やっぱり不公平だわ
今日も夏休みの日課であるかのように、図書館へ向かう前に防潮堤の上に立つ遥香。
いつものように海の様子を眺めながらも、無意識に南央樹の姿を探している事には彼女自身が気付いていない。
少なくとも彼女の意識の表層では、「自分は海を眺めに来ているだけ」という認識だ。
母親が朝食の手伝いをしないとウルサイから、夏休みだと言うのに起床時間は学校に行っている時よりも少しだけ早い。
弟はいつまでも寝ていると言うのに、女に生まれたと言うだけであれこれと仕事が増えるのには抵抗があるが、小さい頃から母親の真似をして料理をする事は嫌いでは無い。
楽しそうに鼻歌を歌いながら料理をしている母親の姿を見て育っているからだと思うが、自分が手がけた料理を「美味しい」と言って食べる姿を見るのは、正直言って嬉しい。
小さい頃はレシピ通りに作る事を強要されたが、今では母親も遥香のちょっとしたアレンジを楽しんでいるようにも見える。
「何をどれだけ入れると、どんな味になるのか覚えておくのよ」
「何と何を組み合わせると、どうなるのかも覚えなさいね」
それが小さい頃の母親の口癖だった。
「なんか料理じゃ無くて、理科の実験みたいだね」
そんな感想を述べた中学生になったばかりの遥香に、理系女子の母親は意外にも同意した。
「料理はねデータベースなの、何をすればどんな味になるのかを沢山引き出しに入れておけば、どんな素材に何の味が合うのか想像が出来るし、組み合わせだってアレンジだって、仕上がりを想定できる膨大な基礎データがあればこそなのよ」
確かに味付けだけでなく、素材の切り方一つにしても様々な方法がある。
その切り方一つで食感や味わいが変わるから、こんな味にしようと思えば素材の切り方も合わせて工夫する事になる。
何をどうすればどうなるのかと言うデータの積み重ねは大事だし、それは短期間の付け焼き刃でどうにかなるものでは無い。
「じゃあママみたいにベテランになるまで、遥香は美味しい料理は作れないの?」
中学生の遥香が、あまりに遠い道のりの長さにそう問いかけると、母親はペロリと舌を出して言った。
「そういう時の為に、レシピっていうものがあるのよ」
あの時母親が言ったことを、今でも思い出す。
だから勉強でもスポーツでも基本を大事にしたいと遥香は思う。
料理センスと呼ばれる物すらも、データの組み合わせから何をチョイスするかという緻密なデータベースがあればこそだと母親は言う。
「でも、料理が上達するのに一番大切なのは「美味しい!」って嬉しそうに言って食べてくれる相手を見つける事かな」
そう言って、母親は鼻歌を続ける。
朝食を食べ、仕事に出かける父親を送り出して自室の掃除をしてから母親の洗濯を手伝えば、休みの日のノルマは半分終わりである。
朝食の余り物を詰めた昼のお弁当を小さな保冷バッグに詰めて、白い編み上げのバッグに突っ込むと急いで家を出る。
急いで家を出れば、海に着くのはいつも決まって10時半頃だ。
なぜ急ぐのかと問われれば、明確な理由は自分でも判らない。
別に10分や20分、いや30分や1時間到着時間が違っていても、図書館に席が無くなる訳では無いのだ。
「だって、海を見る時間が少なくなるから…… 」
おそらく誰かに問われれば、遥香はそう答えるだろう。
別に、誰かの姿を探しに来ている訳では無いのだから……
防潮堤の上から目を凝らして海を見つめるが、いつも居るはずの海面に南央樹の姿は見えない。
「あいつ、まさかまた…… 」
今日は練習を休んでいるという発想は、遥香から見た南央樹という男の子からは考えられない。
当然、居るはずなのに居ない。
それが遥香の胸に細波のような小さな不安を掻き立てて、ざわつかせる。
防潮堤の下を見れば、真琴と仲間から呼ばれていた南央樹の先輩らしき男の人がセイルを張り直しているのが見えた。
「あのっ! いつも居る人の姿が見えないけど大丈夫なんですか?」
敢えて南央樹と名前で呼ばず、いつもいる人という表現で思い切って声を掛ける。
この暢気そうな男の人は、またあいつのピンチに気が付いていないかもしれないのだから。
「やあ、この間の! 南央樹くんが会えなくて残念がってたよ」
その、朝比奈 真琴と自己紹介をしてくれた男の人は、真っ黒に日焼けした顔に真っ白な歯を見せて笑っている。
不安に駆られた遥香には、のんきな自己紹介も、その笑顔すらも不安な状況にそぐわない、少しばかり鼻白む程の爽やかさに見えた。
「そ、そういう事じゃなくって、見えないけどまた流されているんじゃないかって聞いているんです」
南央樹が会いたがっていたと言う言葉に何故だかざわつく、遥香の心の深い何処か。
笑い事じゃ無いと心の中で憤慨するが、その男の人の落ち着きぶりから何事も無いのだろうと判断しつつ、念押しで具体的に確認をしてみた。
万が一が、あってはいけないのだ。
自分でもしつこいかなと思いながら、それでも聞かずにはいられない。
明確に、そして具体的に直接大丈夫だと聞かされなくては、安心など出来なかった。
心に不安を残したまま図書館へ行って、落ち着いて勉強など出来るわけが無い。
この質問は、集中して勉強をするためだと自分に言い聞かせる。
何故集中できないのかという事には敢えて目を向けず、その意味を考える事も遥香は避けていた。
「今日は、ずいぶんと沖に出たみたいだねぇ」
暢気な事を言いながら沖を眺めてセッティングを続ける男の人に、ちょっとだけ苛つく遥香。
「沖って、見えないくらい沖って事ですか? 大丈夫なんですか?」
沖に目を凝らすと、水平線の手前にオレンジ色のセイルがチラリと見えるようにも思えるが、太陽の反射が邪魔をして良く判らない。
「うん、ちょっと沖に出過ぎかもね。でも戻ってきている処だから…… 」
遥香の問いかけに答えようと、立ち上がって双眼鏡を覗いていた日焼けした男の人の声が、突然止まった。
「ちょっと強く吹きそうだから、一発様子を見に行ってきますよ」
そう言うと、朝比奈 真琴という日焼けした男は双眼鏡を芝生の上に置いて海に出て行った。
遥香に、「双眼鏡は自由に使って良いですよ」という言葉を残して……
「なんで私が、わざわざ双眼鏡を借りてまで…… 」
遥香は防潮堤から海側の芝生へ降りる階段を下ると、双眼鏡を手に取って防潮堤の上に戻った。
「べつに心配とかじゃなくて、すっきりして勉強に集中したいだけなんだからねっ!」
自分が定番のツンデレセリフを口にしている事にも気付かず、そう呟くと双眼鏡を目に当てた。
それほど倍率が高くない代わりに大口径の双眼鏡は、色ズレもなく遠くがクッキリとよく見えるし、手ぶれの影響も少ない。
それだけで軍需企業でもあり有名なカメラメーカーでもある日本製の高級品だと、見る人が見れば良く判る双眼鏡である。
ただし、女性の遥香にはちょっとだけ重い。
双眼鏡の視界に、南央樹らしきオレンジ色のセイルが見えた。
小さく見える顔が、こちらを向いている事からも陸に向かっている事が判って少しだけホッとする。
そしてホッとすれば、した分だけ何故か腹が立ってくる。
「なんでわたしだけ良く知りもしないアイツに、こんなにヤキモキしなくちゃならないのよ!」
行き着く先は、いつも其処であった。
そして、どうして自分がそう思ってしまうのかと考えるのは、いつも無意識に避けている。
これは、理系の遥香らしからぬ行動であるとも言えるだろう。
「!」
その時、遥香の覗いている双眼鏡の視界の中で、オレンジのセイルが大きく傾いた。
まるで突風に煽られでもしたような乱れ方であった。
双眼鏡の接眼部に両目を押しつけて状況を見守る遥香。
僅かにピント調節を行う。
もっと良く状況を掴もうとピントリングを回すけれど、すで無限遠に近い状態の為に、それ以上はピントを合わせることが出来ない。
遥香の見つめる視界の中で、南央樹はセイルのバランスを取り直して走り出したように見えた。
南央樹がいつの間にか上達している事に驚く遥香。
「やるじゃん!」
何故か、心配させられて腹立たしい中にも不思議な嬉しさがこみ上げてくる。
最初は下手で不格好で、海に落ちてばかりいた南央樹。
それがいつの間にか落ちなくなり、動けるようになり、そして遠くまで行って帰れるようになっている。
そんな、彼の諦めない地味な努力と成長をリアルタイムで知っているのは朝比奈 真琴と言う日焼けした彼の先輩と自分くらいでは無いかという自負もある。
他の誰もが知らない彼の秘密を自分が知っているという、そんな特別な誇らしさが何故か心の底から湧き出してくる。
(よく知りもしない男の子なのに…… )
そう思う事で、盛り上がりそうになる自分のボルテージを下げて心のバランスを取ろうとする遥香。
ポッチャリした顔立ちも決してイケメンでも無いし、太り気味のスタイルだって良い訳では無いから、友人の結衣などから見れば眼中に無いタイプだろう。
自分だって、何も知らなければ気にせずに通り過ぎるだけだと思う。
外見から心に響く物は無いのだけれど、それでもあの智也というチャラ男に比べれば、中身は百倍イケてると思うのだ。
そこまで心の中で無意識に智也と南央樹を比べていて、あの夜の出来事が思い出された。
一歩間違えていれば……
そう思えば今でもゾッとするし、男のエロさへの拒否反応も以前より強くなった気がする。
「ちょっと!何考えてるんだろう、冗談じゃ無いわ」
智也と南央樹を比較対象に並べている事に気付き、我に返る遥香。
双眼鏡の視界の中で、南央樹と朝比奈が交差する。
交差した朝比奈がターンして、南央樹を追いかけ追い越して行く。
双眼鏡の中で表情までは判る筈も無いのに、二人が楽しそうな顔をしているのは何となく判ってしまう。
南央樹の楽しそうな表情が想像できて、なんとなく自分の顔にも笑みがこぼれる。
あれだけ毎日熱心に練習して辿り着いた場所なのだから、素直に「良かったね」と言ってあげたかった。
そんな南央樹の姿を追っているうちに、ポツンと一人で防潮堤の上に取り残されて、間抜けに双眼鏡をガン見している自分の姿に気づく遥香。
双眼鏡を元合った場所に、そっと戻して防潮堤の上に戻る。
もう双眼鏡無しでも、二人が岸に向かって来ているのは肉眼で追える程になっていた。
「少しはこっちに気付け、バカ南央樹」
そう思ったところで、南央樹がこちらに向かって手を振っているのが見えた。
ブンブンと音がするくらい、必死で手を振っているのが判る。
まるで聞こえていたかのようなタイミングに驚き、自然と顔が火照る自分にも腹が立つ。
「何やっちゃってるの、ばっかみたい」
そう呟くと、わざと見せつけるように大きな動作でプイッっと横を向く素振りをして、海の向こうに居る南央樹に拒否のサインである自分の背中を見せつける。
「結局、心配してたのはわたしだけじゃない。 やっぱり不公平だわ」
ぶつぶつと小声で呟きながら、臨海公園へと続く階段を降りて図書館へと向かう遥香であった。