真面目か!
矢吹遥香、現在16歳と9ヶ月
新港市立 新港西浜高等学校の高校二年生である。
細く柔らかな黒髪の長さは、ちょうど二つの胸の前辺りまである。
髪型は鎖骨の少し上あたりから始まる緩めの三つ編みをざっくりと左右で二本、前側に垂らしていた。
ローレイヤーにカットされた髪をふわりと臙脂色のリボンで緩めに束ねたそれは、校則ギリギリの許容範囲である。
表情豊かな黒く大きな瞳を覆う薄い瞼には、クッキリと大きな二重の癖が刻み込まれていて、細くはっきりした小ぶりの鼻と薄めの唇も含めて化粧っ気が無いスッピンにも関わらず彼女の印象が暈けることは無い。
同じクラブで友人の岡本 結衣と日曜日の朝練を終えて家まで帰る途中で、寄り道をして近くの海にやってきた。
うっとおしい梅雨が明けたばかりの、まだ海水浴客で賑わっていない静かな海が彼女は好きだった。
「でもさ、智也は遥香の事紹介しろしろってウルサイのよね」
「いや~…チャラいのは苦手なのよね、あたし」
「でも顔は悪くないでしょ、あいつ」
「なんか、それを鼻に掛けてない?」
女子高生二人の話題と言えば、どうしても男の子の話になってしまう。
この場合、積極的に話題を振ってくるのは眼鏡の結衣の方だ。
「あれくらいの顔してたら、意識してない方が可笑しいよ」
「え~、なんか自分語りが多そうで苦手なんだよねえ、あいつ」
「もぉ~、そうやって誰とも付き合わないなんて勿体ないよ! 遥香を狙ってる奴は多いんだから、遥香さえその気になれば選り取り見取りなんだよ」
どうやら会話の内容からすると、二人の通っている高校は男女共学で遥香という女性は、まだ彼氏が居ない様子だ。
「なんか、結衣が付き合ってる相手の事を聞いていると、男の子ってエロい事しか考えてないんじゃないかって思えるんだよね、そういうのちょっと苦手でさ」
「まぁ、確かにあいつはエロ大王だからなあ……」
意外にも、眼鏡の結衣は彼氏持ちだったようだ。
その後も、結衣のお節介をのらりくらりと遥香は躱すばかりで、誰か積極的に付き合おうという気が無いように思える。
海岸に沿って設置されている、砂防壁をも兼ねている防潮堤の上は下から見るよりも幅が広い。
それは片側2車線の道路ほども幅があって、隣接している臨海公園と海岸とを区切る役割も果たしている。
「じゃあさ、遥香はどういう相手だったら良いの?」
暖簾に腕押しで、誘いに乗ってこない遥香に業を煮やしたのか、結衣がストレートに遥香の好みのタイプを聞いてきた。
そう直球で訊ねられたら、誤魔化し通す訳にもゆかない。
「強いて言うなら、面倒くさくなくて一緒に居て楽な人…… かな?」
しばらく考えてから、そう答える遥香。
「それだけ?」
あまりにシンプルな答えに、もっと本音があるのでは無いかと結衣は質問を重ねた。
「ん~、あとは私を一番大事にしてくれる人かな」
「そんなの当たり前じゃ無い、智也だって大事にすると思うよ遥香が相手なら」
「あいつは、たぶん他人よりも自分が一番大事なタイプだと思う」
そう言い切る遥香。
「何を根拠にそう思うのよ、格好良いじゃない智也なら」
智也と言うのは、遥香の相手として結衣の一押しらしい。
もっとも、それは美男美女という傍目から見た外見重視の一押しである事は明白だったが……
「あいつ、色々とやることが目立ちたがりで派手じゃ無い? 結局好きなのは相手じゃなくて自分自身なんだと思うんだよね」
智也という男を遥香も知っているようだ。
彼女たちが名前を呼び捨てにする事からして、話題になっている智也と言うのはクラスメイトか、あるいは同じクラブ活動の同級生なのかもしれない。
「うーん確かに、あいつは自分語りが好きだね」
結衣が、遥香の智也という男に対する評価を聞いて何かを思いついたように言って笑う。
どのような男なのか判らないが、智也という男は戦う前から既に戦死をしているようだった。
「でしょ、でしょ! そこまでして無理に誰かと付き合わなくても、いつかこの人って相手が現れると思うのよね」
我が意を得たりとばかりに、自分が男と付き合わない理由を述べる遥香という女性。
ある意味、現実的な分析をするかに見えて内面は白馬の王子様を待つロマンチストのようである。
防潮堤の上に立って二人でそんな話をしていると、結衣が何か興味を惹く別の対象を見つけたようだった。
「ちょっと、なんか凄い事になってるんだけど」
眼鏡を掛けているのに目敏い結衣が、ポニーテールを揺らして突堤の先を指差した。
彼女が指差す方向を見ると、何やら色鮮やかな蛍光色とキラキラと光を反射する透明素材で出来た大きな三角形の物体がフラフラと垂直に持ち上がっている。
それは立ち上がったかと思えば、すぐにバタンと海に倒れる事を何度も繰り返していた。
そしてその度に大きな水飛沫が上がり、ドボンと言う何か大きくて重いものが水に落ちるような濁った音まで遥香たちの処まで聞こえてくるのだった。
「ちょっと行ってみようか!」
「なんか、面白そう」
何が起きているのか、遥香持ち前の好奇心と結衣お得意の野次馬根性が首をもたげて来る。
二人はゆっくりと、何が起きているのか、近付いても大丈夫なのか、慎重にそれらを確認しながら、水飛沫の上がっている場所に一番近い突堤へと進んで行く。
それは人間だった。
それも、良く言えば健康的、悪く言えば太り過ぎな男の子が、遠浅な海の上に浮かべた白いボードの上でカラフルな三角形の帆を持ち上げようと悪戦苦闘をしている姿が、其処にあった。
遥香と結衣が後ろから見ている事にも気付かずに、その小太りの男の子は一心不乱にボードの上に立ってカラフルな三角形を持ち上げてはバランスを崩して背中から海に落ちている。
そして、その度に派手な水飛沫と大きな音を立てていたのだった。
二人は突堤の先端に腰掛けて、それを見物することにした。
「よくまあイヤにならないものだよね」
「楽しいのかなあ、あれで」
「あんがい、罰ゲームでやらされてたりして?」
「マジ、体育会系のシゴキってやつ?」
二人で、そんな事をヒソヒソと話し合う。
周囲の様子を伺っても、先輩らしき人の姿は見えない。
「じゃあ自主練って事?」
「そもそも、何の自主練なのよ?」
「じゃあ新手のダイエットとか?」
「うーん、それはあるかも…… 」
至って無関係な他人という物は、勝手なことを言うものである。
その時、小太りの男の子が二人の間近で背中から海に派手な水飛沫を上げて、またもや転落した。
今までと同じように派手な水飛沫が上がる。
唯一、今までと異なっていたのは中途半端に手放したカラフルな三角形が途中で風を孕んでふわりと浮き上がり、見事に水中から顔を出した男の子の頭を直撃した事であった。
しかも、そのカラフルな三角形は、上から男の子を押しつぶして海面に張りつき覆い隠している。
「イヤっ痛そう…… 」
「遥香、あの子ってば死んでるんじゃ無い?」
「結衣ったら縁起でもない…… 」
「でも遥香、あのひと浮かんでこないよ」
「あ結衣、下で動いているのが透けて見えるよ」
遥香は指差す先で、透明素材の下で浮かび上がれずに藻掻いている男の子の姿が見えた。
「ちょっと結衣、あれヤバくない?」
「どうする遥香、飛び込んで助ける?」
「あたし行く!」
「ちょっと遥香!」
ジャージのジッパーに手を掛ける遥香を必死で止める結衣。
遥香は慌てていて忘れているかもしれないが今は夏、そしてその下はブラ一枚しか着けていないはずなのだ。
そもそも、海に飛び込むからと言ってジャージを脱ぐ必要性が判らない。
放っておけばジャージの下まで脱ぎかねない慌て振りに、冷静な結衣は男の子がカラフルな三角形の下を横に移動し始めたのを、既に確認していた。
二人がそんな事をしていると、カラフルな三角形の下で足掻いていた男の子は海面に顔を出して、荒い息をしている。
「痛ってぇ…… マジ、死ぬかと思った」
その男の子は水中から顔を出して暫く粗い息をしていたが、ようやく声を発した第一声がそれだった。
「大丈夫ですか?」
遥香が思わず声を掛けると、慌てて振り向いた男の子は自分の間近に同年代の女性が二人も居たことに気付いて慌てていた。
その男の子は、チラリと目線を逸らして右にある堤防の付け根の辺りに視線を動かした。
釣られてそちらを見れば、麦わら帽子を被り、立ち上がってこちらを見ている色黒の男の人が居た。
小太りの男の子は、その人に会釈をすると再び遥香と結衣の方を見る。
「あの、もし水飛沫が飛んじゃってたらゴメンね」
その小太りな男の子の視線は、明らかに結衣ではなく遥香に向けられていた。
結衣の方はそう言う事にも慣れているので今更何とも思わないが、自分だってクラスでは可愛い方だという自負も多少はある。
あくまでも、遥香という存在がそれすら打ち消す存在だと言う事で、彼女と比べられることの悲哀にも慣れてしまっているのだ。
それに、自分には彼氏だっているのだから、小太りな男の子が遥香に視線を奪われようが正直悔しいとは思わないと心の表層では思っていた。
「水は大丈夫だけど、頭痛くないんですか?」
遥香が、小太りの男の子にそう尋ねる。
確かにそちらの方が気になるとばかりに結衣も頷く。
その男の子は、思い出したかのように慌てて自分の額に右手を当てて確かめている。
その仕草を見て、当たった場所が額だったのかと判った。
「なんか、そう言われると痛いのを思い出したかも…… 」
その男の子は、すこしおどけてそう言った。
その後、お定まりの自己紹介があって、遥香が代表して二人の名前を名乗る。
しかし、どう見ても男の子は遥香だけを見ていた。
これは、いつものパターンだなと判断した結衣は、さり気なく遥香に帰る事を促した。
放っておけば、自分の魅力に無自覚な遥香に恋する男の子をまた一人作ってしまう事になりかねないからだ。
「ちょっとダサかったよね、あの子」
海から駅へと向かう道すがら、結衣は思い出したようにクスクスと笑いだす。
「え~、でも諦めないで頑張ってたのは偉いと思わない?」
普通はあれだけ何度も失敗をしていればイヤになって投げ出しそうなものなのに、諦めるという素振りが見えなかった事は評価するべきだと遥香は思った。
遥香がクラスメイトたちに何か物足りないと感じている点は、そこにある。
必要以上に失敗とか恥を掻くことを恐れて、やらない言い訳ばかりをしている印象があるのだ。
~だから…… ~なんて…… そんな格好付けの言い訳に何度うんざりした事だろうか。
そもそもが、遥香に言い寄ってくる男達だって同じようなものだ。
今回の智也にしても、他の男達にしても直接ストレートにぶつかってくる男の子は一人も居ない。
みんな安全圏から様子を伺って、可能性がありそうなら近寄ろうとしている。
自分が傷つく事を恐れ過ぎているのではないか、そう思うのだ。
尤も、ストーカーのように変質的な相手が好きだというようなマニアックな趣味は無い。
ごく普通に、自分が傷つく事よりも遥香と仲良くなりたいという気持ちを優先して直接ぶつけてくる相手が居るのなら、少しは話を聞かない訳では無いと思っている。
矢吹遥香は16歳の正常な女子として、男の子にまったく興味が無い訳では無いのだから。
ただ、周囲の男の子達が見かけを着飾る事に熱心で、その内面が少しばかり物足りないと感じているだけなのだ。
結局のところ、男の子達は遥香という人間よりも、自分自身が大好きなんじゃ無いのかと感じてしまうのだ。
そんな事を結衣と話しながら歩いていると、急に道路の埃が舞い上がる。
「あ、風が急に強くなったね」
そう結衣に話しかけると、結衣が海の方を振り返る。
「あいつ、またきっと海に落ちてるよ」
ちょっと意地悪そうに笑う結衣。
「あれだけ諦めずに頑張っているんだから、早く乗れるようになると良いね」
下野 南央樹と名乗った小太りの男の子を、そう評する遥香。
「真面目か!」
融通の利かない遥香に突っ込みを入れる結衣。
何だかんだと言っても、遥香が男を寄せ付けないのは自分のせいかもしれないなと思う。
誰とでも積極的に話す事が出来て小学生の時から彼氏も居た結衣は、見かけと裏腹に付き合った人数もそれなりに多い。
そんな経験のまったく無い遥香に自慢半分で男の本性をあれこれと語った結果、男はエロい事ばかり考えているとか、すぐに触りたがるとか、キスすればすぐに次を求めてくるとか、かなりきわどい話も良くしていたからか、遥香は男をそういう風に見るようになった。
綺麗と可愛いを兼ね備え、恵まれた容姿とスタイルを持つ遥香に対する小さな女の嫉妬だったのかもしれないが、紹介する素振りはしても本気で熱心に男を紹介するつもりも無かったのであった。
次の日曜日に遥香が一人で海に行ってみると、南央樹と名乗った男の子がまた必死で練習をしていた。
前回と違うのは、その男の子がカラフルな三角形を海に落とさずに海面を移動できるようになっていた事だ。
「すごい、動けるようになったんだ」
素直に胸の前で誰にも聞こえないような小さな拍手を送った。
努力が全て報われると思う程子供では無いが、諦めずに続けている努力は何処かで報われて欲しいと素直に思う。
少し離れた防潮堤の上から見つからないように見ていると、南央樹という男の子は時折ボードの上で考え込みながら色々と試行錯誤を繰り返しているようだった。
その結果なのか、ぎこちない動きは次第にスムーズになってゆく。
試行に失敗して海に落ちても、諦めずに別のやり方を試して居るように見えた。
何度も海に落ちて、何度も這い上がり失敗したところから繰り返している。
矢吹遥香は、その姿を見て自分も頑張ろうと思った。
高校二年の遥香が目指している進学先は市内でも一番の難関公立大学で、偏差値的には問題無いと言われているが、それでも油断をすればどうなるか判らない。
勉強に疲れると、こうして海を見に来るのが日課になっていたのだが、諦めない南央樹の姿を見て再び勉強に戻る事にした。
矢吹 遥香の目標は意外にもロボット工学で、生体と親和性の高い高性能な義手や義足を開発する一助になりたいと言うのが彼女が地元の難関公立大学を目指す理由である。
それは、幼馴染みだった従姉妹が交通事故で不自由な体となった事が切っ掛けという子供っぽい夢だったが、男の子と付き合いもせずにプライベートの大部分を勉強に振り向けてきてやっと現実的なってきた目標でもあったのだ。
「下野くん、頑張れ!」
誰にも聞こえない声で小さく呟くと、矢吹 遥香は海の近くにある市立図書館へと向かった。
自分自身も目標へ向けて頑張るために。