青い縞パン
南央樹がレースに勝って、いつの間にか自然と付き合い始めていた。
西風の強かったあの日、初めて南央樹とキスをした時の事を、つい今あった事のように想い出して、ふと彼の冷えた唇の感触がよみがえる。
あの時の、南央樹の呆然とした顔が想い出されて、クスリと笑みがこぼれた。
体に減速のGを感じて、次の駅が近い事に気付く。
電車のドア上にある電光掲示板は【西浜臨海公園南】を表示していた。
時折、激しい風が窓を叩くガタンという音が、わたしの心臓を締め付ける。
窓越しに見える海は白波も高く、見るからに荒れていた。
駅に着くのも待ちきれずに、ドアの前に立つ。
こんな天気の日に連絡が取れないなんて、あのバカ南央樹は何を考えているのだと、怒りがこみ上げて来た。
互いの努力の甲斐もあって同じ大学に入学し、そして希望の企業にも就職が出来てもう2年になる。
研究職というのは忙しい仕事で、2人がゆっくりと逢える時間は学生の頃に比べれば大きく減ってしまった。
それだけに、貴重な2人の時間を大事にして欲しいと願うのは間違っていたのだろうか?
そろそろ2人のこれからの人生を真面目に考えて欲しかったのに、彼は未だにウィンドサーフィンに夢中だ。
彼にとってウィンドサーフィンという物が、どれ程大事なのかは知っている。
だから、趣味を捨てろなどと言う気も無いけど、待っている身の事を少しは考えて欲しかった。
だけど毎日研究室に籠もりきりの鈍った体では、昔のような無茶を何時までも出来るものでは無いだろう。
いつか、手痛いしっぺ返しを喰らうのでは無いかという、漠とした不安がわたしには有った。
ハードな天候になればなる程、浮き浮きして海に出かけて行くようなウィンドサーフィンとの付き合い方はそろそろ変えるべきタイミングじゃないのかと、常々思っていた。
岸で帰りを待っている方は、今日も無事に帰ってくるのかと毎回気が気では無いのだ。
ウィンドサーフィンを楽しむのなら、もう少し穏やかな天気の日でも良いのではないか?
これからの生活を考えるとウィンドサーフィンにかける比重をもう少し減らして、2人のこれからの事を考えて欲しいと意見をしてみたのが、南央樹と喧嘩をする切っ掛けになってしまった。
南央樹にとってウィンドサーフィンという物の存在が大きい事は判っているが、今のスタンスのままで、この先何歳になっても続けられるものでは無い。
それに、将来の事を考えれば、出来れば危険からは遠ざかって欲しいのが正直な気持ちだ。
より具体的な2人の将来像という物が、休日になればウィンドサーフィンという物に熱中している南央樹の姿から想像する事が出来ないのだ。
学生の時は見ないでも済んだ事が、より具体的に将来の生活を考えるようになると見えてくる。
そして、それを同じペースで続ける事が不可能だと判る日が来る。
ウィンドサーフィンそのものを止めろとは言わないが、もっと安全にペースを落として欲しかっただけなのだ。
デートの最中に、風が吹いたからと言って海へ直行して1時間だけと言って海に入る南央樹を見て、自分は南央樹の一番では無いのかと不安になった頃の事も、当時の切ない気持ちと共に思い返される。
もう、彼と連絡を取らなくなってから2週間が過ぎていた。
南央樹から連絡をしてくるべきだと意地になっていた部分はあったけど、このまま終わりにするのは、あまりに2人の過ごしてきた7年間に対して無責任過ぎるだろう。
そう思って、南央樹に電話をしてみたのは今日の事だった。
しかし、何度コールを鳴らしても南央樹は出ない。
あまりにコールを続けすぎて、自動的に留守番電話に変わってしまった時のやり切れなさは、言葉にしがたい。
部屋の窓を叩く風の音で、台風が接近している事を思いだした。
テレビを点けて天気予報を見て、まさかと思った。
南央樹と付き合うようになって、自然と天気図も見られるようになっている。
2人の共通の話題は多い方が良いと考えて勉強したのだが、そんなわたしの隠れた努力をあいつは知っているだろうか?
今日の風向きは強烈な東風だ。
こんな日に南央樹が向かう海岸は風向きがサイドショアになる、あそこに決まっている。
台風が来ているのに、まさかと思いながら南央樹のワンルームマンションに向かった。
予想通り、駐車場には南央樹のワンボックスカーが無かった。
荷室一杯にウィンドサーフィンの道具を満載した、ロングボディのワンボックスカーが無いという事は、確実に彼は海に行っていると言う事になる。
強風に煽られながら駅に向かって走り、電車に乗った。
行き先は、南央樹と出逢った西浜臨海公園駅の一つ先にある西浜臨海公園南駅だ。
南央樹が居るであろう岬にある海岸には、そこが最寄り駅になる。
そこからはタクシーでも捕まえるしか無いが、とにかく無事を確かめようと思った。
喧嘩をしたばかりの時は、このまま別れる事になるのかなと思わなかった訳じゃ無い。
共に生きる将来の設計図を描けないのなら、それも仕方ないと理屈では考えた事が無い訳では無い。
だけど、こんな天気の日に南央樹と連絡が取れなくなってしまえば、そんな理屈だけで自分を偽ることなんて、出来はしない。
南央樹に逢いたい、彼の無事を確かめたいという想いが、何よりもわたしの体を突き動かしていた。
ドアが開くのも待ちきれず、左肩からすり抜けるようにしてホームへと降りて、改札口へと通じるエスカレーターへと走る。
周りの人達は、何が起きたのかと驚いた顔をしているけれど、そんな事を気にしてはいられない。
学生の頃とは違う地味目なミニスカートの裾を押さえながらエスカレーターを駆け上がり、改札を抜けて西口のロータリーへと向かい、客待ちをしていたタクシーに飛び乗った。
行く先を告げて、再び電話を掛ける。
何度も掛けすぎて、すぐに留守番電話に切り替わってしまう南央樹のスマートフォン。
確実に、彼は電話の側に居ないと思った。
居留守を使っているなどという考えは、微塵も浮かばない。
何故なら、南央樹はそういう人間では無いからだ。
それは断言出来る。
2人の間に行き違いはあったが、彼はそんな姑息な事をする人間では無い。
出て貰えない電話に、考えたくも無い不安がどんどん増して行く
下らない意地で彼を失いたくないという想いが更に強まり、あの日の喧嘩を後悔した。
お互いに自分たちが取り組んでいる研究に追われて、プライベートに回せる余裕が無くなっていたのかも知れない。
普段なら、お互いの事を思いやって妥協点を見出せるはずなのに、あの日はそれが出来なかった。
そして、タクシーが止まった。
ブレーキの反動で軽く前のめりになって、わたしは我に還った。
ここから海岸までは、すぐに目と鼻の先だ。
わたしはタクシーを降りて、海岸へと急ぐ。
防潮堤の上に駆け上がり、海を見る。
海岸にまで乗り入れた、見覚えのあるワンボックスカーが眼下にあった。
南央樹は、風が吹きすさぶ浜で横になって、何かを考えているかのように額に左腕を当てていた。
わたしがここに居る事など、微塵も気付いては居ないだろう。
その時、わたしのスマートフォンが南央樹からの着信を告げて、手の中でヴヴヴと小さく震えた。
わたしがすぐ近くに来て居ることを知らず、ひたすら謝る南央樹にわたしは言った。
「もう、バカ南央樹…… これからは、もうずっと心配なんかさせないでよね」
急に何かに気付いたかのように起き上がり、わたしの方を振り返る直樹。
その時、一陣の風がわたしのミニスカートを捲り上げて、お気に入りの青い縞パンを南央樹の前にさらけ出した。