何だか判らないけど、ムカつく
「それじゃ、伊勢海大社の裏手の杜にある貴船神社の社にサンガリーの缶コーヒーを二つ置いてあるから、最初のペアはホッカの缶コーヒーを持って行ってそれと入れ替えて、置いてあったサンガリーを持ち帰ること。 その次のペアはニリンの缶コーヒーを持って……」
結衣が肝試しの方法を皆に説明している。
こんな事からも、結衣が今回の首謀者で有る事は明らかだった。
伊勢海大社は、歴史の浅い新港市でも町村合併前から存在していた古い神社である。
多くの参拝客で賑わう大きな社殿のある一の宮の長い参道から、小さな奥宮のある裏山まで続く、都市部にある神社にしては広い鎮守の杜を所有している。
歴史の在る神社らしく、さほど高くはない裏山の頂上には奥の宮があり、中腹には中の宮まである。
一般の参拝者がお参りに来るのは、一の宮と呼ばれている遥香達がいる大きな拝殿や舞殿などのある裏山の麓の神社だ。
名前の通り海に関した神様を祀っているらしいが、それは若い遥香達の知る処では無い。
広い鎮守の杜の中には摂社や末社と呼ばれる小さな社がいくつか存在している。
その中の一つに、京都の貴船神社から勧請してきたと伝えられている小さな社があり、水の神様が祀られているだけで黄色い船を模した石や伝承は特に無い。
ここが肝試しの場所に選ばれたのには理由があって、ここは京都の貴船神社と同じく藁人形と五寸釘で誰かを呪った跡があるとか、白い服を着た女に追いかけられたとか、まことしやかな都市伝説が残る新港市に幾つかある心霊スポットの一つなのであった。
元より心霊現象を心から信じては居ないが、遥香だって暗い場所や人気の無い場所は別の意味で怖い。
矛盾してはいるが、心の何処かで神社の社に缶コーヒーを置くなんて罰当たりだとも思ってしまうのは、信心深い祖母の影響なのかもしれない。
「じゃあ、順番を決めるよ」
結衣のかけ声で、それぞれ決められた男女二人組の男性側がジャンケンで順番を決める間、女子はそれを見てあれこれと盛り上がる。
あくまで、ひとり遥香を除いて……ではある。
案の定と言うか、やっぱりと言うか、ペアの組み合わせは予め既存のカップル同士で決まっていた。
当然のように余った遥香と智也がペアを組むことになる。
「だよね…… 」
想像通りの結末というか、見え見えで期待を裏切らない仕込みを前にして、それだけしか言葉が出て来ない。
結衣はと見れば、ニコニコしながらこちらを見ている。
遥香は溜息を吐いて、こめかみを右手の親指と中指で押さえた。
結局の処、肝試しに出かける順番は結衣・弘信ペアが主催者らしく最終組に最初から決まっていたが、三番手だった遥香・智也ペアは遥香の門限を理由に無理を言って一番手を譲って貰った。
遥香は、盛り上がっている皆には悪いが、せめて一番手で終わらせて面倒な事になる前に帰ろうと思ったのだ。
こんな時だけ、お正月の初詣くらいしか夜の出歩きを許してくれない疎ましい存在の門限が役に立つのは、なんとも皮肉なものだ。
結衣も遥香の門限が厳しい事は普段から聞かされて知っているからか、すんなりと納得して融通を利かせてくれた。
おそらく智也とペアさえ組ませてしまえば、目的の大半は達成したも同様なのだろう。
あるいは、遥香を騙した後ろめたさと言うものも有るのかもしれない……いや、少しはあって欲しいものなのだが、どうだろうか。
「じゃあ、これを置いてきてね」
結衣から渡されたのはホッカの缶コーヒーだった。
一緒に、100円ショップで売っているような小さなLEDペンライトを1本だけ渡された。
「サンガリーと入れ替えてホッカを置いてくればノルマ達成よ」
缶コーヒーを手にして目的地へ行き、先に置いてあるサンガリーの缶コーヒーと入れ替えて戻る事が、重ねて結衣から指示される。
持ち帰った缶コーヒーがホッカからサンガリーになっていれば目的達成である。
それが、一番手となった遥香達に与えられた肝試しのノルマだった。
LEDペンライトが小さいのは予算の関係か、あるいは薄暗い明かりで雰囲気を出す為なのだろう。
結衣と弘信なりに、暗くて不安になった遥香が智也とくっつき易いだろう演出を考えているらしい。
「じゃあ、遥香ちゃんヨロシク!」
智也が爽やかな笑顔で微笑んだ。
「あ、こちらこそよろしく」
その笑顔を見て、思っていた程チャラ男じゃないのかなと思い直す遥香。
二人は挨拶を交わして、ゆっくりと足下をLEDペンライトで照らしながら並んで歩き出す。
「怖くない?」
身長180cmだと言う長身で目鼻立ちのハッキリとした智也が、極めてさり気なく左手を差し出してくる。
遥香はそれに気付かない振りをして、小さな明かりに照らし出される鎮守の杜の細道の前だけを見て、努めて明るく答える。
「ううん、ぜんぜん」(やばいやばい、やる事がさり気なさ過ぎ…… )
それは事前に警戒していなければ、うっかりと差し出された手を受けてしまいそうなくらい自然な智也の仕草だった。
自分にその気が無い以上は少しでも期待をさせてはいけないと、気を張っているせいなのか、杉並木を進む暗く細い道が怖いなどと考える余裕が遥香には無い。
「あ、そうなんだ ァ ハ ハ ハ …… 」
智也は予想外の肩すかしを喰らったかのように意外そうな顔をして、差し出した手のやり場に困ったのか、少し迷った末にジーンズの左前ポケットに親指だけを突っ込んだ。
「でさ、見てると間抜けな奴なんだよこれが……」
「あいつほんと馬鹿でさぁ…… 」
「そしたら次の日から学校出て来なくてさ…… 」
「俺が居なかったら、絶対に負けてたねあの試合は…… 」
「俺って、そういうのダメなんだよね…… 」
「あいつはダメだね、基本的に負け組だし…… 」
智也は社までの薄暗い道中で、一度も途切れずに遥香に話しかけてくる。
しかし、その内容は誰々が失敗した話だとか悪い噂だとか、そういった他人を下げて嗤う話が大半で、遥香としても返事に困ってしまう。
それ以外の話題はと言えば、自分が部活で超人的な活躍をした話だとか、女の子に人気があって告白されてばかりで困るというような、どうでも良い自慢話ばかりだった。
そればかりか遥香自身の事は外見を褒めるだだけで、何も中身に関する事を聞いてこない。
この人はそういう人なんだなと、遥香は少し前を歩きながら思った。
この智也と言うチャラい長身の男は自分が大好きで、自分を飾り立てる美しいアクセサリーとしての遥香を欲しいだけなのだろう。
もしかしたらチャラいのは見かけだけで、本当は良い人なのかも……
そんな期待も最初の爽やかそうな智也の笑顔を見て、少しは心の何処かに無かった訳では無い。
智也という男が、女性からチヤホヤされる事に馴れ過ぎて自分を過大評価している、見かけ通りの薄い男だと遥香が判断するのに、多くの時間は必要なかった。
遥香は、何度失敗しても諦めること無く練習を続けて次第に上達して行く南央樹の姿と、自分の後ろで自分を飾り立てる事しか考えていない智也を、無意識のうちに心の中で比べてしまっていた。
何を話しても素っ気ない遥香の態度に、何かを感じたのか智也がいつの間にか黙ってしまった。
しかし、南央樹と智也を心の中で比べていた遥香は、それに気付くのが少し遅れてしまった。
薄暗い道を200m程進んで社の鳥居が見えてきたところで、いきなり 後ろから左の手首を智也の右手で捕まれて、無理矢理後ろを振り向かされる。
あっ!と思う間もなく、遥香の口を智也の左手が塞いで参道脇の杉の幹にグイッと上体を押しつけてきた!
「ん…ぐ、んぐ… 」
強く口元を押さえられて、鼻からの呼吸にも少し支障が出て苦しい。
杉の幹に押しつけられた後頭部も痛い。
苦しくて痛くて、目から自然と涙が溢れそうになる。
空いている右手で口元を押さえている智也の左手を退けようとするが、女性に比べれば力のある大きな智也の左手を、遥香の華奢な右手だけで撥ね除ける事は出来ない。
「ちょっとばかり可愛いからって調子に乗ってんじゃねーぞ」
先程までの明るく爽やかな声とは打って変わって、ドスの効いた太い声で言い聞かせるように、遥香の耳元を舐めるように囁く智也。
恐らく、こちらが彼の本性なのだろう。
まるで先程までの爽やかそうな顔とは別人のような、悪意に満ちた怖い顔をしている。
「んん…」
抗議の声を発しようとするが、塞がれた口では鼻から息が漏れるだけで声にならない。
首を振って逃れようとしても、ガッチリと押さえつけられた頭は充分に動かす事は出来ない。
「んーーんぐ…… 」
口を押さえている智也の左手に噛みついてやろうと思うが、しっかりと親指で顎を下から固定されていて、口を開いて歯を立てる事すらも出来ない。
この人は、こういう事に馴れている……
その事を悟った瞬間、この先に遥香を待ち受けている悍ましい出来事が想像されて、体の芯に恐怖が走る。
そんな智也の本性を今頃判ったとしても、既にその手に捕らえられた今では全てが遅かった。
誰かが助けに来てくれないかと淡い期待で目だけを左右に動かすが、暗闇には他の誰の姿も見えない。
悔しくて悲しくて涙が止めどなく溢れてくる。
(南央樹、助けろ馬鹿! こんな処へ来ちゃったのは、あんたが私をモヤモヤさせるからだ!)
何も知らない南央樹にしてみれば理不尽な怒りの矛先だが、普段なら乗らないはずの誘いに迂闊にも乗ってしまったのは、あいつと出会ったせいだと遥香は思った。
「少しぐらい遅れても誰も不審に思わないから、大人しく俺の女になれよ」
「んーぐ…んぐん」(誰があなたなんかに!)
遥香の恐怖を煽るような智也の悪意に塗り固められた言葉に対して、そう罵倒しようとするが声にはならない。
「誰にも言えないように、恥ずかしい写真をたっぷり撮ってやるぜ」
そう言って、身長180cmの智也は身長160cmの遥香の豊かな胸元に自分の顔を近づけるために、足を開き腰を落として上体の位置を低くしようとした。
「うげぇあっ!」
恰も突然ガマガエルが押し潰される時のような、そんな濁った叫び声を上げた智也が、突然股間を押さえてその場に蹲った。
見れば、口の端から白い泡のようなものを吹き出して白目になり、苦しそうに蠢いている。
「乙女に変な物を押しつけるじゃないわよ!」
憤懣やるかたない表情の遥香が、地面に蹲って苦悶している智也に向かって吐き捨てるように言う。
上体の位置を下げるために足を少し開いた智也の急所を、遥香の膝が思い切り蹴り上げたのだった。
無防備な股間の急所を容赦なくストライクされて、智也は糸の切れた操り人形のように力無く沈んだ。
下手をすれば智也の玉が潰れているかもしれない程の運動エネルギーを持って、遥香の強烈な膝の一撃が無防備な股間の急所にクリーンヒットしたのだから、大柄な智也とてすぐに動けるわけが無い。
祖母直伝の容赦無い急所蹴りであるが、遥香は女性だからその痛さと苦痛がどれ程のものなのかを知る事はできない。
だからこそ全力で振るう事が出来た、容赦も手加減も無い強烈な膝蹴りだったのだ。
そして、それは乙女の身を守るための許されるに足りる正当防衛でもあり、ただ単に自分が助かったのは運が良かっただけでもある事をも、遥香は解っていた。
だから蹲って口から泡を吹いている智也の様子を伺う事も無く、後ろも見ないで小走りに、薄暗い道をスタート地点へと駆け戻る。
勝った気になって油断していれば、いつまた襲われるかもしれないのだ。
そして、次は同じような奇襲攻撃が出来るという保証も無いのだから。
「ちょっと、遥香どうしたのよ!」
「遥香、何かあったの?」
一人で駆け戻ってきた遥香を見て、結衣と他のクラスメイトが声を掛ける。
「まさか、なんか出たのか?」
素っ頓狂な事を聞いてくるのは、結衣の彼氏の弘信だった。
それを聞いて、一斉に皆の表情が固くなる。
場所が有名な心霊スポットだけに、そう考えるのも無理は無いかもしれないが、事実は異なる。
本当に怖いのは心霊ではなく、生身の人間の悪意なのだ。
「遥香、智也はどうしたの? 何があったの?」
遥香の顔に残る涙の跡を見つけて、結衣が訊ねてきた。
「途中で急に襲われそうになったから、金蹴りして逃げてきた」
まだ興奮して僅かに震えが残っている遥香だが、それだけを言うと他の友達に預けてあった荷物を受け取り、自分は先に帰ると結衣たちクラスメイトに告げる。
「あの野郎、俺の顔に泥を塗りやがって!」
智也のためにお膳立てしたという意識の強い弘信が、遥香の話を聞いて激しく怒り出し、智也を残してきた参道へ向かって走りだした。
「ふざけやがって!!」
「あんにゃろ、ボコるか」
遥香の衝撃的な告白を聞いて、他のクラスメイトの男達も駆けだして行く。
「ちょっと、弘信のメンツの問題じゃないでしょ!」
結衣が走り去って行く弘信に声を掛けるが、興奮している彼らには届いていないだろう。
「遥香、大丈夫?」
「怪我してない?」
「遥香、ゴメンネ」
口々にクラスメイトの女性陣と結衣が声を掛けて来るが、とりあえず未遂だから問題無いと答えて伊勢海大社を早々と後にする。
着衣も乱れていない事からも、それは信じてもらえたようで、結衣達の顔にも安堵の表情が浮かぶ。
この状況で、遥香を引き止めようとする者は誰も居ないし、遥香自身もここに長居をしたく無かった。
何とかして、このやり場の無い憤懣をトラブルの遠因とも言える南央樹にぶつけてやりたかったが、連絡先すら知らないのだから八つ当たりのしようもない。
あの馬鹿南央樹は、私に何があったのかも知らずに今頃は暢気に家でテレビでも見ているに違いないと思うと、何故か余計に腹が立った。
それが理不尽だと解っていても、腹が立つのだから仕方が無い。
こんなの不公平じゃないのよ!という心の叫びの真の意味も解らずに、遥香はモヤモヤした気持ちのまま自宅へと向かった。
「うーん、ターンが終わる間際の動作がスムーズにイメージできないんだよなぁ… 」
その頃、南央樹は遥香の身に降りかかったトラブルの事も知らずに、自室で暢気に風下回りに行う方向転換のイメージトレーニングをしていた。
「なんだか解らないけど、むかつく!」
遥香は自宅の風呂でお湯に口元まで体を沈めながら、再びそう呟いた。