の様子と恥ずかしそうな態度を見せる遥香を見て、『見せつけやがって』と、見当違いな感想を多田は抱いていた。
そうしてまた少し多田の心の底に、南央樹に対する理不尽な怒りや不満が澱のように降り積もって行く。
「ご心配掛けてすみません」
そう言って素直に朝比奈と來斗に頭を下げる南央樹を見て、多田と言う男の顔が醜く歪んだ。
すでに終わったかのような南央樹の態度の何かが、多田という男の琴線に触れたのだろう。
「下野の癖に、女連れてるとか生意気なんだよ! しかも俺と同じボードセイリングやってるとか、お前は俺をそんなに意識してんのかよ」
いついかなる時でも、下野南央樹が自分の上に立つような事があってはいけないという想いが、その言葉に現れていた。
遥香に取ってみれば何故なのかは判らないけれど、とにかく南央樹を屈服させないと彼は気が済まないように見える。
遥香はそんな多田の怒りをよそに、南央樹から離れて戸惑っていた。
朝比奈の後ろでニヤニヤ笑っている來斗の視線が、南央樹の左腕に絡みついた遥香自身の右腕にあるのだと気付いて慌てて離れてみたのだった。
だけど、急に失ってしまった南央樹の温もりが、想像以上の喪失感を遥香に与えてしまったからである。
それはいったい何に対する喪失感なのか、それを遥香は戸惑い自問自答していた。
つい勢いでやってしまった事とは言え、我ながら自分の大胆さにも驚かされる。
ついこの間、肝試しであんな事があったというのに、何故か同じ男である南央樹に触れる事が嫌では無かった事も、よく考えてみれば驚くべき事だった。
あれから、クラスの男達が近寄ってくるだけでも、無意識に身構えている自分に気付いていたから、尚更だった。
南央樹と他の男達は何が違っているのか、それを遥香は考えていた。
すでに心の底では自然と答えの出ている事ではあるけれど、心の底で願っている事を、心の表層でも気付くことは難しい。
いや、もしかすると遥香の心の表層は、それを判らない振りをしているだけなのかもしれなかった。
心の表層までもが遥香の願いを一度でも理解してしまえば、揺れている遥香の心を留めておくものが無くなってしまうのだ。
未知の領域に踏み込む事に戸惑う心の一部分が、まだ遥香にブレーキを掛けておきたいと、そう判断をしていたのかもしれない。
「ウィンドは好きでやってるんだ、お前とは関係無い」
気が付けば、南央樹がそう反論していた。
彼がウィンドサーフィンというものを好きでやっている事は、誰よりも遥香が良く知っている事だ。
いつでも海に来れば、格好悪くても見栄えが悪くても、諦めないでウィンドサーフィンというものに取り組んでいる南央樹が居た事を、遥香は誰よりも知っていた。
だから、好きでやっているという南央樹の言葉に、私はそれを解っているよと、心の中で頷いて見せる。
今日初めて南央樹がウィンドサーフィンをやっている事を知った男に、南央樹の何が解るというのだろう。
そんな強い想いで、相手の男である多田を睨んでやった。
「へぇ、君もウィンドやるの?」
そんな、朝比奈の言葉で話は変わり始めた。
遥香が気が付いた時には、南央樹と多田がレースをやることになっていたのだった。
多田という男の言うボードセイリングと、南央樹の言うウィンドサーフィンの意味する事の違いを、遥香は知らない。
それでも、多田と言う男が南央樹の言うウィンドサーフィンという呼び方を小馬鹿にしている事は感じられた。
それは正式な呼称と俗称の違いでしか無い。
しかしそんな処への妙な拘りにも、多田という男の南央樹に対する敵愾心とプライドの高さが透けて見える。
遥香は、多田のそんな態度にも腹を立てていた。
自分が小馬鹿にされた訳でもないのに、妙に苛立たしい気持ちで心が一杯になる。
ちょっと南央樹の自信が無さげなのが気になるけれど、ここは南央樹にどうしたって勝って欲しいシチュエーションだ。
だけど南央樹が妙に乗り気で無いのも、判らない訳では無い。
何しろ相手のキャリアが豊富そうなのに対して南央樹は、遥香の知る限りではまだ始めたばかりでしか無い。
これは余りにも勝ち目が無いのではと、少し冷静になった遥香も思う。
設定されたコースの意味が遥香には理解できないけれど、少し不安そうな南央樹と自信に満ちあふれている多田の違いは、一目瞭然で判る。
これは遥香としても、南央樹サイドに立った解決にはなっていないんじゃないかと、小さな不安が頭をもたげた。
だが、朝比奈という男は心配などしていないように見える。
隣の來斗という男も、これは面白いことが始まったというような、いたずらっ子のような顔をしていた。
2人は南央樹の味方の筈なのに、この余裕は何だろう。
もしかして、この2人にとって南央樹が勝とうが負けようが、どうでも良いのではないかと疑問が頭を過ぎる。
「キャリアが全然違うのにレースをさせるなんて無茶じゃないですか? 下野くんは、つい最近始めたばかりですよね」
不安になった遥香は、2人が道具をセットして海に向かったタイミングで、朝比奈にこっそり尋ねてみる。
そんな遥香の視線の端に居た岡田という女の子は、多田という男に荷担するでもなく、思わぬ事の成り行きを不安そうに見ていた。
「一口にキャリア3年って言っても、プロじゃ無い限り毎日続けて3年間やってる訳じゃなくて、夏休みのバカンスで海に行って数回経験してから3年目ってのから、南央樹くんみたいに夏休み中ぶっ続けでのめり込んでるって人まで、色々だからね」
「結局、あの男の子はどっちなんですか?」
「あの…… 」
遥香が、答えを待ちきれずに朝比奈に問いかけた時、横から岡田という女の子の声がした。
驚いて遥香と朝比奈たちが振り向くと、ずっと黙って居た彼女が口を開いた。
「ここに来る前にずっと電車の中で私に自慢していたんです、私が聞いても居ないのに…… いつも夏休みは毎年2週間くらい、お父さんの別荘に行ってジェットスキーに乗ったりボードセイリングをして過ごすんだって。 ボードセイリングに夢中なのはお兄さんの方で、自分はそんなに好きじゃないけど、センスは褒められてるんだぜって、自慢気に言ってました」
「なるほどね、毎年2週間だとして3年で6週間って事か。 それでも毎日みっちりやれば、1ヶ月半くらいって処じゃないかな。 もっとも、お兄さんから基本をバッチリ仕込まれていれば侮れないとは思うけどね」
それを聞いて、朝比奈が多田の実力の程を考察する。
結局、大きな力の開きは無さそうだというだけで、遥香は事の成り行きについて安心する事が出来なかった。
「少年は、真琴の放任主義のおかげで走り出すまでが長かったから、結構良い勝負かもしれねーな」
來斗が独り言のように呟く。
そうだった! それは遥香も目撃している事実だ。
「必要としている時に自分で見つけた答えだから身につくし、困ったときに応用も利くんだよ。 自然を相手にするんだから、自分で答えを見つけられなきゃすぐに死んじまうだろ」
朝比奈は、來斗に向かってさも当然とばかりに答える。
しかし、遥香はキッと朝比奈の方を睨んだ。
もし、南央樹が負けたら、この人のせいだとばかりに。
遥香は、完全に自分の思考が南央樹寄りになっている事にも、まだ気付いていなかった。
この場でそれに気付いているのは、朝比奈と來斗だけである。
來斗はニヤリと笑うと、先に南央樹たちの方へと向かった朝比奈の後を追った。
遥香と岡田と言う女の子も、その後を追って海辺へと向かう。
海辺では、また2人が言い争っていた。
「お前このビーチは初めてなんだろ? 地元の人に地形の影響とか、気をつけるポイントとか聞かなくて良いのかよ」
「けっ! そんな事聞かなくても、お前如きには負けないから余計な心配すんな!」
お前如き……
南央樹に向かって吐き捨てるように言う多田の態度が、遥香は気に入らない。
「なにあいつ!関係ない私が聞いても凄いむかつくんだけど」
遥香は、横に居る岡田という女の子に、そう話しかけた。
あなたの連れでしょと、そう言わんばかりだ。
「わたし多田君と付き合ってる訳じゃ無いし…… 今日だって何度も断ったのに無理矢理脅されて連れてこられたようなものだから、急にそんな事言われても困るよ…… 」
遥香に向かって、岡田と言う女の子が小声で抗議する。
たしかに、最初から付き合っている風には見えない微妙な空気が流れていたのは、遥香も感じていた事は間違いない。
男の南央樹は鈍感だから気が付いて居ないだろうけど、女の遥香にはそれが感じられた。
ふと相手を見る些細な仕草や目線で、それは何となく判ってしまうものなのだ。
「やっぱりそうなんだ。 あなたの方が妙に距離を作っているように見えたから、変だなとは思ってたんだ」
「やっぱり女の子なら判るよね、わたしが多田くんを好きじゃ無いのは」
助けを求めるように、岡田という女の子が訴える。
それならそれで、2人きりで海に来るのは不自然だと遥香は思った。
「でも、それなら何で一緒に海になんか」
「わたし、脅かされてたの。 断ると次のターゲットはお前だぞって」
「ターゲットって、何の事?」
岡田と言う女の子はうつむき加減で上目遣いになり、自分で自分自身を抱きしめるように両腕を胸の前で交差させる姿勢をとった。
それは無意識の自己防御姿勢だと、遥香は何かで見た事を思い出していた。
「じゃあ流されたら俺が助けてやるから安心して勝負してこい、少年!」
岡田という女の子と遥香の間に漂う沈黙を切り裂くような、元気の良い來斗の声に驚いて、南央樹たちの方を振り向く。
南央樹と多田という男は、いつの間にか朝比奈が決めたスタート位置へと移動していた。
スタート地点になり、そしてゴール地点にもなる場所。
そこは、あの日南央樹と遥香が初めて出会った、あの突堤の間だった。
初めて南央樹と出逢った時の事を思い出して、思わずクスリと笑みを漏らす遥香。
あの時は、まさかこんな風になるとは自分でも全く思っても居なかったのに……
そんな想いを胸に、突堤に向かって走って行く遥香。
あの時の突堤の上から、南央樹に声を掛ける。
何処かの映画で見たようなシーンを真似して、右手を南央樹に向けて突き出す。
そして握った指の親指だけを上に向けて伸ばし、右目を瞑ってウィンクの真似事をしてみた。
「南央樹! 頑張ってね」
それを見た南央樹が、途端に笑顔を見せる。
思わず、遥香もつられて笑顔になった。
それは作り笑いでも演技の笑いでも無く、心からの笑顔。
南央樹にもそれが通じたのか、同じように右腕を伸ばして親指を上に向けて見せた。
「まかせとけ、遥香!」
そう言いながらチラリと多田という男を横目で一瞬見て、再び遥香に向き直りペロリと小さく舌を出す。
多田という男は、遥香の方を向いた南央樹の後ろ姿しか見えていないはずだから、それに気付かず露骨に悔しそうな顔を見せた。
だけど遥香は、そんな事を気にしている余裕も無い。
何故なら突然南央樹に名前を呼び捨てにされて、ただ狼狽えていたのだ。
こうも堂々と自分の名前を呼び捨てにされると、どう反応して良いのか判らない。
クラスの男子からも同じように名前で呼ばれてはいるけれど、何故か今は同じようには受け取れないでいた。
訳も判らず、自分の頬が自然と赤く火照り出したのが、体感で判る。
(え、え、?! 遥香だって…… 遥香とか、呼び捨てにされちゃったよ、あたし…… )
今のシーンを反芻して、1人にやける遥香。
名前を呼び捨てにされただけだと言うのに、何故か嬉しいような誇らしいような、それは今まで経験した事の無い不思議な感覚だった。
「お前なんで俺を応援しないで突っ立ってるんだよ! 学校が始まったら覚えてろ!」
そんな罵声を聞いて、遥香は自分の世界から引き戻されて我に返る。
見れば、多田というあの男が岡田という女の子に向かって怒鳴っていた。
それを見て遥香は思う。
そんな強引な態度で、女の子の心が動くとでも思っているのだろうか?
遥香は多田を睨みつける。
しかし怒鳴り終えた事で気持ちを切り替えたのか、多田はそれに気付かずプイと海に向き直る。
既に関心は南央樹とのレースに向いているかのように、彼は装っていた。
彼はスタート位置について合図を待つかのように、海に浮かべたボードに右足を乗せている。
南央樹の位置と見比べると、ずいぶんと遥香の居る突堤から左側へと離れた位置に多田と言う男は居た。
その時、朝比奈が発したスタートの合図で2人はセイルをグイッと引き込む。
バンッ! というセイルに風が入る張り詰めた大きな音がして、ほぼ同時にボードに飛び乗った2人はスルスルと右方向へと向かって遠ざかって行く。
もう遥香に出来る事は、南央樹がこの勝負に勝つことを願う事しか無かった。
南央樹のボードと多田のボードの行方を追っていた遥香の視界の隅に、岡田と言う女の子が映った。
何かが気になって、そちらを振り向く。
彼女は何かを諦めたかのように、無気力にただ沖を眺めていた。
その姿を見て、遥香は彼女に近付いて告げる。
「ねえ、あなたもう帰った方が良いわよ。 ううん、帰りなさい。 このままレースが終わるのを待ってて2人きりになっても、あの人が相手じゃ絶対に良いこと無いわよ」
岡田と言う女の子が、自分に逆らえないであろうキーワードを恥ずかしげも無く使う多田である。
いつ、あの日の肝試しのような事が、彼女にも起きないとは限らないのだ。
遥香は運良く抵抗が出来たけど、この子はきっとそれが出来ないだろうと思った。
暑い季節だし、どうしたって女の子の身なりも無防備にならざるを得ない。
「もうさ、ぜんぶ今日何があったのか、あいつに何を言われて脅されたのか、クラスのみんなに言っちゃいなよ」
遥香が岡田という女の子にそう言うと、彼女は自分のスマートフォンを取りだして見せた。
その画面には、SNSのメッセージが並んでいた。
「多田くんと、その取り巻きを除いたクラスの仲間で裏グループを作ってあるの。 悪いけど南央樹くんも被害者という意味で当事者だから外れてるわ。 もう、今日の事はみんな知ってるの」
そのメッセージは、多田を罵倒する書き込みだらけだった。
多田を置いて、すぐに帰って来いというメッセージも多数ある。
「みんなずっと腹に据えかねていた部分もあって、最初は愚痴をこぼすためのグループだったんだけど、いつのまにか当事者以外は全員が参加するグループになっちゃって、これからの対応を変えようって意見も多くて…… ありがとう、わたしもやっと決心がついた」
彼女はそう言って寂しそうな笑顔になると、遥香に向かって小さく手を振って海から離れる方向に歩き出す。
そして何かを思い出したかのように急に振り返ると、遥香に向かって言った。
「あのね、南央樹くんが虐められている理由は、すごく下らない事なの。 多田くんが幼稚園の頃に体が大きくてどうしても勝てない相手が居て、その子に突っかかってはいつも泣かされていたんだって。 それでその相手が実は南央樹くんだったらしいの。 たまたま同じクラスになって、子供の頃の話をしていてそれに気が付いたから、今はその時の復讐をしているんだって嬉しそうに言ってた。」
「なにそれ! 逆恨みじゃないの」
あまりに馬鹿馬鹿し過ぎる理由で、それ以上の感想が出て来なかった。
やった方と違って、やられた方はいつまでもそれを忘れないと言うが、それにしてもずいぶんと執念深い事だと呆れる他ない。
遥香の南央樹サイドに立った感情を目の当たりにして、岡田と言う女の子は微妙な笑顔から急に真面目な顔になる。
そして少し遠慮がちに、別の事を遥香に告げた。
「南央樹くんを、よろしくね。 あの人は良い人だよ。 ――あ~あ、ちょっと決心するのが遅すぎちゃったなぁ…… まさか、あなたみたいな人が南央樹くんの側に現れるなんて、ほんと思わなかったよ」
それだけを言うと、岡田と言う女の子はクルリと振り返り、何かを振り切るように小走りに去って行った。
後に1人残された遥香は、いま言われた言葉を頭の中で繰り返す。
「えっ、どういう事? まさか、あの子も…… 」
何気ない一言の中に、言った本人すら気付いていない真実が潜んでいるのかもしれない。
遥香の言った言葉は、『まさか、あの子が』でも無いし、『まさか、あの子は』でも無く、『まさか、あの子も』なのであった。
そう、『私と同じように』という意味を内包する、『あの子も』の『も』だったのだ。
すでに矢吹遥香の心の表層すらも、深層が求めているそれを、否応無しに認めざるを得なくなっていた。